TOKYO見聞録
東京まち歩き名人森まゆみさんの「大阪不案内」に対抗するわけじゃないけど、大阪人が東京のまち歩きで感じたことを不定期に探訪記「TOKYO見聞録」として勝手にお送りします。ご迷惑でしょうが、お付き合いください。
3.公園と水
1.湧水池を囲む公園
東京都内を流れる川の多くは、武蔵野台地湧き出た池を源流に持ちます。神田川には井の頭池、石神井川には石神井池(石神井川の最上流は小金井公園、善福寺川には善福寺池(上の池・下の池) というように、いずれも海抜40~50メートルあたりのところに池があります。いずれも池の周囲は公園になっています。
また、不忍池は本郷台地と上野台地にはさまれた窪地にできた池。この池には何本かの細い川が注いでいました。その一つが、谷中と千駄木を分ける「へび道」です。とりわけ両町の二丁目あたりが、通り道としては異常なほど蛇行していて、元は川筋であったことがわかります。千駄木の須藤公園や根津神社の池、東大構内の三四郎池などは、本郷台地の湧き水でできた池でした。
須藤公園
2.堀、河川を改修した公園
1960年代、東京はオリンピック開催のために高速道路はじめ一般道建設のために、多くの河川が埋め立てられました。その後も江東区や墨田区の堀や貯木場が埋め立てられ続けました。そして、一部は公園となり、そのまた一部には人工のせせらぎが造られます。本格的な造園工事を行い親水公園として整備されたものもあります。
○ 音無親水公園(東京都北区)
音無橋と親水公園
音無親水公園
都市河川と人の関係では、石神井川のJR王子駅、飛鳥山公園の西北あたりがちょっと見ものです。このあたりの石神井川はかつてU字に褶曲していたのですが、緩やかな曲線に改修したあと、褶曲部分の多くは公園として整備されました。また、音無橋の下は深い渓谷になっていますが、都は88年にここを音無親水公園として整備しました。
都電荒川線が走る道路からこの親水公園までは15メートルくらいの高低差があり、橋から公園にいくには100段ほどの階段を降りなければなりません。この底から見る音無橋は、神田川をまたぐ聖橋とよく似たデザインで、けっこう絵になります。でも、公園のしつらえはもうひとつ、つまり造りこみすぎて、親しみを感じさせないのです。実際、日曜日でも人通りがほとんどありません。置かれている水車も流木もわざとらしいし、水が流れているのは管理が可能な親水公園の西半分のみで、東の部分、つまり王子駅方面は、水が断じられています。親水公園といいつつもハンディを持つ人が利用するには、低くなっている王子駅側からしかは利用できません。
ここは風景として見る公園のような気がします。
○
古石場親水公園(東京都江東区)
江東区の本所・深川・木場は、江戸時代、多くの掘割が開削され、貯木場が造られた場所です。戦後、その役割を終えたとして今度は水面が埋め立てられていきます。
大横川の南を東西に流れる石場川も埋め立てられた川の一つで、今は全長870メートルの「古石場親水公園」になっています。
江戸時代、この川一帯は石材業者が集まっていて、この石場川を使って舟で石材を江戸のお屋敷に運んだようです。また、運河に北側はお屋敷街で、この屋敷にボタンが植えられていたとか。今日、川の北側は牡丹、南側は古石場という地名になっています。公園には、数多くの牡丹が植えられ、プロムナードも川も石が敷き詰められています。江戸期の地域の姿を親水公園に託したということでしょう。
親水公園へのアプローチの多くは橋のたもとの階段です。関口橋から公園に降りました。埋め立てられた川跡には、再び小規模な人工川が造られています。安全を優先したせいか水深は20センチほど。処理水を流しているせいかどうかわかりませんが、見た範囲では川には水草は生えず魚や昆虫も見当たりませんでした。
埋め立て後に建築されたマンションは、公園側から見ても綺麗な化粧を施しており、親水公園との関係を考慮しているようです。
また護岸のコンクリート面は、ギャラリーと称して小学生による絵が描かれています。この手法は一時期はやりました。環境造形やパブリックデザインの視点からは、環境造形は一定の質の確保が必定です。多くの絵は個人の表現こういであり、絵を描いた当人には思い出になるのでしょうが、空間や環境を意識していないので、どうもしっくりきません。また、時間とともに朽ちていくことがわかっているのに、設置者はアフターケアをしません。まったく環境秩序を乱しています。
