このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
・
以前報告した件
盗作事件の懲らしめ計画をここに記したいのですが、現在進行中なので、もうちょっと待ってくださいね。
ミステリ作家、直木賞作家、ネットの書評家、マイミク、CMプロデューサー、いろんなジャンルの方々から、盗作事件に関して、わたくしを支持するコメントが送られてきています。広告業界って、おもろいおもろないで世の中判断するから、どんどん、この手の話題に人が乗ってくるのよね。
「盗作野郎」に、爆弾がどのような形で投下されるかは、半年後くらいのお楽しみってことで。
そうしたら、こんなこと書いてた人がいてさ。
>就寝前にメールチェック。編集部からの報告でちょっと吹くもの
>あり、ニヤニヤしながらベッドに入る。
あ。
こんなことで戦々恐々としていたんだ。じゃあ、本物が投下されたらどうするんだろう。
いや、大変だよなあ。老婆心ながら。
・
これが本物だ。
どこぞの阿呆が己のブログに「なんたって唐沢さんは雑学を発明した方だから」とか書いていた(調べなおすのも不快だから、あやふやな記憶による)。
唐沢俊一は落語と漫画・アニメと映画に詳しいそうだが、ちゃんとした著作は一作もないし、落語は天狗連で三流芸人と付き合いがあるだけ、漫画は週刊現代のマンガ評が「読まずに書いている」とまで酷評される様。アニメに至っては「宇宙戦艦ヤマトの再放送を見てフアンになった」くらいしか実績はなく「ガンダム」のころにはもうドロップアウト。映画評だってまともにどこかに書いているかしら。一行知識がガセとパクリだらけだってことは、ネットの検証サイトがいくつも立っているから見てもらいたい。
いや、こんな馬鹿の話ではない。
わたしにとって「雑学」といったら、後にも先にも植草甚一しかないのだ。
はっきり申し上げて、植草さんの広大無辺の教養を「雑学」なんて乱暴な言葉で括ってしまうことは、大変失礼なことだと思う。
欧米の文学、特にミステリー、ジャズ、欧米の映画に関しては、第一人者だったといってもいいだろう。
ミステリでは東京創元社の『世界推理小説全集』の監修したのをはじめ、『現代推理小説全集』の収録作品を選定。1979年『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』(早川書房)で第32回日本推理作家協会賞(評論部門)を受けた。
映画では『キネマ旬報』『映画之友』『スクリーン』に積極的に評論を発表、ユニバーサル映画の字幕の担当もしていた。淀川長治と親しく付き合い、ヒッチコックの研究は群を抜いていた。
50歳を過ぎてから『スイングジャーナル』にジャズ評を発表。『衝突と即興』『モダンジャズの発展』『ジャズの前衛と黒人たち』などの著作を発表した。
そして、本書『ぼくは散歩と雑学がすき』で若者から圧倒的な支持を受け、ファンキー爺さんJ.J氏はサブカルチャーの代名詞になった。VOWを生んだ『宝島』を創刊したのも植草さんだった。
パクリとかガセで水増しした雑学とは月とすっぽんであります。
そこで、植草さんのトリビア。
1970年代後半から刊行された「植草甚一スクラップブック」(晶文社)には31巻が2冊ある。
証拠写真 ↑
『小説は電車で読もう』は本来第32巻。珍しや、背表紙の誤植なんであります。
・
このような杜撰な知識のばら播きを「雑学」というのは詐欺に等しい。
まあ、江原啓介とか細木数子といった詐欺師が、のうのうとTVのゴールデンタイムに出演している国だから、こんなゴミみたいな詐欺師が跳梁するのもむべなるかなってことだが。
京都大學人文科學研究所 の安岡孝一准教授が、ご自分の日記で唐沢俊一の出鱈目を批判している。
ちゃんとした研究者が、無知蒙昧な徒のインチキ知識の開陳を厳しく諌めているのでお読み下さい。
その1
2006年02月24日
ABO血液型はなぜABCではないのか
唐沢俊一が述べる嘘に対して、きちんと文献を示して反論している。
唐沢の嘘(『FRIDAY』2005/2/4)
ABO式血液型の分け方は 糖タンパク質の構造による。
「何もないものは ゼロ型にしよう」
「ハカセ 0(ゼロ)型を みんな O(オー)型と 言ってます」
んー…
1927年 国際連盟の委員会
「めんどうだから オー型でいいや」
決定ー
「この大ざっぱさは いかにもO型!」
いかなる文献にも「0(ゼロ)」という表現がないことを示し、上記のいい加減さをぶった斬り、こう結んでいる。
このような「トリビア」を披露する人たちは、どうして「ウラを取る」ということをしないのか。その点がどうにも私には理解できない。
あれ? これって、唐沢先生がどこかで偉そうにのたまってたことじゃなかった?
