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共戦の旅路

2月4日

名誉会長とのきのう・きょう・あした
第5回 常勝不滅の神戸

人生は幸福になるための戦い

 護りに護らん 我が友を……(愛唱歌「常勝の空」)

 池田名誉会長の心に、何より敏感な関西だ。
 その一報を聞いて、関西中の同志が、わが事のように泣いた。
 「池田先生が長田へ!」
 阪神・淡路大震災から5年がたった2000年2月29日。最も被害の大きかった地域の一つ、神戸市長田区の文化会館を、名誉会長が訪れたのである。
     ◇
 「本当に大変でした。よくがんばってくださいました」
 深々と頭を下げ、ピアノに向かう。
 「湊川はどっち?」
 長田区と兵庫区を流れる川の方向を確認し、弾いた曲は“大楠公”。恩師・戸田第2代会長との思い出の曲である。
 楠木正成最後の決戦の地・湊川は、会館から遠くない場所にあった。
 そして、一番苦しい時にこそ、人間の真実が光るのだと、こう語りかけた。
 「戸田先生の事業が大変になり、私は命がけで戦った。その時、先生が、小さな一本の花を、私の胸に挿してくださった。周りは笑ったけど、本当にうれしかったよ」
 関西を発つ前日。激務のなか、予定外の来館。会館では、地元・長田区をはじめ、兵庫区、北区の友が、関西指導の大成功を祈っているところだった。
 名誉会長は、懇ろに追善の勤行。一人一人に声を掛け、激励の品を手渡した。駆け付けた友の輪は、いつしか100人近くに増えている。
 家族を失った方がいた。
 家の下敷きになり、救い出された方。財産をすべて失い、仮設住宅で暮らしていた方。
 一人一人の報告に耳を傾けた。
 震災は一瞬の出来事だが、その後に続く人生は長い。
 目の前の厳しい現実。ふとした時に襲ってくる悲しみ。自分だけが生き残ったという自責の念。
 建物よりも「心」を建て直すことのほうが難しい。
 「心の復興」へ戦う友にとって、師匠の雄姿が、どれほど力になったか知れない。
 「人生は戦いです。幸福になるための戦いです」
 「どうか朗らかに! 朗らかな人には、だれもかなわない。そして、忍耐をもって生き抜いていただきたい。一緒に人生を生きましょう!」
 その励ましに、長田、兵庫、北区の友は堂々と応えた。三区を合わせた世帯数は震災前を大きく超え、昨年は、兵庫を牽引する聖教拡大を果たしている。
     ◇
 1995年1月17日。震災のその日から、名誉会長は、愛する関西に、応援の手を次から次へと打ち続けた。
 朝一番、兵庫の最高幹部に伝言。「リーダーが嘆いていてはいけない」「最前線で激励するのだ!」
 ハワイでの学術講演への出発を即座に延期し、ぎりぎりまで激励態勢をつくる指揮をとった。ハワイ訪問を終えると、まっすぐに関西へ。
 最悪の状況の中で、同志の関西魂も燃え上がった。
 自らけがを負い、肉親を亡くしてなお、人々の励ましに歩いた友。続々と被災地を目指したバイク隊、救援物資。
 兵庫と関西の友は、はっきりと知ったのだ。
 人に「生きる力」を与えるのは「人間の絆」であることを。
 「先生との絆」「同志の絆」に生きる、それこそが幸福であることを。
 そして、その絆は三世に不滅であることを――。
 「常勝関西」
 何と深く、何と強く、何と気高い言葉であろうか!
「夢とちがうやろか。センセイが長田にきてくれはった!」。2000年2月29日、名誉会長が長田文化会館へ。同会館は、震災直後から、800人の被災者を収容し、救援活動の拠点となった。名誉会長は、地域の灯台を支える尊き同志を讃えた
海外での学術講演を終え、ただちに関西入りした名誉会長は、震災犠牲者の追善の法要へ。「亡くなられた方々も、すぐに常勝の陣列に戻ってこられます」と、広布に生きる同志の生死不二の絆を語った(1995年2月4日、関西文化会館で)
“大楠公(だいなんこう)”を神戸の友に。鍵盤をたたく旋律が、時に力強く、そして優しく――。名誉会長は「“大楠公”の曲を弾く私の胸には、いつも兵庫の友が光っている」と綴った(2000年2月29日、長田文化会館で)
大震災から13年。先月17日には、「阪神ルネサンスの日」勤行会が各地で行われた。鹿児島・指宿(いぶすき)の同志から毎年、贈られている菜の花を手に「神戸はこんなに元気になりました!」と(兵庫文化会館で)
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