『カルチャー・レヴュー』別冊02号(その2)
◆まぐまぐ版(その2)◆
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(創刊1998/10/01) (発行部数約1250部)
『カルチャー・レヴュー』別冊02号(その2)
(2000/11/01発行)
特集<「脳死・臓器移植論議」への異論・反論・対論>
発行所:るな工房/Chat noir Cafe′発行人:山本繁樹
[14号は、2000/12/01頃発行予定です]
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////// 他者の不可侵性 //////
脳死・臓器移植と「倫理」―その可能性と条件―
ひるます
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脳死・臓器移植法の「改正」、それが問題の焦点である。それにどう対応す
るか、ということを足下からキチンとしておくためにも、ここでは原理的な問
題にさかのぼって改めて考察してみたい。それは「そもそも脳死の人からの臓
器移植(摘出)などということが倫理的に許されるのか、否か」ということ
だ。
この問いに対しての私の暫定的な答えは、「本人の意思」によるものであれ
ば(ギリギリ)許されるのではないか、というものだが(註1)、これは森岡
正博氏の分類によれば「慎重派」という立場に一応はなるのであろう。そうは
言っても、それは私個人の確信(信念)の表明でしかないわけで、本当にその
ようなことが言えるのか、ということを率直に・根本的に考えてみようと思
う。
まず賛成するにしろ反対するにしろ、どこか我々は「脳死の人からの臓器摘
出などということは、本来、許されないことなのではないか」という感覚を
持っていると思う。その感覚から考えてみることにしよう。
この共通感覚は、それこそ様々な理由に由来するのだろう(他人の臓器を体
に入れるということに対する気持ち悪さなど)が、こと「脳死」臓器移植とい
うことに関して言えば、「脳死は人の死ではない」のではないか、という疑義
が、最大のネックだと考えていいだろう。脳死が「死」ではないからこそ、臓
器摘出によって提供者を死に至らしめることは許されない(悪である)という
論理だ。
たしかに「脳死」は死へと向かうほぼ不可逆的なプロセスに入ったことは示
していても、死そのものではないということが科学的にも言われる。だが科学
は「個体の死」を決定できないという相対主義なのでもある。死そのものでは
ないが、死へのプロセスに入ったということが、どうして我々に「(摘出は)
許されない」という感覚をもたらすのかは、それだけでは明確ではない。それ
には個体としての死とは? 個体としての「生命」が終わるとはどういうこと
なのか? を考えてみる必要がある。
それは、哲学的には「他我問題」に関わる。我々は生きている他人について
さえ、その人自身の「私」を確実に知ることが、原理的にできない。我々は他
人を「外から」観察することしかできないからであり、「内側から」知ること
ができないからだ。しかし差し当たってたいていは、我々は、他人の中に「内
側から分かっている私」というものの存在を平然と確信して暮らしている。こ
の文章も、これを読む人の「私」を予想して、それが「郵便」的に届けられる
ことを前提に書かれている。
だが死のプロセスにある脳死の人においては逆に、そのようにふだん確信し
ている他人の「私」を消去することができない。これは脳死の人に「意識があ
るかないか」(おそらく常識的には「ない」とされるだろう)という問題とは
異なる。問題は、その現時点でその人にとっての「世界」が内側から開けてい
る可能性を否定できない、ということだ。具体的に言えば、脳死の人からの臓
器摘出において、脳死の人が「痛み」を感じる可能性があるとする指摘があ
る。ならば「痛み」として、その人にとっての「世界」が開けている(世界が
存在している)可能性がある、ということなのだ。もちろん「痛み」など感じ
ていないと主張する人もいるだろう。だがたとえそれが「無感覚」だったとし
てさえ、そこに「なんらかの世界」が開けている可能性(世界があるのであっ
て、ないのではないということ)を否定できない。
このように言うならば、あまりに形而上学的にすぎるだろうか。たとえば
「魂のこと」を語っていることになるだろうか。だがとりあえず、ここではそ
のような形而上学的な実在を問題にしているのではなく、そのような死のプロ
セスに立ち会う人(家族ではない第三者でもいいが)にとって、そのようなも
