記者の目

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記者の目:消費者は甘やかされる存在なのか=中村秀明

 福田康夫首相が打ち出す「消費者行政の一元化」を具体的に検討する有識者会議が初会合を開いた。あいつぐ食の偽装などを受け、いくつかの省庁にまたがる消費者行政を一本化するという。「目指す方向は歓迎する」との評価もあるが、私は基本的な発想に疑問を感じる。いま必要なのは、消費者をますます無責任で無防備な存在にしてしまう「保護」ではなく、役割と影響力を「自覚」させることだ、と思うからだ。

 そもそも、行政組織を一元化すればうまくいくという考え方はおかしい。とうに担当の役所が一元化されている年金制度や薬事、環境、税制などがどれだけうまくいっているのか。自民党消費者問題調査会の後藤田正純事務局長は「これがあればギョーザ中毒事件も、薬害肝炎も、英会話学校NOVAの問題も起きなかった」(3日朝刊「闘論」)と語るが、「後手後手」「怠慢」といった機能不全の原因を、役所の組織形態や権限の切り分け方に求めるのは筋違いだろう。

 それだけで消費者庁構想は、選挙目当ての政策と片付けるべきだが、民主党も国会指名による「消費者保護官」の創設を言い出した。与野党そろって、消費者にすり寄る姿勢には違和感がある。消費者はそんなに偉いのだろうか、甘やかす存在なのだろうか、と。

 米国のラルフ・ネーダー氏が自動車会社の安全軽視を糾弾した60年代や、官僚から消費者運動に転じた竹内直一氏が日本消費者連盟を作った70年代。消費者は社会制度の、経済構造の不可欠な一員であることを訴え、世の中を変えようと働きかけた。不正を告発するには、専門知識も含め勉強が欠かせなかった。

 ところが80年代の半ば、「消費者ニーズ」という言葉が大手を振り始めると、おかしくなった。消費者は学ばなくなったし、買うという行為以外で働きかけなくなった。生産者の側に、ニーズをくみ取ることが求められ、できないのは努力が足りないとされたからだ。生産者はニーズを「安い」「便利」「手軽」に単純化し、消費者を「神様」「王様」とおだて、わがままを増長させた。

 減反を進めてもコメが余り、食料自給率が40%を切った理由は、「日本人の食生活の変化」「経済の国際化」と言われる。だが、実際は社会全体が「消費者ニーズ」に必死で応え、やりすぎのレベルまで突き進んだ結果とは言えないだろうか。中国製ギョーザの農薬混入は怖い話だが、1500キロ離れた外国の工場で半年以上も前に製造され、冷凍保存した食品を口にすること自体、無理がすぎるというものだ。

 食品だけではない。再生紙の偽装も、消費者に問いかけている。古紙配合率を実際よりも高く偽った理由を問われ、製紙各社は「顧客の求める品質が保てなかった」とうなだれた。ニーズを満たす技術を開発できず、安易な表示偽装に走った。では、各社が正直に申し出た時、消費者が望む白さや印刷の鮮明さ、丈夫さがなくても、「環境を守るために受け入れる」と言えただろうか。

 途上国の劣悪な労働条件下で製造された商品を排除する「フェアトレード」や、生産地から食卓まで食料を運ぶエネルギー消費を問う「フードマイレージ」に、関心のある人はどれくらいいるだろう。「個人の消費行動が企業や社会に影響を与え、動かすことができる」と考える人は? 企業に「需要があるのでそうせざるを得ない」「消費者の意識はそこまで高くない」とか言われていることを思えば、消費者は買うだけの無知な存在と見くびられているのかもしれない。

 福田首相は「生産者重視の行政を消費者重視に転換する」との主張を就任後から繰り返している。この場合の生産者とは、大企業経営者か、それとも農家、漁師、近所の商店主、町工場の経営者なのか。彼らは敵なのだろうか。生産者と消費者を対立の図式に置き、敵意をあおる人こそ、敵なのではないかと思う。むしろ、今ほど、消費者と生産者とが手を結ぶことが求められている時代はないのではないか。

 九州で農業を営む作家の山下惣一さんは著書「農家の主より消費者へ」で、「消費が生産をつくるのである。その逆ではない」と書き、農業がゆがんでいるとすれば、それは消費者のゆがんだ欲望のせいだ、とも指摘した。1990年のことだ。時間をむだにしたかもしれないが、まだ遅すぎることはないとも思う。本当の「神」や「王」なら保護はいらない。その名にふさわしい自覚と賢明さこそが必要なのではないか。(大阪経済部)

毎日新聞 2008年2月14日 0時03分

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