五月の日曜日(小雨)に歩いたのですが、子どもたちの遊ぶ姿も大人の利用者もほとんどありませんでした。夏場には水遊び場ができるそうです。
私は、親水という観点からいえば、江戸時代の川の使われ方ように、できる限り人が使い込める状況にもどすべきだと思います。川はそこに住む人の商売の場所、生活の場所、往来の場所、そしてみんなで守る空間であるべきです。
現代人に合ったウオーターコンシャスな生活環境を描いてみましょう。
川に面した住宅には、駐車場のように駐船場を設置できるようにすれば、小船(乗用車と同じ規格でいいと思います)を使った暮らしができます。小船はエンジンを使わずモーター駆動にすれば、川の汚染も少なくなります。自転車のような自転船、手漕ぎボートもほしいところです。川面をフロントにするスターバックスやレストランなどお店もできてくると、「ちょっと船で行こうか」という暮らしができてきます。川面のマンションですと中庭に川とつながった入り江を設けると、そこで子どもたちは虫や魚取り(取っちゃだめ、観察だけなんて大人の考えです)もでき、自然との接点が飛躍的に向上します。明治以降、川を産業のものにしたために川が汚染されたわけで、一人一人の水辺ならきっと綺麗に維持されるでしょう。もっともなんでも「水に流」したり、「水臭い」やつもいるニッポンですから、一定の水環境の保護・維持策は必要です。
そのような使われ方ができてこそ、親水であり、水都であるといえます。
3.造られた川を持つ公園
江東区清澄にある清澄公園は、もと久世大和守邸、戸田因幡守邸(本所深川絵図)、その後岩崎別邸となり、邸園(有料 1932年開園)と公園(無料 77年開園)からなる広さ約8万1千平方メートルの公園です。ここには、江戸時計塔の下から通称「ジャブジャブ池」を経由する人工川が流れています。が、川が流れるのは夏場だけで、ふだんは枯れ川です。
同じような夏季限定の川は、山谷堀公園にも見られます。緑道に沿って幅1メートルほどの石造りの人工川があり、夏場だけ水が流れるのだそうです。ここには、「川の流れやせせらぎ内で洗たくや身体を洗うのはやめてください。公園課」という立て札がありました。山谷堀は吉原の北を流れる川だったところで、橋が少なく渡し舟が人を運んでいたと、地元老人が語っていました。
山谷堀公園
公園内に人工川を設置するのがトレンドかも知れませんが、維持管理費がかさみ、いつの間にか枯れ川になってしまい、子どもや地元の人たちにも利用されなくなってしまうケースがあります。
2.東京大渓谷(神田川)
起伏の多い東京のなかで、とても勇壮な渓谷がある。その場所は、JR御茶ノ水駅付近の神田川である。江戸期には仙台堀と呼ばれ、一部では「御茶ノ水渓谷」とも呼ばれている。
神田川は、標高47メートルの井の頭池を源流に隅田川に注ぐ、約25キロメートルの一級河川である。蛇行しながら流れる上流に比べて飯田橋駅あたりから下流は、丘を無理やり突っ切っているようで、地理上も少し不思議な流れになっている。
中央通の万世橋その西にある昌平橋あたりでは平川なのに、その上流たったの200メートルJR御茶ノ水駅周辺で、この大渓谷となる。駅から北側を眺めても神田川が深い渓谷を成していることがよくわかる。でも急流じゃない。大都心でこのような渓谷を眺めることができるのは、世界でもまれだろう。
地図を見ると昌平橋辺りから御茶ノ水駅まで、南に淡路坂、北に相生坂がある。川面の上を東京メトロ丸の内線が斜めに横切るが川を越せばすぐにトンネルに入ってしまう。川の南斜面をJR線が走り、さらにその上を聖橋と御茶ノ水橋が架かる。聖橋の北には学問所の湯島聖堂が、南にはニコライ堂(東京復活大聖堂)があり、湯島聖堂の西には東京医科歯科大学、順天堂大学が並ぶ。
神田川が溢れたら地下鉄は排水路になりそう。そして、中央線がすぐその上を通る。すごい密度
深く刻まれた渓谷の北側はうっそうとした緑の帯で覆われ、小鳥や虫のさえずりに電車の走る音が加わり、都市ならではの環境を形成している。
