2007年を締めくくるにあたって、何を書こうか考えたが、「気持ちの大掃除」と言う意味で、今まで何度も書いてみようと思ったが、内容が内容だけに書くことが躊躇われたことを、今回は思い切って書いてみよう。ある意味「パンドラの箱」を開けようとしているのかもしれない……。 僕が韓国の「オーマイニュース」をニュース番組で知ったのが約2年前。 一般の新聞と一線を画す市民参加型の「ネット新聞」と言う新しいメディアの存在を知った時、「さすがインターネット先進国韓国、日本より進んでるよなあ!」なんて感心したもので、日本でもこういうメディアがあればいいのにと思っていた。 そしてその「オーマイ」の日本版の存在を知ったのが今年の春ごろ、キーワードは忘れたが、何かを調べようと使った検索エンジンに、そのキーワードが載っていた先に「オーマイニュース日本版」が含まれていた。 「えっ!!?」 思わず声が出てしまった。 「日本にもオーマイニュースが進出してきたんだあ……」 キーワードそっちのけでこのサイトを開いたことを思い出す。 もっともその時は、一般人が記者としてどんなことを書いているのかに興味があって、まさか自分が記者として参加するとは夢にも思っていなかったのだ。 そんな僕が記者になり、投稿本数が間もなく3桁に達しようとは、世の中わからないものである。 これから本題に入る前にあらかじめ書いておきたいことがある。 僕の記事はあくまでも自分の主観で書いたものがほとんどである。要するに自分が思ったことをストレートに書き連ねていくというスタイルだ。 そういうものなので、結構独りよがりで偏ったことを書いていることがあり、投稿する時は「よし、完璧!」と思っても、それが掲載され、後で読み返して見ると赤面してしまうと言うことがよくあるのだ。 自分の文はまだまだ拙いと言うことは自覚しているつもりだ。そんな表現の拙さから、自分が訴えようとしていることより、その表現に「刺激」を受けて、コメントでぼろくそに書かれ、「突っ込んで欲しいのはそこじゃないんだけどなあ」と思うこともあり、文章を書くことの難しさをつくづく思い知らされたりするのであった。 ただ、僕はプロではないし、ましてやこれが大手新聞に載るわけでもない。中立云々を考える必要はない。自分の思ったことをひたすら書くだけだ。もっともそれが気に入っているからここに投稿しているのだが。 それに、もし仮に「まずい」ことを書いたら編集部が止めてくれるだろうと思っているので、判断はそちらに任せて僕は遠慮無しに色々なことを「主張」させてもらっているのだ。 その反応を具体的に示してくれるのがコメントである。記事に対する賞賛、同調の意見もあれば、反対、批判の意見もあり、「あなたはそう思うのかもしれないが、私はこう思う」と、自論を展開される方もいる。 それらの1つひとつを読んで、一喜一憂したり、神妙になったり、元気づけられたりしている。だから、記事を書いた後に「コメント有」の通知があると、どんなことを書かれているか不安と期待が入り混じる。 ただ、そんなコメントの中にごく一部であるが眉をひそめるものがある。 好き勝手なことを書いているので、賛否両論いろんな反応があるのは承知の上だし、何を書かれてもいい覚悟はしている。 ただ、批判の枠を超えたことを書く人間がいるのだ。たとえば、 「こんなくだらないことを書くとは、まったくどうしようもない人間だ」 などなど。まあ、確かに自分でも大したことは書いてないので、そう思われても仕方がないと思っているのだが。 最初はそう思って、自分を責めていたのだが、ある日、他の記者の方々の記事を読んでいて気がついたことがあった。 それらの記事のコメントの中に、僕が打ちのめされた数々のフレーズと見慣れたハンドルネームが出て来た。よく見てみたらあの記事にも、この記事にも。 常に「上から目線」で、記事ではなく書いた記者を小馬鹿にしたようなことを書いていたり、ひどいものになるとその記者の人格を全否定するようなことを平気で書いている。実に失礼千万である。 僕はこういう輩を批評家、コメンテーターとは分けて、「けなし屋」と呼びたい。 そしてその「けなし屋」達はそれが「使命」だと思っているのではないかとばかりにいろんな記事で「ご意見番気取り」で「ご活躍」だった。 「よく色んなところでこれだけけなせるもんだ。俺には出来ないな」と、そんな輩に呆れ半分、むかつき半分でそれらのコメントを見ていると、本質を突いていることはほとんどなく、「揚げ足取り」と「重箱の隅つつき」に終始して、読んでいて苦笑いすらしてしまう。 こういう輩に共通して言えることは、記事と、それを書いた記者に対して敬意を払っていないことだ。 こう書くと、それこそ「何様のつもりだ!」と思われるかもしれないが、僕個人に対してではなく、記事を投稿する記者全員に対してと言う意味なので間違えないで欲しい。 