◇no place like home◇






< side N / K >

「ねえ、塁さん」
 カウンターに座ってホットチョコレートのカップをふうふう吹いていた西田くんが、声をかけてきた。
「何?」
「その……バレンタインって、さ」
 カップの中の液体に目を落としながら、ぽつりと言う。
「やっぱり……女の子が男の人にチョコレートあげるもんだよね」
 内心苦笑する。西田くんの恋人が誰か知っているおれには、本当に訊きたいことが想定しやすい前振りだ。
「それは日本のチョコレート業界が仕掛けただけだよ。世界的には、恋人達がプレゼントやカードを贈り合う日なんだよ」
「そうなの?」
「気になるなら調べてみるといいよ。だからホワイトデーがあるのも日本くらいなもんだからね」
「そっか……」
 西田くんは安堵したような、考えるような表情になった。
 おれは自分の分のマンデリンをいれた。今はバイトもいなければお客も西田くんしかいない。コーヒーを飲む余裕は充分にある。
「小早川さんにあげるの?」
「えっ」
 マンデリンを一口飲んで訊くと、西田くんはびっくりした顔になる。でも、すぐにそれは苦笑に変わった。
「……そうだよね、わかるよね。塁さんにはいっぱいお世話になったから」
「別に世話してないさ」
 二人の関係を深められる位置に、おれがたまたまいただけだ。
「小早川さん、喜ぶよ。あの人は元ホストとは思えないくらい、根っこは率直だからね。西田くんがこうやっていろいろ考えてるって知るだけで嬉しいんじゃない?」
 だいたい、小早川さんも西田くんも、心の中が顔に出やすいタイプだ。あの家からもう出て行ってしまった――それでも時々ここにコーヒーを飲みに来る二人とは違って。
 西田くんがバレンタインに何かを小早川さんに贈るなら、どれだけ相好を崩すか目に浮かぶ。
「うん……多分、それはそうだと思う」
 とはいえ、西田くんの表情は今ひとつ浮かなかった。
「じゃあ、何を悩んでるの」
「んー、そのことを悩むっていうよりは」
 こくりとホットチョコを飲んで、西田くんは空目を使った。
「何だか……確認してるみたいだなって」
 困ったみたいに笑う。
「自分で答えは出てるんだと思うんだ。きっと小早川さんにあげたいから、そんな聞き方したんだし」
 おや。
 ずいぶん大人になったようだ。
 人が誰かに相談する時は、その前振り段階から、自分の求める答えを導きやすいような言葉を選ぶものだ。無自覚だろうが、自覚があろうが、たいていはそうする。
 本当はただ背中を押してほしいだけのことが、往々にしてあるからだ。
 おれはわりとそういうのを読むのがうまいから、相手のほしい答えを出すようにはしてる。無論、自分の論理は使うけれど。客商売をしてきて培ったノウハウかもしれない。
「小早川さんって、お金持ちでしょ。だからあげるものって難しいんだよね」
「あの人はいいお金持ちだからね」
「いい?」
 きょとんとした西田くんの目は小犬みたいで、小早川さんが大事にするのもよくわかるまっすぐさだった。
「惜しまずに使うし、何かをため込んだりもしない。人に何かをあげるのが好きだし、人がちゃんと想いを込めたものなら受け取るのも好きだよ。悪い金持ちは全部その逆だと思えばいいよ」
「あはははっ」
 西田くんは楽しそうに笑った。
「じゃあ何でもいいんだね。オレがきちんと考えたものなら」
「そういうこと」
 ふと思う。
 恋は人を成長させるのかもしれない、と。
(なまじ年が若い分、西田くんの方が成長が早いかもしれないけどね)
 苦笑混じりに考えつつ、おれはマンデリンをあおった。

