―今までなにを報じてきたのか―
1945(昭和20)年8月の敗戦直後から、GHQ(占領軍総司令部)の手によって、 「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 が実行されたことはすでに記しました。効果は言われるほどではなかった、というのが私の見方でした。
ところが、GHQにとって代わったのかは知りませんが、日本軍の旧悪を告発し、断罪する人たちでてきたのです。最大の"功労者"は間違いなく朝日新聞社です。
悪いことを悪いと告発し、国民に反省をうながすことは一見、もっともな行為に見えます。しかし、告発した内容が事実ではない、虚偽であったならどうなるのでしょう。もっともな行為どころか、逆に告発した側に非があることになるでしょう。なにせ、いわれなき濡れ衣を着せたわけですから。
さらに、「被害者」の話だけで、「加害者」とされた人、つまり日本側から、裏づけ調査をまったくしないまま報道した、しかもその報道が当事者などから濡れ衣だと指摘されながら、無視しつづけたとしたらどうなるでしょう。この一連の行為は自国民への明らかな背信行為 であり、強く非難されなければなりません。また、このような報道に関係した人に、偽善の臭いを強く感じるのは私一人ではないでしょう。
朝日報道とは、「調査しないで書き」、「事実が異なるとの抗議に対して、無視しつづけてきた」 歴史ともいえるのです。
ごく一部の話をもって、つまり「例外」をもって、私が強弁していると疑う人は、「朝日報道」を検証する をお読みになったうえでご判断ください。
1971(昭和46)年8月、現地ルポ と称する「中国の旅」の連載をもって、朝日新聞社は日本軍断罪の一大キャンペーンをはじめました。連載の報告者は本多勝一記者(当時)でした。
この連載は後に単行本、文庫本になりましたが、連載とともに、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」 など、手持ちの活字媒体を総動員したキャンペーンこそ、日本人に濡れ衣を負わせた原点といってよいと思います。
これらを読んだ当時の日本人の反応を、山本七平は、「集団ヒステリー状態」と表現しています。いかに、強烈なインパクトであったかがよくわかります。
「大朝日」が報じたのですから、さぞ、十分な調査をしたうえでの報道と読者は思ったのでしょうが、とんでもない誤解でした。ただ、中国各地を訪れ、相手が用意した中国人のいうがままを活字にしたものでした。
現に、本多記者みずから、〈 レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれるから、「楽な取材」 だった 〉 と書いています。
このうえ、加害者とされる日本側の裏づけ調査をまったくしていなかったのですから、「中国の旅」記述がどのようなものか見当がつきそうなものです。なのに、人がよいというのか、日本軍を叩くことが正義とでも思ったのか、報道関係者、学者、文化人をはじめ、ほとんどの日本人は信じこんでしまったのです。
証拠を一つご覧に入れましょう。下の写真を見てどう思いますか。
説明によれば、これらの人骨は日本人が経営していた満州のある鉱山で、中国人労働者にろくな食事もあたえずに過酷な労働を強要し、病気やケガなどで使いものにならなくなると、生きながらも捨てた「ヒト捨て場」だったというのです。
その「ヒト捨て場」を「万人坑」(まんにんこう)と呼び、写真の鉱山には3つの万人坑があり、推定犠牲者は5万人。そのうちの一ヵ所(推定犠牲者1万7000人)を発掘したといい、中国はそこに展示館まで建ててしまいました。
これらは100%でっち上げ だと私が言ったら信じますか。おそらく、まさかと思うでしょう。
ですが、間違いなくでっち上げなのです。だから、日本の歴史教科書からいつのまにか記述がなくなったのです。
この鉱山の勤務経験者が朝日新聞社を訪れ、記述はとんでもない間違いだから撤回するように申し入れましたが、朝日は玄関払いも同然の対応をしたのです。
撫順炭鉱の場合も同じ経過をたどりました。こちらの方は犠牲者25万人〜30万人だというのです。事実無根との抗議に対して、本多勝一記者は”あれらは中国の代弁をしただけだから、抗議をするなら中国にやってくれ”と言ってのけたのです。
このことは信じられますか。ですが事実なのです。後に証拠をお目にかけましょう。