東に2キロメートルもいけば隅田川に注ぐというこの場所に、この渓谷は不自然と思っていたら、江戸初期に伊達藩が、本郷台地を切り開いたという人工川であるとのこと。それまで神田川は、水道橋駅の西の三崎町で日本橋川に流れ込み、これが時折洪水を起こしたらしい。外堀が洪水を起こすようでは、江戸の統治もままならないということであろうが、神田山という本郷台地の山をぶっちぎって渓谷に変えた馬力はすごい。
聖橋方面 左が昌平坂学問所、右が御茶ノ水駅 わずか200メートル東は普通の都市河川
御茶ノ水駅の東側ににかかる聖橋は、関東大震災復興事業の一環として昭和2年に造られ、湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶ橋であることからこの名が付けられた。非常に造形的な橋であるが、同年大阪では武田吾一設計の堂島大橋が、4年には伊藤正文デザインの水晶橋ができていて、当時の大阪人から見ればそのデザイン力も「なんじゃい」ってところだったかもしれない。
御茶ノ水橋方面 川の左岸は木々がうっそうと茂る
その上流、御茶ノ水駅に西側には鉄橋の御茶ノ水橋がかかる。こちらはシンプルモダンなデザイン。二つの橋は渓谷の風景を形成しているが、その対称的なデザインには面白いという人もいるが、私は修景の事など何も考えずに造ってしまったとみる。高速道路を除けば、通常、橋は見上げられるものではないが、御茶ノ水駅からはどちらの橋も見あげることができる。こうなると、設計者には裏側にすきを作ってはならないという緊張感があったかもしれない。
東都御茶之水風景(北寿作)を見ると、切り開かれた斜面は土のまま、ところどころに草木が生えている程度であった。渓谷ごしに富士山が描かれている。当時からここは絵になる場所だった。
水道技師バルトンが、1890年、建設中のニコライ堂から撮影したパノラマ写真をみても川岸の斜面にはほとんど木が植わっていない。草が茂る斜面が続く。
明治期以後、神田川は何度か護岸工事がなされ、土の斜面は石やコンクリートで覆われてきたが、人工物も年月を経るとともにやがて自然が淘汰し始める。今日、うっそうとした樹木が大渓谷を覆っている。自然界の多くの大渓谷同様、神田川大渓谷も人が水面に近づけないが、風景として人の目を十分に楽しませてくれる。それにしても、スペイン坂やキラー通など何かと名前を付けたがる東京人がどうしてこの大渓谷を命名しないのだろう。
一度、御茶ノ水から四ツ谷まで歩いてみませんか。
2005.03.22
参考WEB http://www.kitada.com/keiko/surugadai.html
1.深川・木場
東京が水都だと強く感じるのが隅田川の東、荒川までの墨田区と江東区である。永井荷風は、「すみだ川」(明治42年発表)で人の生き方を描いたが、地名をふんだんに用いて江戸風情が残る墨田の地を字間から鮮やかに想像できる作品に仕上げた。
「夕炎の川向うに待乳山と金龍山の五重塔を眺めて、都鳥の浮き沈みする墨田川に帆かけた舟の通っていく名所の景色が、江戸気質の風流心を動かすにつれて、酒なくて何の己れが桜かなと、宗匠は急に一杯傾けたくなったのである。」などと。
1659年(万治2年)本所築地奉行の新設とともに、本所・深川中心とする墨東一帯は開発が促進され、縦横に掘割が開削された。南北に流れる水路を「横」としたのは江戸も大坂も同じで、南北に江戸では大横川が、大坂では横堀川が流れる。木場が木材の流通の中心としてまず栄え、そして煮干問屋、佃煮産業なども起こり、さらには深川仲町にも岡場所ができ、小粋な小紋に繻子の帯姿の深川芸者が木場のいなせな男たちの心をとらえ、銭もとらえて歓楽街としても発展していったそうな。水辺の話題に戻すと、都市化とともにこの地の掘割は明治末期には相当汚染していたようで、「すみだ川」には亀戸あたりの「掘割は丁度真昼の引汐で真黒な汚い泥土の底を見せている上に、四月の暖かい日光に照付けられて溝泥の臭気を盛んに発散している。」とも記されている。掘割によって町が開発され、掘割に関係する仕事が生まれ、ここに住む人びとの暮らしを支えていたにもかかわらず、早くも江戸期から掘割にごみを捨て、戦後は掘割に高速道路を通したり掘割を埋め立ててきた。そして近年では、埋め立てられた掘割に木場親水公園を造ったり、大横川・仙台堀川では、春の桜の季節に花見船(ボートや和船)が出ていて、人と水の関係がよくなりつつある。
さて、ならば、住民の掘割への愛やいかに?