* * *

 塁がカウンターに置いたカップは、中華のラーメンかチャーハンに使う器みたいな柄が入っていた。狛犬なのか、青い神獣の絵はサイケで気分は日光東照宮だ。
「何だこれ」
「ブラジル・ブルボンだけど。陰干しで甘みがあるよ」
「中身のこと聞いてるんじゃねえよ。カップだ」
 この店にはいろいろな柄のカップがあって、塁が自分の判断で客に合わせて出す。とはいえ、ものすごい模様にさすがにちょっとひく。これが俺に合うと塁が考えたということも合わせて、ひく。
「ああ。マイセンの2005年リミテッドエディションだよ」
「マイセンねえ……」
 それが高級な陶磁器のブランドだということは知っているが、だからといってこういう絵付けはどうなんだろうと首をひねる。
「見た目も値段もすごいから」
「すごいって――いくらするんだよ」
「多分大卒の初任給より高いでしょ」
「げ」
 キテレツな模様にごまかされてしまいそうだが、さすがブランド物だ。
「ところで、バレンタインに何もらったの。小早川さん」
「ぶ」
 突然訊かれて、口に含んだコーヒーを噴きそうになった。噴くだけならいいがカップを割ったらことだ。別に払えない値段じゃないが、リミテッドエディションだというからには手に入れにくいだろうし。
「な……何だよ急に」
「西田くんが悩んでたからさ。結局何あげたのかなって思って」
 俺と西田がくっつくまでに塁に協力を仰いだこともあって、その後も俺たちはけっこうこの店に入りびたってる。なるほど、西田が相談しても不思議じゃない。
「あー。チョコはもらったぜ。酒が入ってるヤツ」
「それだけ?」
「う」
 何でこいつはにっこり笑ってさくさく斬り込むかなあ。
「……あとは、これ」
 首にかけていた鎖を示してみせた。
「ああ、やっぱりそれか。見慣れないからそんな気がしてた」
 塁は楽しそうに言って、次の注文用のウィンナコーヒーを作っている。
「それドッグタグだね。しかも米軍オリジナル」
「なのか? 単なるIDプレートだと思ってた」
「プレートが二枚あるでしょ。両方に同じデータを刻印して、負傷したり死亡した場合は仲間が一枚外して報告するんだよ。それから周りの黒いゴムはサイレンサー。戦場で無駄な音がして敵に気づかれないように」
「おまえ……何でんなこと詳しいんだよ」
「そう? わりと一般常識かと思ったけど」
 こいつの一般常識の範疇がわからん。
「でもアーミーな感じが小早川さんに似合うよ。いい選択だね、西田くんも」
 塁はそう言い置いて、テーブルの客にオーダーを運んでいく。
「…………」
 俺はちゃらりとドッグタグを見る。確かに二枚だが、その用途には使えない。そこまではカウンター内の塁からは見えなかったようだ。
 一枚は俺のデータ、そして一枚は西田のデータだからだ。
 西田も同じ物を持っていて、あいつは携帯にこれをつけている。
 それが何だか微妙に所有物宣言のようで――いや、悪いと言ってるんじゃない。くすぐったく恥ずかしいのだ。我ながら男として情けない気もするが。
 しかしながら、欧米ならともかく日本のバレンタインの風習を考えると、俺が西田にプレゼントするのが本当なのかもしれないけど……まあいい。ホワイトデーに何か、とびっきりのお返しをすればいいことだ。
「へえ」
 気がついたら塁がすぐ後ろにいて、ドッグタグを覗き込んでいた。
「なるほど、ペアで一つずつ交換か。考えるねえ、西田くんも」
「お、おまえ……!」
「幸せそうで何よりです」
 今度は楽しそうに下げたカップを洗い始めた。
 確かにできる後輩ではあったけど、何でこんなに何でもお見通しのヤツに育っちまったんだろう。仕事柄そうなるのかね?
「何?」
「あ――いや。何でもない」
 俺は唐獅子牡丹みたいなカップに残っていたブラジル・ブルボンを飲み干した。いろいろ言いたいことはあるが、ここのコーヒーだけは文句のつけようもなくうまい。それが微妙にしゃくにさわる。
「あ」
 携帯の着信音が鳴って、メールは西田からだった。どこにいると聞くからアールだと答えると、すぐにまた返信が来た。
「今から来るってさ」
「そう。よかったね、小早川さん」
「何だよそれは……別に毎日会ってるし」
「同じ家だしね?」
 何でこいつはいちいち意味ありげに発言するんだか。
 まあ――でも。
 毎日会っていようが、うん。
 西田に会えるのは、俺も素直に嬉しい。
 それが惚れた弱みだなんて、口が裂けても塁には言わないけどな。