その2
2007年09月09日
パソコンのキーボードはなぜABC順でないのか
榛村季溶子の『パソコンのキーボードってどうしてABC順じゃないの?』(R25, 2007年9月7日)の記事の中で、唐沢俊一が知ったかぶりで、出鱈目な説を述べていることに対する批判。ここでも安岡氏は、
そもそもこの文章は、1873年頃に誕生したQWERTY配列を、「200年ほど前に登場したタイプライターが始まり」などと平気で書いていたりするので、19世紀のタイプライターの歴史など全く理解していないのは明らかだ。200年前と言えば1807年だぞ。そんな文章を書く人間が、「19世紀末の大不況」なんて言ったところで、何も考えずに適当なトリビアとやらをデッチ上げてるのは、まあ間違いないのだが。
容赦ない意見を述べている。
なんら知識のない人間が、あたかも知識人のように振る舞い、出鱈目な知識を開陳して、原稿料その他を得ているのを、世間の一般常識では、詐欺師と呼ぶ。
唐沢俊一氏には知的財産権侵害者=盗作犯に続いて、詐欺師の称号を献上しよう。
名誉毀損で訴えてください。いつでも受けますよ。
※上記の引用中、二箇所に亘って日付を誤記してしまい、安岡先生ご本人から、「日付をおろそかにするのはガセネタを生むモトです」との指摘を受けました。あわてて確認の後、改正しましたが、不用意なミスを重ねたことをお詫びいたします。
・
唐沢なおき様の著作権も思い切り侵害しています。ごめんなさい。
2ちゃんねるのスレッド「唐沢俊一著『新・UFO入門』ブログ盗用の交渉決裂でお詫び」からの無断引用・無断転用・無断掲載です(作者不詳)。
因みに唐沢俊一氏に暴行を加えられている人物(?)は、漫棚通信ブログ版の主催者氏です。
・
この男のことを書くだけでサイトが穢れるような気がするが。
『創』2月号に、唐沢俊一 × 岡田斗司夫の対論『オタク論!』が連載されています(本号で4回目)。内容は突っ込みどころ満載(特に岡田斗司夫の、「アイデアに著作権がある」云々の言訳とか)ですが、唐沢氏の言説について話を進めましょう。
唐沢氏の「盗作問題」の後始末は――
第1弾:盗作を「引用ミス」と言い換え、勝手に謝罪、勝手に交渉決裂。
第2弾:被害者をクレーマーと貶め、自らを被害者と見せかける。
とちゃくちゃくと進んできたわけですが、全然鎮火しない(というか、どんどん充実していく)ネットでの批判を、「無責任な拡大再生産」に見せかけようというのが第3弾。というわけで、お手並み拝見と参りますか。
因みにこの対論、バーバラこと出版評論家(兼マクドナルドバイト)の大内明日香のblog「出版評論~blog版」の2007/12/07のエントリで――
>次号の月刊『創』の「オタク論」に注目!
