バックナンバー: 2006年 4月 1日 |
● トップ: 日本最初の英語教師 ラナルド・マクドナルド氏 |
黒船来航の5年前に日本を訪れたアメリカ人 |
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* ラナルド・マクドナルドの生い立ち |
* 日本人漂流者に影響を受ける |
* 捕鯨船の船員となって日本潜入を企てる |
* 単身日本上陸を挙行 |
* 日本密入国の記事が海員誌に掲載 |
* 北海道に上陸 |
* 日本初の英和語彙帳を作る |
* 日本初の外人英語教師となる |
* 日本を去る |
* 「日本回想記」 |
* 最近のマクドナルドに関する動き |
● ハワイは今 |
* ガスキャップ施行から6か月 --- 車一台に65ドルの負担増 |
* ホノルル市、警察官と消防士に三千万ドル --- 三年間の支払い分で合意 |
* セント・ルイス校の新総長に法曹界の重鎮 ワルター・キリミツ元判事 |
* ハワイの失業率二・四% --- 15年振りの低水準 |
* 2005年の不動産大口取引 --- 過去最高の43億ドル |
* 交通違反罰金法 --- 一部廃案で名義変更簡単に |
* アロハ航空が新型ジェット6機を --- この夏までに導入 |
* ハセコー・ハワイ社がエワビーチに新ゴルフ場 --- アニー・エルスの設計 完成は来年11月 |
* ハワイの航空各社
片道39ドルの島間運賃を発表 --- ハワイアン、アロハ航空ともメサが計画している片道低運賃に追従 |
バックナンバー: 2006年 4月 1日 |
● トップ: 日本最初の英語教師 ラナルド・マクドナルド氏 |
* ラナルド・マクドナルドの生い立ち |
* 日本人漂流者に影響を受ける |
* 捕鯨船の船員となって日本潜入を企てる |
* 単身日本上陸を挙行 |
* 日本密入国の記事が海員誌に掲載 |
* 北海道に上陸 |
* 日本初の英和語彙帳を作る |
* 日本初の外人英語教師となる |
* 日本を去る |
* 「日本回想記」 |
* 最近のマクドナルドに関する動き |
黒船来航の5年前に日本を訪れたアメリカ人 |
三月十一日(土)、ハワイ・コンベンション・センターに於いて、
「ホノルル・フェスティバル」の一環として第三回 日米友好セミ ナー「ラナルド・マクドナルド、日米友好の貢献/Who is Ranald MacDonald」が開催された。 |
日本が鎖国をしていた江戸時代、ペリー提督率いる黒船来航(一八
五三年)より五年前に、自らの意志で 日本を訪れたアメリカ人、ラ ナルド・マクドナルドについて、著作家のフレデリック・L・ショ ット氏、日本英学 史学会・洋学史研究会の河元由実子氏、ラナルド・ マクドナルドと交流があり、当時ホノルルで海員誌を発 行していたサムエル・C・デイモン牧師の末裔のドワイト・デイモン氏が講演 を行った。 |
そのセミナーの内容を軸にし、日米関係に大きな貢献をしたにもか
かわらず、これまであまり知られていない ラナルド・マクドナルド の足跡や彼の果たした貢献について更に詳く探ると共に、彼に影響 を与えたといわれ る三人の日本人漂流者の足取りも探った。 |
* ラナルド・マクドナルドの生い立ち |
ラナルド・マクドナルドは、一八二四年(文政七年)、オレゴン州アストリア(当時のフォート・ジョージ)で、スコ ットランド系白 人の父と、アメリカインディアン・チヌーク族の母との間に長男と して生まれた。 |
父のアーチバルド・マクドナルドは、地元の有力企業だった毛皮貿易会社「ハドソン・ベイ社」幹部として活躍し、 当時この地域で勢力を持っていたチヌーク族族長の娘だった母は、マクドナルドを生んですぐに亡くなった。 |