批判や誤解を恐れずにあえて書かせてもらえば、記事を書いたものとそれを批評するものはどちらが偉いかと言えば、間違いなく記事を書いたものの方が偉い。 だって、記事がなければ批評や、けなすも出来ないのだから。それに、記事を書くということは、それを批判することよりも何十倍、何百倍もの勇気と覚悟とエネルギーが必要だと思う。これは僕の実感だ。 そういう大変さをわかっているから、他の方の記事を読んでいて、たとえそれが自分の意見と違っていて、けなしたくなっても、それは出来ないのだ。 その記事の裏に、それを書いた記者の方の「覚悟」が痛いほど感じるから、それを尊重してあげたいと思うのだ。 しかし「けなし屋」は違う。 記事が自分の気に入らなければ人の心に土足で踏み込んで、容赦なく「攻撃」を仕掛け、自分の中で「敵」を叩き潰し、満足する。「辛口コメント」ではなく、ただの「攻撃」だ。 記事を書く大変さを知っている記者が、顔を見えないのをいいことに、どうしてあそこまで「攻撃」を仕掛けられるのだろうか? それともそんなことを考えている自分が甘ちゃんなのか? そう思っていた矢先、興味深い記事を目にした。このサイト上で一時期議論の的になった「市民記者はなぜ辞めてしまうのか」というものだ。 それを見て驚いたことは、登録されている記者の中で、記事を書いている記者は少数派で、過半の人間は記事をほとんど、もしくはまったく書いたことがないというデータだった。そこで考えた。「けなし屋」って、自分で記事書いたことないんじゃないの? その「予想」が正しいかどうか確かめる「実験」をして見ることにした。自分の書いた記事のコメントの中に「けなし屋」が現れた時に対応することにしたのだ。 今まではそれらのコメントは無視していたのだが、やられっぱなしでは悔しいので、ちょっとからかってやろうと思った。 「けなし屋」連中のコメントにこうコメント返ししてやったのだ。 「人の記事に対してこれだけ文句をつけられるのでしょうから、さぞかしあなたは何でも御存知の立派な方なのでしょう。それなら是非ともそんなあなたの記事を読みたいので是非とも同じテーマで結構ですので、記事を書いてみてください!」 そう書くと、けなすことに血道を上げ、活発だった「けなし屋」から、ぷっつりと返事が来なくなる・・。 やっぱりな。予想が確信に変わったし、納得も出来た。 もちろん、「けなし屋」の中にも記事を書く人が多少はいるかもしれないが、ほとんどいないだろうと思った。 改めて断っておくが、僕がここで槍玉に挙げているのは、辛口コメンテーターや批評家など、耳の痛いことを書く人のことではない。人を馬鹿にすることを目的に、無意味に記事や記者を「攻撃」する「けなし屋」だ。 ここでは、記事を書く際は責任を持たせると言う意味で実名で投稿することが原則になっている。 中には、ペンネームの人もいるのだろうが、僕を含めほとんどの人が実名なのだろう。確かに実名で投稿する以上、いい加減なものは書けないと、気が引き締まるのでいいことだと思う。 そこで編集部に提案したいのだが、コメントも実名以外は認めないようにしたらいかがだろうかと思うのだ。 記事は実名で一生懸命書いているのに、それに対するコメントが「お気楽」なハンドルネームでは、何かアンフェアなような気がするのだ。そうすれば、「けなし屋」も少しは減るのではないかと思うのだ。 なぜ僕が今まで無視していた「けなし屋」を攻撃しているのかと言うと、先にも挙げた「市民記者はなぜ辞めてしまうのか」と言う理由の中に、彼らの存在があるのではないかと思ったからだ。 僕も記事を書く傍ら、会社の同僚や友人などにこのサイトを勧めた。するとその中には記者登録し、記事を書いていた者もいた。 ところが、それまで順調に書かれていた彼らの記事がある日ピタッと止まったのだ。 「ちょっと自分の意見書いただけなのにボロクソに書かれるから嫌だよ」 その記事に書かれたコメントを読もうとすると、どこかで見覚えのあるハンドルネームとフレーズ。 「あいつらか」 勇気を出して記事を書いても、見ず知らずの人間にそれを言下に否定、誹謗中傷されれば、誰でもやる気をなくすというものだ。 彼らに「潰された」市民記者は決して少なくはないと思う。 長々と書いたが、ここで僕が問いたいのは、「モラル」である。書き手もさることながら、読み手、特にコメントを書く人の「モラル」が大いに問われると思うのだ。 いろんな記事を読んでそれに対してどんな印象を抱くかは読み手の自由だが、先にも書いたが、記事やそれを書いた記者の「主張」する勇気は認めてあげて欲しいと思うのだ。 記者や読者が皆、心の中にそうした「モラル」を持てば、市民記者も増えると思うし、それにつられて読者も増えると思うのだが、いかがだろうか? それとも、こんなことを書く僕はやっぱり「甘ちゃん」かな。
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