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2008-02-14 (Thu) ブログで思うこと

[][]批判について 09:36 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


批判は、理性的、論理的に、するべくしてするものであり、批判という言葉も、批判という行為もないがしろにするわけにはいきません。

批判という言葉を一義的に、

「建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」


と、捉えるとしたら、批判の必然的にたちあがってくるところ、止むに止まれぬ気持ちでされる批判をないがしろにするものになってしまいます。

誹謗中傷の隠れ蓑に使われるというのならば、誹謗中傷を排除するべきであり、「批判をしてはいけない」のではありません。

批判をいかに生かすかは、ひとにかかっています。

理性的、論理的にされた批判が誹謗中傷、反目を生むとしたら人間の弱さだとしか言えません。

まづは、批判の内容を客観的に検討する必要があります。

「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように。

アサーティヴなコミュニケーションを心がけることから「批判をしない」コミュニケーションはあり、日常的な対人関係としては分かりますが、それがどのような場合にも当てはまるとはいえません。


会社や、社会、国、学校というような個人を取り巻く、より大きな力からの個人に対する分析、評価、また批判は、トータルな個人としての存在を歪めてしまう可能性がありますし、精神を冒すという無視できない現実があります。

力が均衡でないだけに個人の存在を歪めてしまいかねない批判は否定されるべきです。

しかし、一対一、あるいは信頼関係における論理的な批判は、ときに必要ですし、言葉によって論じている学問や学説、作品にとっては重要です。

だからこそ、「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように、あえて、否定的な内容である批判が歓迎されるということになり、歴史的にも学問や学説、作品が磨かれる上でも必要なものだったのです。

また、より巨大な力に対するジャーナリズムは、権力のチェック機能として、批判というものがなくては成立しません。


批判は、物事の解決、克服のためにこそされるべきであり、誹謗中傷や反目を生むとしても「批判」という言葉に責任はありません。

批判という言葉を遺棄したからと言って、問題は解決しません。

「批判は容易」と、言うとしたら、その人の批判というものの認識レベルはとても低いものなのでしょう。

容易な批判しか知らないか、批判せずにいられない切迫した状況にないからに違いありません。

本来、批判は容易にできるものではなく、容易にできる批判ならば、どんどん放棄するべきなのです。


論争や反目を生むことはありますが、論争と反目を同じレベルで考えるのは間違いです。

論争は生んだ方がいいとも言えます。

論理的、理性的批判による論争は淘汰されてゆくはずです。

また、解決に結びつかないことはあったとしても、その時点での解決にはならなくとも、長いスパンで見れば批判が有効であったということはよくあります。

批判から反目が生まれるとしたら、人間の弱さだとしかいいようがありません。

それは無視できない事実ですが、そのことは、むしろ内在している自らの弱さに気づく契機になるということもあります。

そのときにはただ、相手を憎んでいたことが、時間の中で冷静に客観的に見ることができるようになり、受け入れることができるということもあり、それは決してマイナスではないのです。

それもまた、人間の力ですね。

人間はそれほど強い生きものではありません。

それでも、人間は強くなれる生きものなのです。

自分を含めて、批判されて、そのことに耐えられる人は多くはありませんし、たいがい、感情的になって、関係は壊れることの方が多く、たとえその批判内容が正しくてもいい結果にはならないと考える人は多いかもしれません。

たしかに、一般的にはそうなのですが、批判に相応の正当性があるのならば、批判を受け入れるということはできないものだろうかと思います。

それは、容易なことではありませんし、なかなかできることではないのですが、それが批判をよりよい意味で生かし、批判に報いることだろうと私は思います。


批判が否定的内容を語る、ということはたしかですが、批判という言葉を多義的に捉え、批判の必要性について考えてみることは、とても大事なことだと思います。


[]黒木ルールについて 09:36 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント


期日限定でアップした「欺瞞に抗して」コメント欄で、黒木ルールは不公平なルールであるというご意見がありましたが、誤解があるとおもいます。

反論者のみが自己紹介を要求されるのではなく、議論をするなら、自ら自己紹介をしましょう。と、いうことです。

当然、反論者のみではなく、発言者も、反論者に反論する人もです。

ブログ管理者は、そのブログをもって自己紹介相当となります。(ただし、実質的なブログ内容があること)


また、「リスクをおかせ」とリスクを強要しているのではなく、自己紹介をした発言者は、リスクを背負っているので、反論するのならば、同等にリスクを背負ってしましょう。

それが公正な立場に立った議論だという意味です。

何らかの事情で、自己紹介ができないのならば、感想、意見にとどめておくべきでしょう。


また、黒木ルールが不公平ルールであるというご意見には、反論がなかなか生かされない、反論をする者は荒らしだと認定される。

発言者に同調した意見であれば、反論者を批判した匿名のものでも取り上げるにもかかわらず、という不満があるのではないかと思います。


しかし、それは黒木ルールにのっとっているのではなく、ブログ管理者の恣意に任せているということです。

私が止むなく議論になった場合も、ブログ管理者以外は、匿名でした。

実際には、黒木ルールで、議論していることはまれで、それが今のネットの状況です。

A.KirishimaA.Kirishima 2008/02/14 20:00  こんばんは。

 一応突っ込んでおきますね。よーく、よーく、よーく読んできました。
 何故「匿名はだめか?」という理由は単純に言って2点。「間違えたものは恥をかけ」って事と、「説明にはどうしても曖昧な部分が出てくる。細部の説明者が特定できなければしょうがない。」ということ。僕のような内容至上主義者に関する警告は後者ですね。ただし、これっていわゆる「ネチケットが守られている」こと、「議論する姿勢があること」が大前提であるせいか、そちらにはあまり言及されていませんね。


 さて、何故僕が不公平ルールだと言って、azamikoさんが公平なルールといったわけがわかりました。黒木氏のアレは、僕が言っていた案その2に当てはまる事であるため。もう1つおまけに、「ある意味絶対者が議論の外にいる」という事ですか。

 まぁ、「管理人が例外として認める場合がある」っていう時点で既に噴飯もの。ルールと呼ぶ事もおこがましいもの。ルールという言葉への冒涜ではありますが。まぁ、それはどうでもよくないですが、今はどうでもいいとします。

 前もどなたかに言われていましたが、議論になりそうになる前に「このブログにおいて議論にするならこのルールに従ってもらう」という予め作っておいたテンプレートを載せる事が肝要でしょう。事後法なんて普通、誰も従いませんので。
 現実的なものはエントリー1つ分にテンプレートを載せ、世間一般で色々意見が出されている事をエントリーに出す際、ルールエントリーの誘導も載せておく事と考えます。
 一応、これ案であって反論でも何でもないことを表明しておきます。

 あぁ、それと、azamikoさんがやむを得なく議論になった場合っていつのことですかな?9月のあの時、ブログを晒したものが数名いたことから、アレはやむを得ない場合じゃないって解釈でよろしいので?

 追伸 論者ではなく、「情報提供者」は匿名であっても認めると、黒木氏のアレにありましたね。この辺がおそらく不公平と言われる所以の1つかと。前例有りますし。

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