空き箱

2008-02-17 少女マンガパワー展講演会 このエントリーのブックマークコメント

 北米、カナダ、南米の各地を巡回し、欧米メディアでも大きな注目を集めた日本の少女マンガをテーマにした展覧会『Shojo Manga! Girls' Power!』の実質的な凱旋展『少女マンガパワー展』。川崎市民ミュージアムでのこの催しの初日である2月16日、アメリカでの展示会企画の発起人であり、キュレーターをつとめたカリフォルニア州立大チーコ校準教授、徳雅美さんの講演会を聞いてきた。

 通常、ここにこうしたレポートをあげることはないのだが、あまりにもおもしろくて刺激的な講演だったので、ここにメモを書き散らしてしばらく放置しておく。展示自体もいろいろ実験的な試みが盛り込まれた意欲的なものなので、期間中にお時間の取れる方にはぜひ訪れることをお勧めする。

少女マンガパワー!― つよく・やさしく・うつくしく ―

 徳さんの専門とキャリアに関しては『Shojo Manga! Girls' Power!』展サイトの「Director's Information」がシンプルでわかりやすい。「三菱化学研究所農芸化学部」勤務10年を経て渡米後、美術教育に転じる、というそれ自体がおもしろいキャリアをお持ちの方である。

 この講演でまず特筆すべきなのは徳さんの話のうまさだろうと思う。見ていて純粋に感心したのだが、市民ミュージアム館内のオープンスペースでおこなわれるこの手の講演では特に聴講目的ではない入館者が頻繁に通りかかる。関係ないお客さんなので大抵はそのまま通りすがっていくのだが、今回の講演に関していえば、けっこうな割合が話に興味を惹かれてそのまま会場で席に残って話を聞いていっていた。大学の講義なんか考えてみてもらえばわかるが、経験上こういうイベントにいってこの逆(聞きに来た客が中座していく)はあってもこういうことは滅多にない。これはたいへんな技術である。

 同行した友人と会場にいらっしゃっていた小野耕世さんが異口同音に「このひとの講義なら受けてみたい」といっていたのだが、まったく同感。小中学校辺りの生徒相手にキチンと話をしてきた教育者はやはり違う。

 で、肝心の内容だが、個人的に興味深かったのは「前置き」として語られた「なぜ北米で少女マンガ展を企画したのか」という話である。徳さんはキャリアを見てもわかるようにもともとマンガを専門に研究していたわけではない。彼女の専門は「美術教育」であって、彼女がマンガに抱く興味の原点も「子どもの描画リテラシーの発達」という自身の専門分野での研究がきっかけになっている。彼女によれば発達心理学における児童の描画行動の高度化は、丸に点を打って棒人間を描いていくようなものから段階的に細部の充実や背景の空間の広がりを取り込んでいくものだという。当日はスライドでご自分のお子さんのものを含めた実際の子どもたちの絵を見せながらこの点が非常に具体的に解説され、模倣の影響や紙というフレームへの意識の発現など全然知らない分野の話でもあるので非常におもしろかった(たまたま同席していた伊藤剛のひとがこの辺の話を質問するかと思っていたら、アメリカでの日本マンガの受容層は云々とかいう関係ない話を聞いていたのでがっかりだ)。欧米ではこうした児童の「描画リテラシー」の発達は年齢階層別に段階的な発達が観察できるとされ、けっこうなパーセンテージ(90%とかそのくらい)でこの結果が同年齢の児童の描画行動に妥当するという。問題は徳さんがこの「年齢階層別児童描画リテラシー」モデルの日米比較をおこなおうとした際、アメリカでは理論に即した結果が得られたにもかかわらず、日本で得られた結果がまったくこのモデルと合致しなかった(30%程度しか妥当しなかったという)ことだ。欧米における発達段階モデルに従えば、日本の児童の描画リテラシーは同年代の欧米の児童のそれに比べるとはるかに高度である場合がしばしば見られる、というのだ。

 この結果に頭を抱えた彼女が日本と欧米のメディア環境の差異として着目したのが「マンガ」の存在である。日本における児童の描画行動の目的にはアニメやマンガを通じたコミュニケーションが大きな割合を占める(この辺の感覚は自分の子どもの頃のことを考えてみればいい)これが児童の描画リテラシーの発達にとって大きな影響を与えているのではないか? というのが彼女のマンガ研究への取り組みの出発点だという。

 これは日本人であり、アメリカで美術教育の現場に携わる研究者であるという彼女自身の専門がもたらしたちょっと珍しい独自性のある観点だと思う。おそらくご自分でも自覚されておられると思われるが、この点に比べれば欧米では欠落した「女性特有のオルタナティブな描画表現メディア」としての少女マンガへの思い入れといったこの展覧会自体のコンセプトは北米でのショーの開催に先行するNYタイムズ「Girl Power Fuels Manga Boom in U.S.」をはじめとする欧米での少女マンガ報道の枠内に収まるものである。ただ、これは講演でも言及されていたが、展覧会と前後して欧米でこうした意味で「Shojo」への関心が集まったことでこの展覧会自体は欧米で大きく注目されることになった。

 講演の後半はこうした各地での展覧会に対する具体的なリアクションとそこでの経験談に移り、このパートでの座談がえらくうまくてまったくひとを逸らさない。会場での苦労話やそこでの出会いに関する悲喜こもごもといった具体的なエピソードを流暢に語り、それでいて合間合間に知り合ったマンガ読者、ファンの少年少女たちへのインタビューを通じた欧米でのマンガの受容層の問題ややおいやBLといたものを含めた女性独自の表現としての「少女マンガ」への注目と期待、具体的な数値を含めたアメリカでのマンガ出版の現状などがちゃんと語られていくので脱帽である。

 特に「アメリカではお金になるとわかれば本気になる」というアメリカのビジネス観はまったく同感。アメリカってのは要するにアンダーグラウンドな「趣味」とメインストリームとしての「ビジネス」しかないような国だ。けっこう大きな比重で語られていたネット上で自主流通している勝手に翻訳されたマンガ「Scanlation」の存在など、要するに「趣味」の領域にあったものが「ビジネス」領域に広がりつつあるのがアメリカでのマンガの現状であり、必然的にこのためのコンフリクトも起こらざるを得ない。

