2006-02-02 ブラック・プロパガンダ
WILL3月号に書いた「南京大虐殺は中国のブラック・プロパガンダ」という文章はかなり反響を呼んでいるようだ。すでに十数名の方から、寄付を含めて支援した、という電話をいただいている。ありがたいことであり、心強い限りである。
さて、27日の日記に対してご意見ご質問をいただき、30日に返事を書いたものの長くなりすぎたせいか、何かちょんぼをしたせいか、突如メッセージが消えてしまい、それを取り戻す知識などあるはずもなく、もう一度書き直すことになってしまった。すぐに書くつもりでいたのだが、こういうときに限って、夜の予定が連続して入り、今日まで書けずにきてしまった。お約束を破りすみませんでした。
しかし、同じことをもう一度書くというのはなんともつらいことですね。ばかばかしさを抑えられませんが、我慢してもう一度書きましょう。
まず、南京の地域が近郊を含む広域になっていたではないか、それを南京城内の世田谷区以下の地域に限定するのはけしからんという論についてです。この論は南京城内では、どうしても大虐殺など成り立たないということになったものだから、最近虐殺派が盛んに言い出していることです。その典型は現在虐殺派の代表的な学者!?である笠原十九司でしょう。中国の学者も参加した会でこの論を持ち出したところ、お気の毒にも中国の学者から、30万は城内のことだ!と一蹴されたことがありました。(恥をかかないように2度とこういうことは言わないほうがよいように思いますが、どうぞご自由にということです)。
そもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。ですから、そこで「実際」はどうだったのか、ということを押さえることがまずは何よりも大事なことです。そこでの状況を推測するのにもっとも有力な元情報のひとつが"Documents of the Nanking Safety Zone"なので、まずはこれを引用したのです。その重要元情報、しかも自分に有利だと錯覚した国民党政府が監修して出版したものなのに、虐殺目撃証言が、何とゼロ、であったということの意味がわからない人は、まともな頭脳とはいえないのではないでしょうか?目撃証言とは、「だれそれがどういっている」という「伝聞証言」ではなく、「本人」が「自分がだれそれが虐殺されているのを見た」といっているものを指します。本当はその氏名が特定されないといけません。あれだけ「こんな悪いことをした」「何を見た」という証言があふれているのに、何と1件も確実な目撃証言がないというのが実態なのです。
大体、城外に舞台を広げても余り意味のある結果にはなりません。New York Times などが伝えていますように、蒋介石は焼き払い(清野)作戦を徹底的に行った。1村丸ごと、いや鎮江のような都市も日本軍ではなく、中国軍によって焼き払われたのである。だからこそ近郊から、南京市内の安全国に多くの人々が避難してきたのです。住民がいないのに虐殺?!郊外でかなり人がいたのは、下関とその北の宝塔橋街であるが、そこで住民虐殺など起こっていないばかりか、宝塔橋街では駆逐艦比良艦長土井中佐が、住民に食料被服等を上海から調達して供給し、紅卍会支部長陳漢林視から感謝状をもらっているほどである。(その資料現存)何が虐殺だというのだ!いくら地域を広げても、お望みの虐殺などは増えはしないのである。
"Documents of the Nanking Safety Zone"に虐殺の目撃がゼロだからといって、虐殺がゼロだというのは「短絡的」ではないかという方がいますが、そんな短絡的な解釈は困ります。WILLに私は、こういうことから判断して、どんなに多く見ても殺人は2桁、といいました。また日記では何件か不祥事が起こったことは事実としても、中国軍やヨーロッパの軍が起こす不祥事の率と比べると軍規の厳正な日本軍の起こした不祥事のほうがかなり低い、といったのであって、ゼロなどとはいっていません。事実郡の記録に、そういう不祥事を厳罰に処しtことがでています。別にこれは他がやっているから、日本もやっていい、などということを言いたいのではありません。言ってみれば世界平均より低い不祥事を「南京大虐殺」などというホロコーストであるかのように言うのは、日本でも平時にもある確率で殺人が起こるが、それだけを捕らえて、アメリカの20分の1の殺人率の日本を殺人国家と言うようなものではないか、余り馬鹿なことは言うな、といういみでいったのです。
"Documents"の記録にのらないものもたくさんあるではないか、ということですがその通りです。しかし、この記録がどういう状況で作られていたかというと、当時南京の日本領事館の事務官で交際委員会の相手をしていた福田徳泰(戦後大臣も歴任した)によると、「シナ人が国際委員会にやってきて、こういうことがあった、とまくし立てると委員はそれをそのままタイプして日本への抗議書として提出していた」といっています。「おいおい確かめてからにしてくれ」といっても聞いてもらえなかったそうです。ある時アメリカ大使館の倉庫が襲われているという情報で、それでは確かめに行こうと国際委員会のメンバーと一緒にいってみると何も起こってはなかった、ということがあったそうです。中国人が言いたい放題をいえた、ということからすると、むしろ記録は水増しのほうが多かったと判断できます。たとえば、"Documents"には、放火が5件記録されています。日本軍は、占領した南京の治安維持が最大課題で、放火などする理由がありません。また、放火は重大な軍規違反で見つかれば厳罰に処せられます。たぶん潜伏中国兵の仕業でしょうが、ずうずうしくも日本軍の犯行であるかのごとく訴えられ記録されています。1事が万事です。全体的に見た時に