のとして死者の「世界」が直観されるし、それは恣意的にその「世界」を自分
の意識の内から消去してしまうことが出来ないような「リアリティ」を持つの
だ、ということを指摘しておくにとどめておけば足りるだろう。
そしておそらくは脳死の人からの臓器摘出が許されないのではないかという
共通感覚は、このような意味での「他者」の世界がリアルに感じられ、それを
侵してはならないという感覚から来ているのだろう。
ただし心臓死も「科学的」には「個体の死」とは言えないはずだが、心臓死
となると、一転して我々はそこに他者の世界が開けているとは感じなくなる。
これは端的に「文化」の作用と言える。身近な人間にとってはそれでも死者は
「消えた」わけではないが、少なくとも「その当事者の身体において」世界が
開けているという確信は断念される。この断念させる作用が文化の力と言って
いいだろう。ミイラが生きていると主張した「科学主義」的な宗教団体のメン
バーは、この「文化」に抵抗していたわけだ。脳死・臓器移植に反対する意見
の中にも、脳死・臓器移植は、このような「(死の)文化」を破壊するから、
ということを理由に挙げるものがあるが、これについては後に触れることにし
よう。
さしあたって、脳死の人からの臓器摘出において問題になる急所は「他者の
不可侵性」なのだ。したがって、他人が、ではなく当の「自分」が「決定す
る」なら許されるのではないか、という自己決定権論がでてくるわけだ。しか
しこれが単に「自分のことは自分で決める」という意味での自己決定を意味す
るのであれば、やはり多くの人は「許されない」という感情を強く抱くのでは
ないだろうか。これは自分の身体の所有権との関わりでよく議論される。その
ような自己決定をなしうるほどに、人は自分の身体に対して所有権を主張でき
るのか、といったところだ。しかし「〜権」などと言えば、そのような権利な
り権限というモノがあたかも実在しているかについつい感じてしまうが、よう
するにそれ自体は、法的な概念であり、ヴァーチャルな取り決めでしかない。
したがって「〜権」があるから(ないから)〜だ、と言ってみても、原理的な
(倫理学的な)思考としては意味がない。
だが自分の身体といえども所有権を主張できないのではないか、という論理
は単なる法律論ではない、何か我々の心情に訴えかける力を持っている。やは
りその根底には「自分の身体(生命)といえども、なにか自分のモノではない
という感じ」という共通感覚があるのではないだろうか。だから、我々は自分
の身体に対して自己決定するということを認めることを躊躇してしまう、とい
うことなのではないだろうか。つまりそこでは身体(生命)が「他者」として
現れ、やはりそれを「不可侵なもの」と感じるのではないか(註2)。
とすれば脳死・臓器移植はやはり不可能(許されない)なのだろうか。しか
しそもそも臓器提供は「自己決定」というコトバでくくれるものではない。そ
れは確かに「そうしなくてもいいにもかかわらず」そのように自分で決めた、
と言う意味では自己決定だが、それは(原理的には)なんら「自分のため」の
行為ではない。それは、どこの誰とも知れぬ他人を救うための行為なのであ
り、まさに「他者を手段としてではなく、目的(主体)として扱う」という意
味で「倫理的」な行為なのだ。
倫理的行為は、(あくまで原理的には)自己のためではない行為であり、他
者への無償の供物である。この点において(のみ)臓器提供という行為は、他
者の不可侵性と拮抗しうるのではないだろうか。他者を救うという意味での他
者を「目的」とすることと、他者を侵さないという意味での他者を「目的」と
することが、まさにちょうど計り得ない重さで向き合っている。だからこそ
我々は、これまで生きてきた経験や共通感覚をヨリドコロにしてこの問題に向
き合うときに、どうしてもどちらと決められないという境涯に立ち至るのでは
なかったろうか。
そこで提供を(ギリギリ)許される、と私は考えているが、それは私の個人
的な意見、それこそ「決断」にすぎない。もしも脳死・臓器移植が「許され
る」とすれば、それはこのような意味での「倫理的な判断」として(他者の不
可侵性に)拮抗しえていることが条件だろう…ということまでしか、原理的な
思考としては言うことはできないとも思う。ただ、このように他者性の拮抗を
明確にすることで、様々なかけ離れた立場の間での「対話」が成立する可能性
はあるだろう。
あとは若干の論点を補足しておきたい。
このような倫理的行為は「善意に基づく」行為だということは言えても、そ
の行為自体が「善」であるかどうかは言えない。一般に「倫理」的行為という
