2008年2月15日 (金)

MAINSTREAMⅠ lesson5

メインストリームⅠ lesson5

Is E-mail the Greatest Invention?  Eメールは最大の発明か?─

最近、メールが非常によく使われるようになった。メールは仕事や学校、大学の大多数で通信ネットワークの重要な部分になった。友達や家族と、さらには見知らぬ人とさえコミュニケーションを取るためにメールを利用する個人も多い。ネットのチャットサイトで他の人と出会うこともできる。そしてメールを使うことで互いにやりとりを続けるのである。デートの相手を見つけ、恋をし、結婚するためにメールを利用する人さえいる。世界中の人々とコミュニケーションを取るためにメールを使うことが出来る。メールが考え出される前は、手軽に世界規模のコミュニケーションを取るのは夢物語だった。要するに、メールには素晴らしい色々な利用法があり、世界の人々をとりこにしてきたのである。

メールは電話やグーテンベルグの印刷機以来の大発明だという人もいるが、私に言わせてもらえばメールは過大評価されているように思う。なぜみんなはメールがそんなにすごいと思うのだろうか?

たいていの人は「あした一緒にランチしよう」とか「週末はどうだった?」というような“複雑”なメッセージを送るためにメールを使う。指を使って話すのを楽しむのである。同じ町、同じ職場、そして同じ学校にいる人にさえメッセージを書く。おかしくないだろうか?みんなこんなことを書くのにとても忙しそうなのだ。

「やあ、元気?先週末湖に行った?もう行かなきゃ。じゃね。ジル。」

来る日も来る日も、行ったり来たり、このようなメッセージをやり取りしている。「もし私とコミュニケーションを取りたいなら、電話するか会いに来るように。あなたの声を聞くか顔を見るほうがいい。」私はそう言う。

メールを使えば相手はいつでもメッセージを読めるのだからその人はその場にいなくてもいい、ということを指摘するメールファンもいる。なるほどそうかもしれないが、留守電も同じことをしないだろうか?友達の声を聞くのとメールの文字を読むのとではどっちが素敵だろうか?私は変だろうか?私はパソコンのモニタのメッセージを読むより人間の声を聞くほうが好きだ。もし手紙を読まなければならないとしたら、タイプした手紙より素敵な手書きの手紙のほうがいい。もし他人の声を聞きたくないとか、お互いに面と向かって話したくないというのなら、私たちは何かを失いかけているとは思わないだろうか?

メールのファンはメールは速いということも言う。私はそうは思わない。速い?何と比べて?メールは速くない。速くタイプできる人は1分あたり6070語をタイプできるが、人間は1分あたり平均200語を話すので、話すほうがずっと速いことは明らかである。メールファンはパソコンを起動させ、メールソフトを開き、タイプし、スペルチェックをし、それから同じ町にいる友達にメッセージを送る。その間、私はすでに友達の留守電に34つの伝言を残すか、あるいは実際に友達に話しかけている。メールファンはまだタイプしているが、私はもうのんびり雑誌を読んだり朝食を取ったりしている。

もし同じメッセージを34人の人々に送る必要があるなら、電話よりメールのほうが効率的で安くつく。もし南アフリカに住む人とコミュニケーションを取る必要があるなら、たぶん電話よりメールのほうがいい。遠くに住む人と定期的にコミュニケーションを取る必要があるなら、メールはいい考えである。

また障害を持つ人々もメールと現代技術からたくさんの恩恵を受けている。電話は耳の聞こえない人には役に立たないが、彼らにとってメールは偉大なコミュニケーション道具である。驚くべきことに、メールは目の見えない人にとっても役に立つ。音声変換ソフトを使えばメールを聞くことができるが、それは受け取ったメールを声に出して読むものである。さらに音声認識ソフトを使えば、メッセージをタイプする必要すらない。マイクに向かって話しさえすればよく、そうすればそのソフトが音声を文章に変換してくれる。なんて便利なのだろう。

