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現代史の恥辱                    かけはし2000.6.19号より

ベトナム戦争への韓国軍派兵を提案したのは米国でなく韓国だった

独裁者パク・チョンヒの犯罪を暴く


 韓国軍によるベトナム戦での民間人虐殺報道の衝撃の後に残っているのは当時、韓国の若者たちが、ぜひともベトナムのその場にいなければならなかったのかということについての疑問、いや悔恨だ。
 韓国軍はベトナム戦に何としてでも行かなければならなかったのか。多くの人々は米国の圧力を挙げる。軍事的、政治的、経済的に米国に絶対的に依存していた当時の韓国の状況を考えれば、あり得る説明だ。だが、やはり米国に絶対的に依存していた多くの東南アジアの諸国が米国の派兵提案に気障りな反応を示したり、しぶしぶ応じたという事実を覚えておこう。しかも韓国は当時――今も同じではあるが――南北の対峙の中で独自的に国防問題を解決できず、外国軍隊に依存している立場だった。

なぜ韓国軍派兵を持ちかけたのか

 この疑問を解くためには、まず韓国軍のベトナム派兵がなされた経緯から推量してみなければならないだろう。最近、明らかになった資料によれば、韓国軍のベトナム派兵を先に提案したのは米国ではなくて、韓国だった。5・16クーデターで執権したパク・チョンヒの差し当たっての課題は米国の信認を得ることだった。
 米国の新植民地的支配を受けている国で、クーデターで執権した軍部の人士たちとしては米国の支援を受けることが死活の利害がかかったことだったけれども、パク・チョンヒの場合は、その程度が並のものではなかった。なぜならパク・チョンヒの左翼の前歴のせいだった。クーデターの成功後、パク・チョンヒは自身の左翼の経歴に疑心を捨てきれていない米国の信認を得ることに全力を傾け、ついに米国の招請を受け、1961年11月中旬、ケネディとのトップ会談の日程をつかむことに成功した。
 当時、最高会議議長だったパク・チョンヒとケネディとの間のトップ会談は一部の外国言論によって、宗主国皇帝の植民地総督に対する面接試験のようだったとの憎まれ口を受けたが、その会談を目前にした61年10月、パク・チョンヒにとって思いがけない事件が発生した。キム・イルソンが北の政権の貿易省副相を担ったことのあるファン・テソンをパク・チョンヒに密使として派遣したのだ。
 ファン・テソンは、パク・チョンヒの兄で四六年の十月民衆抗争に関係して殺害されたパク・サンヒ(キム・ジョンピルの岳父)の極めて親しい友人であって、パク・チョンヒが子どもの時分からとてもなついていた人物だった。やっとのことで準備した韓米トップ会談を直前にしたパク・チョンヒは、ファン・テソンがソウルに来たとの情報に際し、彼に会う代わりに、彼の逮捕を指示した。
 パク・チョンヒはファン・テソンに会わなかったが、どういうわけか米国の情報当局はパク・チョンヒが極秘裏にファン・テソンに三回、会ったものと把握していた。それでなくとも韓米トップ会談において米国への内密のカードがなく苦心していたパク・チョンヒにとって密使ファン・テソンの登場は悪材料も悪材料、このうえなかった。
