2008年02月18日
4部門を受賞
日本アカデミー賞はきまりましたが、本家のアカデミー賞はこれからです。脚本家組合のストもおわったようですし、式典はなされることでしょう。
≫アカデミー賞4部門を受賞≪
という見出しの記事がありました。「4部門を受賞」にひっかかりをおぼえました。「部門」を受賞したのではなく、「部門賞」を受賞したのですから。
どのように書けばいいのでしょうか。
「アカデミー賞4部門賞を受賞」
重複しているように感じることでしょう。
「アカデミー4部門賞を受賞」
みじかい間に"賞" が2回あらわれています。うるさく感じるかたもいらっしゃるかもしれません。
「アカデミー4部門で受賞」
シンプルですし、重複文字もありません。しかし、なんのアカデミーかわかりません。「ポリス アカデミー」という映画があったように「学校」もアカデミーですし、学会や学士院もアカデミーです。映画芸術科学アカデミーの賞ですから
「映画芸術科学アカデミー4部門で受賞」
とすることもできます。ただ、これでは少々うるさく感じます。
もとが「Academy Awards」ですので「アカデミー賞」としたいところです。
そうなると、文字が2回あらわれますが
「アカデミー賞4部門で受賞」
に おちつくでしょう。
2008年02月17日
ロゴ テロップ
「ロゴ (logo)」とは意匠の凝らされた文字のことです。普通の文字のことをロゴとはいいません。
「テロップ (telop)」というのは映画の時代にはありませんでした。テレビの画面上に文字をうつしだす装置のことです。テロップは 「television opaque projector」を略したコトバで、写真や文字などをテレビカメラを介さずに送出する光学的な映写装置です。その装置から送出される文字列もテロップとよばれるようになりました。おおかたのばあい、文字はスーパーインポーズ(superimpose)され、画像に かさねられます。初期のテロップに使う文字シートは銀塩感光材料を使っていました。現像の工程が必要だったのですが、いまはデジタル処理されています。
≫「8時またぎ」と称して、大きな回転ボードを使い、拡大ロゴで、拡大テロップの隠された部分の文字のシールをバリバリと剥(は)がしながら次から次へと伝えて行く。≪
ネット ニュース サイトにあった記述です。拡大ロゴをつかって文字のシールをはがし、隠された拡大テロップをおもてにだす──という意味のように解釈してしまう文です。テレビを見ておれば、文字の書かれた部分を隠している白紙または"?"などの文字の書かれたシールをはがしているのだとわかりますが、見ていなければ "???" 状態になります。
このニュース サイトでは、記事についての校閲がなされては いないのでしょうかね。そうだとすると、個人サイトとかわらないではないですか。
この文中に「ロゴ」と「テロップ」というコトバが使用せられていますが、どちらも単に"文字"とすればいいところです。「ロゴ」も「テロップ」も その意味範囲が変化しているのでしょうか。
2008年02月16日
うるう{閏}年 うるう月 うるう日 うるう秒
ことしは"うるう どし{閏年}"です。2月は29日まであります。その日のことを"うるう び{閏日}"といいます。
旧暦の時代には、うるう年にはうるう月といって1カ月まるまるが加えられていました。それを何月にするかは天体の運行を観測して わりだしていました。それが7月であれば、その年には7月が2回あったのです。これはまぎらわしいことです。うるう月の7月を"うるう7月"とよんでいました。
現行暦でのうるう年は4年に1回、西暦年が4でわりきれる年に設定されています。ただし、100でわりきれる年は平年です。さらに、400でわりきれる年は うるう年としているのです。2000年の騒ぎが思いだされます。
つぎの400でわりきれる年は2400年ですので、プログラマーはこの部分を無視してプログラミングしていることでしょう。もしかしたら、100でわりきれる、という部分も無視しているかもしれません。92年間もおなじプログラムを使用するはずがないからです。
十数年も使用されるわけはなかろうと思って組みあげたプログラムが、一部の修正をくりかえしながら使用されつづけ、うるう年判定部分の修正をしないままであったために2000年の騒ぎになったところもあったことでしょう。
付加されるのが月であれば"うるう月"、日であれば"うるう日"、秒のときは"うるう秒"とよばれます。ところが、"うるう月"や"うるう日"のある年は、1年まるまるを付加するのではありませんが、"うるう年"とよばれます。まぎらわしいことです。"うるう秒"が付加される年はなんとよばれるのでしょうかね。これをも"うるう年"とよぶと、ややこしいことになりますね。
2008年02月15日
犠牲者
毒物・劇物のいれられた冷凍ギョーザ事件、死者がでなくてよかったとおもいます。
≫犠牲者こそ出なかったものの、今回の事件は日本の食卓に極めて深刻な影を落としており、中国側に厳しい態度で臨まなければならないことはいうまでもありません。≪
まえにも「犠牲者 ≠ 被害者 (2006-08-30)」で書きましたが、「犠牲(者)」とは「いけにえ」です、「ひとばしら{人柱}です、ひとのためになる なにかのために いのちをささげたひとのことです。"犠牲者=事件による死者" という「犠牲者」のつかいかたは悲惨さをオブラートにつつんでしまっているようで、"あきらめろ"といっているようで、きれいごとにしてしまっているようで、加害者に目をむけさせないようにしているようで、こういう書きかたをみるたびに腹立たしいおもいをしております。