< side A / K >

「ただいま」
 玄関を開けると、いつものようにキーを叩く音がする。
「おかえり」
 パソコンデスクの前に座っていた蒼井がこちらを向いて微笑した。
「どう、調子は。今全般下がってるだろ」
「基本はな。ストップ安物件が山ほどある。だから状況を見てる」
 蒼井はふうっと息をついた。
「パチスロと違って情報が多いから大変だな」
「スロは雑誌でも読んで打ってみれば感触はわかる。でも株はそうもいかない。おれは世事に疎いから難しい」
 とはいえ、蒼井は基本的に思考力や分析力がある。最近はいろいろニュースや新聞からの知識も仕入れているらしいから、本気でトレーダーができるかもしれないと俺は思っているのだが。
「なあ」
「ん」
 持ってきた箱をキッチンに置いて、コーヒーメーカーを仕掛ける。豆はアールでわけてもらったモカ・マタリ。軽さと酸味と香りが心地いい豆だ。
「こういう時期って、チョコレートの会社の株価はあがったりするのか」
「ああ、いや」
 蒼井は小さく苦笑した。
「多分その売上も織り込み済みだろう。特にそういう意味での変化はない。第一、メーカーだけで何百とあるわけだし」
「そうか。そこまで単純じゃないってことだな」
 皿を二枚用意し、箱を開いてそれぞれにのせる。カップとフォークを用意しているうちに、コーヒーメーカーからいい香りが立ちのぼってきた。
「まあ、少し休めよ。みやげがあるんだ」
「うん? ああ」
 コーヒーを注ぎ分けて、まずはカップをソファテーブルに運ぶ。蒼井もソファに移動してきた。
「チョコレート味のチーズケーキだってさ」
「へえ」
 ケーキはちょうどミルクチョコレートのような薄めの色をしていた。表面には光沢のあるラズベリーのジャムが塗ってある。
「多分うまいと思う」
「多分?」
 蒼井が首を傾げる。
「いや、そのね」
 俺は軽く笑った。
「彼女を連れて行きたい店があるから下見に一緒に行ってくれって、クラスのやつに頼まれてさ」
 この年になってデートスポットも知らないのはどうだろうと思いつつ、俺はそいつにつき合ってやった。
「なかなかいいオープンカフェで、オリジナルのケーキも置いてあるところだったんだよ。俺はケーキは食べなかったけど、そいつが絶賛してたからさ」
「なるほど。――いただきます」
 蒼井がケーキにフォークを入れる。ひと口食べて、目が大きくなった。
「うまいな」
「やっぱりうまいか」
 俺も食べてみる。なるほど、と思った。口溶けもいいし、しつこくない。チョコレートとチーズケーキなんて、合わせたらしつこいんじゃないかと素人考えでは思うんだが、そうでもないらしい――というよりパティシエの腕がいいのかもしれないが。
「本当にうまいな」
 チーズ自体もチョコレートでは隠しきれない複雑な味がした。何種類か混ざっているのかもしれない。
「そこ、いい店みたいだな」
「ああ、雰囲気も悪くない。店の内装もオレンジとグリーンできれいだしね。ただし」
「ただし?」
「ギャルソンがみんなイケメンだ。あいつの彼女がなびかないことを祈るよ」
「ははは」
 蒼井が笑った。そして、不意に真顔になった。
「いや」
「うん?」
 俺はケーキを切る手を止めて、蒼井を見る。
「本気で好きなら、外見で誰かになびいたりしないだろう。普通」
「……まあ、それはそうだが。理想論だな」
「そうかな。少なくともおれはそうだ」
「――おまえがそうなら、俺はそれでいい」
 俺が答えると、蒼井はちょっと照れたような顔になった。
「うん」
 黙々とケーキを食べ進める蒼井を見る。何だかこいつは、いつでも本能的に本質を悟ってしまう気がする。俺の欲目なのか――いや、そうではないはずだ。言葉が苦手な分だけ、直観が冴えるんだろう。
 ちょうど、俺と逆なんだと思う。
 だからお互い、惹かれたのかもしれない。
「そういえばそろそろ、コーヒー豆がきれそうだ」
 残り具合からすると、あと三回分くらいしかなさそうだった。
「明日忙しいのか、岸本」
「いや。特に」
 卒論はもう提出済みだし、テストも終わっている。後は卒業式を待つだけだ。社会人生活までの、ほんのわずかなモラトリアムを味わっている時期だった。
「明日アールに行こう。ZIPにも新機種が入ってる。メルマガが来てた」
 最近蒼井は、終日パチスロ屋に行くことは減っていた。デイトレで忙しいのが大きな理由だ。前ほどデータが取れなくなって、パチスロ自体の勝率は下がっているらしい。とはいえ株もやっているし俺の蓄えもあるから、不自由しない生活を送っているわけだが。
「ZIPのデータ、わかるのか」
「スロ仲間に聞けば、多少は」
「小早川さん……に聞いてもしょうがないな」
「ああ。あの人はデータで打ったりしない」
「まあ、今はそれで食ってるわけじゃないんだから、楽しければいいだろう」
「うん」
 lead a quiet life――そんな連語があった。穏やかな日々を過ごす、そんな意味だ。
 つまらない日常と穏やかな日々は、時に混同される。しかし俺の今は、明らかに後者だった。
 それはおそらく、目の前にいるこの男が醸し出す空気の力だろう。
 俺の――好きな、蒼井の。
「どうした」
「いや」
 じっと見つめると、蒼井が見返してくる。俺はただ首を振った。
「どうもしない」
 どうもしないのが重要なのだ。特に波乱のない、しかし満ち足りた生活。俺はそれを嫌っていたつもりだったが、本当に嫌っていたのはつまらなさであり、穏やかさではなかったらしい。
「そうか」
 蒼井はぽつりと言い、モカを飲み干した。
「うまかった」
「うん」
 うまいコーヒーとうまいケーキの、たわいのない、けれど確かな幸福感。
「その店、今度教えてくれ」
「え? うん、いいけど」
 蒼井に言われて意外な気がした。あまりカフェの類に興味を示す男じゃない。
「ホワイトデーにケーキを買ってくる。おまえも好きそうだったから」
「…………」
 思いがけない答えに、俺は笑って頷いた。じわりとわき上がるあたたかさは、コーヒーの温度だけじゃないことに、俺はちゃんと気づいていた。


end.


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