2005-06-09
■[社会]〈わたし〉のメタ社会学
昨日図書館で借りてきた本。もう一冊は
この中に収録(?)されている『〈わたし〉のメタ社会学』は何度読んでも面白い。
印象に残った所から
作家の倉橋由美子はかって「なぜ書くのですか?」と問いを受けて、「注文があるからです」と答えてひんしゅくを買ったことがある。「文学」の書き手にはなにかしから内面的・実存的な動機がなくてはならない、という命題に彼女が応えなかったからなのだが、もちろん、この端倪すべからざる書き手は、このあまりにも通俗的な問いに逆説的に世俗的な答えを与えることで、たとえ読者がいなくても書き続けるという貧乏くさい「文学」信仰を嗤ったのである。
あはは。
そうでなくても、もののプロに対して、「そんな陳腐な質問してくれるな」というインタビュアーは世の中に履いて捨てるほどいるのではないか。例えば、中田英寿のマスコミ嫌いとか、すごくわかる気がする。どうして、そこまでおまいらの喜ぶ(望む)ような答えをこっちが応えてやんなきゃいけないのか、そこまでこっちはサービスしなきゃいけないのか、うるさいな、黙って現場(サッカー)をみてろよ、などと言いたくなるのではないか。
あんまり相手が陳腐だと「逆説」で答えたくなることもあるよねぇ。
また、それを真に受けて騒ぎ立てる人々もいるから面倒だよねぇ。
■[言葉]「文学」と「社会科学」との間
『<わたし>のメタ社会学』の中で、この箇所も何度読み返しても印象深い部分だ。
こんな笑い話がある。
「羨ましいですな、あなたのお仕事は。
原稿用紙さえあればどこでも書けるなんて。」
「あなたこそ。文献さえあれば原稿が書けるなんて。」
学者は「想像力=創造力」という無形の重宝な財産の恣意性を作家に対して指摘したのだが、作家のほうは「学者」の「想像力=創造力」の欠如を指摘してたのである。この笑い話は笑い話以上の真実を社会科学について伝えている。
おっもしろ〜い!
■[社会]EMYさんへの返事
今日、コメントいただいたEMYさんの書かれている内容がいろいろこちらに響くものがありますので記事にて返信させていただきます。
EMYさんより
>「ケータイ本」は、たしかにケータイ馬鹿批判の書ではあるけれど、グラフや数字があるから科学的客観的な論とは限らないというのの見本みたいな本だと思うなあ。読まなくて正解と思います。
試しに、もう一度どこか読みたくなるところはないか本を開いてみました。
以下「ケータイを持ったサル」より
なになに
専業主婦のジレンマ
20世紀後半に広まったフェミニズムの主張に従えば、専業主婦というのは不本意に家庭に縛り付けられた存在、ということになっている。要するに夫のエゴによって、家のなかにいることを強制されているとみなされている。だが本当にそう言い切れるのだろうか。
ブブーーッ!
いつの話やねん。せめて○0年代フェミニズムとか絞って書かなあきまへんがな。
今やアシヤレーヌやシロガネーゼ的専業主婦に憧れている女性はきっとわんさといるはず・・・
こんなに「セレブ」たらいふ言葉が流行るご時勢なんだもん・・・。
「夫は妻が専業主婦であることを望んでいるか」
40〜50代の専業主婦の夫100人に対する質問への回答を示すとされて、
望んでいる(%の表示なし)
望んでいない(望んでいるより2.2倍くらい背の高い棒。同じく%表示はなし)
↑子供だましか...?