 このような状況の中でパク・チョンヒがケネディに提案したのが、韓国軍のベトナム派兵だった。この時はまだ米国がベトナム戦に戦闘兵力を派遣して大規模に介入するとの方針を決定する以前だった。だから派兵についての米国の圧力というのは、あり得ない時だった。
 そのような時にパク・チョンヒは「米国が余りにも一人で多くの負担をかかえている」とし「自由世界の一員として米国の過重な負担を減らしてやる」という名分によって韓国軍のベトナム派兵を提案したのだ。この思いがけない提案に、ケネディはパク・チョンヒと予定にはなかったトップ会談をもう一回持ち、ベトナム派兵の提案によってパク・チョンヒが自分をとても気分よくしてくれたと祝杯をあげたのだ。
 韓国軍のベトナム派兵は軍部独裁者パク・チョンヒに対する米国の全幅的な支援をもたらした決定的な契機だった。五万人の韓国の若者たちがベトナムのジャングルで米国の若者たちに代わって血を流している状況の中で、三選改憲や72年の維新親衛クーデターのようなパク・チョンヒの権力強化の企図は米国のいかなるけん制も受けず、そのまま過ぎていった。
 パク・チョンヒ政権の末期、韓米関係が悪化した後、開かれた米議会のフレイザー聴聞会で、前駐韓米国大使ポーターは中央情報部とパク・トンソンのロビーなど、「疑わしい韓国人たちの活動」について米国が効果的な行動を取ることができなかったのも、韓国のベトナム参戦を考慮した行政府高位官僚らの寛大さのせいだった、と証言した。
 最近になって、パク・チョンヒについての神話が復活するという憂慮すべき傾向が現れている。この復古的郷愁の核心は、パク・チョンヒほど有能な指導者はいなかった、というものだ。韓国の他の元大統領たち、特にIMFの危機を招き、眠っていたパク・チョンヒ神話を呼び起こしたキム・ヨンサムと比較すれば、パク・チョンヒは充分に有能だと映るだろう。だが比較の対象が、キチンと正常な憲政史を歩むことのできなかった、わが国の前・元大統領たちでなければならないのか。
 しかもパク・チョンヒ時代は未だ研究がちゃんとされていない分野であり、ベトナム派兵というパク・チョンヒ政権の時期の一大事件、韓国(朝鮮)戦争以来、最大の死傷者を出したこの事件は、驚くべきほどに研究がなされなかった。いったい、ベトナム派兵の問題をさておいてパク・チョンヒや彼の時代についての正当な評価を下すことができるのだろうか。ベトナム戦への派兵決定の道徳的問題は、しばしおくとしてもパク・チョンヒがはたしてこの問題に関して有能な大統領だったかを問わざるをえない。
 パク・チョンヒを礼讃する多くの人々はベトナム特需、駐韓米軍のベトナム移動配置阻止、韓国軍の現代化などを挙げて、ベトナム派兵を通じて韓国が多くの利益を得たと主張する。資料によって多少の違いはあるものの、韓国は、いわゆるベトナム特需を通じて約十億ドル内外の外貨収入を手にしたという。
 「財政的収入についての期待で軍隊を派遣したのは愚かな商業主義」という当時の言論の批判は、しばし置くとしても、われわれが稼いだ十億ドルを強調する主張は、実に不思議な計算法をとっている。つまり、われわれが稼ぎだしたことのみ計算するばかりで、われわれが支払わなければならなかった対価や、派兵をしなかったとしても、われわれが手にすることのできた経済的成果を意味する定期の費用は、まるで考慮していないからだ。