水の都を考えるといき私は水辺が綺麗になることと人の心との関係が気になる。
墨東の縦横に張り巡らされた掘割の中心が木場である。木場は江戸期に木材の供給地として開け、墨田川や荒川を経由して運ばれてきた木材の貯木場があった。その機能が新木場に移ったため、貯木場を埋め立て防災拠点として木場公園が整備された。その北側に一角には都立現代美術館がある。美術館も魅力的だが、今回は掘割に注目し木場を歩いた。
地下鉄東西線木場駅を降りて大横川に向かう。大横川は墨田区業平橋から木場に至る南北の幹線掘割であったが、墨田区側は埋め立てられ、今は隅田川と旧中川を東西に結ぶ小名木川からの水を受けている。大横川の両側は新たにコンクリート護岸が設けられ、ビルやマンションなどが並ぶ私有地と川の間に4〜5メートル幅の緑地帯が続く。民有地側には柵と低木が続き、人が通れないのに水辺側にもしっかり柵を設置している。平地の掘割だけに護岸から水面までの差が意外と少ないので、ここに入ることができれば水辺のそばにいるということを感じることができるはずだが、この地帯に人々が立ち入ることができない。当然、建物はすべて掘割に背を向けている。この部分を公道にすれば、こちら側にレストランやショップができるかもしれない。ついでに柵を取っ払い、緩やかな斜面を造れば、自家用船で往来するライフスタイルが復活し、水辺が動線の表舞台になり、掘割は道路のように使われるかもしれない。
沢梅橋から大横川の北を望む
和船友の会が運営する花見舟(乗船料:500円)深川観光協会HP
新田橋を紹介する案内板
木場の町の5丁目と6丁目の間の大横川には幅員3.4メートル、長さ15メートルの真っ赤な小橋が架かっている。新しく造られたようなのにトラス構造を採用しているし、色が派手すぎる。何かいわれがあるのかと渡ってみたら、橋の袂にいわれが記されていた。それによれば、この橋は新田橋といい、近所で医院を営んでいた新田清三郎さんが夫人を供養の意を込めて昭和7年に架けた私橋だったとか。現在の橋は、護岸整備の一環で2000年に当時のデザインをほぼ踏襲して付け替えられたとのこと。案内板には当時の写真が掲載されていたが、その写真からは、掘割の両岸に水面から1メートルもない高さに4〜5メートル幅の護岸が続いていたことがわかる。ここの掘割はこの街の人の営みとともにあった。
新田橋の南側には1945年、吉野熊吉さんがこの地に開業した船宿「吉野家」がある。船宿は深川だけでも20軒以上あったようだが、今では、船宿はこの吉野家一軒となった。この吉野家店主吉野吾朗さんは、クロアナゴの釣り船の船長でもあり、ヒノキづくりの屋形舟のオーナーでもある。風景こそ現代だが、深川に江戸の「粋」を感じさせる場所が残っていた。
新田橋
今や、日本の大都市河川の上は高速道路で蓋されてしまい、その後河川は用を終え、埋め立てられたところも少なくない。
木場親水公園の南半分も首都高速道路の下になっている。木場親水公園は、1992年、埋め立てられた掘割跡に人工河川をつくり、1万9千平方メートルの公園としてデビューした。コンクリートでかっちりと造られた人工川には、清水が流れている。淡い水色のヒルが流れていたが、魚やカニも生息しているという。写真のように柵があり、親水とはいえない場所がほとんどだった。ここも民有地との間には柵があり、公園通路は民有地に接していない。よって、公園側に向かって店を開くこともできないし、玄関も設けられない。下流部は地下鉄木場駅に近いので自転車置き場となっている。親水公園は、ちょっとしたアイデアでまだまだ人に近づけるはず。デザイナーや環境コンサルタントの出番がある。
2004.04.08