というグラフが・・・・
もう一度EMYさんコメントより抜粋
>グラフや数字があるから科学的客観的な論とは限らないというのの見本みたいな本
ほんとですね・・・(震え笑い・・・)
だいたいこの夫100人っていつ(の時代に)聞いたものかも書かれてないし、
4〜50代の専業主婦の夫つったって、リストラ寸前の夫100人に聞くのと
役職付き安泰サラリーマン100人に聞くのとでも(つまり尋ねた層を明かさないと)
この時代、答えにえらい違いが出てくるハズだと思うけど・・・
専業主婦の中でもそれだけ「女女格差」がある多様な時代であることを認識してもらわにゃ〜〜
ふたたびEMYさんより
>私はプリペイド携帯を使い始めましたが、人と外で待ち合わせをするときにしか使わないのでカード度数が減りません。でも、これがないと方向音痴でうっかり者の私は人に会い損ねたり、飯を食いっぱぐれたりするので。日常生活では「携帯しない」のがモットー。
そうですか。
EMYさんも私と同じ系(?)で基本的にケイタイに寄りかかろうとしないようにされているのですね。
私も今回の記事で周囲の方に誤解されたくなかったのですが
ケイタイを持っている方々を全員バカにしているわけでは決してありませんし、
ケイタイに呑まれずに上手に使いこなすことが今の時代、一番理想だと思っています。
ふたたびEMYさんより
この間、私が通っているヨーガ教室(私にとっても週に一度の神聖な時間です)に見学に来た人が、教室の後ろで声高にしゃべるわ、着メロを大音響でならすわで、非常に気分害したのでした。
もう、ここを一番太字大文字でアップしたいくらい(してるけど)、この気持ちは非っ常〜〜っに、よくわかります!(たぶん私のケイタイ嫌いは殆どここに起因するのであろう)私は自分が持たないので気づかなかったのですが、マナーモードでも振動音がなるんですよね。授業前にマナーモードにしてくださいと今までは伝えて来たのですが、今月は授業中着信音ナシ強化月間にしました(心の中で設定)。今週から授業の冒頭では「とにかくレッスン中にケイタイの音が鳴らないようにしてください。電源を切るか、もしくは持ってこないでくださいね。この90分は自分の心身に向き合うための集中した氣の場を作っています。それが場内でケイタイの音がなるたびに、講師のテンションは下がりますので。(笑)*1」と伝えております。そうするとみなさん急いでマイバックめがけて電源を切りに行ってくださります。
EMYさんと同じように感じられていたうちの生徒さんが授業の後で
「先生、注意してくださって良かったです。瞑想とか神聖な場であの音が鳴るの、雰囲気ぶちこわしでイヤだったんです。」と共感も得られよかったです。
>ナンシー関さんは急な病死だったのでは?まあ、その過酷なスケジュールが自ら招いたと言えなくはないでしょうが。
やや、そうでしたか。そういえば朝日新聞に急死と書いてあったのを今思い出したような・・・。早速昨日の記事を訂正しました。
「嗤う日本のナショナリズム」に遺筆が掲載されていたんですね。
それを読んでてっきり自殺と誤解していました。
ご指摘をありがとうございます。
■[社会]少子化対策ぅぅ〜〜?(着地点はコレかよ!)
つい流れで、そのまま「ケータイを持ったサル」を読み進めてしまった。
(といっても終章しか読んでないが)
人が悪く書いていると読みたくなるなんて私もええ性格である。
さっきの箇所、もうちょっとツッコんでおこう。
「奥さん」であることは、とうの昔に特権でもなんでもなくなってしまっている。
具体的に年収が頭打ちになり、それどころかむしろ減少傾向にある今日、専業であり続けることは家計の逼迫に直接響くようになってしまった。しかし、それに気づいていないのは夫よりもむしろ、妻自身の方かのしれないという気がしてならない。
(「ケータイを持ったサル」より)
どうでもいいけど、要するに男はあつかましい。
自分の稼ぎで食える内(時代)は「家のことをちゃんとしろよ、外で稼ぐなんてみっともない。やるなら子どもや家のことをおろそかにするなよ」と夫が外に働きに出たがる妻に言う時代が確かにあったように思う。で、今になって「むしろ、世の『奥さん』方は鈍いんじゃないですか?家庭や夫の経済が逼迫しているのに専業主婦でありつづけようとしているなんて」と著者が言っているように聞こえる。
要するに夫が妻に専業主婦を望もうが望まいが、基本的に妻の気持ちはさておき、夫(男)の都合が優先されている、つまり夫の現状に都合のいい状態を常に妻に求める「男のエゴに他ならない姿勢」が根本的に男側にあることに、著者は気づかねばならないだろう。斉藤美奈子ねえさんがその場に居合わせたらきっと「そこ!F・C(フェミ・コード)ひっかかってます!」と斬られたことでせう。