>2007.12.09 Sunday
>今日の昼に月刊『創』の「オタク論」対談収録してきました。
>なんかスゴい話になりましたよ!
>次号の創は発売日に読むことをオススメします!! 立ち読みでも(私は)OKですよん。
と紹介されたものであります。
さて今回の唐沢氏の主旨は「ネットの住人はソースを確認しない」ということで、前述したように、「自分で確認もしないで他人の尻馬に乗って騒いでいるだけ」という話にもっていこうとしているわけですね。
週刊誌はきちんと私の言い分を確認してきたけど、ネットでいろいろ論評していた人間で、「唐沢の見解はどうなのか」と尋ねてきた人は一人もいなかった。
ものは言いようですね。唐沢氏は事件発覚後、焦って状況を毎日のように、自己のサイトにアップしまくってましたが、あれは、「ソースの確認」が必要な与太だったのですか。日々刻々と状況が変わる渦中で、まさか編集部気付で「見解を問う」わけもいかないし、そもそも、見解はご本人がサイトに書いている以外にあろうとは誰も思わない。メールアドレスを知っているはずの人もなにも言ってこないそうで、そりゃそうだろう、例えばわたしはメアドを知らないし、知っていたら納得がいくまで何回だってメールを送って質したろう。唐沢氏のメアドを知っている人はごくごく限られたシンパだけで、唐沢先生の批判なぞ畏れ多いと思っている方たちばかりなのだろう(ってのも、唐沢氏の言説を信じるとしてね。実際には批判的なメールもあったのでは推察するが)。
文句があるなら、メールアドレスを公開しなさい。なんか、いつでも相手にしてやるからかかってきなさいとか啖呵を切って、要塞に引き篭もってるみたいですよ、唐沢さん。
中には「唐沢が言っていることは聞かない」と明言した人までいた。
誰だよ、明言したのってw
まあ、小さな嘘も積み上げれば、強固な城壁になると思っているのでしょうね。
で、これから先が大笑い(ホントダヨ)。
無名の読者ならともかくとして、著名な作家とか評論家とか名前のある人で今回の件に言及した人も、一切コンタクトしてこないし、そもそも私のサイトも見ない。
ええと、どこから突っ込めばいいのでせうかw
今回の件で著名な作家とか名前のある人で今回の件に言及した人というのも寡聞にして知らないのですが。今回の件で言及した作家といったら、わたしが知る限りわたし一人です(春風亭柳昇かよ)。
唐沢氏がなんでこんな書き方をしたのかは容易に推察出来ます。
即ち、事件の内容をよく知らない読者が「唐沢氏は無責任なネットイナゴの被害を蒙り、そのイナゴの中には大江健三郎とか村上春樹のような著名な作家も混じっていた」という勘違いをしてくれるように、ってことなんでしょうね。藤岡真みたいな無名作家しか相手にしてくれなかったとは、絶対に知られたくない。
で、そもそも「一切コンタクトしてこないし、そもそも私のサイトも見ない」って、メアドが分からんからコンタクト出来ないし(メアドを知っていた山本弘氏にはすぐコンタクトしました)、サイトも見ないって、あんたのサイトには「なかの人スペシャルバージョン」かなんかがあって、誰が見に来たか一目瞭然なのかね。
よくもまあ。
で、予想通りの結論。
真偽を確かめようともせず、叩く側の文面をそのまま引っ張ってきて、それを見た人がまた別の記事を書く、というように拡大再生産をしている。それだけなんですよね。
あーああ。
と呆れているだけではなんにもならない。
今回はアクションを起こすことにしました。結果がどのような形になるかは今のところ不明ですが、なにかの兆しが見えましたら、ここに書くことになると思います。乞うご期待。とくに唐沢俊一クン!