その後、アーチバルドは、ドイツ系スイス人(後の調査では、フランス人とアメリカインディアンの混血という説が有 力とされる)のジェ ーン・クリンと再婚し、マクドナルドは、この義母に育てられた。マクドナルドは、カナダ国境に近 い、山々の多い自然に恵まれた環境で育った。 |
当時この地域は、アメリカインディアン、アメリカ人、フランス系カナダ人、イギリス人、ロシア人、ハワイアンなど が行き来する国際色豊かな場所でもあった。 チヌーク族には、「祖先は遥かな海の西の彼 方から来た」という 伝説があり、マクドナルドは子供の頃から亡き母親のルーツは太平洋の神秘の国、ニッポンだと想い、憧れを 持っていたといわれている。 マクドナルドが幼年・青年期を迎えた十九世紀初 頭は、世界的な捕鯨全盛期で、 各国の捕鯨船が太平洋で操業をしてい た。 |
* 日本人漂流者に影響を受ける |
当時、鎖国をしていた日本は、外国人の入国と、外国に行った日本人の帰国を禁止しており、たとえ難破船の 漂流者でも、日本人は母国に帰ることを許されなかった。一八三二年(天保三年)、愛知県知多郡 美浜町 小野浦から「宝順丸」という千石舟が米や陶器を積んで江戸に 向かう途中、遠州灘で消息を絶った。 |
地元では、遭難したものと思い墓碑を建立したが、十四人の乗組員の内、音吉(数え十四才)、久吉(十五 才)、岩吉(二十八才)という 三人は、太平洋を十四か月も漂流した後、アメリカ・ワシントン州ケ ープ・アラバ に漂着した。 三人はアメリカインディアンに助けられた 後、イギリス船に乗りハワイ経由でロンドンに渡った。 一日だけ上陸を許可された彼らは、日本人で初めてロンドンの地を踏み、その後マカオに送られた。 |
マカオでドイツ人宣教師と出会い、新訳聖書の「ヨハネ福音書」と
「ヨハネの書簡(一〜三)」の初めての和訳を 一年で完成した。 その後、彼らはアメリカ商船「モリソン号」に乗り、日本上陸を試みたが、 「異国船打払令」 が発令されていたため、日本側から砲撃を受け、祖国の土を踏むことは出来なかった。 |
彼らはシンガポールやマカオで通訳として活躍し、音吉はイギリス人妻の病死後、マレー人と再婚し、シンガポ ールで四十九才の生涯を終えた。 音吉の墓はシンガポールにあるが、昨年二月十八日、分骨式が 行われ、 遺骨の一部は故郷の美浜町小野浦の寺に納骨され、百七十三年ぶりの帰国となった。音吉らの波瀾に満ち た流浪の旅は、行く先々で話題になり、当時マクドナルドが住んでいたアメリカ北西部にまで 広く知れ渡った。 |
マクドナルドが音吉たちに会ったという証拠は無いが、彼らの話や日
本について聞いたことは間違いないといわ れている。 当時、「ハドソ ン・ベイ社」の混血の子弟の多くが東部の学校に行かされたように、マクドナルドも現 在のカナダ・マニトバ州の「レッド・リバー・アカ デミー」に通い、父の意志に従ってオンタリオ州セントトーマスの 銀行員になった。 |
しかし、一八四一年、二十一才のマクドナルドは冒険心に掻き立てら
れ、銀行を辞め、日本に潜入する手段を 探ったり、準備をするように なる。 ラナルド・マクドナルドの人生を書いた本「Native American in the Land of the Shogun」の著者のフレデリック・L・ショット氏 は、「マクドナルドは、後に彼が書いた『日本回想記』の中で、 『日本 は我々の隣の国...ただ穏やかな海、太平洋が我々の間にあるだけ』と 言っています。彼は、日本や漂 流者の話を聞いたことにより、日本人に民族的な親近感を持ち、日本人を彼の祖先の国だと考えたようです。 勿論彼は、日本が鎖国状態なのも知っていましたが、日本で通訳や先生になり、開国した折には、富と名誉を 得る野望を持っていたのかも しれません」と語る。 |