それから私が知る限りですが、地方でも30代後半から40代母親(主婦)はたいてい、8〜9割方、正社員でなくとも子育てが一段落したら、社会復帰したがりますけど(殆どが就労する)。
家計というよりも、みんな子育て中に社会との接点に飢え、資格などとったりして、再就職しているように見えます。つまりある種のステップアップであり、自己実現ですよね。
で、最後にこの本はどういうところに着地するのか見届けてみましたら・・・
「少子化傾向をとめる手だて」という小見出しが付いた項で終わっている・・・・。
めんどくさいから、かなりはしょって最後に「この著書の最後の三行」だけを抜粋紹介。
これが最終章の締めの文である。
今のように、幼い子どもが出会うことがないままに育ってくる者に、突然に子を持てと言っても、藪から棒に等しい。中学校・高校のカリキュラムをはじめ、社会活動としての保育活動への参加を奨励することが大事だろう。
・・・・・。
はぁ・・・?
これケイタイを持つ者へのなんらかの批判と啓蒙の書だったのではないのですか?
(少なくともそれを期待し彷彿させるタイトルだったんですが・・・)
百万歩譲って「この本は本当は少子化対策の本だった」として、
この程度の提案(少子化対策案)って・・・
なんだか高校生の子が、もしくは家政科の短大生が明日提出で急いで仕上げた
「私が考える少子化対策レポート」みたいに思えるんですけれど・・・。
脱力である。
ふたたびEMYさんのコメント再生
>読まなくて正解と思います。
ほ・・・ほんほひそうらね、EMYひゃん。(ほんとにそうだね、EMYさん)
『差異の政治学』おもしろそうですね。私も久しぶりに上野節に浸ってみようかなあ。
「差異の政治学」実は最初から最後まできちんと読んだことがなかったので、今度こそ時間がかかっても(私の場合、かかりそうです 苦笑)きちんと読みたいと思っています。
正高信男を批評した後藤さんのテキストを紹介したくなりました。
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/cat3432035/index.html
もう、ご存知だったら御勘弁を…。
上野さんの倉橋由美子の段はオモロイですね。
僕もこの本、読みたくなりました。
早速読みに行ってきました。いやぁ凄いですね。参考になりました。
これほどまでの「アンチ正高信男派」がおられるとは。
実は、私、上の記事を書く時に一応は躊躇したのですよ(笑)
正高氏のプロフィールを見て、こんなに肩書きと権威のある方を(←えこまは権威主義者だったのか! 爆)ここまでコキおろしたらいかんかなぁと・・・・。でも後藤さんのテクストを読ませていただき、私くらいのレベルはかまわなないな...とちょっと安心しました(^^)
後藤さんが指摘されているように「〜で育った連中は」などの表現を見るにつけ、正高氏は確かに若者に対する差別意識を内在されているように感じますね。
それにしても「ヒット」したらしい「ケータイ〜サル本」は一般にはウケたが、学者さんたちの間では眉唾だったという事実も初めて知りました。それ以後、氏が新聞等でよくとりあげられるようになっていく過程を知りましたが、「少子化」に対して何か論ずる権威者(しかもヒット本を出した学者)なら、マスコミはなんでもいいのか、という気がしました。これも「少子化」に対するなんらかの「政治的な力」の存在を考えてしまいますね。
「差異の政治学」興味を持っていただけて嬉しいです。
みんなで読みませう♪(^。^)』
作家の疑問として少子化問題を政治家なり、ジャーナリストが取り上げながら、女の方に生めよ増やせよといった暗黙の了解で語っているが、そうではなくて、難民受け入れ、移民などを通して人口問題を解決する方途がある。そんな方向性をマスコミも持っていないと、作家は疑問を呈したらしい。欧米など先進国では少子化は移民問題とセットになっている。日本では“こどもを生みましょう”という掛け声だけですね、世界を見渡せばこどもは沢山いるのです。
少なくともそういう文脈で語る報道の仕方があってもいいのではないか、みんなそんな難民、移民に触れないで少子化問題を考えようとしている。おかしいではないか?というわけ
>難民受け入れ、移民などを通して人口問題を解決する方途がある。
>そんな方向性をマスコミも持っていない
>欧米など先進国では少子化は移民問題とセット
>日本では“こどもを生みましょう”という掛け声だけ
>世界を見渡せばこどもは沢山いる
>少なくともそういう文脈で語る報道の仕方があってもいいのではないか
>みんなそんな難民、移民に触れないで少子化問題を考えようとしている。
>おかしいではないか?
