裁判員制度のPRにと大分地裁が各社の若い記者を裁判員に仕立てて模擬裁判を開いたことがあった。テレビで見て、正直ゾッとしましたね。宮沢賢治が死の床で書いた『眼にて言ふ』という詩の一節を思い出した。
<あなたは医学会のお帰りか何かは判(わか)りませんが 黒いフロックコートを召して こんなに本気にいろいろ手あてもしていただければ これで死んでもまづは文句もありません>
私が被告人だったとして、人生経験豊かで情理も備えたプロの裁判官から本気にいろいろ審理も尽くしていただければ
「死刑!」
と言われてもまずは文句もありませんが、年端もいかぬ素人に短時間で裁かれた日には、とても成仏できますまいよ。
裁判員に選ばれたらと心配する人は多いが、自身や家族が裁判員に裁かれる場面も想像してはどうだろう。冤罪(えんざい)は他人事ではない。毎日映画コンクール大賞を受賞した「それでもボクはやってない」は痴漢の濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた男性の実話、官僚的な裁判制度への告発でもある。だから市民の目をというのが裁判員制度の趣旨。それはわかるが今や世間は厳罰を求める大合唱、弁護人の声がどれだけ届くやら。
福岡市の飲酒運転死亡事故の判決は、危険運転致死傷罪が見送られてすこぶる悪評だ。しかし有罪の立証は検察の役目。近代法の大原則なのに、検察批判はあまり聞かない。「疑わしきは被告人の利益に」とは「検察の立証が疑わしい時は」との意味だが「灰色の被告を野に放て」と誤解している人の何と多いこと。
大半の国民が、刑法や刑事訴訟法のイロハも教えられていない。鹿児島の選挙違反無罪事件は冤罪ではない、と法相までが口走る。愛国心教育とやらで、高校での日本史を必須にする県が現れたが、民主主義社会に必要な市民の素養を教えるのが先ではないですか。<大分支局長・藤井和人>
毎日新聞 2008年2月18日