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【岐阜】ステンレス鋼の輝き今も 河村氏作の軍刀が話題2008年2月15日
戦時中、関の刀匠河村永次郎氏(刀匠名・奈良太郎藤原兼永)が軍刀用に作ったステンレス鋼の刀三振りが、関鍛冶伝承館(関市南春日町)の特別展で公開され、注目を集めている。冶金(やきん)学に詳しかった河村氏は、ステンレス鋼加工の名人として知られた人物。その作品はさびに強いことから、最前線の将兵に愛用された。今も輝きを失わない刀は、日本刀が武器として使われた暗い時代の記憶を伝えている。 河村氏は刀匠として活躍しながら、関町(現・関市)で高級ナイフの製造、販売会社を経営。1943(昭和18)年、56歳で亡くなった。 ステンレス鋼は耐食性に優れているが、硬度が高いことから加工が困難だった。河村氏は、数年間の研究の結果、ステンレス鋼のナイフを開発し、21(大正10)年に発表。戦時中には、その知識と技術を生かし、軍刀を作った。「耐錆鋼刀」と呼ばれた河村氏の軍刀は、主に海水の塩害にさらされる海軍で使用。高温多湿の南方戦線など、劣悪な環境で戦った陸軍にも納入された。
戦時中の関は、軍刀や銃剣を生産する軍需産業の拠点だった。39(昭和14)年度の軍刀生産数は、完成製品と荒地(半製品)を合わせ8万2086本にも達した。軍刀の修理や研ぎの仕事も多く、関の業者は中国まで進出。当時、中国で撮影された写真には、軍刀とみられる刀を研ぐ人たちと、陸軍の軍人が一緒に写っている。 文字どおりの「刀都」として活気づいた関だが、45年8月の終戦とともに状況は激減。占領軍による刀剣類の没収が行われ、河村氏が作った軍刀も大半が破棄された。 日本刀は本来、砂鉄からできた玉鋼を使い、刀匠が手間をかけて鍛錬する。大量生産の軍刀は機械で作られ、材料も違うことから、現在の刀剣界では異端視されている。ステンレス鋼の刀も、今では忘れられた存在だ。 特別展では、昭和初期から戦中にかけ、関で刀匠を要請した「日本刀鍛錬塾」の塾生らの作品を中心に展示。河村氏の作品は、刀が実際の戦闘に使われた戦時、伝統的な刀かじに最新技術や新素材が取り入れられたことを物語っている。 関伝日本刀鍛錬技術保存会の井戸誠嗣副会長(65)は「戦争の“あだ花”とも言えるステンレス鋼の軍刀だが、時代を反映していて興味深い。関の刃物業界の歴史を知る上でも、貴重な資料」と話している。特別展は3月24日まで。火曜日と祝日の翌日休館。 (中山道雄)
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