* 捕鯨船の船員となって日本潜入を企てる |
一八四五年(弘化二年)、マクドナルドはアメリカの捕鯨船「プリマス号」の船員となり、ニューヨーク州ロングアイ ランドのサグ・ハーバーからハワイに向けて出航する。 翌年、マクドナルドの乗った捕鯨船は、 操業をしながら時 々ハワイ諸島の港に寄港している。 |
同年五月、マウイ島ラハイナに入港。十一月にはハワイ島ヒロに入港し、十二月にはホノルルに入港している。 マクドナルドは、この折に、ハワイで出版されていた捕鯨船の海員誌「The Friend」を読んだといわれて いる。 |
同年二月二日号の〈クーパー船長日本訪問談〉という記事に、前年三月、鳥島に漂着していた日本人漂流者 十一人と、彼らを送り届ける途中で救った漂流者十一人、合計二十二人を浦賀に届けたことが載っており、彼 はこの情報を元に日本密入国計画の熟考を始めたという。 |
一八四七年(弘化四年)十一月、「プリマス号」はハワイを出航し、翌月マリアナ諸島やグアムに寄港。
一八四 八年(嘉永元年)一月、「プリマス号」は香港に入港し、約一か月停泊。その後、琉球を経て東シナ海、済州島 付近で操業をした後、三月には日本海付近で操業をしている。 マクドナルドは、「プリマス号」に乗船しながら 自分の企てについて船長と相談し、船長から小舟を分けてもらう約束を交わした。 |
* 単身日本上陸を挙行 |
一八四八年六月二十七日、「プリマス号」は北海道の利尻島付近を航海
していた。当時二十四才のマクドナ ルドは、長い間練っていた潜入計画を実行に移す決意をし、船長から譲り受けた小舟「ヤング・プリマス号」に乗 り、利尻の南にある焼尻島に向かって漕ぎ出した。 |
後にマクドナルドは、「世間の人は、無謀で愚かな行動だと言うに違いない」、でも「人々に何か役に立つ結果が 生まれるかもしれない」と思ったからだと言っている。「より高度な生活をするより、不可能に見えることに、あえて 挑戦したかった」、「私は自分の中に、スコットラン ド魂と放浪癖を持った父親の血と、更に輪をかけて無謀なアメ リカインディアンの母親の血が脈々と流れているのを感じた」と書いている。 |
船の乗組員たちは、外国人が日本の地を踏めば「死」を意味することを知っていたので、マクドナルドの身を案じて 、止めようとしたという。 彼は、焼尻島に上陸し、島の南側で二泊した。彼はこの島を無人島だと思っていたが、 島の東岸や北岸には漁猟をするアイヌ民族が住んでおり、 彼らと交易のある和人も住んでいた。 |
七月一日、マクドナルドは更に北方の利尻島に向かって小舟を漕ぎ始め
た。翌日、島に近付くと、人陰が見えた ので、彼は小舟をわざと転覆させ、溺れたふりをして難破を装った。 |
* 日本密入国の記事が海員誌に掲載 |
マクドナルドも読んだというホノルルの海員誌〈The
Friend〉の一八四八年十二月一日号には、「A Sailor's Attempt to penetrate Japan」という見出しで彼の日本密入国のことが載っている。 |
『プリマス号』に二年乗船していたラナルド・マクドナルドは、一八四七年秋、ラハイナに於いて、日本近海で彼 を下船させることに承諾しなければ解雇して欲しいとエドワーズ船長に要求した。 (中略) ホノル ルの船舶代 理店によると、この青年は良い教育を受けたにもかかわらず、陸の商業生活より海を選んだ。 彼は『プリマス 号』がラハイナを出航した直後より、鎖国状態の日本に密入国する準備を始めた。 エドワーズ船 長は、船にあ った小舟の中から彼に最高のものを選ばせた。 |