なるほど。勉強になりました。
確かに世界全体をみれば日本が移民、難民を受け入れれば日本の少子化でなくなるはずですし、国際的な人口問題にも貢献できますよね。
(問題は誰がその世話をするか、お金も労力も・・・ですが。自分の子も産みたくない育てたくない風潮ではかなり困難なような・・・)
マスコミがそういう切り口を持って報道しないのは、結局、政治的「力」と常に協働して?報道しているということでしょうか。その媒体にはどういうバックがついているかという・・・。
純血というナショナリズムを背負っている背景とか、
少子化問題を結局「年金制度破綻問題」としてしかとらえられていない証拠のようにも思えますね。
世界全体の資源と人口爆発問題から考えると、どの先進国も出産率が落ち少子化現象を抱えていることは歓迎すべきはずのことですし、地球をひとつの生命体としてとらえる時に地球(自然)が無意識に自然な自制作用を働かせているように思えます。
日本のマスコミや政治家がなぜ移民難民を受け入れる切り口を持たないのか・・・を考える時に・・・M・マルクハーンという方の「グーデンベルグの銀河系」という本には国と国の大戦争で大量殺戮が行われるようになったのたのが17世紀くらいで、それは地図が作られ出して、みんなが地図を持つようになった時期と重なると書かれているそうです。そうすると地図=境界線=支配欲=紛争・戦争となっていくわけですが・・・・、
あれ?ケータイ→少子化→世界の人口問題→地図の功罪
どうしてこんなに話がぶっとんでいったのでせう?(爆)
だれか収拾つけてください(汗)。
(まるなげか?>えこま)
先日は、「オニババ本」・ジェンダー関連でのリプライありがとうございました。
またお邪魔してます。
どうも、アンテナにピクピクくるものですから。。。
えこまさんWrote:
>(問題は誰がその世話をするか、お金も労力も・・・ですが。自分の子も産みたくない育てたくない風潮ではかなり困難なような・・・)
>
>マスコミがそういう切り口を持って報道しないのは、結局、政治的「力」と常に協働して?報道しているということでしょうか。その媒体にはどういうバックがついているかという・・・。
うーん、やはり、マスコミは少子化に限らず、女性問題でも、人口問題でも政府と結託して情報操作しているとしか思えません。
移民問題は、難しいですね。
移民先進国のヨーロッパでも、オランダでは国民投票でEU条例拒否の結果がでましたし。
日本の都会はともかく、わたしの生まれ育った南信州では
安い労働力としてか、中国人、フィリピン人、イラン人、ベトナム人が移民してきていますが、
父母の世代の人間達(田舎のおじいさん・おばあさん)の目から見ると、「異人さん(自分と同じ人間として認められない)」という認識しかできないようで。。。
アパートを借りるのも難しいらしく、例えばフィリピン人のみが入居(寝泊り)するための
長屋みたいなものが建築されてます。
日本民族というのは、もともと多くの人種が混血していますし、
アイヌや沖縄(琉球)など、単一民族(純血)という括りはできないはずですが。。。
単一民族であるという幻想は、近代に入ってから、(明治維新後(これはちょっと自信が無い?)に)構築され、教育によって国民に刷り込まれているようで。
あと、後進国から養子・養女をもらって育てるということも、
今の日本の「できれば子育ての責任を負いたくない」若い世代には無理だと思われ…
この国では女性が「自分では生まないの。だから、養子をもらうわ」と決意することさえ難しいし、
公言しても周りから理解され難い。
その背景には、「リプロダクティブ・ライツが女性に存する」という認識が浸透してないし、権利も保証されていないことがあるような気がします。
(ヨーロッパ諸国に比較して、日本では婚外子の割合が異常に少ないことも、
卵と鶏の関係でしょうが。)