"Documents"に記録されていることは、実際に日本軍が冒した不祥事の上限をかなり上回っていると結論付けられます。私は、「目撃のある事件」だけを1つ1つ確かめてみたことがありますが、半分以上はどう見てもでたらめでした。詳しくは、別の機会に。
日本軍が何が何でも悪の固まりなければならない、と思い込んでいる気の毒な「真相箱被害者」(その見本は大江健三郎です)は、あらゆる資料を日本(軍)悪魔という前提で読みますので、超現実離れしたウソを本気で信じてしまいます。日本軍の軍規が世界最高だった!?(馬鹿な!)と思う人は、とりあえず「1937南京攻略線の真実」(小学館文庫)でもお読みになったらいかがでしょうか?何も、南京虐殺(当時そんなことは誰も思っていなかった)の言い訳のためにかかれたわけではない、当時の参戦者たちの当時の手記を集めたものですので、「実際」には日本軍はどうであったのかを知る良い情報源となるでしょう。
bluefox014 2006/02/02 23:42 レスありがとうございます。データ消去で書き直し御苦労様です。
ところで確認ですが、茂木さんは現在も自由主義史観研究会の会員で、かつ南京事件研究会の会員でいらっしゃいますよね。
bluefox014 2006/02/03 03:28 それからこれは煙さんの出した論点ですが、
>(1月27日エントリ)世田谷区ほどの広さの南京に約20万人の市民が日本占領時に残されていた。そのほとんど大部分(99%?)は唐生智防衛司令官の命令で「安全区」に集められていたのである。
>(2月2日エントリ)郊外でかなり人がいたのは、下関とその北の宝塔橋街であるが
「ほとんど大部分(99%?)は安全区」という発言と、「かなり人がいたのは下関とその北の宝塔橋街」という発言は両立するのですか。99%が安全区ということは、「下関とその北の宝塔橋街」には約2000人(=1%)以下しか居なかった、という認識でしょうか。
bluefox014 2006/02/03 03:36 それからこれは重要な論点ですが、「かなり人がいたのは下関とその北の宝塔橋街」ということは、茂木さんは「安全区以外は無人地帯」説には立っていない、ということでよろしいですね。
さらに重要な論点ですが、安全区以外無人説でないということは、「安全区以外で殺害がほとんど行われなかった」という説に茂木さんは立っておられる、ということですね。
では、「かなり人がいた」と茂木さんが言われる「下関」で「住民虐殺など起こっていない」と断定される根拠は何でしょうか。
ぜひ、その根拠をご教示お願いします。
kemu-ri 2006/02/03 14:01 >>>あの狭い安全国20万の市民すなわち40万の目が光っていたにもかかわらず、目撃がたった1件!これが実態である
>>仮に「安全区の記録」の目撃事例が0〜1件という説が正しくても、「20万の市民すなわち40万の目が光っていたにもかかわらず、目撃がたった1件!」と述べるのはあまりに「短絡的」な言説ではないでしょうか。
>”Documents of the Nanking Safety Zone”に虐殺の目撃がゼロだからといって、虐殺がゼロだというのは「短絡的」ではないかという方がいますが、そんな短絡的な解釈は困ります。
「短絡」という言葉を使ったのは私ですが、上のやりとりで明らかなように、私は茂木さんの「目撃が1件」という発言に対し「短絡的」と疑問を挟んだのです。「虐殺がゼロだ」というのは「短絡的」ではないか」などとは発言していません。
いろいろご苦労があったようですが、もう少しきちんと相手の文章を読んでくださることを希望します。
kemu-ri 2006/02/03 14:04 >そもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。
これは茂木さんのデマ言説であり、「茂木弘道氏のブラックプロパガンダ(その1)」と断定させていただきます。詳しくは拙ブログを参照下さい。
bluefox014 2006/02/03 21:03 >南京法廷
確かに茂木さんの「デマ」というしかないでしょう。
補足すると、以下の事例も茂木弘道さんの「捏造」ではないでしょうか。
>しかし、この記録がどういう状況で作られていたかというと、当時南京の日本領事館の事務官で交際委員会の相手をしていた福田徳泰(戦後大臣も歴任した)によると、「シナ人が国際委員会にやってきて、こういうことがあった、とまくし立てると委員はそれをそのままタイプして日本への抗議書として提出していた」といっています。「おいおい確かめてからにしてくれ」といっても聞いてもらえなかったそうです。
問題は『「提出していた」といっています』の部分です。
では、毎日新聞社「一億人の昭和史 日本の戦史 日中戦争1」261頁所収、福田正泰氏の発言を引用しましょう。
「当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。」
福田氏は、フィッチが「タイプしている」のを目撃していますが、そのタイプした書面を「提出していた」とは述べていません。福田氏の発言はこの他4冊の雑誌・書籍にて確認されていますが、いずれにも「提出した」とは書かれていません。
だいいち、ワープロやPC普及前から、欧米のビジネスシーンでは書記や秘書がメモや議事録やヒアリングの際にもタイプライターを使っていると思うのですが、南京安全区国際委ではメモは手書きで、タイプライターは提出書類専用だったと茂木さんは主張されるのでしょうか?