ものは、共同体内の「善―悪」という評価や決まりと関係がない(註3)。た
とえば蜘蛛の命を救ったカンダタは、その「善意ある倫理的行為」を釈迦に評
価されるが、この行為自体は社会やこの世にとってなんら「善」をもたらすも
のではない。倫理的行為とは、行為する者の実存にかかわるものでしかない
(ただしそれは他者の実存こそを「目的」とする)と言ってもいいだろう。善
意による行為といいながら、社会にとって臓器移植は善ではないのではないか
? という「反対」意見はよく耳にする。それはこの倫理と善との区別が出来
ていないところから来る混乱だろう。
もちろん臓器提供は社会的な行為として為される以上、それについての社会
的評価がなされなくてはならないのは当然である。この点は冷徹に見極める必
要がある。「文化の破壊につながる」という件の反対派の意見ともかかわる。
心臓死を死とする「死の文化」の破壊であるとともに、他者の死を期待するご
とき風潮を生み出すという意味での文化の破壊も指摘されている(註4)。
この点は微妙ではあるが、ある意味で「運用上の問題」ということもでき
る。つまりすでに指摘したように、臓器移植が可能であり許されるには、提供
者の倫理性が条件となる。ならば、肝心なことは、いかにしてその倫理性(提
供者の実存)を担保することが出来るかということだと思う。現在のように単
なる善行としてドナーとなることが推奨されている状況では、ドナーとなるこ
とが極めて「オートマチックな事態」となりやすい。このような状況ではたし
かに文化の破壊は起こるだろう。しかし、単なる自己決定として死が扱われる
のでなく、倫理性が担保されるならば、死の文化そのものが破壊されるはずは
ないし、倫理性の顕揚は、それはそれで新たな「文化」を創出することになる
かもしれない(圧倒的にドナーは減るだろうが)。
そういう意味では、倫理的判断がすでに行われたと見なす町野案(倫理的判
断ではなく自己決定という言い方ではあるが)は、まったくの問題外というこ
ともつけ加えておかなくてはならないだろう。倫理学的に言えば、善を行う本
性があるから善を行うべしとする「本性論的誤謬」である。さらに臓器提供へ
の意思が(すでになされたと見なされたにしても)倫理的判断であるとすれ
ば、倫理的行為を法律で押しつけることになる。これは自由主義社会(国家)
の根本ルールである「特定の倫理的行為を強制しない」ということを侵犯する
ものだ。我々は自由主義社会において、人に迷惑をかけないのであれば、非倫
理的に生きる―倫理的にはなんでもない者でいる―それこそ「権利」があるの
だ。それを明確にしておくことも、倫理性を担保するためには不可欠なことだ
ろう。倫理的行為とは、そうしなくてもいい「にもかかかわらず」そうする、
というものだからだ。
また当然「死の教育」というより「倫理についての教育(道徳教育にあら
ず)」も必要になるが、それと深くかかわる「子どもからの脳死・臓器移植」
についてはまったく触れることができなかった。しかしそれを考えるための捨
て石にはなったかと思う。
【註・参照】
(1)今次の「移植法改正」の動きに対するネット上での反対運動の中で、私
は次のようなウェブ掲載用のバナーを作成した。
「脳死の人からの臓器移植は、本人の善意ある倫理的な判断によってのみ許
されるはずです。」
(2)立岩真也『私的所有論』(勁草書房)参照。自己決定や所有が尊重さ
れ、かつまた制限されるべき根拠を、まさに「他者の不可侵性」によって示
そうとした立岩氏の思考は説得力がある。
(3)柄谷行人『倫理21』(平凡社)
(4)池田清彦『臓器移植 我、せずされず―反・脳死臓器移植の思想』(小
学館文庫)
■プロフィール■-----------------------------------------------------
1961年、岩手県生まれ。マンガ家。単行本『オムレット―心のカガクを探検す
る―』(広英社刊、1999年)のほか、商業誌掲載作品に「平成大逆転男」「黄
昏まで3万マイル」(いずれもコミックモーニング)がある。HP「ひるます
ホームページ/臨場哲学」で書評・エッセイ・デジタルコミック等を発表中。
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/
E-mail:hirumas@cancer.bekkoame.ne.jp
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////// 論 点 //////
「脳死・臓器移植の問題構成」に関する素描