 この点では彼女の観点は若干楽観的に過ぎるかな、と思う点もあって、女性の描画表現という点では数は少ないがアメリカではこれまでもアンダーグラウンド系やオルタナティブ、レズビアンコミックスなどのかたちでかなり過激なカウンターとしての女性マンガは存在していたのでありその意味で「ガールズポップ」としての少女マンガを単純に「新しい女性表現」と考えていいのか、とかやおいやBLといった「女性のためのゲイ表現」コンテンツが「ビジネス」としてアメリカに持ち込まれることの問題や危険性(この点は質疑で宗教的な問題とバッティングしないのか、といった趣旨の質問が出ていて、非常によかった)はどう考えるのか、といったことを考えはしたが、まあそれはそれである。

 最後の質疑応答もすばらしく的を射たものばかりで(こういうことも滅多にない)最初から最後まで非常に気持ちよく聞けたすばらしいイベントだった。展覧会としてはこれからなので、関係者のみなさんのためにも今後の成功を祈ってやまない。

goito-mineralgoito-mineral 2008/02/18 03:09 聴衆に一般のひとが多かったので、あんまり専門性の高い質問をしてもいかんかなと思って遠慮したんだYO!

boxmanboxman 2008/02/18 03:37 いや、がっかりだ! 絶望した(w

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2008-02-10 ムハンマド風刺画事件について

……めんどくさいなあ、この話はめんどくさいからあんまりいじりたくないんだよなあ。

 漫棚通信さんがさりげなくこだわっているムハンマド風刺画事件について「たぶんこういう辺りの話を知りたいんだろう」と思える資料が手元にあるのでエントリにしておく。基本的に漫棚さんとid:gryphonさんくらいが読めばそれで用を成す類のものなので、例によってそのうち消す。なんかいいたい場合は存在してるうちにコメント欄なりトラックバックなりでどうぞ。

で、その「手元にある資料」ってのが『The Comics Journal』#275掲載のマイケル・ディーン(Michael Dean)とR.C.ハーヴェイ(R.C.Harvey)の連名によるニュース記事「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」(いちおう記事のほんのさわりだけはジャーナルのブログで読める)。漫棚さんトコの「ムハンマド風刺画事件覚え書き」経由で英語版Wikipediaの記述を見にいったらかなり充実してたので事件そのものについてはあそこっからいろいろ飛んで見にいきゃいいんじゃないかと思うが、漫棚さんの場合「マンガの話」としてどう考えるかってことだと思うんで、その点ではこのジャーナルの記事が一番適当だろうと思う。

ただ、これジャーナルの力の入ったニュース記事の常でやたら長い(別ライターによるフォロー的な囲み含めて8ポイントくらいの細かい活字二段組びっしりで13ページ)のでだいたいの内容を紹介するだけでもえらく大変。できれば「元記事読め」で済ませたいのだが、モノが雑誌のバックイシューではそういうわけにもいかない。だいたいこの本出たのは06年4月だし(おかげで本を掘り出すのにけっこう時間がかかった。特集は『大発作』のダビッドBインタビュー)、いちおう版元在庫はあるみたいだが、アマゾンで手に入る訳じゃないのでいまから入手するのはけっこう面倒だろう。

私自身はこの問題はマンガを巡る問題であることは確かであるにしろ「表現と規制」の問題だとは正直思っていない。むしろそう捉えるべきではないと考えているのだが、この点に関してはひととおり記事内容を紹介したあと改めて述べる。

「マンガのニュース」ではなくマンガ関連の「ニュース」 このエントリーのブックマークコメント

 まずアメリカのコミックシーンにおいてこの事件がどのように受けとられていたかについて確認しておく。

 正直いって私はアメリカのいわゆる「コミックスファンダム」周辺のメディアではこの件についてのまとまった論考、レポートはこのジャーナルの記事以外思いつかない。今回改めて主要なニュースサイトに「Danish Cartoon」で検索をかけてみたが、個人ブログの形式で運営されている『the Beat』と『Comics Reporter』で多少ひっかかった程度(それもたいした記述ではない)、ちゃんと確認はしてないがファン向けのコミックス情報誌『Wizard』になにか書いてあったとは思えないし、業界紙の『Comics Buyer's Guide』でも特に記述があった記憶はない(バイヤーズのほうは囲みのニュース記事くらいはあったかもしれないが)。もちろん個人ブログで触れているものはいくらでも見つかるが、この件についてはコミックス関係なく誰もがが個人として言及してるわけで、そのこと自体にあまり意味があるとは思えない。要するにこの事件は(少なくともアメリカでは)マンガに関連した「ニュース」ではあっても「マンガのニュース」ではないのだ。この点はキチンと認識しておいたほうがいいだろうと思う。

実際にこのジャーナルの記事もかなり慎重な留保をしたうえで書かれている。

 結果として本誌は世界中で知らないひとのほうが珍しいような事件をレポートするというこれまでにない立場に立たされることになった。本誌読者であればコミックスフィールドに関するジャーナルの記事では他の情報源、特にメインストリームメディアより深く掘り下げた記事を読めると考えているのではないかと思うが、この件に関しては中東にもヨーロッパにも支局があるわけでもない自分たちが、世界中で思いつく限りの角度から追及されている問題についてなにかつけ加えることができるのかと自問せざるを得なかった。

(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、9P)

 自慢話っぽくなっているのはご愛嬌だが、要するにここでディーンとハーヴェイが示しているのは、自分たちの「コミックスフィールド」に関する専門性がこの事件を論じるにあたっては必ずしもアドバンテージ足りえない、ということである。この点に関してもう少し引用を続ける。