・
トントントントンガリガリガリガリトントントントン
凄まじい小説。それが偽らざる感想だ。トントンもガリガリも、いい加減にしろやという思いで読み進めるうち、この妙なリズムに取り込まれていく自分が分かる。
戦争に負け、価値観がひっくり返り――と、書けばそれは陳腐も陳腐な世界だが、滴る汗、糞便の悪臭、腐乱死体、カルモチン。それが言葉ではなく、擬似の五感に直接伝わってくる。
もちろん、エアコンも水洗トイレもない、廃墟の東京で発生した連続女性殺人事件。ある年齢以上の日本人(それも僅かになってはいるが)には、DNAのように刷り込まれている忌まわしい“小平事件”だ。
その事件を追う警視庁刑事、三波。そして、その同僚と部下、上司の間に発生する凄まじい葛藤。虚実取り混ぜた事実が積み上がるときに、こちらが全く予期していなかった事実が明らかになってくる。
読み始め、「なんじゃいこりゃ、ジェイムズ・エルロイの劣化コピーじゃないか」と思いながら、正月気分で読んでいた親爺は驚き、正座したいくらいだったが通風でそれもならず。
ここから、ネタバレです。 ↓
このカルモチン中毒者の手記には、実は恐ろしい真実が隠されていたのだ。プロローグで、殺人現場に到着した憲兵を三波はこう描写する(玉音放送直前のことだ)。「二人の憲兵は、藤田とわたしによく似ている。年上の方は四十代後半、もう一人は三十代後半……」二人は武藤大尉と片山伍長だった。そして、物語が進行するにつれ、憲兵が身分を隠して警官に成りすましていて、それを進駐軍が摘発するという一つのテーマが顕在化してくる。小平は三波を「兵隊さん」と呼び、上司は三波を「伍長」と呼ぶ。最後の最後に明らかにされる驚愕の真実を隠し通すためには、このカルモチン中毒文体は必然的なものだったのだ。トリックのためのトリックではないトリック。これは凄まじい“本格ミステリ”、しかも精緻な。
ここまで ↑
J・エルロイとは全く違った立ち位置から描く「暗黒の世界」、次作以降も大いに期待出来ます。
『TOKYO YEAR ZERO』 デイヴィッド・ピース 酒井武志 文芸春秋 2007
・
本年もよろしくお願いします。
ということで、実は年明けと同時に、某有名ミステリ作家から、以下のようなコメントを頂戴しました。転載します。
わたしがmixiの日記で、唐沢俊一の盗作事件を総括するにあたって、「マイミク限定の日記でこんなこと書くのは本当に自己満足でしかないし、なかには不愉快に思っている方もいらっしゃるだろう」と書いたことに対するコメントです。
いいえ、自己満足などとご謙遜される必要はなく、意義のある社会的振る舞いだと思いますよ。
ふつうはわかっていても、わざわざ憎まれたり敵視されたりするのがイヤで、めんどうで、自分に影響がないかぎり黙視してしまいます。私も含めてですが。
誰かがかわって発言してくれるなら、それでいいやという横着さもあるでしょうね。
なかなか、その「誰か」にはなりたがらない中で、立派なことだと思います。遠くからの応援だけで申し訳ありませんが、正直な気持ちです。
「遠くからの応援だけで」と書かれているが、これがどれほど私を勇気付けてくれたか分からない。面と向かってはなにも言われなくても、「粘着の痛い爺だ」と思われてるのだろうなあ、こんなことしていても「尻馬に乗って騒いでるだけだ」としか思われてないのかなあ、いささか落ち込みかけていたとき、あなたの言葉は百人力です。
ご本人が非常に冷静で謙虚な方だけに、言葉の重みはずんと応えました。
そうだよなあ「一千万人とて吾ゆかん」の想いがないなら、最初からしゃしゃり出てくるべきではないのだ。一時とは言え迷ったことが恥ずかしい。
今年もやりますよ。
・