国民の命も財産も犠牲にして

 ベトナム戦に大規模勢力を派遣することによって韓国が排他的に享受した収入は、恐らく参戦将兵らの血の対価として米国から受け取った給与と言えるだろう。韓国軍が駐屯費、人件費、装備などを全面的に米国から支給された事実は、国際社会において韓国軍が米国の「傭兵」だと後ろ指をさされる要因となった。
 当時の外務長官イ・ドンウォンは、すでに韓国は非同盟国家から米国に隷属した国家だとの非難を受けてきたがゆえに、もはや失うべきものはない、との立場だった。そのような強心臓の外務長官ではあったが、彼はパク・チョンヒに、どのみち派兵することにした以上、米国から最大限、引き出せるものを引き出そうと建議した。しかしパク・チョンヒは「米国の困難に乗じてわれわれが打算的に出れば、それは余りにも薄情というものではないか」との立場を示した。
 だれの利益を守るべき大統領なのかを知らないパク・チョンヒの態度が生み出した結果は惨めなものだった。韓国軍の師団長である少将が米国から受ける月給が354ドルであるのに反して、フィリピンやタイ軍の小隊長である少尉は、それぞれ毎月442ドル、389ドルをもらった。一般士兵たちの場合は南ベトナム軍の月給にも及ばない無茶苦茶な待遇を受けた。
 また米軍は韓国軍の派兵によって自分たちの人命の損失を減らしたのはもちろん、より多くの友軍を求めた政策においても大きな成果を得た。米国は、これにとどまらず、莫大な費用の節減効果をみた。駐越韓国軍一人当たりの維持費が年間5千ドルであるのに対し、米軍一人当たりの維持費は1万3千ドルだったので、その差額8千ドルを韓国軍の派兵延べ人員30万人でかけると、米国は実に24億ドルの経費節減効果をみたのだ。
 派兵自体の正当性は論外にするとしても、ひとたび自国の軍隊を派兵したなら、彼らの生命の保護や正当な処遇の保障に努力すべきことは大統領の責務と言わざるをえない。若者たちを死地に送りながら、彼らの血の値さえダンピングしてしまったパク・チョンヒが有能な大統領と言えるだろうか。
 それならパク・チョンヒは、なぜ同一階級を比較するときフィリピン軍やタイ軍の三〇〜四〇%にすぎない安値でわが国の若者たちをベトナムに送ったのだろうか。米国の支持を得なければならない政治的理由以外にも、経済的な面から見ると当時、経済開発計画を推進しつつ韓国が外貨不足に苦しめられていたことを指摘することができる。
 ところでパク・チョンヒは韓国軍のベトナム派兵を決定したころ、韓日国交正常化を拙速にまとめた。パク・チョンヒは36年間の植民統治に対する賠償としての請求権問題を、日本軍の性の奴隷(挺身隊=軍隊慰安婦)問題は論議さえできないまま、無償二億ドル、有償三億ドルのとんでもない捨て値ですませてしまったからだ。当然にも日本から賠償されて然るべき金額を引き出すことができず、それを補充しようとして若者たちを死地に送ったパク・チョンヒが有能な大統領と言えるだろうか。

韓国軍によるベトナム民間人の虐殺

 ベトナム派兵の決定によって駐韓米軍のベトナム移動配置阻止と韓国軍の現代化をなし遂げたとの主張も、根本的に再検討されなければならない。パク・チョンヒは六七年の大統領選挙当時、われわれがベトナムに軍隊を送ろうとしなければ、そうもできただろうが、そうすれば駐韓米軍の相当部分がベトナムに行っただろう、と主張した。
 韓国軍のベトナム参戦によって、この主張の妥当性を検証する機会は失われた。だが問題は韓国軍の大規模派兵が駐韓米軍をつなぎとめる効果をあげることはできなかった、という点だ。
 米国は70年、パク・チョンヒとの約束を破棄し、韓国政府とはいかなる協議もなしに一方的に駐韓米軍一個師団の撤収を通報し、翌年に撤収を断行した。このころは韓国軍のベトナム派兵が北韓を極度に刺激し、六八年には北韓の特殊部隊による青瓦台(大統領府)奇襲事件、プエブロ号拉致事件などが起き、軍事境界線での南北間の武装衝突が急増した直後だった。そのような状況の中で米国が一方的に駐韓米軍の撤収を断行したのは、パク・チョンヒが最も力を注いでいた駐韓米軍の現状維持政策が失敗に終わったことを証明したものだ。
 また韓国軍の現代化もベトナム派兵によって一部なされはしたものの、実際に現代化作業が断行された時期を見ると、ベトナム派兵の対価というよりは駐韓米軍の一方的削減に対する補償という性格がより大きいことを知ることができる。
 ベトナム派兵によってわれわれが支払った対価のうち最も重要なのは、派兵がなかったなら死なずにすんだ五千人の死、一万人の負傷者、二万人の枯れ葉剤後遺症患者などの人命被害だ。最近『ハンギョレ21』の報道によって世に知らされた民間人虐殺の問題もまた、われわれが支払っている大変な対価と言わざるをえない。死傷者の問題はパク・チョンヒが人命の被害を「あえて押しきって」派兵を断行した、としよう。枯れ葉剤の問題は当時としては予想できなかった、としよう。だが民間人への虐殺は、どうか。
 数万人の戦闘兵力を送りながら、民間人虐殺の発生の可能性をまるで予想できなかったとしたら、それは統治者としての能力なし、と言わざるをえない。特に、韓国軍は日本軍の遊撃隊討伐戦術を受け継ぎ、韓国(朝鮮)戦争を前後する時期に、いわゆる「共匪討伐」の過程で広範囲な対非正規戦の経験をもった軍隊だった。
 パク・チョンヒが米国に対してベトナム戦争での韓国軍の有用性を強調したのも、まさにこの点だった。だが不幸にも韓国軍の対非正規戦の経験は居昌、山清、咸陽など、多くの地域で民間人虐殺の辛い歴史を経験し蓄積されたものだった。自分の国でさえ民間人に対する誤認虐殺が頻発していた韓国軍の戦術的特性上、見知らぬよその国で民間人虐殺の可能性は高まるほかなかった。しかも部落に対する捜索やせん滅作戦はベトナムの米軍が極力、避けていた作戦だった。
 だが傭兵という位置上、さらには米国に対する派兵の政治的、軍事的効果を極大化しようとするパク・チョンヒの意志のゆえに、韓国軍は「部落は、すべて敵の活動の根拠地」であり、「ゲリラの補給、人的資源および情報収集の根源は部落に置かれており、ベトコンの下部構造の基盤は部落と住民」だとの前提の下、この作戦に積極的に投入された。