 このような爆発的なメディアの反応の中で本誌が何かをつけ加えられるとすれば、他のレポートには欠けている時間と時間とともに得られるパースペクティブだろうと私たちは考える。単に起こったことに対する最新情報を流したり、特定のものの見方に焦点を絞ったデンマークのカートゥーンについての報道は現在進行形で溢れかえっている。こっちに数行あったかと思えばこちらに別な数行。私たちはみなデンマークのカートゥーンに関する記事の絨毯爆撃にあっているが、そうやって私たちが触れる情報は否応なく断片化してしまっている。私たちがここで試みているのは情報を総合して全体を俯瞰し、この出来事の概要を整理し、同時にできるだけ多くのものの見方を紹介することである。現在このカートゥーンと密接なかかわりを持った事件はようやく沈静化しようとしている、いまなら私たちはこれらのカートゥーンが出版されるに至った経緯とその後の展開についての輪郭を描くことが出来るだろう。また、それと同時に私たちはこの記事の中にカートゥーンとその後起こったことに対する出来るだけ幅広くさまざまな見方による解説とコメントを集積しようと試みた。こうした作業の結果、私たちはこの事件はそれが良質なものであれ危険なものであれ特定の思想信条をひとに伝えてしまうカートゥーンの持つ力をよく物語るものだと考えるようになった。

(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、10P)

 ここまで引用した部分は要するに前書き(この前書き部分はネット上で読める)記事本文はこのあとの部分で、以降は前述引用部で述べられているように各種メディアにおける主要な登場人物たちの発言や記事を追いながら事件自体を再構築していくレポートがこの記事におけるメインストーリーとなっている。

このメイン記事に囲み(といってもどれもけっこう長くてそれぞれ1、2ページ分くらいの分量がある)としてデンマーク人のこのカートゥーンに関する見方を集めた「Danes on the Danish Dozen」(Eric Millikin)、イスラム教徒からの反響を集めた「Muslims on the Danish Dozen」(Houria Kerdioni構成)、デンマークのイスラム教徒の視点を紹介した「Danish Muslim of the Danish Dozen」(Eric Millikin)、そしてアメリカのコミック作家たちからのコメントを集めた「Cartoonist on the Danish Dozen」(Eric Millikin、R.C.Harvey、Dirk Deppey構成、これもネット上で読むことができる)が付随したかたちが記事全体の構成である。

これはどういう事件なのか このエントリーのブックマークコメント

 まず事件自体の経緯を追った「Cartoons of Mass Destruction(破滅をもたらしたマンガ)」の記述と当時の新聞報道などからカートゥーンを掲載したユランド・ポステン紙の動向を中心に事件の初期段階の簡単な概略をまとめる。すでに日本語でも同種のテキストは多数存在するため、興味のあるひとはまず検索するなりして自分で調べることを強く勧める。

 この記事では事件の発端をユランズ・ポステン紙(Jyllands-Posten、ユトランド新聞)の文化部記者フレミング・ローズがイスラム教の宗教的タブーにまつわる自主規制が言論の自由(Freedom of Speech)に抵触するのではないかとの疑問を持った時点に置いている。ここで引かれているのは『Time』06年2月13日号掲載の記事「When Cultures Collide」におけるローズのコメントである。

 9月半ば、ひとりのデンマーク人作家が預言者ムハンマドに関する本*1のイラストレーターを探すのに苦労していると公表した。どうやらイラストレーターが匿名での出版を要求しているということらしい。これまでにもソマリア系オランダ人政治家でイスラムに批判的なアヤーン・ヒルシ・アリによる本の翻訳者達もまた匿名での出版を要求していた。ロンドンのテイト美術館では「God Is Great」と題されたインスタレーションが撤去された。これはタルムード、コーラン、バイブルをガラスの中に埋め込んだものである。私にとってはこうした言論、表現の自由に関する自主規制が40人のデンマーク人マンガ家(Danish Cartoonists)に彼らの考えるムハンマドを表現してくれと依頼した動機のすべてだ。

結果として描かれたカートゥーンのいくつかが風刺画であるのはそれがデンマークにおける伝統であるからに過ぎない。私たちは女王を笑うし、政治家を笑う、多かれ少なかれすべてのものを笑いものにする。もちろん私たちはこんな風なリアクションを予想してはいなかった、イスラムのひとびとが侮辱されたと感じるのなら謝罪する。しかしこの企画はもともとイスラム教徒に向けたものではないのだ。私が求めたのはこの種の自主規制の問題を議論の俎上に乗せることだ。

(「When Cultures Collide」、Flemming Rose、『Time』Feb.13.2006、http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1156614,00.html

 さて、このようなローズの主張がもたらした結果をジャーナルの執筆者達は(おそらくは多少の皮肉を込めて)以下のようにまとめている。

 この自主規制は公的な検閲同様、言論表現の自由に対する侵害だとの信念からローズは「このイスラムの問題に関しても他のケースでもそうだったようにひとびとが自主規制に屈服してしまうのかを検証する」ことを求めた。*2ローズが求めた議論ははじまるとすぐに彼も知っていたイスラムを取り巻く脅迫的な抗議の風潮に巻き込まれた。ローズの呼びかけに応じ、イスラムの尊敬される預言者を描いた12人のカートゥーニストはどういうつもりだったにせよ、イスラムのひとびとに火をつける以上のことはできなかった。

(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、10P)

 で、この「表現の自由に関するテスト」が世に出たあと当然最初に反応したのはデンマーク国内のイスラム教徒だった。このジャーナルの記事によれば12枚のカートゥーンがユランズ・ポステン紙に掲載された2005年9月30日から2週間後の10月14日コペンハーゲンで「3500人のムスリム*3がユランズ・ポステン紙のカートゥーン掲載に対し「平和的なデモ」をおこなった。

ここでおもしろいのはこのデモにおける抗議者たちの主張である。いまのところ元ネタを見つけられていないので多少疑問は残るのだが、ジャーナルによれば彼らの主張は以下のようなものだったという。

抗議者達はそこに人種差別ではないにしろゼノフォビア的なものを見て反応した、彼らはデンマークのイスラム教徒を不快にさせる表現とそれがイスラム教とテロ行為を同一視していることに謝罪を求めた。新聞社はこの要求をつっぱねた。

(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、11P)

