ソウル中心部にあって日本人観光客にもなじみの深い南大門(正式名・崇礼門)の木造二階建て楼閣が、全焼し崩壊した。韓国の国宝第一号であり残念というほかない。
南大門は、朝鮮王朝の太祖李成桂が都城を整備した際に関門の一つとして一三九八年に建設された。石造アーチの土台の上に、美しい彩色の楼閣を載せた構造で、ソウル市内に残る木造建築としては最も古い。
豊臣秀吉による文禄慶長の役や朝鮮戦争の動乱でも生き残り、市のシンボル的存在だっただけに国民の嘆きは深い。現場には数百人が集まり「民族の自尊心をなくしてしまった」と号泣する人も出た。白い菊の花を供える人が相次いでいる。
警察は、以前にソウルの旧王宮・昌慶宮の一部に放火し執行猶予中の韓国人の男の身柄を確保した。男は、所有地の補償問題や前回の放火での判決に不満があり「警備が手薄な南大門を狙った」と放火を認める供述をしたという。
首都の国宝を守れなかったとして韓国文化財庁の管理態勢を非難する声が高まった。同庁のホームページには抗議の書き込みが相次ぎサーバーが一時ダウンしたほどだ。同庁長官は辞表を提出した。
防火態勢の不備が次々と指摘されている。現場には消火器が八個置かれていただけで、スプリンクラーなどの消火設備がなかった。夜間は無人となり、不審者の出入りが可能だった。
消防の不手際にも批判が集まった。出火直後に鎮火と誤認し活動を縮小し、くすぶっていた火が楼閣全体に延焼する結果となった。さらに文化財の破損を恐れ、屋根瓦の一部を解体して内部に放水するのが遅れた。
貴重な文化財を放火から守るには、煙や炎を探知するシステムも必要となろう。火を付けられたとしてもすぐ消せる消防態勢を整えておくことも大切だ。
国宝炎上は、日本でも起きている。一九四九年一月二十六日、奈良・法隆寺金堂の火災では、千三百年前の国宝壁画が焼損した。翌年には京都の国宝・金閣寺が、放火によって全焼した。
法隆寺の火災は文化財保護法が制定されるきっかけとなった。文化財防火デーもこの日に決まり、国は文化財の防災訓練実施を自治体に求めている。ところが文化庁の調査で昨年、防災訓練が全国半数以上の市町村で実施されていなかったことも明らかとなった。韓国南大門の火災は、木造文化財の多い日本にとって決して他人事ではない。文化財保護の他山の石としたい。
二十一世紀になって独立した東ティモールで、ノーベル平和賞受賞者ラモス・ホルタ大統領が反乱勢力に銃撃されて重傷を負った。国家安定の前途多難さを見せつけた。
大統領は首都ディリの自宅で襲われた。襲撃したのは反乱勢力の指導者レイナド少佐らで、大統領の護衛の応戦によって少佐は死亡した。大統領と二人三脚で国づくりを進めているグスマン首相の車も別の場所で銃撃を受け、首相は手に軽いけがを負った。
東ティモールは、二〇〇二年五月にインドネシアから独立した。だが、〇六年に西部出身の憲兵隊長レイナド少佐率いる将兵たちが、東部出身者に待遇で差別されているとストライキを行い、除籍処分を受けると暴動を起こした。反乱勢力は山中に潜伏し、政情不安を招いている。
グスマン首相は事件後記者会見し「民主国家転覆の卑劣な試みは失敗した」と述べ、国民に平静を呼び掛けた。反乱勢力は指導者の死亡で弱体化するとの見方が強いものの、事件で国内が混乱しかねず先行き予断を許さない。
治安が安定しなければ、農業を中心とした経済は悪化し、国家としての自立が進まない。国連安全保障理事会は今回の事件を受け、大統領と首相への攻撃を非難する議長声明を全会一致で採択した。潘基文事務総長も「残忍で、言葉では言い表せない攻撃」と強い表現で批判した。
東ティモールは、国連管理下の住民投票で独立を決めるなど国際社会の援助に支えられてきた。〇六年の政情不安後、撤退していた国連平和維持活動(PKO)も再開された。国際社会は、東ティモールの安定に向け、一段の支援強化と粘り強い取り組みが必要だろう。
(2008年2月14日掲載)