路地を抜けるとすぐに親戚の家があった。
親戚の家は商家であり、木造の古い建物ながら、広々としていた。
幼い筆者の楽しみは、正月であれば「お年玉(正月に子供がもらえる小遣い)」であったのは言うまでも無いが、
その他にもいくつかあった。
大きな木造商家と言っても外見的には一階建ての平屋だったのだが、その建物内部には商家ならではの工夫がされて
おり、居間にある
階段箪笥(click)の繋がる先、天井の板をスライドさせると、そこには中二階というか、ロフトとでも
言おうか、ちょっとした倉庫になっており、筆者は物珍しいそのスペースで、よく「探検」をしていた。
また、親戚のおばさんが台所の床板を外すと見える漬物樽の数々も興味深々であった。
勝手口からは近所の人が顔を出し、「サザエさん」の世界が、そこには現実のものとして存在していた。
路地裏の光景
photo by subtle_3106
店は畳敷きになって居たのだが、ここに素晴らしい「玩具」があった。
普通「算盤」と言えば玉の大きさは皆さんご存知の通りだが、ここにある物は一味違っていた(click)。玉の大きさが大人の親指ほどもあり、古びたそれを転がすと心地良い音がしたのだ。
これを電車に見立て、襖の外された
敷居(click)を線路に見立てて転がして遊んでは、叱られたものだった。
それに飽きると、大黒柱に懸かる黒光りした大時計(高さ1mくらいだっただろうか)の、ゆったりとした振り子の
動きを飽きもせずに眺め続け、いつしか眠りに誘われていく・・・それが
筆者の恒例行事だった。
そこにおばさんの声がする。
さあ、最大のイベントの開始である。
(YouTubeにあった何かの番組らしきもの)
炬燵の天板の中心を外すとガスコンロが現れ、そこに四角い鉄板を乗せ、コンロに火をつける。
幼い筆者と共に両親と親戚が炬燵を囲み、温まった鉄板に胡麻油が張られる。
まず豚の細切れ肉を炒め、続いて野菜や麺を炒めて行き、それらに熱が通ったら、円形にダムを作る。
そこに出汁を張るわけだが、詳細は映像を見て頂ければだいたい分かるだろう。
「もんじゃ焼きはね、不思議と豚の細切れじゃないと美味しくないの。」
「食べ終わった後に鉄板を綺麗に掃除しなくてはいけないなら、それは食べ方が下手なのよ。」
(もんじゃ焼きでは、鉄板の熱によって軽く焦げた所が美味しい。だから必然的にそれを剥がしながら食べるので、
食べ終わった後の鉄板は綺麗なのだ。)
おばさんはそう言っていた。
これがこの家の流儀なのだ。
そして恐らく、筆者の周囲の話から推測する限り、大方の家でも通用する流儀だろう。
続けて、毎回決まり文句のように、「ひ」と「し」の区別が付かない江戸訛り(「日比谷」と「渋谷」と「シビア」の差が
曖昧だった)のおじさんが言葉を発する。
「西仲
(月島の有名な商店街で、もんじゃ焼き屋が多数存在する)なんかで1000円も2000円も払って食うなんざぁ(食べるなどと
いう事は)、馬鹿馬鹿しいねぇ。あんなのは、もんじゃじゃねぇや(もんじゃ焼きではない)。」
「こっちの方がずっとうめえ(美味しい)や。なぁ?」
そう何度も問いかけられたものだ。
当時は、当たり前だが、月島で「金を払ってもんじゃ焼きを食べる」などということは幼い筆者にとって有り得なかった。
だが後年、自分で稼ぐようになり、西仲の商店街で「金を払って」食べてみた。
無論、使われている食材は桁違いに豪華で、車海老、帆立貝、チーズ、牛肉、明太子などなど、ありとあらゆるものが
あった。
更に、同じ月島・佃島エリア内にあるフレンチ、イタリアン、スペイン料理の店にも行ったし、焼肉屋も行った。
それでもやはり、あれほどの舞台設定の上で供された「”あの”もんじゃ焼き」には、他の月島の店では勝てなかったのだ。
筆者の脳内にインプットされていた「月島・佃」のイメージは、それほどまでに強烈だったのであると実感した次第だ。
ここに後日談がある。
筆者の「江戸訛りのおじさん」は他界し、その家族は商売を辞めて転居した。
江戸時代からの伝統で、この地の木造住宅に住み、あの路地に彩りを添えてきた住人たちは、その殆どが借家だったので、
次第に安定を求めて借家暮らしを止めていった(月島・佃島の古い木造住宅、それも借家に暮らしていたと言っても、
1980年代以降ともなれば、東京の他地域と所得水準は何ら変わらなかった上に、筆者の親戚のように、商家でも本業は
会社員である場合が多かった)のだ。
路地裏の小料理屋も消え、
下町らしい建物が取り壊されたその場所に、1990年代初頭のある日、中規模マンションが
建った。
「下町の情緒あふれるこの街で、ゆとりある暮らしを」それが、そのマンションの宣伝文句だった。
かつて筆者が店先から団扇片手に眺めた、延べ1万人を超える人が押し寄せると言われる佃島の住吉神社の大祭は、
マンション住人にとってどのように映っているのだろうか。
佃島・住吉神社の大祭
photo by HAMACI!
余談ではあるが、
鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員にとってはこのように映ったらしい(click)。
>今夏にも、月島では恒例の祭りが開かれた。「浅草三社祭」「神田祭」のように有名な祭りとは格が違う小規模な>町内の祭りだ。
参考までに、佃島の住吉神社の大祭は、
3年に1度であること、
それ以外の年は小規模の祭であること、
安藤広重の浮世絵にも描かれ、落語「佃祭り」でも題材とされているものである事を添えておく。
現在の大祭の幟(click)広重『名所江戸百景』[佃島住吉乃祭](click)
過去の投稿 「東京のうどん」
日本側(click) 韓国側(click)次回作もあるかも。
追記
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