メールにもたしかにいくぶん価値があるが、基本的に、人々はモニタの前で過ごしていると人間らしくなくなっていくと思う。だから私と連絡を取りたいならメールを送らないで欲しい。その代わり電話して欲しい。あともう一つ。ファックスもどうかやめて欲しい。ファックスも好きではない。/

2008年2月14日 (木)

MAINSTREAMⅠ Reading

メインストリームⅠ optional reading1

The Ghost in the Trilby Mansion  ─トリルビー邸の幽霊─

「グラントさんは家のことでずいぶん張り切ってるわ。」マックスのお母さんが言った。「申し込む前にもう1回見たがってるの。」

「あそこは幽霊が出るらしいってことは気にならないのかな?」ニーナが聞いた。

「ばかげてるわ。」運転しながらマックスのお母さんが言った。「幽霊が出るなんて誰が言ったの?」

「ロイ。」マックスが答えた。「彼はあそこに住んでるんだけど、幽霊がどうしても家を売ろうとしないんだってさ。」

マックスのお母さんは眉をひそめた。「当然、ロイは幽霊が出るって言うでしょうね。アーノルドさんが出て行ったあと、ロイとご両親が家の管理人になったでしょ。彼らはたいして家の管理もしていないのにただで住んでるんだから。家を出て行きたくないのよ。」

家の前に車を止めるとグラントさんがいた。神経質そうな男だった。「ロイの幽霊の話は何も言わないで。」マックスのお母さんが言った。

マックスとニーナはグラントさんと握手した。みんなが中に入ろうとしたちょうどそのとき、軽トラがキイキイいいながらやって来た。軽トラは止まったとき、前輪が庭のホースを踏んでいた。

ロイのお父さんのエイモス・ジョーダンさんが軽トラからぴょんと出てきた。「ははあ、もう一度下見に来たんですね。」彼がジョージ・グラントさんに言った。「家を修理できるようにたくさん稼げればいいですね。」彼は嫌な笑いを浮べて家に入っていった。

一行が一階の部屋をすべて見て回るのに15分かかった。部屋のほとんどは使われておらず、いたるところにクモの巣があった。

彼らが階段を上りきって廊下を進み始めたそのときだった。グラントさんが悲鳴を上げた。彼は薄暗い廊下の端に幽霊がいるのを見たのだ。それは手にしたろうそくの明かりを受けて光っていた。数秒後、ろうそくが消えると幽霊は姿を消し、ただの薄暗がりに戻った。

「悪いが幽霊屋敷は買えんよ。」ジョージ・グラントさんは震えていた。

「幽霊なんかいません。」マックスのお母さんが言った。「あれはジョーダン一家のうちの一人です。あなたを怖がらせようとしているんです。」

アモス・ジョーダンとその家族はメインホールにいた。「なるほど幽霊を見たわけですな。」アモスさんが笑った。「それを私だと思わないでくださいね。私は一階でおもちゃの電車をいじっていたんですから。」これは信じられそうだった。みんなが一階にいるときおもちゃの列車が汽笛を鳴らしているのを聞いていた。

ニーナがロイに幽霊のことを話し、この数分間、あなたはどこにいたのですかと聞いた。

「僕は庭で水をまいてたよ。見てくれば?植物がぬれてるから。」ロイは笑みを浮かべて言った。

ロイのお母さんのファニー・ジョーダンもアリバイがあった。「私はキッチンで夕食の支度をしていました。確かめてきてください。グラントさん、信じたくないのも分かりますが、この家は幽霊が出ます。」

マックスはニーナをそばに引っ張って耳元でささやいた。「彼らの一人がうそをついている。」

「分かるわ。」ニーナも同意した。「でも誰が?」

誰が幽霊だったのか?