やらないで、いいことをしちまいましたね。万引き小僧を土下座させて、まあ、反省するなら今回は勘弁してやるか、なんて思っていたら、帰り際に一言「ばーか」。
さて、どんな目にあわせてやろうか。そう思ったのはわたしだけではないようで、有志の方々が、関連サイトを続々立ち上げてくれました。是非ともご覧下さい。おかげで、唐沢さん、過去の悪行まで暴かれております。
トンデモない一行知識の世界
ガセとパクリと朝ブドー
唐沢俊一 まとめwiki
それから、唐沢さんから散々パクられて、それでも黙々と「雑学」blogを充実させてこられた「知泉」さんがついにこの件について発言しています。この方は結果的に只で唐沢さんの飯の種を供給してきた方ですから、抑制の効いた文章にも迫力があります。
雑学大作戦・知泉
そして、今回の最大の被害者である「漫棚通信」氏。知的財産権を侵害され、名誉まで毀損されました。今回の唐沢さんの発言に対する激しい怒りが伝わってきます。
漫棚通信 これは盗作とちゃうんかいっ・喧嘩上等篇
良識ある皆様は、唐沢さんの著作など読んでいる知人を見つけたら、真実を話してブクオフに叩き売るように忠告するとか、なにも知らぬお子様が、TVで唐沢さんを見てしまったりしたら、この禿隠しのおっさんは、とてもいけない人なんだよと教えてやったりしてください。
さらに、これには知っている人もかなりいるので、甚だ書きにくいことではありますが、唐沢さんのマイミク500人の皆様、これはとても恥ずかしいことだと思います。知的財産権を侵害し、妄言を弄してほっかむりする人間が「お友達」でいいのですか?
・
当然ながらこの本は買っていません。立ち読みで得た情報で書いているからいい加減なところや、間違ったところがあるかも知れません。でも、故意に捏造したり、他人の書いた文章を無断引用したりはしていません。
盗作問題に関しては、きっちりけじめをつけるから乞うご期待と大見得を切っていたのが、ようやく活字になって世に出たわけであります。
内容は、予想通り。
悪意はなく過失で無断引用してしまった。引用先からその点を指摘されるや、速攻で謝罪し、法律的な解決を求めたのに、相手は自分のblogに経緯を発表したりして、逆に自分が被害者になりそうな状況だった。名誉毀損を指摘したら、今度は恫喝だとblogに書かれた。法律的な解決を求める態度とは思えず、交渉決裂を余儀なくされた。
言い尽くされたことですが、この期に及んでなお、盗作は認めず、ネットで地雷を踏んだ自分が被害者だと主張するようです。嘘も100回つけば真実になるとでも思っていらっしゃるよう。
さて、唐沢さんは鬼畜ぶっているけれど、実は大変小心な方だということが、文章の端々に見うけられることは、色んな方が指摘しています。
例えば(ウラモノ日記からの引用)
本書の一部がサイト『漫棚通信』の内容と酷似している、という指摘がサイト運営者の方からなされました。
悪意または盗用という意はまったくありませんが、山川惣治『サンナイン』のストーリィ紹介に関し、当サイトの紹介を大いに参考にさせていただいたことは事実ですし、ある作品のストーリィを紹介するという性格上、参考にさせていただいたサイトとの記述の非常な類似のあることも事実です。
お分かりですか? ここで唐沢さんはとてもおかしなことを書いています。それは後々まで無断引用という言訳をしていったのとは矛盾したことです。つまり―
ある作品のストーリィを紹介するという性格上、参考にさせていただいたサイトとの記述の非常な類似のあることも事実です。
ねえ(笑)。
引用したのは事実だが、その旨を書き添えるのを忘れてしまった。悪意または盗用という意はまったくありません。
そう主張しているはずなのに、上記の二つ目の引用文は「同じ話の要約なんだから、似ているのは当たり前」という開き直りなのです。