 これだけ見ると少なくともこのデモに集まったひとたちの要求自体は妥当なものだとしか思えない。タイムラインを見るとこの時点で新聞社や作家のところに抗議や脅迫状なんかもガンガン来ていたらしいが、この時点でこの程度の要求を(それも表現の自由を理由として)はねつけるのはどう考えても事態を悪化させるだけである。実際この三日後にエジプトのいくつかの新聞、雑誌に問題のカートゥーンが転載されると、10月20日*4にはイスラム教国11カ国のデンマーク駐在大使から連名でデンマーク政府に対し正式な抗議文書が送られ、以後この問題は拡大の一途を辿る。

当然のようにこの抗議に対してデンマーク政府は「ンなこといわれてもメディアにゃ報道の自由ってもんがあるんだし、わしらも言論弾圧したとかいわれたくねーよ」とかそういう類の返答を返しているのだが(実際になんといわれたかはここ参照)、それでイスラム諸国の腹の虫が収まるわけもない。

 先のデモの件も含め、気になったのでちょっと他の新聞報道も見てみたのだが、2005年末くらいまでのユランズ・ポステン紙の対応は妙に強気である。以下にジャーナルでの記述を引くが、これを見るとこの事件がここまで大きな問題になった原因の一端はこの初期の時点での彼らの対応のまずさにあったとしか思えない。

 新聞社側は当初同社の長年のポリシーだという言葉を引いて謝罪を拒否していた。「私たちはこれらの絵が西側世界で広く求められている自主検閲を問題化し絵解きしたものだと指摘しなければならない。私たちが話し、書き、写真を撮り、絵を描く権利は法の枠内において認められなければならない−−無条件に!」編集のカルステン・ユストはさらにこうつけ加えている「私たちは、民主主義の世界に暮らしている。これが私たちが自分が望むすべてのジャーナリスティックな手法を使うことができる理由だ。風刺はこの国では許された手法だ、あなたは風刺マンガを描くことができる。宗教はこの種の表現に対するいかなる障害をも設けるべきではない。このことは私たちがイスラムを侮辱したいと考えているということを意味しない。」彼はこう結論付ける「私たちが謝罪するとすれば、我々の前の世代が勝ち取ってきた言論の自由に反したときだ」*5

(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、12P)

 こうした大騒ぎの中、カートゥーンを描いたマンガ家たちに対して殺害予告や脅迫が相次ぎ、彼らは政府に保護を求め、デンマーク政府もこうした脅迫行為に対して禁止を布告。いっぽうでデンマーク国内のムスリム団体も10月27日にカートゥーンの掲載を理由にユランズ・ポステン紙を刑事告発。11月19日にはデンマークのムスリム団体のひとつがカートゥーン問題を訴えるために中東に赴くとアナウンス。実際に彼らは12月に中東に赴き、捏造や勘違いによるものが含まれていたという煽る気満々のマンガによるデンマークでのイスラム差別を訴える45ページの文書「デンマークの人種差別とイスラム恐怖症(Danish racism and Islamphobia)」を学者やイスラム教団に提出。

いっぽうでデンマーク国内ではイスラム教徒による抗議行動への反発から逆にムスリム組織への脅迫、より差別的な図画を載せる雑誌が出てくるなど、いち新聞社による「表現の自由のテスト」のために国内の宗教対立、民族対立が激化していく、という笑えない事態が現出していく。

もっと笑えないのは12月6日のイスラム諸国会議の席上で前述の文書が各国代表の手に渡り、問題が完全に外交問題化したことである。さらに年が明け1月になるとイスラム教における年に一度のメッカへの巡礼の季節となり、世界中から集まったムスリムがメッカで事件を知って怒り狂った状態でまた世界中に散ることになった。

1月26日にはサウジがついで29日にはシリアがデンマークから大使を召還。こうした動きの中、いちおう水面下で国内のムスリム団体と折衝を続けていたユランズ・ポステン紙は1月30日、ようやく謝罪文を公表する。

1月30日武装集団がパレスチナ、ガザ地区のEU事務所を謝罪を求めて包囲したまさにその日、ユランズ・ポステン紙はウェブサイトにイスラム教徒に対する攻撃的な姿勢を謝罪するコメントを公表した、しかしここでも彼らはカートゥーンを掲載したこと自体には正当性を主張している。

 ほとんどのムスリムにとってこの謝罪は不十分であり、遅すぎた。なんといってもすでに第二ラウンドがはじまってしまっていたのだ。フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、スペイン、スイスの新聞がユランズ・ポステン紙に同調し、2月1日、カートゥーンをいっせいに掲載したのだ。

(「Cartoons of Mass Destruction: The Whole Story Behind the Danish 12」、Michael Dean & R.C.Harvey、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、14P)

 こうして事件はデンマーク国内の宗教、民族対立の問題からヨーロッパ対イスラムというさらに巨大な対立へと拡大した。このヨーロッパの参加についてはフランスでの事情を詳細に論じたこちらの記事が非常に参考になる。

デンマーク人の視点 このエントリーのブックマークコメント

 前述したようにこの記事にはメインストーリーの他に四つの囲み記事が設けられている。中でも個人的におもしろかったのは当時のデンマークのひとびとのおそれと複雑な感情がよくわかる「Danes on the Danish Dozen(12枚の風刺画とデンマーク人)」である。

この記事の冒頭、イスラム原理主義者による報復への恐怖からアメリカのコミックス専門誌であるジャーナルの取材にすら実名で答えることを拒否するデンマーク系アメリカ人の存在が語られている。そもそもカートゥーン掲載のきっかけになったとされる、この種の恐怖、イスラム批判をタブー視する感覚の存在はサルマン・ラシュディ『悪魔の詩』の翻訳者が殺害された事件が未解決のまま放置されている国の人間としてキチンと認識しておいたほうがよい事実だろうと思う。

 ジャーナルの記事なので登場しているひとびとはデンマーク系アメリカ人やデンマークのコミックス関係者が多くネット上でも読めるアメリカのコミック作家たちの反応との違いもおもしろい。

以下この記事からいくつか印象的な発言を紹介する。まずケンブリッジ大学で美術史の研究中でデンマークのコミックス批評誌『Rackham』(www.rackham.dk)の共同編集人でもあるマシアス・ウィベル(Mattias Wivel)のコメント。彼はこれまでほとんど無害で関心も持たれていなかった「デンマーク人」が一夜にして悪魔の使者にされてしまった事態を「ほとんどシュールだ」という。