あなたはこの事件を解決できますか?/

2008年2月 9日 (土)

MAINSTREAMⅠ lesson4

メインストリームⅠlesson4

Sadako -An International Symbol of Peace-  ─禎子の物語─

1945年、広島に原爆が落とされたとき、禎子は2歳だった。12歳になるまで彼女は健康的な女の子だった。事実、彼女はクラスで一番足が速かった。けれどもある日、校庭を走っている間にめまいがして地面に倒れた。19552月、禎子は白血病で病院に運ばれた。

一番の親友の千鶴子が入院中の禎子を見舞った。千鶴子が禎子に言った。「鶴を千羽折ったらきっと願いがかなうよ。」禎子は8月に折鶴に取り組み始めた。一羽折るたび、彼女はよくなるよう願った。秋になると病状が悪化したが、彼女は決してあきらめなかった。鶴を折り続け、病気と闘った。悲しいことに、願いはかなわなかった。19551025日、彼女は死んだ。

禎子の突然の死はクラスメートにとってショックだった。彼らは彼女をしのんで詩や作文を編んだ。その中の一人がこう書いている。

禎子を殺したのはだれ

悪魔

ピカドン

原爆がにくい

生きている限りにくい

禎子のような数多くの子供立ちが原爆で死んだ。そこで禎子の友達が禎子と彼らのために記念碑を建てる計画を始めた。日本中の多くの人々が計画に参加した。1958年、広島記念公園内で『原爆の子の像』の除幕式が行われた。原爆で死んだ子供たちの願いが台座に書かれている。

これはぼくらの叫びです

これは私たちの祈りです

世界に平和をきずくための

あるユダヤ人ジャーナリストが1955年に広島を訪れた。彼は、原爆が落とされてから10年たってもいまだに禎子のような大勢の子供たちが死にかけていると世界に伝えたかった。彼はドイツ語で禎子のついての本を書いた。また、オーストリア人の作家も彼女についての児童向けの本を書いた。この本は多くの子供たちを感動させた。彼らは1962年に、7千羽の折鶴を広島に送った。

1977年、カナダ人作家がアメリカで『禎子と千羽鶴』を出版した。核兵器の危険性に気付くにつれ、ますます多くの人々がこの物語を読み始めた。読んだあと、ある10歳の少年がニューメキシコのロスアラモスに平和記念碑を建てる計画を始めた。およそ100人の子供たちが少年に加わり、5万人以上の子供たちからお金を集めた。1991年、広島の記念碑と同じ願いをこめて記念碑の除幕式が行われた。

今では禎子の物語は34の言語で書かれている。それぞれの物語が戦争は悲惨だと伝える。

1990年代、祖国での戦争のため、若い難民がヨーロッパからオーストラリアに行った。その中には同じ教室で学ばなければならなかった者たちもいたが、敵同士なのでお互い決して近くに座ろうとしなかった。そのとき、先生が彼らに禎子の物語を読んで聞かせた。彼らは感動して平和の大切さを学んだ。彼らは友達になりたいと願った。彼らは一緒に鶴を折った。

現在、折鶴は希望と平和の世界的象徴となっている。禎子の像には世界中から数え切れないほどの折鶴が送られてくる。彼女の物語はさらに多くの言語で読まれるだろう。ますます多くの平和運動も始められるだろう。/

MAINSTREAMⅠ lesson3

メインストリームⅠlesson3

Moving Mountain  ─ムービングマウンテン─

19995月、野口健はエベレストの山頂で日の丸の旗を手にほほ笑んでいた。彼は七大陸のそれぞれの最高峰に登った最年少の人物として認められた。現在、野口はさらに大きな目標を着抱いている男として知られている。

野口の挑戦は、彼が日本人の父とエジプト人の母の子として生まれたときに始まった。父が外交官だったので、彼はアメリカ、サウジアラビア、エジプト、そして日本に住んだ。彼は日本人の混血だったので、しょっちゅういじめられた。彼が簡単に降参するので、あるとき、母が野口を殴った子供たちの一人に平手打ちを喰らわせた。「彼らの母親が僕の母と口論したときでも、母は決して謝らなかった。」野口は振り返る。「だから僕は決して引き下がってはいけないと悟った。」