唐沢さんは無断引用と言う言訳が通用しなかったときのことを考えて、こうした開き直り風の苦しい言訳を考えていたのでしょうが、小心の余り、それまでも同時に提示してしまったのですね。
こうした例は他にもあります。
漫棚通信氏から「本当に原典を読んで書いているのか?」という疑問を投げかけられたときに、偶然にも漫棚通信で要約された部分だけコピーを所持しているという、なんか自分で首を絞めているような言訳をして、原典の何ページにはこんなことが描かれていますとか、詳細に説明した後、またこんなことを書いているのです。
しかしながら、古書市場においても入手の極めて 困難な本書籍を手元に置き参照できるという、ある意味の贅沢を、どれくらいの人間が享受できることかに関しては、ご理解をたまわりたくお願い申し上げる次 第です。
情けなくなりますね。
つまり、コピーを持っているという悲しい嘘がばれたときのために用意した開き直りの言訳、「だって、その本滅多に手に入らない本なんだから、持ってなくたってとやかく言いわれる筋合いはないし、そんなもの持ってるような贅沢な人間の文章、コピペしたっていいじゃんか」ってことを、またもや小心の余り同時に書いてしまう。論理の崩壊、自己矛盾、それらを敢えて犯しても保身に走る姿は気の毒なほどですね。
いや、なんでこんな言い尽くされたことをまた書いたかと申しますと、本書でも唐沢さんは同じことをしているのです。つまり、法的な解決を相手が放棄したから交渉が決裂したと、一見正当な言訳をした後で―
これを認めると、今後、単純な引用ミスをおかしただけの同業者が、これを前例として相手に過大な謝罪を要求されるという事態を招きかねない。と書いてあるのですよ。つまり自分のことを差し置いても同罪の人間に累が及ばないようにしたという、まあ、なんともお為ごかし&蛇の足の言訳。だったら、交渉を決裂させた真の意図はそっちじゃないかと突っ込まれますよね、普通。でも小心な唐沢さんは最初の言訳が論破されたときの用意をちゃんとしているし、それをまた同時に提示して、ああ、やっぱり小心な人なんだなあ、と納得させてくれるのです。
と、何もかも予想通りの展開なのでした。
が。
非常に驚いたことがあります。それは唐沢さんがネットをあんまりチェックしていなかったと語っていることです。
ではかつて社会派くんがゆく! のなかで、
っていうか、もはや一部では唐沢俊一は明日にでも牢屋に入れられてしかるべき人物ってことになってるんだな。あれには笑った。
という文章、てっきりネットを見ての言葉だと思ったら違うよう。ではなにをご覧になったのかしら、活字媒体、電波媒体こんな文言(唐沢は大悪人)を見聞きした覚えもないし、と思ったところでふと気がついた。電波そのものなのですね。天からの声を聞いて、一人笑っていらっしゃたと。傍で見ていたら、さぞ素敵な光景だったでしょう。
さらに、あの有名な
自室に戻り、ホッピー。メールチェックなど。寄席用語でいうところのオヤカッテヤガル奴の書き込み、先日より顕著。苦笑しつつ、サテどうしてくれようと思う。
という発言も、2ちゃんとかblogとか小生のサイトとかをご覧になってのことだと思っていましたが、これも電波だったのですね。勃起した陰茎が、そこかしこに見えて、「さて、どいつから咥えてやろうか」「どいつに掘ってもらおうか」と妄想にふけっていたわけで、これは傍からも余り見たくない光景であります。
因みに。
『噂の真相』98年4月号の「1行情報」(1行知識じゃないよ)から
「おたく評論家として注目の唐沢俊一が実はバイセクシャルとの情報」
そして、唐沢さんの結論は「ネットで散々叩かれたけど、実際にはなにも変化はなく仕事も以前どおり変わりない」ということでございました。