 ウィベルはカートゥーンそのものにはほとんど感銘を受けなかった。「3、4枚を除けばダメなマンガだと思いますよ」彼はいう「この手のイスラム揶揄ネタは使い古されてるし、だいたいがくだらない。それにこの12枚のほとんどがへたくそでアイディアもパッとしないでしょう」

「僕はユランズ・ポステン紙のやったことは無分別だったと思いますよ。ああいうマンガをわざわざ集めて攻撃的なステートメントとして見えるように出版しちゃったんだから。だけど、マンガ家ひとりひとりは彼らの限られた才能の範囲でベストを尽くしたかどうか以外で責められるべきではない」

 ウィベルはこの事件はカートゥーンがデンマーク政治で高まっている反移民感情に油を注ぐために利用されたのだと見ている。「イライラさせられるのはユランズ・ポステン紙がああいうカートゥーンの出版を決めたのはたぶんデンマークの政治的風潮に迎合するためだろうってことです。あそこではいつもイスラムがネガティブな議論の議題にのぼっているし、EUでは移民法がどんどん厳格化している。そしてそういう方向に社会を誘導しようとしている強い動きがある。これはすでに差別されている少数派への愚かで安易な攻撃です。グローバリゼーションが物事をこんな風に変えてしまうなんて誰も予測できなかったことでしょう」

(「Danes on the Danish Dozen」、Eric Millikin、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、14P)

 次にデンマークのメジャーコミックス出版社「ファーレンハイト(Fahrenheit)」社(www.forlaget-fahrenheit.dk)のオーナーというそれ自体別種の興味をそそるポー・マシアセン(Paw Mathiasen)のコメント。彼もウィベル同様、新聞社の「報道の自由」を認めつつ「自分だったらああはしない」といい「右翼系政党の示唆があったのではないか」とちょっと陰謀論的なことまでいっている。

ただ、このひとも飽くまで自分の立場を一般化するのには慎重でデンマーク国内の言論状況については以下のようにいっている。

 ウィベルとマシアセンはそれぞれユランズ・ポステン紙に政治的な動機があることを示唆したが、もちろんすべてのデンマーク人がこう考えているわけではない。「デンマークのひとびとのこの問題に対する考えは二部されています」マシアセンはいう。「デンマークのペンクラブは分裂し、別な問題では同じ党派に属するような政治家ですらこの問題に関しては意見が分かれています。デンマークのメッセージボードではコミックスファンが二派に分かれて意見を戦わせています。誰もが分裂し、そして不幸なことにこの種の対立の勝者は一番声の大きなもの、デンマークの政治的過激派とムスリムの原理主義者なのです」

(「Danes on the Danish Dozen」、Eric Millikin、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、13〜14P)

 で、次に登場するのがデンマーク国内で急激に成長している急進派右派政党「ダンスク・フォルクパーティ(Dansk Folkeparti)」の政治家でアーハス大学の情報メディア学部教授のペル・ヨート(Per Jauert)。わざわざこういうひとにもコメントをとってること含めてこの辺うまいなあと思うのだが、ここでヨート教授が語るのは事件後同政党の支持率が急上昇している事実だ(「支持率30%前後で事件後8〜10%増加」だという)。

彼は事件に対するデンマーク首相の対応を高く評価し「彼はこの問題の扱い方について現在攻撃されているが、首相は優秀な政治家としてこうした場合タフガイに見えなければならない」という。この辺それこそマンガみたいだが、このひとの意見はそれはそれで妥当なものである。

「いっぽう、元外務大臣リベラルな元外務大臣が先ごろ現職の、また自ら所属する党の首相を彼が「OK、君たちには表現の自由がある、だが気をつけてそれを使いたまえ」といったことを理由に激しい調子で非難した。彼のような社会民主主義者や左翼のひとびと、多くの知識人たちは自分たちはマンガによって風刺されてもかまわないが、マイノリティーを風刺するのはダメだ、といっている。これではマンガで風刺をおこないたいなら対象は権力者に限るといっているようなものじゃないか」

(「Danes on the Danish Dozen」、Eric Millikin、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、15P)

 彼はまたデンマークのイスラムが国内の政治決定プロセスに参画することに対しては賛意を示しており、(ポーズかもしれないが)必ずしも差別的なわけでもない。そして、彼のカートゥーン自体へのコメントは「問題ないんじゃない」程度のものだ。ローズがいうように「デンマークに伝統的によくあるタイプのユーモア」それ以上のものだとは彼も考えていない。この点は国内の政治的保守化に反発するウィベルの「使い古されてて陳腐」という評価もけっきょくは同じことをいっているといえる。

で、この「よくある表現」が大問題になってしまったことにショックを覚える向きも当然ある。それがデンマークのコミックスライター&アーティストギルドの理事フランク・マドセンである。彼はこの問題を過去のデンマークにおけるラジカルな美術表現と比較してこう語る。

15年前デンマークのアーティスト(Jens Jorgen Thorsen)は多くの報道陣の前で駅構内の壁にイチモツを反り返らせたイエス像を描いた」マドセンはいう「それに1970年代半ばデンマークのコミックブックはヒッピーみたいなイエスが死海文書をトイレットペーパーにしているマンガを掲載している。当時多少は政治家から抗議があったが、ほとんどのデンマーク人は騒ぎもしなかった。これは私たちが自分たちのユーモアの伝統にプライドを持ち、政治と宗教をごっちゃにしていないからだ」

(「Danes on the Danish Dozen」、Eric Millikin、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、15P)

 マドセンはこうしたデンマークの風刺的伝統に基き、描かれた12枚の風刺画を擁護し、さらにその中には編集者の反イスラム的な意図(これをユランズ・ポステンは「ない」と主張しているわけだが)を覆そうとするものも含まれているという。

しかし、ムスリム側に関しては次節で触れるが、じつはこの話のポイントは掲載したユランズ・ポステン紙を含め、ほとんどのひとがカートゥーンの内容自体は問題にしていない点にある。この意味でこの記事の最後のまとめにあたるデンマーク系アメリカ人マンガ家ヘンリク・レアー(Henrik Rehr)の以下のような見解は示唆的ではないかと思う。