ある船員がマクドナルドの船出のことを記した日誌をここに紹介する。 日本海利尻島。一八四八年六月二十八日。 (中略) 美しい朝で、島には霧がかかっていたが、島に近付くにつれ、緑に被わ れた丘を見ることが出来 た。 我々は午前九時まで待ち、全ての船員が召集され、帆を裏帆にした。 我々は小舟を降ろし、水や食糧な どを積み込んだ。 他に類を見ない頑丈な船で、我々の仲間の船員がこの船の唯一の 舵取りとなる。 (中略) 彼の小舟は矢のように波をかき分けた。 乗組員は皆、この勇敢な冒険者を見とどけようと集まり、彼は帽子を 取って振ったが、言葉は無かった。 我々乗組員も同様に帽子を振ったが、すぐに主帆を戻すように指示され、 勇敢な船は反対方向に進んで行った。 我々は船の帆柱から肉眼で見える まで彼を見つめたが、見えなくなる と、望遠鏡を皆に回して、小さな小舟が視界から見えなくなるまで見続けた。 我々は、仲間の一人がそんな状 況で去ってしまうのを見て悲しかった。 彼は優秀な船乗りで、教養もあった。彼が冒険の旅に出る信念は堅く、 塾考された上のことである。 彼の意図は、この島に滞在し、日本語を学び、都の江戸に行き、日本がアメリカか イギリスと貿易を始めた際には、通訳として仕事をするつもりだ。 彼は他の意図も持っていたが、内緒の話とし てでしか語らなかった。 彼の 小舟を最後に見たのは、島の北側の小さな湾だった。彼は、五フィート七 インチ (約一メートル七十センチ)、立派な体格をし、直毛、褐色の肌をしていた。 ここで船を降りたのは彼の意志で、 彼は一年前に港を出た時からこの計画を持っていた。 (中略) 彼をこんな状態で下船させたと、誰もエドワーズ船長を責めることは出来ない。 船長は、小舟を船の横に降ろ すまで、そんな危険な旅をするのでないと忠告し続けた。 しかし、彼の意志は堅かった。 |
「The Friend」には、マクドナルドが船から脱走したのでないこと、彼の小舟は彼のものであると船長が書いた 降船証明書も載っている。 また、エドワーズ船長は、マクドナルドが父親と親戚に宛てた開封の手紙を預かっ ており、海員誌は父親に宛てた手紙の一部も掲載している。 「また喜望峰へ向かう旅に出るので、どこかの 島かスペインで下船する考えでした。 でも、エドワーズ船長は中国から日本海へ行くので、考えを変え、自分 の計画を実行に移す絶好の機会なので、日本海を離れる前に下船するつもりです。 船長は親切にも航海術 を教えてくれ、七隻の小舟から好 きな船を選ばせてくれました。 帆、錨、四文儀、羅針盤、パン、肉、水...いう ならば、海岸に着くまでに必要なものを全部揃えてくれました。 彼は冒険を諦めるようにと説得しようとしまし たが、私は行きます」。 |
父親に宛てた手紙の最後は、「??」と長い棒線が引かれていると解説している。また、後日その辺りを通りかか ったアメリカの捕鯨船が「ヤング・ プリマス号」の舵を拾っているので、彼が岸に辿り着いたか波にさらわれたか は計り知れない謎である」と結んでいる。 |
この後マクドナルドは、デイモン牧師に手紙を書いており、現在ホノルルの
ミッション・ハウス博物館に保管さ れている。 一八四九年五月二十四日付の 手紙には、「私の日本への航海に深い関心をお寄せ下さいまし て本当にありがとうございます。 (中略) 海で死んだと思われているようですが、私はぴ んぴんしています。 死んでいません。 わざと小舟をひっくり返し、 舵と羅針盤を流して、漂流者のように見せかけたのです。 そうしなければ私を陸に上げてくれないと思ったから です」と書いており、密入国者は処刑されるが、漂流者としてなら日本に潜入可能だという目算をしていたこと が分かる。 |