野口はロンドンの高校生だったとき、他の生徒とけんかをした。彼は学校を停学になり、日本に戻った。そのとき、彼は冒険家の植村直己によって書かれた『青春を山に賭けて』を読み始めた。本を読んだあと、彼は学校の落ちこぼれから夢を持った若者に変わった。彼は自分の知る最も高い山である富士山に行った。ついに頂上にたどり着くと、彼は自分に『七大陸のそれぞれの最高峰に登ること』という一連の目標を課した。

「人は僕が何かすごいことをしたと言いますが。」野口は言う。「山から下りてくるときにはもうその山には興味がなくなっているのです。」彼は三度のエベレストの登山中に見たごみのことで頭がいっぱいだった。ヨーロッパ人の登山家が彼にかつてこう言った。「経済面から見れば日本は最高の国の一つかもしれないが、環境問題のこととなると最悪の国の一つだ。」実際、野口は山頂付近で、酸素ボンベ、こわれたテント、たくさんのごみ、日本語のひらがなやかたかなが書かれたインスタントラーメンの容器など、たくさんのごみを見てきた。

2000年、野口はチョモランマ清掃登山隊を組織し、エベレストから1.5トンのごみを集めた。翌年、もっとごみを集めるためさらに大きな登山隊を結成した。標高8000メートルで働かなければならなかったので、もちろん肉体的につらい仕事だった。それだけでなく、野口は支援してくれるスポンサーも見つけなければならなかった。

エベレストのあと、富士山を清掃する計画を立てた。富士山はそのときにはすでにごみで有名になっていた。「富士山は山頂に自動販売機がある世界で唯一の山だと信じられますか?」野口はたずねる。彼は『富士山から日本を変える』というスローガンを作り出した。

2002年、登山者がエベレスト山頂にたどり着くのを助けるネパールのシェルパを支援する基金を設立した。エベレスト周辺での行方不明者や死者の3分の1はシェルパだといわれる一方、彼らは生計を立てるために登山者を助け続ける。野口は山で行方不明になったシェルパの家族を支援するために基金を使う計画を立てた。彼は言う。「僕たちはシェルパたちに社会的責任を負わなければならない。人を捨てることはできない。自然を捨てることはできない。」/

2008年2月 7日 (木)

MAINSTREAMⅠ lesson2

メインストリームⅠ lesson2

A Mug Is Not a Cup ─マグはカップではない─

日本語には何千もの英単語が使われている。それらの多くが家周辺のものを表すのに使われているのは興味深い。たぶんあなたの家にもある和製英語の名前のついているものをいくつか見てみよう。

私のお気に入りの和製英語は“ヘルスメーター”である。数年前にこの語を初めて聞いたとき、診療所で見かけるようなある種のハイテク装置を想像した。何か病院にあるものだと考えたのである。それがただの体重計だと分かって驚いた。もちろん、体重は健康の重要な一部である。増えるにしろ減るにしろ、体重の急な変化は何かがおかしいというしるしだということもある。多くのハイテクな体重計は体脂肪率を測る機能がついている。もしかしたら、将来の体重計はもっと、血圧を測るようなこともするようになるだろう。そうなるとヘルスメーターというような響きになる。体重計がもっと何かするようになるまで、私は“体重計”と呼ぼう。

キッチンに移ろう。食器棚にマグカップがあるだろうか?もし答えが“はい”なら、もう一つ質問がある。それはマグだろうか、あるいはカップだろうか?カップは普通は小さくて受け皿がついている。ティーカップやコーヒーカップがいい例である。マグはより大きくて重たくて、普通は受け皿と一緒に出されることはない。両方とも飲むために使われるが、もしそれがマグならマグであるし、カップならカップである。両方ではありえない。(和製英語とは関係ないことが、cupboadpは発音しない。黙音である。カップボードではない。)