「僕はアレを描いたマンガ家の何人かとは個人的な知り合いだから、彼らの生活が脅かされている現状を不快に思わないでいることは難しい」こうレアーは本誌に語った。「この論争はたまたまカートゥーンがきっかけで始まったけれど、それはただ部屋中に充満してた火薬に結果的にアレが火をつけたってだけだと思う。僕はほとんどのひとは実際には掲載されたマンガを見ずに騒いでると思うね」

(「Danes on the Danish Dozen」、Eric Millikin、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、15P)

イスラムの主張 このエントリーのブックマークコメント

 次に「Muslims on the Danish Dozen(風刺画とムスリム)」の記述を中心にイスラム側の主張を見てみる。この記事は「Danes」のほうと違い、ライターが一本の記事にまとめたものではなく発言者のコメントを並べたかたちのものである。

語られていることはおもしろいのだが、特にコミックス関係のひとが選ばれているわけでもないのでこちらはいまいちどういう基準の人選なのかわからない。

まずシアトル在住のヨルダン人画家サマー・クルディ(Samer Kurdi)のコメント。

 私が怒りを感じるのはカートゥーンが預言者の姿を描いているからでもなければ、彼を(ひいてはすべてのイスラム教徒を)テロリスト扱いしたからでもありません。私にとっての問題は彼らがあのカートゥーンを掲載することが言論の自由を守ることなのだと取り繕ってみせていることです。たしかに多くの異なる考え方の集団のあいだで言論や出版によって誰かを攻撃したり傷つけたりすることはいくらでもできます。しかし、本当に言論の自由のデモンストレーションをしたいなら、自分たちの新聞社や政府にケンカ売ってみせるべきでしょう。

ひとりのイスラム教徒としては私はあのカートゥーンがさまざまなメディアに掲載されるのを見るたびにそこには「我々はイスラムを侮辱する、単なる泡沫メディアとしてではなく、「尊敬すべき」メインストリームメディアがやってるように」というメッセージが込められてるように思えて仕方がありません。あのカートゥーンを掲載することが唐突に二流新聞が言論の自由の最前線に立っていることを保障する格安チケットだか魔法の薬だかのようになってしまった。

(「Muslims on the Danish Dozen」、Houria Kerdioni構成、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、16P)

 このクルディのコメントがおもしろいのは彼の怒りが向けられているのがカートゥーンが偶像崇拝の禁止の戒律を破っている部分にも、イスラムを攻撃している部分にすらなく、その行為を「表現の自由」を理由に正統化している部分に(のみ)あることだ。

この問題が語られる際に偶像崇拝の禁止は必ず言及されるポイントであり、実際このジャーナルの記事でもメインアーティクルのほうでけっこうな文字数で解説されているのだが、このエントリではここまであえてこの点には触れてこなかった。というのは、少なくとも問題が拡大してヨーロッパ対イスラムの壮大な泥の投げあいになる以前、デンマーク国内の問題としてみた場合はこれはあまり関係ない話ではないかと思ったからだ。

というのは中東のイスラム教国ならともかくヨーロッパやアメリカに住むイスラム教徒がこの問題をそれほど厳格に考えているとは考えづらいからだ。なぜならイスラム教における偶像崇拝の禁止とはすべての預言者の偶像を描くことを禁ずるものであってその中にはモーゼやイエスも当然含まれている。だからキリストの伝記映画などはイスラム教国では公開できないし、逆にいえば日常的にキリストやモーゼの画像が存在しているヨーロッパやアメリカに暮らすイスラム教徒が偶像崇拝の禁止をそれほど原理主義的に捉えているとは考えづらい。

実際この記事においても「ムハンマドの肖像を描いた」こと自体を問題視している人物は皆無であり*6、先にも触れた『Time』の記事「When Cultures Collide」ではオックスフォード大学にフェローとして留学中のスイス人ムスリム学者、タリク・ラマダン(Tariq Ramadan)によって以下のような言明がなされてすらいる。

 この件に関しては双方が大げさにいっている。厳密にいえば預言者の肖像が禁じられているのは確かだが、ムスリムだって世俗の西欧世界で面白おかしく暮すためにはそれが古い伝統だってことくらい理解せざるを得ない。感情的な反発は禁物だ。もうこれは議論ではなく、力による紛争になってしまっている。私たちはまず落ち着くべきだ。私たちはひとびとが法によって言論の自由を妨げられるのを望まない。だが同時に私たちは他のひとびとと対するときに礼節をもってする知恵を忘れるべきではない。民主主義とは単なる法的な枠組みのことではなく、互いを尊重することだ。

(「When Cultures Collide」、Tariq Ramadan、『Time』Feb.13.2006、http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1156614,00.html

 もちろんこうした視点はおそらくは欧米で暮らす(それもどちらかといえば社会階層の高い)ムスリム特有の視点であり、2006年2月以降に中東でデモに参加し「デンマークに死を!」と叫んでいたひとびとはまた異なった視点を持つだろうと思う。ただ、そもそも本来そこは関係なかったのだという点は確認しておくべきだ*7

 先に事件の経緯でも確認したように少なくとも初期のイスラムの抗議行動における主張は件のカートゥーンの内容が「自分たちの宗教を攻撃し、テロリストとイスラム教徒を同一視している」であった点を問題にしていたのであって、イスラム教独特の宗教的理由から反発しているわけではない。これは単純にいえば「名誉毀損」の訴えであって誰にでも理解可能な話である。

 たとえばジャーナルの記事ではフランスの航空技術者、ハフィド・ボウザウィ(Hafid Bouzazui)が「このカートゥーンによってすでにメジャーメディアによって潜在的なテロリスト扱いされ、抑圧されていたムスリムをいっそう傷つけた」といい『Time』の記事ではクエートオイルのエクゼクティブが「宗教的冒涜ではなく、人種差別だ」ともっとはっきりいっている。

このサミア・アル・デュエイ(Samia Al-Duaij)というひとの発言はヨーロッパのムスリムの持つ不満がかなりわかりやすく出たものだと思われるため以下に引用する。