さらに問題なのは、報道関係者、学者たちの多くが他愛もなく信じたことでした。連載記事のすべてが歴史教科書に載るなど教育現場を直撃しました。また、この連載の後からのことです。われもわれもと報道人らが中国に出かけていっては、日本軍・民の残虐事件を競うように報じるようになったのは。
「中国の旅」連載とそれ以降の朝日新聞社は「最大のウイルス散布者」だったと同時に、日本軍叩きの先導役をつとめたのです。
「中国の旅」報道とほぼ時を同じくして、「天皇の軍隊」という題名のもう一つの連載が始まりました。今はありませんが「現代の眼」という月刊誌です。
熊沢京次郎という名で書かれていますが、本多勝一・朝日記者 と 長沼節夫・時事通信記者の共著です。連載後すぐに単行本となり、のちに本多、長沼の実名をもって朝日文庫に加えられました。この本も『中国の旅』と同じように、強い感染力を持ったウイルスです。
ほんの一部を読んだだけで、日本軍が軍規などと縁のない「ならず者集団」であったかがわかります。いや、「ならず者集団」ならまだましです。残忍な手口による殺人、女とみれば強姦のうえ殺害するなど、まさに鬼畜以下の存在です。しかも、戦地にいた将兵(将校と兵士)の口から、「これでもか、これでもか」と語られているのですから、少々おおげさかなと思う人はあっても、大朝日の花形記者の名を見て、おそらく信じたことでしょう。そして、これらが事実なら、日本軍はまさに鬼畜の存在、何をいわれようと仕方がないのかも知れません。
とにかく、例を一つ見てみましょう。榎本正代 という名の曹長の証言です。できるだけ、先入観を持たないようにお読みください。
伊藤誠少尉が率いる1個中隊約70人はとある山村に宿営する。1日目は部落から略奪してきた食料で何とか間に合わせたが、2日で食いつくした。手に入るものは畑の野菜ぐらい、ブタ・ロバ・ニワトリなどの動物性蛋白源がまったく見当たらない。そこで、「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」と伊藤中隊長はいうと宿舎を出ていった。そして、以下に引用する「人肉事件」となったというのです。
〈 ほどなく中隊長が戻ってきた。彼が連れてきたのが、年のころ、一七、八歳と見える中国人の娘だ。(中略)少尉が少女のうしろに回り、どんと榎本曹長の方に突き飛ばすのと、曹長の短剣が少女の胸を刺すのと、ほとんど同時だった。(中略)
二人は目配せをし合っただけで、無言のまま、たちまちにして少女を「料理」してしまった。最も短時間に「処理」できる部分として、二人は少女の太股の肉のみを切りとって、その場でスライスして油でいためてしまった。一個中隊分といっても、最前線にあっては七○人ほどだったのだが、人肉の分量は意外に多く、各人にふた切れは渡りそうに思えた。 〉
この話、おおむね事実と信じますか。それとも、信じられませんか。信じるにしても、信じないにしても、その理由を考えてみていただけませんか。
この残虐話を例にとり、「酒鬼薔薇聖斗」で有名になった「神戸児童殺傷事件」の原因が、われわれがこのような暴力に向き合わなかったことにあるとした論考を、毎日新聞に寄せた著名な精神医学者もいるのです。
この話は「朝日報道を検証する」 に取りあげましたのでご覧ください。
このような残忍な例があとからあとから出てくるのですから、話半分にしても日本軍のメチャクチャ振りにゲンナリさせられます。ですが、ご存知ない方が多いと思いますが、これらの話が事実とするには大きな問題が横たわっているのです。それは戦後、中国に戦犯として抑留された「中国抑留者」に関わる問題なのです。
『天皇の軍隊』の証言者はことごとく中国抑留者なのです。別項にまとめましたのでご覧ください。
「中国の旅」「天皇の軍隊」が連載されてから10年が経ちました。この10年の間、われもわれもと中国に出かけては、日本軍の残虐行為を聞き出して報じるのが流行のようになり、それらが積み重なって私たちの「歴史イメージ」を形づくっていきました。10年を経た頃には、この傾向に一段と磨きがかかり、一気に頂点に向って進んでいるかのような報道ぶりでした。
この10年の間にしかるべき「ワクチン」開発されていれば、報道にブレーキがかかったのは間違いないと思うのです。ですから私はこの10年を歴史認識にとって、致命的な「失われた十年」 だったと考えています。
このような背景のもとに、いわゆる「教科書誤報問題」が発生しました。高校用の歴史教科書の文部省検定で、教科書に「侵略」とあった記述を「進出」に書き換えさせたというものでした。