それでは“キッチンペーパー”はどうだろう?キッチンペーパーはあるだろうか?私の家のキッチンにはペーパーがあるが、それはたまたまキッチンにあるだたのペーパーだ。引き出しの中にある。買い物リストやそういったことに使う。英語での正しい語はペーパータオルである。ペーパータオルは、ペーパータオル一枚、ペーパータオル二枚というように数えることが可能である。私は時々ペーパータオルをナプキンとして使う。ペーパータオル買うとき、普通はロールになっている。ペーパータオルを1ロールか2ロールかってみるとよい。普通は2つまとめて買ったほうが安くつく。/

2008年2月 6日 (水)

MAINSTREAMⅠ lesson1

メインストリームⅠ lesson1

Different Meanings in Different Cultures

─さまざまな文化のさまざまな意味─

ジェスチャーはコミュニケーションに有用な手段である。たとえば、訪問者があなたに英語でどうやって最寄りの郵便局に行けばいいか聞くかもしれない。たとえあなたが英語で答えられなくても、指で正しい方向を指差すことが出来る。このように、ジェスチャーは役に立つ国際語でもありうる。

しかし、ジェスチャーは異なる人々に対しては異なることを意味しうることを覚えていなければならない。ジェスチャーは注意深く使わなければ、誤解を招きかねない。

日本では、ときどき顔の前で手を振ることがある。このジェスチャーについてはちょっとした話がある。

最初にカナダから日本に来たとき、私は日本語があまりうまくなかった。ある日、のどがとても痛むので、薬を買いに地元の薬局に行った。店内で薬を探し求めたが、もちろん、何も読めなかった。奥から老人が出てきたので、ほっとした。私は彼に、のどが本当に痛むのだと説明しようとして、のどに触りさえした。私は言った。「のどの痛みの薬はありますか?」彼は顔の前で手を振った。それが私を怒らせた。私はとうとう店から出てしまった。私は思った。「何で彼は立ち去れと告げたのだろうか?私が病気だと分からなかったのだろうか?」怒って家に帰ってお茶にはちみつを入れて飲んだ。

後になって、店主はおそらく「分かりません」というつもりだったと知った。けれども、アメリカやカナダでは、この種の手を振る行為は時としてとても失礼で危険なジェスチャーにもなる。それは「立ち去れ」とか「あなたと話したくない」を意味する。

あるジェスチャーはさまざまな文化でさまざまな意味を持つ。たとえば、頭を上下に振ってうなずいている人を見ると、あなたは、それはおそらく“はい”を意味していると考えるだろう。あなたが突然ブルガリアに来たと仮定してみよう。このジェスチャーがそこでは何を意味するか想像がつくだろうか?たいていは“いいえ”を意味するのである。なんとまぎらわしいことか!

他の国に行く前に、話される言葉と話されない言葉を学ぼうとすることはとても重要である。/

2008年2月 5日 (火)

PRO-VISIONⅠ READING

プロビジョンⅠ Reading

The Portrait  ─肖像画─

昔、ある所に父と息子がいた。親子はとても仲がよく、貴重な芸術作品をコレクションに加えて楽しんでいた。ピカソ、ゴッホ、モネ、その他多くの芸術家による非常に高価な作品が家の壁を飾っていた。父は一人息子が経験を積んだ美術品収集家になっていくのを満足して見つめていた。世界中の美術品収集家を相手にしているときの息子の眼力と商売気質を見て、父は誇らしく思いほほ笑んだ。

冬が近づいていた。国は戦争中で、息子は母国を守るため出て行った。ほんの数週間後、父は電報を受け取った。彼の最愛の息子が戦争のさなか行方不明になっていた。

もう二度と息子には会えないかもしれないと思いながら父は新しい知らせを待った。数日もしないうちに彼の不安は現実のものとなった。息子は仲間の兵士を医師のもとへ連れて行く間に死んだのだった。

