■ちょっとした日本側の誤解の訂正・追記
このスレ、酷い時は2ページ目まで行ったにも関わらず完膚なきまでに消され続けていたのですが、そろそろほとぼりも冷めたかと思って再掲載してみます。

ネット上で見る限り、上のレイプ・オブ・ナンキンで「731部隊の実験の写真」として掲載された写真は実は
- 『山東省動乱記念写真帖』に掲載された
- 済南事件での日本人被害者の検死写真(済南病院にて)
であるとの言説を見かけます。
で、その元が載っているとされる 『山東省動乱記念写真帖』を見てきましたが、wha2 氏が調べたように、写真の元写真はおろか遺体の写真1枚すら有りませんでした。
なんで?ということで、この話の元となったらしい『ゼンボウ 昭和60(1985)年5月号』 を確認してきたのですが、これがまた酷い誤読でした。
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写真A |
写真B |
済南事件での日本人被害者の検死状況とされる写真。 |
731部隊の実験写真と流布されている写真。 |
『ゼンボウ 昭和58(1983)年4月号』pp.71では、「敢えて問う!『教科書』に書かれない日中史 こうして在留邦人は虐殺された」という記事で中国の日本人虐殺を非難しており、もともと「当時大陸に渡っていた警察官が持ち帰ったもの」として済南事件の被害者の写真Aを、さらに『山東省動乱記念写真帖』にも済南事件の被害者が紹介されているという意味で紹介しています。



『ゼンボウ 昭和58(1983)年4月号』pp.68(左)、pp.71(右)
以下の pp.72-73だけ見ると『山東省動乱記念写真帖』が出典と勘違いするかもしれないが、写真A、写真Bは同写真帖には掲載されていない。 pp.71-72は、警察官が持ち帰った写真として掲載、pp.73の写真が『山東省動乱記念写真帖』のもの。


pp.73(左)、pp.72(右)
『ゼンボウ 昭和60(1985)年5月号』ではさらに731部隊として流布されている写真は済南事件のものであるとした「中国の"悪魔づくり"に利用されたほるぷ出版と朝日ジャーナル 昭和3年済南事件の邦人被害者写真を731部隊に仕立てあげた中国」の記事を掲載、写真Aの入手経路をより明細に説明しています。
ゼンボウの記事内容が正しいとすれば、時系列は以下のようになります。
内容 |
1928年、『山東省動乱記念写真帖』(1928年 青島新報)出版される。 |
『写真記録 日本の侵略、中国朝鮮』(ほるぷ出版 1983年) に、「吉林省革命博物館にある731部隊についての展示」として写真Bが紹介される。 |
『ゼンボウ 昭和58(1983)年4月号』 「敢えて問う!『教科書』に書かれない日中史 こうして在留邦人は虐殺された」にて、中国の邦人虐殺事件を糾弾、済南事件、通州事件などの中国側の『虐殺』 が掲載される。 「当時大陸に渡っていた警察官が持ち帰ったもの」として、写真Aを紹介。同時に済南事件の被害者の写真が載っているものとして、山東省動乱記念写真帖を掲載。 |
『日本侵華図片史料集』(新華出版社 1984年?)に細菌戦実験の写真として、写真Bが紹介される。 |
『朝日ジャーナル 昭和59(1984)年11月2日号』の記事「東京裁判への道」(栗谷憲太郎氏)に、写真Bが「日本軍が勧めた細菌による人体実験の一場面」として紹介される(日本侵華図片史料集を出典と記載)。 |
『朝日ジャーナル昭和59(1984)年12月14日号』にて、江口圭一氏の投稿「細菌戦実験の写真は疑問」掲載。名古屋の古本屋のアルバムにて同写真を見たことがあり、その内容から写真Bを済南事件のもので間違いないと主張。 |
『ゼンボウ 昭和60(1985)年5月号』「中国の"悪魔づくり"に利用されたほるぷ出版と朝日ジャーナル 昭和3年済南事件の邦人被害者写真を731部隊に仕立てあげた中国」 にて、昭和58年4月号の記事の写真(写真A)は 「本紙読者の神戸市に住む■■■■氏から入手した(済南事件の)写真の一枚」であり、写真Bは済南事件で殺された日本人被害者と紹介される。 |
つまり、
- 済南病院の検視写真が撮影される(?)。
- そのうちの1枚、写真Bが731部隊の記事として流布される(中国にて?)。日本でも紹介。
- 『ゼンボウ』および江口氏が済南事件の写真だと指摘。
- 誰かが『ゼンボウ 昭和58年4月号』 pp.73で紹介された『山東省動乱記念写真帖』を、写真A、写真Bの出典として誤解する。
- 写真A、写真B出典の誤解がネットで流布される。
【追記】
写真の被害者女性の名が、引用される場所によって違うということが見受けられましたので、『済南事件を中心として』(小川雄三 1928年)にて確認をしてきました。

『済南事件を中心として』(小川雄三 1928年) pp.84-pp.87
ごらんのように、本文および『検視の結果』で人物の氏名が異なります。危険とされる区域を創作する緊迫した状況下で、声にて聞いた個人名に漢字を当てはめたのか、本文中に「多比良」、『検視結果』に「多平」と書かれるなど際が見られます。写真の女性と見られる人物も、本文「東條キヌ」氏、『検視結果』「西条キン」氏と記載されており、同じ項に載っている名称が違う場合、「~によると」と記載するなど、引用には注意すべきでしょう。まして、「東条キン」氏と記載はされていませんので、ネット上の記述がどこから来たものかはわかりませんでした。
尚、 『ゼンボウ 昭和60(1985)年5月号』によれば、入手した被害者写真の裏面にはそれぞれ被害者名が書かれ、そのうち一つに「東條孫太郎」とある、との事。これは本文「東條彌太郎」(『検視結果』で西条八太郎)氏と符合する思われ、益々731部隊の写真では有りえなさそうですね。
結論:
写真A、
写真B系列の写真は済南事件の被害者写真であろう事はほぼ間違いないものの、元の出典が『
山東省動乱記念写真帖』とするのは間違いです。
yonaki@お勉強中