人種差別問題も、養子(血のつながりを重視する)問題についても、リプロダクティブ・ライツ(出産・子育ての主権)についても、
日本では、基本的人権の意識が浸透し、本当の意味で保証されて初めて、やっとスタートできるのではないかと思うのです。
その認識がなく保証もされないまま、政府主導で移民や養子を推進し始めると、
ひどい混乱が怒ることも予想されます。
またまた、長文になり、脱線、失礼しました。
ありがとうございます。
>マスコミは少子化に限らず、女性問題でも、人口問題でも政府と結託して情報操作しているとしか思えません。
そうですね。情報操作の中でも、「世論誘導」というタチの悪いことを出来るのがマスコミではないでしょうか。このことからも、どんな政治家よりも、マスコミほど政治力を持った存在はないと思います。
>わたしの生まれ育った南信州では
安い労働力としてか、中国人、フィリピン人、イラン人、ベトナム人が移民してきていますが、
父母の世代の人間達(田舎のおじいさん・おばあさん)の目から見ると、「異人さん(自分と同じ人間として認められない)」という認識しかできないようで。。。
私の住む土地にもぺルーやブラジルから出稼ぎに来た方々が増えてます。そこで家族も持っておられます。それから農家の長男がフィリピン女性と結婚したり(これはごく稀ですが)。うち地元の話は知りませんが、日本の嫁不足の農村地帯へフィリピン女性が嫁いで、でも結局、嫁ぎ先で「跡継ぎ産みマシーン・女中機能」としてしか扱われていないことにフィリピン嫁が憤慨されている記事を読んだことがあります。
あぁ、日本って・・・・と思います。私は日本の原点は農村だと思うのですよ。だから農村がしっかりしてないと、いえ、ちゃんと意識が変わらないと日本は本当に変わらないと思います。都会でまともな人権感覚を培ったとしても盆暮れに帰省して根本(実家の両親・先祖)の影響を無意識に受けて街に還っていく・・・すると街の人も根本的に意識は何も変わらないまま・・・というサイクルが地下鉱脈にあるのでは?と思うのです。(苦笑)
前にこちらのコメント欄に「農村なんてひからびてしまえばいいと思ってます」という過激コメントをもらったことがありますが、その方も農村在住者で若者さんなんですよね。ふぅ・・・。農村は意識からして重い問題を背負ってます。。。
>この国では女性が「自分では生まないの。だから、養子をもらうわ」と決意することさえ難しいし、公言しても周りから理解され難い。
そう思います。マスコミも少子化に関わる世の男性論客のおっしゃることも、女性から見ると「この国の出産子育て適齢期女性(30代女性)」の心理状態や彼女らをとりまく「現実」を知らなさすぎでは?と思います。そういう「産む授乳する主体者」のいないところで男性同士によって少子化対策案が練られている陳腐さを感じます。
私は研究者じゃないですが、一週間に自分の「ヨガ教室」で120名の女性を相手にしてますから、「現状」を「現場」でよく知っているつもりです。
私の頃は女性は30代にさしかかる前にたいてい心理的に「結婚」に焦ってました。表に見せずとも。でも今の30代前半女性って、何に焦ってるかというと「資格をとること」「納得のいく職種(仕事)を見つけたがること」「自己実現(海外旅行、習い事、コンサート、交友関係)」に頭がいっぱいで、「自分が子どもを産むなら何歳までには『結婚』相手を見つけなくちゃ」という焦りがほとんど「微塵」も見えません。これは本当に今の風潮だと私など肌で毎日感じているんです。30代女性は大学を出て、やっと自分で稼いだお金で自由に自分の本当のしたいことをするために人生を謳歌し「自分探し」をはじめている、私から見た現代の独身30代女性とはそんな感です。
だから日本のおっさんたちが少子化案を言っても、そのメッセージは「産めない・おっさん」にしか届いてない皮肉な状況を感じます。
>「リプロダクティブ・ライツが女性に存する」という認識が浸透してないし、権利も保証されていないことがあるような気がします。