 あのマンガが宗教的冒涜なのではなく、彼らが人種差別主義者だというだけの話だと思う。私はイスラムをネタにした妙なジョークでも笑えるリベラルなクエート人女性だが、あのカートゥーンには完全に頭にキた、なぜなら私はどういう連中がああいうものをつくりだすのか知っているからだ。私はデンマークでは高い教育を受け、いい職についていたけれど、アラブ人だというだけでしょっちゅう侮蔑的なコメントにさらされた。私が会ったデンマークの独身第二世代ムスリムたちはみんなあそこから逃げ出したがってた。なぜって、彼らは口々にいってた「オレたち(私たち)はここで育った。なのに歓迎されない。職もない」たぶんナチ政権下のユダヤ人や50年代のアメリカでの黒人もこんな風に感じてたんだと思う。これは単に不快だ。私は全然信心深いほうじゃないけど。

(「When Cultures Collide」、Samia Al-Duaij、『Time』Feb.13.2006、http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1156614,00.html

 要するにこれがデンマーク、引いてはヨーロッパにおけるイスラム系移民の問題である。グローバルに考えるから、中東情勢やテロ問題が絡んでめんどくさくなるのであってデンマークやEUというレベルに限定すればこれは国内の少数派差別、民族差別問題以外のものではない。それを「宗教」を理由に異文化対立に拡大したのはイスラム側だが、ではそのように問題が大きくなって過激派ではないヨーロッパの一般的なムスリム達がどうなったかといえば、当然便乗して鬱憤晴らしをした人間もいたろうが、こうした差別的な状況に関していえばけっきょく事態をより悪化させただけであり、まじめな人間であるほどこのすべてが「迷惑だ」という以外にないだろう。

たとえばフランスの人材派遣会社で働くヒンド・ダイバ(Hinde Dhiba)の場合はこうだ。

 私はムスリムと称するある種のひとびとが罪もないデンマークのひとびとに暴力的な報復をおこなうのを認められない。それはカートゥーン同様にムスリムに汚名を着せる行為だ。暴力を伴ったイスラムのある層のひとびとの反応は極端だが、政治家やメディアの反応も極端だ。メディアやカートゥーンはもっと繊細に使われるべきだろう。彼らは決してこの宗教のいい部分を語らない、イスラムには多くのポジティブな側面がある、たとえばスーフィズムとか……しかし彼らは常に最悪の部分だけを語る。そうしてフランスのイスラム教徒には悪いイメージがつき、反イスラム的な気分が蔓延する。フランスにはイスラムへの恐怖があり、しかもそれは国内どころかヨーロッパ第二の宗教なのだ。

 私たちはあらゆるひとからこのことについて尋ねられるのにうんざりしている。もう一度私たちも自分たち自身について説明しなければならないが、いい加減そこにはあまりにも多くのイスラムが存在することは理解されてもいい時期だ。イスラムはひとつかもしれないが、そこには多くの人間がいて、異なったレベルの理解をし、異なった経験をしてきている。

(「Muslims on the Danish Dozen」、Houria Kerdioni構成、『The Comics Journal』#275、Fantagraphics刊、16P)

 そりゃうんざりもするだろう。

これは「表現の自由」の問題なのか? このエントリーのブックマークコメント

 ジャーナルの記事自体は以降も事細かに経緯を追う記述が続くのだが、いい加減ヤになっているのでまとめに入る。

私が以上の経緯を提示した上で考えてもらいたいのはこれは本当に「表現の自由」を巡る事件なのか? という点である。2006年2月以降、問題がヨーロッパ対イスラムの泥の投げあいになって以降はたしかにイスラムの「宗教」に対するヨーロッパの「表現の自由」という構図になるのだろうが、事件の初期段階、国内の民族差別的風潮を助長するような表現への謝罪を求めたデンマーク国内のムスリムに対し、一貫して謝罪を拒否し「これは表現の自由を検証するテストだ」という主張だけを続けたユランズ・ポステン紙の態度はどう考えても妙である。これでは要求に対する返答にまったくなっていない。そもそもユランズ・ポステン紙が求めた「イスラムへの自主規制の見直し」はムスリム団体が自主規制を求めたわけではない以上、国内のムスリム団体とは単に無関係であり、実際ユランズ・ポステン紙自身が「これはイスラムに向けたものではない」といっている。

たとえば大学の社会調査の実習で調査対象と無関係なひとに迷惑をかけた事例があったとして「これは大学の調査実習だから謝りません」という主張が通るだろうか。攻撃を意図しているのではないなら余計謝罪すべきだし、だいたいけっきょくこの点に関しては実際謝罪もしているのだからとっとと謝罪しておけばムダに事が大きくなることもなかったのだ。イスラム側は最初から彼らの自主規制に対する問題提起に関しては特にコメントもしていないので、彼らは誰からも求められていない「表現の自由」の問題を叫んで事態を悪化させただけだということになる。

 これは「表現と規制」を巡る事件などではない。むしろこれは国内の宗教、民族差別的状況を無視して抽象化された「表現の自由」を夢想したために「問題提起」と称してヘイトスピーチ的表現を公表しながら、それが「ヘイトスピーチ」である自覚すら抱いていなかった、というきわめて情けない事例なのではないか。

 ユランズ・ポステン紙が最初から自覚的にカートゥーンを使ったヘイトスピーチをおこなおうとしたならムスリムの抗議に対しもっと攻撃的な対応をしただろうし、このため逆にヨーロッパメディアの共感も得られなかったかもしれない。だが、そのことが結果的には事件を徒に大きくし、問題を原理主義的宗教と原理主義的表現の自由を巡る国際的な対立のレベルまで巨大化させてしまったのではないかとすら思う。

 私は今回詳細に経緯を追う前から「これは要するに日本における『嫌韓流』とか中国、韓国の反日マンガのようなものなのだろう」というかなり手前勝手な理解をしたうえで(基本的に)日本人には関係ない問題だ、と考えていた。そして、ある程度欧米の情報を追ったうえで実際あんまり関係ない問題だと思う。