また、マクドナルドは「日本回想記」で、「仲間たちは、小舟と船を結び付
けているロープの結び目をほどこうと はしなかった。 仲間の一人は、私と一緒に行くと言い出したが、私は断った。 船乗りの気持ちは、いつも暖か く真心のこもったものだ。 命がけの冒険仲間の付き合いは、単なる世間的な利害の安物の鎖よりもずっと強 固で、『相身互い』がこの連中の信念なのだ」と書いている。 |
* 北海道に上陸 |
マクドナルドは寒い海の上で一晩を明かしたが、翌日、焼尻島のアイヌに助
けられ、もくろみ通り、島に上陸 することに成功した。上陸地点は、現在の 利尻富士町野塚で、現在ここには彼の記念碑が建っている。 マクドナルド、 野塚の漁小屋で、アイヌから暖かいもてなしを受け、そこで比較的自由な十日間を送った。 |
彼は野塚の宿のことを「日本回想記」で次のように書いている。「私の宿主
は、心を込めて用意した食事を一 緒にしようと誘ってくれた。 食事の内容は、 炊いた米、立派な焼魚、しょうが、塩漬けの貝、色んな漬け物だっ た。 食前 にも食事中にも、宿主は何回も、彼が「グログ・イエス(grog-yes)」と呼んだ瓶を私に勧めた。 当時 私は禁酒主義者だったので、それを味わなかった が、その匂いを嗅いで、ウイスキーにとても似ていると思った。 |
そのアルコール飲料は、米を醸造したもので日本人はサキ(酒)と呼んでい
る。 親切な宿主は、寝床を敷き、 立派な蚊帳を吊ってくれた。 寝台の床架は なかったが、この国では床架を見たことがなかった。 寝具はすべ て、綿を厚く詰めた大きな木綿のガウン(布団)で出来ていた」。 |
マクドナルドは、アイヌは酒好きで、日本人はタバコ好きだと観察している。
「アイヌは、私の見るところ、きわめ て酒好きである。 彼らの雇い主は、酒の代金が賃金を上回らない限り、ためらうことなく酒を彼らに与える。 し かし、私は彼らが酔っぱらっている姿を一度も見たことがない」。 「日本人はたいそうタバコ好きで、日本のタバ コは質が良く、種類も多いと自慢している。 それは日本人との会話にはよく出てくる話題である」。 |
次に、彼は現在の利尻富士町本泊の運上屋に二十日ほど拘留された。その家のことは次のように書いている。 「その家は普通の住宅で、清潔だった。 御馳走が出され、親切に面倒を見てくれたり、色んな便宜を図ってくれ た。 茶やタバコといった贅沢品もふんだんに与えられたので、私は宿舎について不満を言うべきことは何も無か った」。 |
運上屋の番人にタンガロ(多次郎)という日本人がいて、マクドナルドは、彼との日々を次のように書いている。 「タンガロは、きわめて知能の高い日本人で、監督役人(番人)の一人だった。彼は明らかに愛情を持って私に 接 し、忠実な友人だった。 英語を学びたいという彼の願いは、非常に強いよう に思えた。 質問のかたまりとい う人間があるとすれば、彼がまさにそれだった。 私はタンガロに、英語を教える代わりに、日本語でも彼の方言 でもいいから、なんでも教えてくれるように頼み、また彼もそうしてくれた」。 |
八月初旬、彼は船で宗谷の勤番所に移され、密入国者として二十日間拘留さ
れ、八月二十五日、弁財船 で松前へ護送された。 松前藩に捕らえられたマク ドナルドは、籠(ちなみに彼は籠ことをセダン、日本語でノリ モンと書いて いる)で江良町村に護送され、三週間以上監禁所に拘留された。 松前藩の取調べの際に、役 人が彼を見た途端、「日本人じゃないか!」と叫んだとマクドナルドは書いている。 |