パク・チョンヒの責任は重大だ

 だが、パク・チョンヒや韓国軍首脳部が民間人虐殺の可能性をまるで予想できないわけではなかったものと思われる。「百人のベトコンを逃がそうとも一人の良民を救うために最善を尽くせ」という訓令の存在は、これを示唆する。だが、偶発的にであれ民間人虐殺が発生したとき、パク・チョンヒが積極的にこの再発防止の対策を講ぜず、たんにこの訓令によって虐殺を阻むことができると考えていたとしたら、これは良く言えば純真であり、より正確に言えば軍統帥権者としての、そして国家の威信に責任のある統治者としての資質や責任感が疑わしいと言わざるをえない。
 万一、パク・チョンヒが民間人虐殺をまるで知らなかったのなら、これはパク・チョンヒの軍に対する掌握能力に大きな問題があったと言わざるをえない。そして万に一つ、パク・チョンヒが民間人虐殺を充分に予想しながらも、さしたる措置を取らずに派兵したのであれば、また主に韓国軍の派兵の初期に発生し、数千人の犠牲者を生み出した数十件の民間人虐殺を数年間、放置したのであれば、これはパク・チョンヒ自身の言葉通り、彼の墓につばを吐くことで終わることでは断じてない。
 今日まで約八十余件の虐殺の事例が発掘されたが、参戦勇士全体が虐殺者の取り扱いを受けてはならない。その恐怖や混乱、そして常軌を逸した現場でも大多数の参戦勇士らは民間人保護に最善を尽くしただろう。だが駐越韓国軍司令部の「三訓五戒」で指摘しているように、キム少領(少佐)やチェ一等兵が立派にやったことも、パク大尉やイ兵長がそうでなかったことも、すべて、ただうまくやった、まずかった、と言わせている。民間人虐殺が報道されるにつれ、本意ならずも虐殺者の疑いを受けることになった三十万の参戦勇士たちの、この一体となった絶叫に、地下のパク・チョンヒは、どう答えるのだろうか。「だれが、われわれを、あの死のどん底に追い込んだのか」。(ハンギョレ21」第310号、2000年6月1日付、ハン・ホング聖公会大教授・韓国現代史)


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