黒猫房主
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1.議論の整理
この間、脳死・臓器移植に関連する幾つかの言説を読んできたが、そこで議
論されていることの「問題」がどのように構成されているのか、ここで整理し
てみることから始めたい。
何が問われていて、また何が不問にされているのか。
まず手始めに「脳死」と「臓器移植」に対しての肯定・否定の立場を、社会
学ではお馴染みの座標軸で整理してみると、下記のようになる。
移植肯定
│
│
(4)生体間移植推進派 │ (1)移植推進派
人工臓器の開発派 │ 脳死肯定派
│
脳死反対―――――――――┼――――――――脳死肯定
│
│
(3)脳死絶対反対派 │ (2)尊厳死推進派
移植絶対反対派 │ 延命治療拒否派
│
│
移植反対
これらの立場は別の視点からみると、(1)と(4)は近代医学の進歩を信
奉する立場であるが、(2)と(4)は近代医学の適用に懐疑的あるいは批判
的な立場で、なかでも(4)の立場の中には、脳死移植は「脳死の人」の人権
侵害(殺人)であるとの告発をしているが、パラダイムとしては近代医学の範
疇を逸脱することはない。
したがって、某宗教団体の高橋グルのようにミイラ化した「死体」を「生
体」とは考えないという点では、(1)から(4)は一致する。「死の定義」
という問題が、このミイラの事例では象徴的に噴出している。
2.「死の定義」という問題
この「死の定義」に関しては、科学的立場・哲学的立場・法学的立場でのそ
れぞれの議論が、レベル混同されて議論されるために錯綜することが多い。
このレベルは森岡正博の整理によれば、
レベル1 科学的事実としての死・・・・「脳死」「心臓死」「生理学的に
見た個体死」
レベル2 哲学的レベルの死・・・・・・「人間の死」
レベル3 法的レベルの死・・・・・・・「法的に見た死」
となる。
現在、焦眉の急として批判されている「町野案」は、脳死を一律に「人間の
死」として法制化することを提案している。レベル1の議論を、レベル2を飛
び越えて、レベル3において統一しようとするものである。因みに、現行法で
法的に死を定義しているのは、唯一「死産の届出に関する規定」にある三徴候
であるが、その中でも心停止が重要な指標とされており、その死の認定は医師
の裁量権として行われている。
しかし三徴候死(心停止、自発呼吸停止、瞳孔散)も脳死も、いわば死に至
るプロセスの指標であって、そのどちらにも科学的な優位性はなく、「死」そ
のものは部分的には特定できない、プロセスとして把握されるしかないもので
ある。だから私たちは「死体という現象」(レベル1)を目の当たりにして
も、「死という概念」(レベル2)が理解あるいは受容できなければ、「死
体」として見做すことはできないのである。
「脳死」の指標が優位性を持つのは、臓器移植を前提にした場合のみであっ
て、言い方換えれば「早すぎる死」(レベル3)といってもよい。だからその
「脳死判定」をいっそう厳密にしてゆくならば、「脳死」を判定する時点は限
りなく後退するだろう。あるいは、医療技術の発達によって「脳死の人」を限
りなく延命させることも可能だろう。
3.「移植医療」という問題
現行の「臓器の移植に関する法律」(臓器法)に先行して、「角膜及び腎臓
の移植に関する法律」(臓器法の登場によって現在は廃止)によって、すでに
死体(心臓死)からの臓器摘出を部分的に合法化している。その際に、倫理問
題は発生しなかったのか。
脳死とは別に、移植医療全般の倫理的問題はあまり議論されていないようで
ある(最近、ぬで島次郎が「ヒト組織の移植等への利用のあり方」の提言をし
ているが、http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/nude.htm)。
ある意味では、角膜と腎臓移植の合法化によって、それらのことは解決済み
として不問にされてきたのではないか。だから、脳死体からではなく、生体間
や心臓死からの移植には、表だった反対の声が挙がっていないように思われ
る。
池田清彦は、脳死移植医療は患者(レシピエント)に「他者の死」をあてに
させる意味で浅ましく、社会的デメリットも大きいという。だから善意でド
ナーになることは、却って愚行である、ともいう。だが一方で、「他者の死」
を前提としない人工臓器とか自己再生臓器ならば倫理的問題はないともいう。
しかしこの議論は、「機械としての身体」「パーツとしての臓器」という近
代医療パラダイムに基づいた批判である。ならば、他者の臓器をリサイクル・