なんか、みんなでちゃんと謝れよ! って叱っていた小僧が、しばらく黙り込んでいたからどうしたのかと思ったら、雲古もらしてたみたいな印象なんですけどねえ。
「う、こいつ、雲古もらしてる!」
「わ! 汚ったねえ!」
ということで無事解放されました、ですか。
唐沢俊一様、これからも脱糞で異臭を振りまき、尻の辺りを膨らましたまま生きていってください。
あ、ネットは見ていないのか。
※ネット版「社会派くんがゆく!」の過去ログから、唐沢さんの正確な発言を引用してくださったチャネラーの方に感謝します。文言を入れ替えました。
・
至福の時間
一昨日、『坂東三津五郎の食い放題』(光文社 2007)を購入して貪るように読んだ。この文庫〈食〉の名著シリーズは、以前紹介した吉田健一の『酒肴酒』とか色川武大『喰いたい放題』とか荻昌弘『男のだいどこ』とか、絶版になっていた、文字通り食の名著を復刊してくれる、まことに感心な叢書なのだが、この本は初読。三津五郎は自ら包丁を振るい出汁をとり、プロの料理人に対抗意識を燃やしながら食を追及するという、なんとも勇ましい態度で臨んでいるから、そこらへんの酢豆腐なんか束になったところで敵うはずがない。さらに著者は文字通り「食に命を懸けた」人間で、カバー見返しの略歴には「'75年1月京都南座に出演中に急死。享年68」しか書かれていないが、これは割烹料理屋で出されたふぐの肝(猛毒テトラドキシンを含有するとらふぐの肝だった)を、同席した者皆怯えて手を出さないのに「これを食わずして食通と言えるか」と他人の分まで総て平らげ中毒死したのだ。
おっと、『酒のほそ道』の話だった。これまた食と酒を語って間然するところがない、週刊漫画ゴラクの連載マンガだが、単行本も巻を重ね早や22巻。ストーリーマンガならともかく、毎週、数ページという週刊誌連載なのだから大したものだ。しかも毎回質を落とさずにその度にときめかしてくれるのだから、著者ラズウェル・細木は只者ではないな。
毎度、〈酔々取材レポート〉と題して書き下されるエッセイ、今回は、「蕎麦前一献 江戸蕎麦探訪記」で東京の蕎麦屋をレポートする。そこで紹介されるのが「かんだやぶそば」「並木藪蕎麦」「室町砂場」「巴町砂場」だから、嬉しくなる。え? 誰だって知ってる、当たり前の店じゃないかって? だから嬉しいんですよ。そのことについて、著者はさりげなく、こう書いている。
ひと口に蕎麦屋といっても、日本蕎麦のみならずラーメンからスパゲティーまで提供する大衆食堂のような店から、ガイドブックに必ず登場する老舗、あるいは雨後の筍のように開店と閉店を繰り返すニューウェーブ道楽蕎麦屋までさまざまである。
ニューウェーブ道楽蕎麦屋とは言いえて妙、昨今、こんなものをあり難がる田舎者が目に余るとき、一刀のもとに切り捨てる態度は爽快である。
老舗の蕎麦屋は酒や酒肴も用意しているが、あくまで蕎麦を食わせる食事どころとしての本分をわきまえている。その蕎麦屋としての矜持にまたグッとくるのだ。
パチパチパチ。まさにこの言葉こそ、呑兵衛の矜持でありまする。
本書にはさらに「居酒屋のコハダ」とか「風干し」とか「魚の漬け物」とか、何気ない居酒屋の肴をテーマに、にやりとさせる物語を綴っていくのである。
そして、これも毎度書いていることだが、著者ラズウェル・細木は決して薀蓄は傾けず(これは吉田健一と共通するところ)、決して偉そうにならず(小生が一番見習いたいところだな)、淡々と素敵な時間を提供してくれるのである。
でね。
宗達くん、あれにはドキっとしましたぜ。七夕の短冊の
「兼八(かねはち)・松露うすにごり・伊佐美(いさみ)GET」
かすみGET。そうですか、GETですか。
『酒のほそ道 22』 ラズゥエル・細木 日本文芸社 2007