つまり、これは飽くまでもEUにおけるイスラム系移民問題を巡るEU内の問題(というかそもそもはデンマーク一国の国内問題)であり、そのような具体的な「問題」を捨象して、過度に抽象化した「表現の自由」や「イスラム」そして「マンガ」を巡る問題として図式化して語るのは大変危険であり、場合によってはひどく迷惑なことだ、ということをこそこの事件はよくあらわしているように思うのだ。

08.02.11追記 このエントリーのブックマークコメント

 英国在住のジャーナリスト、小林恭子氏が昨年初頭に発表したこの問題に関するシリーズルポが同氏のブログで再公開されている。たいへん参考になるので、この問題に関してまじめに考えたいひとは読んだほうがいいと思う。

小林恭子の英国メディア・ウオッチ  : 風刺画論争後のデンマーク−1

小林恭子の英国メディア・ウオッチ  : 風刺画論争後のデンマーク−2

小林恭子の英国メディア・ウオッチ  : 風刺画論争後のデンマーク 3

小林恭子の英国メディア・ウオッチ  : 英でシャリア論争+風刺画デンマーク・4

*1:ここでローズが触れている「ムハンマドに関する本」とはカーレ・ブルートゲン(Ka*re Bluitgen)作のムハンマドの子供向け伝記絵本『コーランと預言者ムハンマドの生涯(Koranen og profeten Muhammeds liv)』である。英語版Wikipediaの記述によれば彼のイラストレーター探しの苦労話を枕に報復怖さにイスラム批判を出来なくなっているデンマーク言論界の問題点を指摘する新聞記事(「Dyb angst for kritik af islam(イスラム批判への深い懸念)」)が2005年9月17日付のポリティケン(Politiken)紙に掲載されており、こうしたマスメディアにおける自主規制に対する問題意識がこの問題の背景にあるとされる。なお、日本語版ウィキペディアには「ムスリム移民が多く住むデンマークにおいて、異宗教間の相互理解を深める為にムハンマドの生涯を扱う児童向けの本を制作しようとする動きがあった。」との記述があるが、この経緯に関してはいまのところ英語では類似の記述を見つけらていない。

*2:訳注:この箇所の原文は「was to examine whether people would succumb to self-censorship, as we have seen in other cases when it comes to Muslim issues」なのだが、『Time』のローズのコメントにはこの箇所が存在しなかった。このため「初出書けや」と毒づきながら検索を続けた結果、どうやら『NC Times』の2005年12月9日付けの記事「Muslim reaction to Danish cartoons of Prophet Muhammad remind some of Rushdie's experience 」(該当箇所がわかりやすいようにGoogleのキャッシュをリンク)辺りが大元らしいとわかった。しかし、これを読むとこの発言、じつはローズのものではない。記事中にちゃんとユランズ・ポステン紙の編集長カルステン・ユスト(Carsten Juste)の言葉だと書いてある。この記事に限らずブログなどでこれをローズの発言としているものがけっこうあるようなのだが、どうも「他のメディアでこの発言をこの件に関するユランズ・ポステン紙の公式見解として(ソース、発言者表記なしで)紹介」、「スポークスマン的に記事の担当者であるローズが発言を開始」、「結果的にローズの発言と誤認するひとが多発」、という伝言ゲームが起こったようだ。

*3:英語版Wikipediaの「Timeline of the Jyllands-Posten Muhammad cartoons controversy」では「5000人以上」となっている。

*4:英語版Wikipediaの「Timeline of the Jyllands-Posten Muhammad cartoons controversy」では10月19日。

*5:これらのユストの発言の正確な初出は特定できなかったが、05年10月末から流布しているため、コペンハーゲンでのデモやそれに伴うムスリム団体からの批判に対するコメントではないかと思われる。

*6:このジャーナルの記事にはシアトルのイスラム教会の指導者のコメントもあるのだが、彼もカートゥーンそのものは「子どもっぽい感情的な爆発」と片付けている

*7:この点は問題のきっかけとなったカーレ・ブルートゲンの『Koranen og profeten Muhammeds liv』がちゃんと出版されていることだけみてもこのことはあきらかではないかと思う。

漫棚通信漫棚通信 2008/02/10 11:50 お疲れさまです。本エントリによると、(1)本来はデンマークの国内問題→(2)「表現の自由」を持ち出して初期対応をあやまる→(3)国外のイスラムが政治問題化→(4)世界的に宗教対表現の問題としてとらえられてしまう、という感じでしょうか。なるほどよくわかりました。ただしわたしの興味は(3)以降にありまして、そうなっちゃったものはもうしょうがないとしてこれからどうすりゃいいんだ、というところです。なぜか日本のマンガは、「ムハンマドのマンガ」をあえて描かなくてもいいのに、顔を隠したり全身を隠したりしてでもムリヤリ描いてしまうんですよ。表現の常識は時代と地域でものすごく変化するものですから、たしかに「現代の日本」というきわめて狭い範囲の国内問題ではありますが。

boxmanboxman 2008/02/10 18:45 うーん、私としては(1)、(2)すっ飛ばして理念的に(4)だけ論評するような態度自体がこの騒動が大きくなった原因ではないか、といってるつもりなので(3)以降に関しての部分はまともに紹介しませんでした。まあ、アメリカの本ですから、この記事自体は以降イスラム原理主義者にカートゥーンが政治宣伝目的で利用された事実を批判的に書きつつ、ヨーロッパの移民問題に与えた影響も検証して「マンガというメディアの強力さとそれと裏腹な政治宣伝に利用されることの危険性」みたいな辺りのそれなりに納得できる結論に落とし込まれています。この結論の評価はともかく、個別特殊な事件としての分析、検討から「マンガ」一般の話に落とし込んでいるわけで、少なくとも「この事件」を語るならそういうプロセスは必須だろうと思います。日本におけるムハンマド像の自主規制問題はこれとはまたまったく別な「日本の問題」であって(実際にこの事件の前から自主規制がおこなわれていることは漫棚さんが立証されています)そこを「マンガの話だから」、「表現の規制」の話だからというレベルで無造作に混同して語ってしまうのは私は賛成できないんですね。