パーツとして移植することと、人工臓器を移植することには、いわば程度の差
しかないともいえる。だがその程度の差に、嫌悪感や抵抗感が浮上してくるわ
けだが、それは自己認識ネットワークとしての「免疫機能」が他者臓器に拒絶
反応を起こすこととどかで通底していて、「人間的自然」の抵抗なのかもしれ
ない。しかしこの免疫反応を抑制剤で抑圧すること自体の是非は問われていな
い。
そして他者の臓器移植あるいは異種移植という技術は、しょせん過渡期の医
療にすぎないのに、「移植でしか助からない」という言説と抑圧によって、他
の可能性ある医療技術の開発を阻害することから、移植産業の繁栄がもたらさ
れていることを忘れてはならない。
また今後の移植医療の発展によって、どこまでが「人間」で、何をもって
「人間」とするのかという「人間としての概念」「概念としての人間」の変容
が、必然的に要請されてくるようになるだろう。たとえば身体がすべてサイボ
ーグ化されて、脳機能の記憶や感情もすべてコピーされた場合、それでもその
身体あるいは機械は、「この私」と言えるのか。
因みにクローン人間は、「私の複製」ではなく、別人格の「他者」であるこ
とに注意を喚起しておく。したがってクローン人間の臓器を、ストックとして
「私の臓器」にするという考え方は、他者侵害である。
4.「自己決定」という問題
「自己決定」とは何であるのか。その前に、「自己という主体」は如何にし
て可能であるのか。
笠井潔が指摘する意味で、この主体は「フィクション」であると考えるべき
ある。つまり、そのように決定しうる個人が社会を構成する主体であるという
「約束」である。言い換えれば、「社会契約制度」を正当化するために発明さ
れた「個人という制度」として捉えられる。それは同時に個人の自由(恣意
性)と責任(義務)を担保することで、その個人は均質に社会化されている。
ここには、ルソー的な意味での「自然人」はいない。
そのように考えるならば、個人はつねに/すでに、何事かを決定せざるをえ
ない社会的な存在としてある以上、次のような発言が導かれる。それは「臓器
移植法改正案」提案者である町野朔が森岡正博との対談(『論座』2000年8月
号)で、ドナー拒否の意思表示をしていない者は、「臓器提供する存在」とし
て自己決定していると見做すべきだという発言である。
だがこれは選択肢を操作した上での、いわば強いられた自己決定に他ならな
い。本来、自己決定するということは、すべての情報開示と選択肢の公開を前
提になされる自由意思(恣意性)の行使と責任の発生ではなかったか。
しかし同時に、「決定をしない」ことの恣意性も担保されることによって、
その自由の実質は保障されるべきである。その視点の導入によって、「自己決
定できない」個人の人権・自由が確保されるからである。
さて「死の自己決定」とは何であるのか。
生前に自己の死の迎えた方、末期医療の受け方(尊厳死)、脳死や心臓死に
よる臓器提供の有無の決定を言うようであるが、この決定はいわば遺言のよう
なものであり、その決定を下さした当の本人は末期患者あるいは死者であり、
その時点での意思表明も変更もできないと考えられる。
であるならば、その時点で本人は決定の主体とはいえない。そこで、その決
定の実行はその末期患者あるいは死者を取り巻く関係者の主体に代理されるほ
かないわけである。
そこで「死の自己決定」とは、死者の生前の意思を憶測することではなく、
あくまで明確な遺言状やリビィング・ウィルによる「本人の意思」に限定すべ
きであり、その意思を如何に尊重実行するかが、この死者を取り巻く倫理問題
としては浮上しくるのである。
だが「死の自己決定」をしない自由も担保されなければならない。すなわ
ち、提供の有無を明記したドナーカードの携帯を義務化・強制される謂われは
ないのである。その場合、臓器提供に関して言えば、その提供の意思なしと見
做すのが当然であると考える。
5.私の立場
現状での、「脳死の人」からの臓器移植は人権侵害の可能性が高いという認
識において、私は反対である。それは臓器移植を前提にした場合、医師によっ
て脳死状態が「操作」される可能性が高いからである。しかし、これはよく
「管理」された心臓死からの臓器移植という問題も、実は隠蔽されているの
で、心臓死の場合でも人権侵害の可能性はゼロとは言えないが、脳死よりは透
明性が高いと判断している。よって、ケースバイケースで心臓死からの臓器提
供には、必ずしも反対はしない。
またドナーカードを持つことによって、救命救急活動が疎かになる可能性が
高いことから、携帯にも反対である。加えて「脳不全状態」あるいは「不可逆