左の写真(1982年6月26日付、朝日新聞)は検定結果をつたえたもので、"教科書さらに「戦前」復権へ" "古代の天皇にも敬語" といった見出しが、朝日の「フラストレイション」をよく表しています。朝日は「検定」の存在自体に反対していました。もっとも、朝日だけではありません。ほとんどのメディアがこういった調子でした。
「道徳教育」と為政者が発言しようものなら、それっとばかりに戦前の修身復活を画策しているなどと叩いたものでした。道徳には公衆道徳も含まれているはずなのに、なんでも反対するものだと不思議に思ったことをよく憶えています。
「侵略⇒進出」問題に話をもどしますが、報道は明らかな誤報でこのような例はなかったのです。文部省も否定 していました。ところが、日本の報道を引き合いに出し、7月26日、中国の第1アジア局長が日本の中国公使に申し入れを行うと一気に報道が加熱します。「侵略⇒進出」が事実であったことを前提にしての大報道でした。そして、間違いを産経新聞が認め、読者に謝罪するまで騒ぎがつづきました。
問題なのは、たび重なる中国・韓国の強硬な抗議に、鈴木善幸内閣は膝を屈し、「・・教科書記述については、中国、韓国など近隣諸国の批判に十分耳を傾け、政府の責任において検定を是正する」との宮沢談話にもとづき、いわゆる「近隣諸国条項」 の規定が追加されたことでした。
これ以降、ほとんどの記述はフリーパスとなり、南京虐殺「30万人」をはじめ、平頂山事件、万人坑、三光作戦など「中国の旅」連載の全テーマが教科書に載ることになりました。そして、「近隣諸国条項」は今も生きつづけているのです。
「侵略⇒進出」問題それ自体は、それほど大きな問題ではなかったと思います。問題なのは、中国や韓国の抗議を期待し、それに便乗するかのように日本軍バッシングに勢いづくという、日本のメディアのいつもながらのパターンを繰り返したこと、やがてそれが「近隣諸国条項」に結びついたことだと思います。
ここでは触れませんが、1982(昭和57)年という年は「日中国交回10周年」にあたっていました。このことと誤報問題が無関係とは言えないと思っています。
そして、今は「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史(公民)教科書の採用問題がターゲットになって、朝日などから集中砲火を浴びています。中国、韓国(北朝鮮)もまた、この教科書の採用に反対表明をしていることはいうにおよばないでしょう。また、同じパターンが展開されているのです。
つづいて「南京への道」を取り上げます。
パラパラと拾い読みする程度で、実はよく読んでいません。というのは、読めば不愉快になるのはわかりきったことですし、内容も『中国の旅』と同じだろうと思ったからです。
「南京問題」で犠牲者20万人以上を主張する「大虐殺派」の大御所、藤原彰・元一ッ橋大学教授は『南京への道』に大変、興味深い「解説」をつけていますので引用してみます。
まず、『中国の旅』ついて、次のように書いています。
〈 この『中国の旅』の反響は深刻であった。日本軍による虐殺事件をあばき出し、かつての戦争における加害責任の問題を、事実にもとづいて日本人につきつけたからである。日本でのそれまでの戦争への批判は被害者の立場からのものが多かったから、このルポが読者にあたえた衝撃は大きかったのである。もちろんそれまでにも、日本軍の残虐行為についての告白や記述はあったのだが、小出版社から出された部数の少ない著書で、影響力はそれほどなかった。それにくらべてこのルポの発表の舞台が発行部数の多い朝日新聞であったこともあり、事実の重さと、その事実によってのみ証言するという著者の真摯で明快な語り口が、多数の読者の胸を打ったのである。 〉
上の文章が示すように、『中国の旅』記述が事実にもとづいたものと頭から信じていて、何の疑いも抱いていないことです。
ただ、反響は深刻だった、また大部数を持つ朝日だからこそ、大きな影響力があったという見方は、そのとおりだと思います。結局のところ、「真実」とは縁のないとこころで、声の大きい方が主導権を握ることになるのだと思います。その意味で、このホームページを一人でも多く読んでくれればと思っています
この藤原教授の「解説」を「朝日報道を検証する」をお読みになった後、もう一度ご覧になっていただけませんか。
「事実にもとづいて日本人につきつけた」だの、「事実の重さと、その事実によってのみ証言するという著者の真摯で明快な語り口・・」などとする見方がどの程度、説得力を持ちうるか、興味のある問題と思いますので。