日本では(他の国の事情を調べてないので)とことんそう思いますね。
結局、男性は今だに女性の胎(はら)を自分たちが支配(コントロール)できると思っているのでしょう。(ご愁傷さま)
上野千鶴子氏(←たぶん)は少子化は女性のストライキだと表現したそうで、それに反して林真理子氏は「下品な考え方」と批判したそうですが・・・。
しかし、それを意識的ではなくても結局、そういう形(少子化)で、もしかしたら日本の現代女性は「リプロダクティブ・ライツ」という一女性としての権利を無言で勝ち取ってみせているのかもしれません。
>人種差別問題も、養子(血のつながりを重視する)問題についても、リプロダクティブ・ライツ(出産・子育ての主権)についても、
日本では、基本的人権の意識が浸透し、本当の意味で保証されて初めて、やっとスタートできるのではないかと思うのです。
大変、核心をついた真の少子化対策だと思います。
根本的な問題をおざなりにしたままでは、より一層「産みたくない女性」は増えていくでしょうね。制度より支援より何より変わらなければいけないのは、それぞれの「意識」だと思います。
余談ですが、ある先生方が「その国の女性の識字率が高まると必ず出産率は低下する」と言われました。一理あるかもしれませんが、読み書きの好きな浜QさんやEMYさんやえこまが2〜3人の子持ちであることからも、識字率と少子化がそれほど関係深いかどうかは、まだはっきり納得はできていません。
読みごたえのあるリプライをありがとうございました。
>上野千鶴子氏(←たぶん)は少子化は女性のストライキだと表現したそうで、それに反して林真理子氏は「下品な考え方」と批判したそうですが・・・。
>しかし、それを意識的ではなくても結局、そういう形(少子化)で、もしかしたら日本の現代女性は「リプロダクティブ・ライツ」という一女性としての権利を無言で勝ち取ってみせているのかもしれません。
以前、どこぞの偉い先生がこの状況を
「サイレント・リボリューション」という言葉で表現されてたのを読んだ気がします。
その当時(5年以上前)は「それが本当なら、日本人女性らしい、陰険・姑息な手段だなぁ」と感じましたが、
会社でも親戚でも、多数の40歳代の独身女性・子無し既婚女性に囲まれている今は、
この表現に納得がいってます。
まずは、お礼まで。
何度もお邪魔しますが、もう少し、書き込ませてください。
>日本の現代女性は「リプロダクティブ・ライツ」という一女性としての権利を無言で勝ち取ってみせているのかもしれません。
うん、うん、そうかもしれません。
大学2年生の時のゼミで、ボーヴォワールのインタビューを原書(仏文)購読しまして、
そのときに、「どうして彼女は、『産まないこと』をことさらに主張し、
カトリックの敬虔な上流階級のお育ちなのに『妊娠中絶を体験したこと』を公言し
気に入った才能のある若い女性を養女として迎えたのか」
おおいに疑問視してました。
当時の20歳そこそこのわたしにとっては、
『母となる』ことをことされに拒絶するような態度が腑に落ちなかったんです。
彼女のような才能ある女性には、母と哲学者・思想家としての役割を両立して見せて欲しかった…
四十路半ばとなった現在では、ボーヴォワール女史が「リプロダクティブ・ライツが女性に存すること」を主張していたんだと
得心がいってます。
わたし自身が、大卒後20数年間に、女性差別をいろいろと味わってきたことで
女史の思想の一端が理解できたようです。
現代のヨーロッパでは、イギリスの著名な女流作家のA.S.バイヤットのように、
妻・母と作家・女性解放の思想家として役割を見事に両立させている女性が登場していますね。
ボーヴォワールは、彼女の時代に必要な役割を果たしていたのだと。。。
またまた、脱線、失礼。
さて、少し迷っていたのですが、やはり私のありのままの感想をお伝えするのが誠意だと思い書かせていただきます。