その後、彼は長崎へ護送されると分かり、「皆さんのところに居させてもらえませんか」と嘆願すると、爆笑が 起こり、「ノー、ノー、長崎へ行くのだ」 と言われたという。長崎の異国人置所に護送された彼は、密入国者と して捕らえられた。 彼の名前は、当時の「犯科帳」に記載され、現在その「犯科帳」 は、長崎県立図書館に 蔵書されている。 |
マクドナルドは、長崎奉行所で訊問を受けた際、土下座をせず毅然としてい
たので、奉行に「肝っ玉の太い奴 だ」と言われたという。 長崎では、一八五六年まで、毎年一月に踏絵の儀式が行われていたが、マクドナルド も踏絵を踏むように強いられた。 実は、マクドナルドはプロテスタント信者だったので、聖母マリアと御子の描 かれたカトリック教の踏絵を踏むことには抵抗を 感じず、「ためらうことなく踏んだ」と書いている。 |
マクドナルドは、崇福寺大悲庵の三畳程の座敷牢に幽閉されたが、当時、彼の他にも捕鯨船「ラゴダ号」から 脱走したアメリカ船員も拘留されていた。 彼らは荒くれ男たちで、仲間同士で喧嘩をしたり、脱走しようとする 上、自殺者が出る騒ぎも起こしたので奉行所の悩みの種だった。 それに比べ、マクドナルドは知的で穏やかな 上、誰とでも仲良くなったので、丁重に扱われたという。このことに関してマクドナルドは、「日本人は、(アメリカ インディアンの血の流れる)私に親近感を持ったのではないか」と書いている。 |
* 日本初の英和語彙帳を作る |
当時は辞書を作ることを禁止していたにもかかわらず、マクドナルドは日本
語にとても興味を持ち、覚えた日本 語を手帳にこっそり書き込み、日本初の英和語彙帳を作っていた。 十六ページにわたる語彙帳には、約五百 の英単語に日本語訳が書かれ、武士が使っていた侍用語や長崎弁も書かれている。 |
「そこもと」、「こなた」、「切腹」、「腹切」、「申す」という言葉のほ
か、当時、娘のことを侍用語で「御息女」と 言ったが、彼の語彙帳には、英語の「daughter」の横に「musume」と「gosokujo」と書かれている。 また、 「よか」、「悪か」、「早か」、「高か」、「太か」、「細か」、 「面白か」という当時の長崎の人が使っていた長崎 弁も綴られている。 |
マクドナルドの語彙帳の中には、当時の生活が偲ばれる挨拶などの文もある。
「私は甚だ喜ばしくある/I'm glad to see you」、「どうでござりますか。 どうそのもとは暮らすか/How do you do?」、「わたくしはようく暮らす / I'm very well.」。 日本では十九世紀の口語の記録があまり無く、彼のこの語彙集は、当時の日本語を知 る上で貴重な資料となっている。マクドナルドの 英和語彙帳は、現在カナダのブリティッシュ・コロンビア公文書 館に保管されている。 |
* 日本初の外人英語教師となる |
当時日本は、オランダと中国と交易があったので、オランダ語や中国語の通詞(通訳)はいたが、奉行所では、 日本近海での度重なる外国船の出没や捕鯨船 の寄港などを危惧して、英語通詞の必要性を感じていた。 その発端は、一八〇八年八月十五日に起きた「フェートン号事件」だといわれている。 |
オランダ国籍を装ってオランダ国旗を掲げたイギリス軍艦が、突如長崎港に入港し、それを母国船だと思って 乗り込んだ検使役のオランダ商館員を人質に取り、イギリス軍艦は、日本側に飲料水や食料を要求した。 長 崎奉行は、この海賊的行為に激怒したが、英語が出来ないため「フェートン号」の要求を丸々飲まざるを得な かった。 |