つづいて、『南京への道』についての、「解説」を見ます。
〈 1983年11月から12月にかけての現地取材にもとづき、『朝日ジャーナル』の84年4月13日号から同年10月5日号まで連載され、87年1月に朝日新聞社から単行本として刊行されたものである。 〉
〈 『中国の旅』では、南京事件には16章の中の1章を割いているだけである。南京大虐殺について右翼から「まぼろし」論や「虚構」論が叫ばれるので、より詳細な現地調査をすることが、著者にとっての『中国の旅』以来の希望であったろう。それが実現するきっかけとなったのが1982年の教科書問題である。82年6月に新聞の各紙が、83年4月から使用の小学校、高等学校の歴史教科書の実態を報道した。そして「侵略」を「進出」に直させたり、「三一運動」や「南京大虐殺」の記述を修正させたことが、侵略の歴史の美化だと問題になった。・・
この『南京への道』の第1次取材が行われた83年末は、まさにそういう右翼の無知蒙昧な反論がたかまっているさなかであった。 〉
これからわかるように、「南京への道」は「中国の旅」とまったく同じ「現地取材」だったということです。日本側の裏づけ取材を欠いたルポが、また一つ誕生したのです。そして、教科書問題とも深く関わっていたわけです。
「無知蒙昧」呼ばわりには笑ってしまいますが、感想を一言つけ加ます。
先に書いたように藤原教授は「南京虐殺20万人以上」と主張していることについてですが、20万人とか30万人など2桁万人を主張する人は、量についての感覚がずれている、いわば「数量音痴」「物量音痴」類ではないかと私は疑うのです。つい最近、犠牲者40万人という数字を堂々と教科書に書いた大学の先生がいましたが、やはり「量」の感覚が欠けているのではないでしょうか。ごく当たり前の感覚を持っていれば、2桁万は出てこないですよ。
また「百人斬り競争」を事実だと考えていることにも首を傾げてしまいます。本多記者の「あれは据えもの斬り競争で決着がついている」という見方に歩調を合わせているのかもしれませんが、その根拠が笑わせるのです。
長くなりますので簡単に書きますが、南京攻略戦のあった1937(昭和12)当時18歳、日本にいて「百人斬り競争」を新聞で読んだという鵜野晋太郎という、後に将校になった人の「『据え者百人斬り競争』が正式名称になるべきである」との言を引き合いに、「据えもの斬り競争」の大きな根拠としているのですからたまったものではありません。このような証言が事の存否の重要なカギになるなら、どのような結論だって引き出せます。
そんなことを言っているヒマがあったら、どうして「百人斬り」の現場に立ち会った将兵から「証言」を取ろうとしなかったのでしょうか。「南京への道」連載当時なら、まだ多数の生存者がいたのは間違いありません。ですが、本多記者は決して日本側の証言をとろうとしないのです。『中国の旅』のときと同様、「中国の代弁をしただけだから、抗議するのなら中国に直接やってくれ」とでもまたいうのでしょう。
念のために記しておきますが、鵜野晋太郎は中国抑留者の一人で、中国抑留者で組織する「中帰連」の活動家といってよい人物です。
慰安婦問題は朝日問題といってよいかもしれません。朝日は終始、この問題に多くの紙面を割き、世論をリードしてきました。また、NHKも負けていませんでした、来る日も来る日も、「従軍慰安婦」「従軍慰安婦」と書き、放送したのはつい、先日のことです。
慰安婦問題が大きく報道されるようになったのは、1991(平成3)年12月、「従軍慰安婦」という韓国女性が東京地裁に補償と謝罪を求めて提訴したことに始まります。この提訴に先立ち、1991年8月11日付で、朝日記者はこの女性を記事にしていますが、知りながら肝心なことを隠したと非難される事態が発生しました。
また、偽証と証明された「強制連行」の証言者、吉田清治についての報道など、問題は山積みしています。
これらの代表的なものを拾って、「従軍慰安婦問題」に概略をまとめましたので、 「朝日報道」を検証する をご覧ください。
「中国の旅」連載に始まる一連の日本軍たたきは、今日までつづいています。なにせ膨大な報道ですから、整理分類するといっても容易なことではありません。もちろんここでは触れていない数多くの怪しげな報道がありました。これらの中から、例えば南京事件にかかわる都城23連隊の報道、毒ガス写真報道 等を報告いたします。
―2005年 4月 1日より掲載―