ショックと孤独で苦しみ悲しむ父にクリスマスがやって来ようとしていた。冬は─彼と息子がとても楽しみにしていた季節は、もはや彼の家に喜びを運んできそうになかった。

クリスマスの朝、ドアにノックの音がして意気消沈した父は目を覚ました。ドアに向かうとき壁にかけられた芸術の傑作を見ても、息子がもう家には帰ってこないことを思い出すだけだった。

ドアを開けると手に大きな包みを持った兵士がいた。「私はあなたの息子さんの友人でした。彼が死んだときに救出されていた者です。少しお邪魔してよろしいでしょうか?あなたにお見せしたい物があります。」彼は父にそう自己紹介した。話しを始めると、兵士は、息子が父のは言うまでもなく自分の芸術への愛をいかに皆に語っていたかを話した。「私は芸術家です。」兵士が言った。「それであなたにこれをお渡ししたいのです。」

包みを開けると息子の肖像画が出来てきた。たいていの人はこれが天才の作品だとは絶対思わないだろうが、絵には息子の顔が細部にわたって描かれていた。父はいたく感動して兵士に礼を述べ、絵を暖炉の上にかけると約束した。数時間して兵士が立ち去ったあと、父は仕事に取りかかった。約束どおり、有名な芸術作品をわきに押しのけ肖像画を暖炉の上にかけた。そしてそれからいすに腰を落ち着け、受け取った贈り物をじっと見つめながらクリスマスを過ごした。

続く数日間、数週間で、たとえもう息子とは一緒ではないとしても息子の命は息子が会ってきた人々によって生き続けることを父は悟った。息子は撃たれる前に何十人もの負傷した兵士を救出したことを程なくして知ったのである。息子の勇敢な話が次々と耳に入ってきて、父は息子を誇りに思うようになり、もうそれほど悲しく思うことはなかった。息子の肖像画はすぐに父の一番大事な宝物になった。父は世界のほかのどんな絵よりもこの肖像画を愛した。父は近所の人々にそれが今までもらった中で最高の贈り物だと言った。

翌年の春、父は病気になりこの世を去った。美術品収集家は競売を待った。彼らは男の一人息子の話を知らなかった。父の遺言にしたがい、美術品はすべてクリスマスに競売にかけられることになっていた。父が最高の贈り物を受け取った日である。

まもなく競売の日がやってくると、世界中の美術品収集家が世界でもっとも見事な絵の数々を競り落とそうと集まった。

彼らの夢はこの日かなうことだろう。新しく絵を買ったあと、私のコレクションこそ最高だと多くの者が言うことだろう。

競りはどの美術館の目録にも載っていない絵から始まった。息子の肖像画だった。競売人は最初の入札価格を求めた。部屋はシーンとしていた。「では100ドルから参ります。誰か?」彼は聞いた。数分たった。誰も口をきかなかった。「あんな絵どうだっていいじゃないか。ただの息子の絵だろう。もういいから他の絵に行こうよ。」部屋の後ろの席で誰かが言った。

他の人々も同感だった。「いいえ、この絵を最初にお売りしなければならないので。」競売人が答えた。「さあ、誰が息子さんをお持ちになりますか?」とうとう父の友人が口を開いた。「その絵、10ドルでどうかね。それしか持っておらん。その子を知っておるので欲しいのだ。10ドルだ。」

「他に誰かいませんか?」競売人の声が飛んだ。

さらに沈黙が続いたあと、競売人が言った。「さあもうひとつ、もうひとつ、それ売った!」

競売人がハンマーでテーブルを打った。部屋に歓声があふれ、誰かが叫んだ。「やっとこれで次に行けるぞ!お宝を競り落とせる。」

競売人は参加者を見て競売はおしまいだと告げた。誰も信じられなかった。「終わったってどういうことだ?みんな老人の息子の絵を買いに来たんじゃないぞ。他の絵はどうした?ここには数百万ドルの絵がある。どういうことか説明してくれ!」

競売人は答えた。「簡単なことです。父親の遺言にしたがい、息子さんを持っていく人がすべて手に入れるのです。」/

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