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ウィキペディアの有用性について

 評論家の小谷野敦が、ウィキペディアの編集にハマっているそうだ。


《どうも先日から、ウィキペディア編集にはまっている。というのは、検索していて「東京大学の人物一覧」に奇妙な現象が起きているのに気づいたのがきっかけである。これは東大出身者の一覧なのだが、なぜか、拓殖大学、高知大学、神戸大学、京大の助教授や教授、電気通信大学名誉教授の名がやたらと書き込んであったのだ。中には、私が知っていて、著書など一冊もない人もいたので気づいたのだが、調べてみると、とてもそこに載せるほどの人物とは思えないので、適宜削除した。あるいは「教育学」の欄に、代々木ゼミナール講師の名前をじゃかじゃか書き込んで、項目まで立てているやつがいて、削除提案が出ている。たわけが。

 そりゃ「東大出身者」なら私は何人も知っているが、それがたまたま大学の先生だからといってあそこに書き込んじゃいかんだろう。ある程度、載せる価値ありと見極めてから書き込むものだ。

 で、前から、サブカルチャーに関しては「コロニー落とし」について詳細な記述まであってサブカルチャー百科と化しているウィキペディアだが、正統的文化についてはお粗末千万なので、少し補充しているというわけ。 》


 小谷野は東大文学部卒。


《それで先日、「東大駒場騒動」のところで、「当時は中沢に同情する声が多かったが、その後の当人の無責任な言動のため今では世間の見方が変わっている」と書いたら、「要出典」とか言われ、いつの間にか削除されていた。

 さらに、「島田裕巳」の項を見たら、オウム事件における島田の責任が論じられていて、じゃあなんで中沢はいいんだ、と書いてなかったから書き足しておいたが、〔後略〕》


 そのウィキペディアで小谷野自身を引いてみたら、編集が「保護」されている。
 「ノート」を見ると、本人も登場し、ちょっとした騒ぎになっているようだ。


 先日、私が宮沢喜一についての記事を書いた際に、ウィキペディアで「宮澤喜一」の項を参考までに見たところ、次のような記述があった。


《学歴への執着
 学歴に異常な執着を持つ上に、母校東大への執着が強く、後輩議員や新聞記者たちに学歴を事細かに聞き、東大卒でないと露骨に馬鹿にするので非常に嫌われていた。

 早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会をそれで敵にまわしたといわれている。宮澤が竹下登と初めて会ったときに「(東大法学部の)何期生ですか?」と尋ね、竹下は「早稲田です」と返した。そして宮澤は「じゃあ、政経(政治経済学部)ですよね?」と言い、竹下が「いえ、商学部です」と返したところ、宮澤は竹下のことを鼻で笑ったという。また、温厚な竹下が、宮澤から「貴方の頃の早大商学部は無試験だったそうですね」といわれたことを「許せない」と言っていたというエピソードを、佐々淳行が伝えている(『後藤田正晴と十二人の総理たち』)。

 所属する宏池会の親分であった大平正芳(東京商科大学(現在の一橋大学)出身)さえ、この様な陰険な性格を持つ宮沢に好意をもてずにいた事は広く知られている。とはいえ、最近は昔のような東京大学の圧倒的優位の時代は終わり(宮澤以降の首相は現在まで8人連続で私大出身者)、宮澤の息子は早稲田大学理工学部を、娘は慶應義塾大学法学部をそれぞれ卒業している。また、宮澤の岳父は早稲田大学名誉教授である。》


 上記のものと似たようなエピソード(東大であることを前提に、卒業年次を聞いて、学部を聞いて、さらに東大以外だとなると大学名を聞いて、早稲田の政経クラスでないと、もはや相手にしないという)は、私もどこかで読んだことがある。宮沢の生前からのものだから、おそらく事実ではないだろうか。
 宮沢の人物を知る上で大変参考になるエピソードだと思えるし、後段の「東京大学の圧倒的優位の時代は終わり・・・・・・」といった一節は宮沢自身との関連は薄いが関連性はあるし、何ら問題ある記述だとは感じなかった。
 ところが、一昨日、私の宮沢についての記事に対するコメントにさらにコメントする際に、もう一度ウィキペディアを確認したところ、上記の箇所が丸々削除されていた。
 「ノート」を見ても、削除についての理由は特に記されていない。

 私はこれまでウィキペディアに記事を書いたことはないが、自分がそれなりに考えて書いた記事が、何の理由も明示されずにいきなり削除されたら、不快だろうなあ。
 ウィキペディアの編集のルールとはそれを許すものであり、それに不満であれば「ノート」で議論せよ、ということなのだろう。
 しかし、元の執筆者がその削除に気付かなければ、削除がそのまま通るということになりかねない。

 ウィキペディアは、たしかに、ある程度は役立つと思う。
 私はよく、人物の生年や没年、それに著名な歴史上の事実の年代を調べたりするのに重宝している。
 また、ほとんど予備知識がない人物や事項の概略をつかむのにも便利だ。
 しかし、全ての記述のひとつひとつが十分信頼に足るものかとなると、疑問に思えるケースも多い。
 また、個々の記述それ自体は正しくても、全体とのバランスという点で、不要に思える記述もある。
 ウィキペディアでは、記述が不十分な項目(「スタブ」というらしい)について、次のような注意書きが付けられている。

《この項目「○○○○」は、調べものの参考にはなる可能性がありますが、まだ書きかけの項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。》

 しかし、ウィキペディア全般について、同様のこと、つまり「調べものの参考にはなる可能性があ」るということしか言えない水準だと思う。
 何故なら、100人中99人が賛成するであろう記述について、残り1人が反対であれば、その1人はその記述を書き換えることができる。そして99人がその書き換えに気付かなければ、その書き換えは維持されてしまう。その間その書き換えを読んだ者により、その記述が拡大再生産されていく可能性がある。
 そして、閲覧頻度が低い項目については、誤りや偏った記述がまかりとおってしまう可能性があるだろう。
 ウィキペディアの支持者は、誤りがあったとしても一般の百科事典と同水準だと述べていると読んだ覚えがあるが、そんなものとは決して思えない。

 ウィキペディアは、興味深いプロジェクトではあるが、欠点もまた多く、私は参加したいとは思わない。
 結局、自分にとって重要な情報は、自分自身の手でこまめに確保していくしかないのだろう。

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