もちろん、頂いたコメントはあくまで浜Qさんの気持ちであり、すべてを私に同意・同調を求めておられるわけではないものだと思っております。しかし、少し気になる箇所をコメントから引用させて頂きますが、
>彼女達を見ていると「サガンのように老いた少女(オニババ)」になっちゃうよ、って心から心配してます。
>「それが本当なら、日本人女性らしい、陰険・姑息な手段だなぁ」と感じましたが、会社でも親戚でも、多数の40歳代の独身女性・子無し既婚女性に囲まれている今は、この表現に納得がいってます。
>彼女のような才能ある女性には、母と哲学者・思想家としての役割を両立して見せて欲しかった…
>現代のヨーロッパでは、イギリスの著名な女流作家のA.S.バイヤットのように、妻・母と作家・女性解放の思想家として役割を見事に両立させている女性が登場していますね。
これらの文脈からくみ取れるのは浜Qさんの中では
「子どもを産み育てた女がえらくて(優性)で、どんなに仕事で活躍して才能を持っていても子どもを産み育てた経験のない女は欠けている(劣性である)」というメッセージを感じてしまいます。
(もし誤解をしていたらごめんなさい)
もちろん、それは浜Qさんの思いであり自由なのですが、私自身は他のさまざまな立場を持つ読者の方々の気持ちを心配し、察してしまいます。
私のブログの読者さんには同性愛の方もおられるようですし、それからゴールの見えない辛い不妊治療に耐えておられる方もおられます。
また、自分が幼少期に虐待などを受けて、とても子どもを産み育てるなど考えられない方もおられるかもしれませんし、人生の中で「仕事を全うしたい」ために産まない選択をされた方もおられるかもしれません。
また出産子育てが怖い方、子どもに興味のない方もおられることでしょう。そういう方々が周囲の外圧で無理に子どもを産み育てる事が母親本人にとっても、そういう母の元に産まれてくる当事者(子ども)にとっても「いいこと」だとは思えません。
そして、現代の女性は、昔と違って選択肢があります。そのこと自体は女性解放から見て喜ばしい事実だと思います。それぞれ「自分の責任で選択した人生を歩まれている」と察しております。そして「子なし」も「子持ち」も、お互いに「これでよかったのだろうか?別の人生があったのではないだろうか?」という気持ちが人生の折々にあって当たり前ではないでしょうか?人生とは迷いと気持ちの揺れの連続だと思います。
しかしそういった揺れ動く自分の人生を肯定するために、あるいは自分が選んだ生き方の中で「ある種の劣等感、欠落感」を補うために、別の人生を歩む方を否定するのは「間違い(やってはいけない)」ことだと私は感じるのです。
ですので、負け犬(未婚、あるいは既婚子なし)、勝ち犬(既婚子もち)などのような単純で不毛な二項対立をやめよう、お互いの生き方の多様性を認めようということを私は「負け犬論争」や「オニババ論争」を取り上げた時から再々申し上げてきたつもりなのです。
つまり女性の人生に周囲が評価するような「負け」も「勝ち」も本来ないはずですし(それは本人が決めることで)、私のブログでは出来るだけ「その無意味で非建設的な不毛な対立」や「子のない方が読みに来れないようなブログ」にだけはならないように努めてきたつもりです。
そして、もちろん、私自身、母でありますので、やはり世の中の「母親業」をやってらっしゃる全ての方に敬意をはらっております。
うまく伝わったかどうか分かりませんが、本当の意味での女性の解放を求めています。それにはまず女性自身の意識が解放&開放されないといけないと思います。女同志がいがみあわないこと、お互いを傷つけず認め合って互いが自分の選ばなかった生き方に関しては「それを選んだ相手に託せばいい」のではないかと思うのです。
上手く伝わったかどうか分かりませんが、これが現在の私の気持ちなのです。