性昏睡」をことさらに「脳死」と呼ぶことで、死の承認および臓器提供を強要
しているパフォーマティブ(行為遂行的)な用法にも反対する。
以上のことを踏まえ理解した上で、それでも臓器提供をするという、まった
く恣意的な自己決定には私は反対できない。また社会は、そこまでパターナル
であるべきではないとも思う。
それでも上記の人権侵害のリスクを回避するために付言すれば、「脳不全状
態」が明らかになるまでは、臓器提供の意思表明はしかるべき第三者によって
本人以外には厳重に秘匿されべきである。またこの自己決定の変更が、柔軟に
できるシステムも必要である。
だがこれだけの環境整備に公的資金を投入するよりも、人工臓器や自己再生
臓器の開発費に投入したほうが、よほど社会的メリットは大きいのではない
か。
【参考文献】
美馬達哉「「脳死」と臓器移植」(『医療神話の社会学』所収・世界思想社)
池田清彦『臓器移植 我、せずされず』(小学館文庫)
近藤誠・他『私は臓器を提供しない』(洋泉社y新書)
森岡正博『生命学への招待』(勁草書房)
森岡正博『脳死の人』(福武文庫)
笠井 潔『国家民営化論』(光文社・カッパサイエンス)
笠井潔・小松美彦「他者・共同体・死」
(『情況 1996/11号』掲載・情況出版)
小松美彦『死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ』(勁草書房)
立岩真也「空虚な〜堅い〜緩い自己決定」
(『現代思想 1998/07号』掲載・青土社)
『「脳死」ドナーカード 持つべきか、持たざるべきか』
(『いのちジャーナル』別冊MOOK1・さいろ社)
加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』
■プロフィール■-----------------------------------------------------
1953年、愛媛県松山市生まれ。3社の出版社を経て7年前に独立。専門書の販
売促進から企画・編集・製作を業務とする「るな工房」を営む。隔月刊誌『カ
ルチャー・レヴュー』および季刊紙『La Vue』編集・発行人。「哲学的
腹ぺこ塾」世話人。Web「Chat noir Cafe′」の黒猫房主として、リアルの黒
猫房開店を模索中。
●●●●インフォメーション●-----------------------------------------
第15回「哲学的腹ぺこ塾」例会
日 時:00年11月19日(日)午後2時から
課題書:アリストテレス『心とは何か』(講談社学術文庫)
報告者:中塚則男
場 所:るな工房/Chat noir Cafe′
問合先:山本繁樹(TEL:06-6320-6426/E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp)
●●●●インフォメーション●----------------------------------------
「御着加桜俚展」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~maoniao/gochaku/index.html
●日 時:00年11月18日〜29日(木曜休/10時〜19時)
●場 所:加古川市「アートサロン ロロ」TEL:0794-20-4860
兵庫県加古川市平岡町新在家1463-1
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カルチャー・レヴュー』別冊02号
2000/11/01
編集委員
いのうえなおこ・小原まさる・田中俊英
加藤正太郎・山口秀也・山本繁樹
発行人:山本繁樹
発行所:るな工房/シャノワール・カフェ
E-mail:YIJ00302@nifty.ne.jp
http://member.nifty.ne.jp/chatnoircafe/index.html
〒533-0022 大阪市東淀川区菅原7-5-23-702
TEL/FAX 06-6320-6426
■流通協力「まぐまぐ」 http://www.mag2.com/
■流通協力「Macky」http://macky.nifty.com
Copyright(C), 1998-2000 許可無く転載することを禁じます。
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■本誌は「投げ銭システム推進準備委員会」の趣旨に賛同します。
http://www.nagesen.gr.jp/〈投げ銭フリーマーケット稼働中〉