≫彼らがこのような痛ましい事故の犠牲に合わないことをオレは切に願う。≪
≫首相はまた、「(米中枢)同時多発テロでは24人の日本人が犠牲になった。このことを忘れてはいけない」と述べた。≪
英語では、9.11 で亡くなったかたがたを "victim" と書いています。"sacrifice" とは しておりません。行方不明の女医が9.11の victim であると認定されて今月はじめに宣告された件については、日本の新聞は「犠牲(者)」と報道していました。(victim: 被害者。sacrifice: 犠牲者。なお、辞書によっては victim を、例文のように、犠牲者としているものもあります。victim の もとの victima は犠牲者ですが、victim の つかわれかたをみると、被害者、被災者とする方がいいようです。野球の"犠牲フライ"は sacrifice です)
「被害者」のことを「犠牲者」というひとたちは、被害にあったひとのことを、危機管理の不備をあきらかにして その管理をきちんとしたものに改めさせ ほかのひとびとを守るための犠牲になったひと、と とらえているのでしょうか。
「彼女の死をムダジニとすることなく、とおとい犠牲といえるように、行動してもらいたいものだ、政府には。」という文は、被害(者)と犠牲(者)との使いわけをしています。
2008年02月14日
冤罪 {エンザイ}
鳩山邦夫法務大臣の「エンザイ{冤罪}」発言が話題になっているようです。鹿児島でおこった選挙違反事件で無罪の判決がくだされた件について鳩山大臣が「冤罪とよぶべきではない」と発言したことにつっかかっているのです。
活字メディア・放送メディアでは、これを「失言」であるとか、その後の説明を「釈明」であるととらえていました。記事中では失言とは書いていないのに見出しで失言としたものもありました。
「冤獄」という語があります。「獄」は「牢獄」です。無実の罪で投獄されたことをいう語です。「冤囚」は無実の罪でとらえられた人のことです。「冤死」は無実の罪で殺されることです。
無理におさえこまれること→うらみ。「怨」にちかい意味を有するのが「冤」です。
選挙違反をしていないのに裁判で有罪をいいわたされていたら「冤罪」といえますが、一審で無罪をいいわたされています。罪はなかったのです。したがって、「冤罪」とはいえません。疑いをかけられた段階です。有罪宣告後に無罪が証明されたものが「冤罪」といえるものです。
捜査過程にどういう問題があって誤捜査・違法取り調べ・誤逮捕にいたったものなのか、起訴にいたったものなのか。こちらを検証することこそ大切なことでしょう。
逮捕されれば有罪と判断する傾向がメディアには存するため、無罪とされたので「冤罪」といいたいのでしょうか。
少々ことばの話題から はずれてしまいました。
活字メディア・放送メディアでは、これを「失言」であるとか、その後の説明を「釈明」であるととらえていました。記事中では失言とは書いていないのに見出しで失言としたものもありました。
「冤獄」という語があります。「獄」は「牢獄」です。無実の罪で投獄されたことをいう語です。「冤囚」は無実の罪でとらえられた人のことです。「冤死」は無実の罪で殺されることです。
無理におさえこまれること→うらみ。「怨」にちかい意味を有するのが「冤」です。
選挙違反をしていないのに裁判で有罪をいいわたされていたら「冤罪」といえますが、一審で無罪をいいわたされています。罪はなかったのです。したがって、「冤罪」とはいえません。疑いをかけられた段階です。有罪宣告後に無罪が証明されたものが「冤罪」といえるものです。
捜査過程にどういう問題があって誤捜査・違法取り調べ・誤逮捕にいたったものなのか、起訴にいたったものなのか。こちらを検証することこそ大切なことでしょう。
逮捕されれば有罪と判断する傾向がメディアには存するため、無罪とされたので「冤罪」といいたいのでしょうか。
少々ことばの話題から はずれてしまいました。
2008年02月13日
◯◯(して)みたいと思います
≫はいってみたい と おもいます≪
≫きいてみたい と おもいます≪
≫たべてみたい と おもいます≪
「◯◯(して)みたい と おもいます」という いいかたが まかり'とおっています。
"はいれるものなら はいりたい と おもっている"
"きけるものなら ききたい と おもっている"
"たべても いい の なら たべたい と おもっている"
という 「願望」をあらわしているのではありません。それぞれ、発言直後に "してみたいと思っている" といっていた その行動にでるのです。それなら、どうして「(し)ます」と意思を表明しないのでしょうか。
"はいってみます" "はいります"
"きいてみます" "おききします" "おききしてみましょう"
"たべてみます"
でいいのですがね。
おおかたのばあい ていねいな表現は長いので、長くする方がいいと思っているのでしょうか。
≫おわびしたい と おもいます≪
と聞くと、おもうだけなの? と つっこみたくなります。
「おわびいたします。すみませんでした」と謝罪会見で発言していたひともいましたよ。ごく少数ですがね。