ここから本文エリア

現在位置:asahi.com>関西>救急存亡> 記事

(1)「殉職」 救命の代償 我が命


 銀のシートに入った錠剤を机に広げた。抗うつ剤。2、3粒取り出しては、缶ビールで流し込む。一向に落ち着かない。また数粒、さらに数粒と飲み続けた。昨夏の夜のことだ。

写真朝6時半、交通事故で頭部を負傷した患者が運び込まれ、当直明けの医師たちが治療を始めた=大阪府内の救命救急センターで

 午前1時を回ると、意識がぼんやりしてきた。気がつくと病院のベッドの上。朝、出勤して来ないのを心配した同僚が駆けつけてくれた。飲んだのはざっと100錠。致死量は優に超えていた。

 男性は45歳。当時、関西の救命救急センターで働く救急医だった。

    ■

 大学病院で10年余、小児科医として勤務。生体肝移植に携わった経験から、集中治療室での患者管理の技術を高めようと、05年の夏、救急の世界に飛び込んだ。

 想像を超える激務はすぐやってきた。当直は月6回。一晩に重症患者が4人ほど運ばれてくる。重篤なら3、4時間はかかり切り。集中治療室にいる別の患者もいつ急変するかわからない。極度の緊張で仮眠も取れないまま、連続40時間勤務が当たり前になった。

 心肺停止の赤ん坊を蘇生させた時、脳に損傷が見つかり、父親に怒鳴り込まれた。「医療ミスやないか」。子ども好きの男性にはショックだった。落ち込む日が続き、うつ病と診断された。

 大量服薬による「自殺未遂」。周囲にはそう言われたが、明確な意思はなかった。4カ月間仕事を休み、退職した。過労が原因で発病したとして労災認定を申請中だ。

 今は民間病院に勤める。「人の命を救うのに自分の命を削っていた。救急に戻りたい気持ちもあるが、心も体も持たない」。薬はまだ、手放せないでいる。

 患者だけでなく、自らの死と向き合う医師たちがいる。

 昨年2月、勤務先だった北海道富良野市の富良野病院に救急搬送され、心原性ショックで急死した男性小児科医(当時31)の労災が認められた。死亡直前の5日間で32時間残業した。前に勤めていた士別総合病院(士別市)でも月100時間超の時間外勤務。急患対応の自宅待機も続き、呼び出されないのは月に1日程度だった。

    ■

 「心配かけてごめん、お母さん」。その電話が、麻酔科勤務の女性研修医と母(63)の最後の会話になった。

 04年の正月明け、十全総合病院(愛媛県新居浜市)の外来病棟で倒れているのが発見された。自分で静脈に麻酔薬を注射し、28歳の命を絶った。

 麻酔医は緊急手術が不可欠な救急医療の要だが、病院にはたった2人。1時間以内で駆けつけられるよう求められ、近くの温泉に母と出かけた時も昼夜を問わず携帯電話が鳴った。

 03年2月、急に手足に力が入らなくなる「ギラン・バレー症候群」になった。3月末まで自宅療養するはずが、病院から「忙しいので戻ってほしい」。5月、帯状疱疹(ほうしん)を発症。勤務先に8日入院したが、病室から毎日、医療現場に向かった。

 両親は病院を提訴。大阪地裁は昨年5月、過労と自殺との因果関係を認め、病院側に約7700万円の賠償を命じたが、大阪高裁で係争が続く。

 「娘は医師不足の犠牲者」。父(64)は、そう信じて疑わない。

    ■

 02年2月、大阪府守口市の関西医科大付属病院で死亡した研修医について、大阪地裁が過労死と認定。これを機に、薄給で長時間労働を強いられる研修医の実態が問題視され、04年度に始まった新臨床研修制度で待遇改善が進んだ。皮肉にも、その「しわ寄せ」が中堅医師に及ぶ。

 過労死弁護団全国連絡会議で代表幹事を務める弁護士の松丸正は警告する。「救急医療の崩壊を救うのに、国は何もしてくれない。現場の医師だけが踏ん張り、そして自身が壊れていく」

 もはや、使命感だけでは医師たちを現場に引き留められない。医療ミスを招きかねない劣悪な労働環境に悩んだ末、救急の看板を下ろす病院が全国で相次ぐ。(敬称略)

   ×   ×

 日本の救急医療が危機に瀕(ひん)している。少子高齢化で救急搬送が増え、患者の権利意識も高まった。疲弊した医師が次々と去り、さらなる激務を生む「負のスパイラル」から抜け出せるのか。病根が深まる現場から、報告する。

 《医師の過労死・過労自殺》 厚生労働省の医師勤務状況調査(06年3月)によると、病院勤務医の労働時間は1週間当たり平均63.3時間。月平均の時間外労働は、同省が「過労死ライン」とする月80時間を超す。過労死弁護団全国連絡会議のまとめでは、医師が過労死または過労自殺で労災認定されたり、労災補償の対象になったりしたのは、昨年11月現在で計22件。うち16件が02年以降と増加傾向が著しいが、「氷山の一角」との声も根強い。

PR情報

このページのトップに戻る