ところで、茂木さんが翻訳に携わった「南京安全地帯の記録」の「日本兵の不法行為の実例」の冒頭には、たとえば以下のような記述があります。
「以下のものは私どもが綿密に調べる時間を持てた実例に過ぎず、私どもの担当者にはもっと多くの事例が報告されています。」
つまり受けた報告数>提出数、だと国際委は言明しているのです。
ヒアリングした内容をそのまま日本大使館に「提出」したという根拠は、福田氏の発言の中にも、「南京安全地帯の記録」にも見いだせません。「提出していた」は茂木さんの「創作」または「捏造」であり、これもまた「茂木弘道さんのブラック・プロパガンダ」の一例、という結論でよろしいでしょうか。
apesnotmonkeys 2006/02/04 02:27 南京事件に関心を持っている者ですが、
>そもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。
というのは(少なくとも商業出版物に寄稿されるような方の主張としては)初めて目にするものです。その根拠をご教示いただければ幸いです。
hmotegi 2006/02/04 09:49 日記にまとめてお答えします。しかし、何か細かいことを捕らえて、ブラックプロパンガンダ呼ばわりとは悪質ですね。そういう手口をブラックプロパガンダというのだということは申し上げておきましょう。
bluefox014 2006/02/05 12:46 この(2月2日付)エントリについて、もう2点ほどコメントさせていただきます。
茂木さんが「むしろ記録は水増しのほうが多かったと判断できます」と述べたもう一つの論拠、「放火」の件を見てみましょう。
>たとえば、”Documents”には、放火が5件記録されています。日本軍は、占領した南京の治安維持が最大課題で、放火などする理由がありません。また、放火は重大な軍規違反で見つかれば厳罰に処せられます。たぶん潜伏中国兵の仕業でしょうが、ずうずうしくも日本軍の犯行であるかのごとく訴えられ記録されています。
この茂木さんの説は、次の2つの説を前提としています。
・放火を行ったら厳罰に処されるから、日本軍兵士が放火するとは考え難い
・日本軍兵士には、放火を行う動機がない
では、大使館参事官日高信六郎氏の証言を見てみましょう。ちなみに日高氏は1937年12月17・18日、25・26日など4回にわたって南京に入っています。(ただし17・18日は16・17日の記憶違いの可能性あり)
「入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。」
「そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。」
(広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」311頁〜315頁)
…これを読む限り、「南京安全地帯の記録」所収の5件の放火が「中国兵の仕業」だと決め付けるのは安易にしか思えないのですが。
bluefox014 2006/02/05 13:45 同書は第六師団「転戦実話」のダイジェストですね。
さて、「1937南京攻略線の真実」の30頁に東中野氏はこう記していますね。1939年に師団長は町尻中将に代わっています。
「一つの資料として、町尻量基師団長が、昭和十五年(一九四〇)三月十日の陸軍記念日に、『転戦実話』の編集を命じたのであった」
実際にも町尻師団長は『転戦実話』で「序」を書いています。ということは、『転戦実話』が完成した暁に、町尻師団長が目を通さない、とはほぼ考えられません。師団長以外の上層部、例えば法務部長が読む可能性もありうる。さてそんなsituationで、個々の兵士は「ありのまま」を書けるでしょうか。不祥事をやらかした兵士が、 師団長が目を通し、その他上層部、例えば法務部長も読むかもしれない『転戦実話』 に「ありのまま」を書くでしょうか。
ところで、第六師団については、1938年に当時の稲葉師団長が岡村・第十一軍司令官にこう述べています。
「七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。」(「岡村寧次大将資料」(上) 290頁〜291頁)
「(中略)近く漢口に進入するに際し、南京で前科のある第六師団をして如何にして正々堂々と漢口に入城せしむるかを師、旅団長と相談するに在った。ところが、稲葉師団長と第一線を承る牛島旅団長(後の沖縄の軍司令官)は、既にこの事に関し成案を立てていた。両氏が言うには、『わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まないから、漢口市街に進入せしむるのは、師団中最も軍、風紀の正しい都城聯隊(宮崎県)のニ大隊に限り、他の全部は漢口北部を前進せしむる計画で、前衛の聯隊を逐次交代し、漢口全面に到達するときには必ず都城聯隊を前衛とするようにする』と。」(同312頁)
というわけで、1938年当時の第六師団長・稲葉四郎中将や歩兵第三十六旅団長・牛島満少将は「わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まない」と認識していたようですね。こういう証言を無視して、どうして「転戦実話」を『「実際」には日本軍はどうであったのか知る良い情報源となるでしょう』と述べることができるのか、ちょっと理解に苦しみます。