ここから本文エリア

現在位置:asahi.com>関西>救急存亡> 記事

(5)「苦闘」 理念実現 まだ手探り


 突然の指示に耳を疑った。「墨田、江戸川、江東3区の救急車を全部引き受けてくれ」。石原慎太郎・東京都知事の発案で始まった「東京ER(救急室)」構想。その第1号として、救命救急センターを併設する都立墨東病院(墨田区)に白羽の矢が立った。

写真心肺停止患者に対応した後、直ちに次の患者の治療にあたる医師ら=京都市の洛和会音羽病院で

 適切な治療ができず患者が命を落とすことがないよう、軽症・重症を診る「救急診療科」と、生命の危機に対応するセンターが一体となって全患者を引き受ける。センター部長の浜辺祐一(51)は当時、戸惑いながらも「住民が安心できる救急医療をつくる好機」と感じたのを覚えている。

    ■

 01年11月、ERがオープンすると患者が殺到。待合室はごった返し、苦情が増えた。混乱解消のため、浜辺はセンターの救急医を4人増やし、ERのコーディネーター役とした。当直は各診療科の医師が交代であたるが、現場に救急医は欠かせない。複合的な病気の診療、患者の苦情対応、急患を敬遠しがちな各科の医師との調整……。

 3区すべての救急対応は不可能だったが、救急搬送はER開設前から3千件増えて年9千件。救急外来には5万人近くが訪れ、この年末年始も4時間待ちだった。

 耐え切れない医師は次々に去った。退職で空いた穴が埋まらない診療科もある。浜辺もひと月に6回の当直をこなす。診療所で対応できる患者も押し寄せ、重症者を断ることも多い。「すべての患者を引き受ける」という当初の理念とは逆に、地域の救急病院や診療所との役割分担が必要と思う。

    ■

 「救急患者を断るな」。この原則を徹底している病院がある。

 年5千件の救急搬送を受け入れる洛和会音羽病院(京都市山科区)。救命センターではないが、重篤患者から軽症者まで対応し、この2年で断った搬送は2件しかない。経営も黒字だ。

 院長の松村理司(ただし)(59)は30年前、勤め先の病院で「救急患者は上手に断れ」と指示された。「救急を受けると院内がドタバタするんや」。納得がいかず、飛び出した。

 沖縄や米国の病院で修業。そこで学んだのは、あらゆる症状を的確に診断し、治療する総合的医療の重要性だった。

 04年に院長に就くと、大学の医局に何度も断られながら、少しずつ救急医を増やした。各科の医師の当直を月1〜2回に減らし、当直明けの医師を帰宅させることで、それぞれの科が専門分野に力を注げる環境を整えた。総合診療科も拡充して救急医を支え、負担を和らげた。

 それでも現状を憂う。「日本には幅広い診療ができる医師が少なすぎる。将来を担う救急医を育てる教育が現場でなされているだろうか」

    ■

 今月2日、大阪市内のホテルに老若の医師が顔をそろえた。日本の救命救急の先駆けとなった大阪大医学部特殊救急部の同窓会。67年の発足時、初代教授に就任した阪大名誉教授の杉本侃(つよし)(75)が現役組に語りかけた。

 「君たちの重要性は理解される。その時まで何とか生き延びてくれ」

 交通事故が社会問題化し、杉本らは手探り状態で救急部を立ち上げた。多忙な状況は今と変わらない。ただ、「当時は希望があり、世間の称賛があった」と振り返る。危機的な救急医療を立て直す必要性に国民は必ず気づく、と信じている。

 初対面の医師が患者の生命を預かる。そんな救急医の誇りが、この国で失われかけている。命を救う側と救われる側。ともに歩む線上に、処方箋(せん)がある。

(敬称略)=おわり

 《「救急崩壊」の対策》 厚生労働省は昨年12月、「救急医療の今後のあり方に関する検討会」を設け、救命救急センターや一般の救急病院のあり方について議論を始めた。若い医師に敬遠されない労働環境の改善も課題となる。08年度の診療報酬改定では、リスクの高い妊婦や急患を受ける病院の報酬を約150億円、開業医の夜間休日診療などを約250億円引き上げる方針。政府予算案には、搬送先の病院探しを調整する医師を置く事業に7億円が計上された。

PR情報

このページのトップに戻る