この事件以後、長崎港の警備体制や外国船の入港手続きは強化されたが、言葉の通じない外国人への対 策は一向に講じられていなかった。 奉行所の役人たちは、マクドナルドの誠実な人柄や語学力に目を付け、 オランダ通詞たちに英語を教える先生に抜擢した。 マクドナルドは、座敷牢の格子越しに、十四人のオランダ 通詞に英語を教え、日本初の外人英語教師となった。 |
この十四人の中には、後のペリー来航の際に主席通詞をし、その流暢な英語と教養に誰もが感心したという 森山栄之助がいた。 森山はマクドナルドの取調べの際 の通詞も務め、彼がキリシタンかどうかの取調べの 時のことを次のように書いている。 『使徒信条の、「聖母マリアから生まれた神の唯一の子、イエス・キリス ト の御名において...」と言い始めると、森山は突然私の言葉を遮り、早口に「それで結構、もう充分」と囁いた』。 |
マクドナルドは、森山が機転を利かし、彼を擁護するために、聖母マリアやキリストという言葉を言わせなかっ た「真の友人」だと書き残している。 また、「森山は聡明で、あらゆる面で最も大切で、敬愛してやまない人」だ とも評している。 マクドナルドの授業は、彼が英語の発音をし、それを生徒が復唱するという形式 で、発音が 正しければ、うなずき、間違っていれば首を振るというものだった。 |
それまで、オランダ通詞たちは、オランダ人の話す英語を覚えていたので、それが全く役に立たないことを実 感した。 マクドナルドは、日本人が、LとRの発音に苦戦していることや、日本語が、「多分、母方の祖先を通 して... 馴染み深く響いた」と「日本回想記」に書いている。 |
* 日本を去る |
マクドナルドの人生は、一八四九年(嘉永二年)四月十七日、「米艦プレブル号」が長崎港に入港したことに より大きく変わる。 彼は、四月二十六日、「プレブル号」に引き渡され、約十か月の日本での拘留生活に終 止符を打った。 翌日、マクドナル ドと「ラゴダ号」の船員たちの乗った軍艦は上海、マカオに向けて長崎港を 出航した。 |
その後マクドナルドは、オーストラリアのバララットの金鉱で採掘に携わったり、
シンガポール、インド、ローマ、 パリ、ロンドンなどに立ち寄り、故郷に帰ったのは、黒船が長崎に来航した一八五三年(嘉永六年)頃だといわ れている。 日本は黒船到来により、開国を迫られ、一八五八年(安政五年)、日米修好通商条約を締結し、 一八六八年に、元号を明治と改めた。 |
その後マクドナルドは、様々な仕事に就いている。道路建設に携わったり、牧場、フェリー運行会社や梱包事 業を運営している。 オーストラリアの金鉱でかなりの財を成したらしいが、事業の失敗で財産を失ったという。 また、現在のカナダ、ブリテッシュ・コ ロンビア州キャリボー地区の鉱物資源調査に加わったり、バンクーバー島 の冒険旅行をしたという記録もある。 マクドナルドは引退してから、カナダ国境に近いワシントン州 東部のトロ ダの丸太小屋で余生を過ごしていたが、一八九四年(明治二七年)八月五日、 ここで病死した。 享年七十才。 |
マクドナルドは、姪のジェニー・リンチに抱かれながら、「さようなら、my
dear(親愛なあなた)、さようなら...」と 日本語で言ったという。 トロダにある彼の墓には、 彼の最後の言葉となった日本語の「さよなら」と「彼は冒 険の人生。 七つの海の航海者。遥か彼方の国を放浪したが、最後は彼の故郷に安住した」と、彼が過ごし た場所の地名 「アストリア、ヨーロッパ、日本、キャリボー、オーストラリア、フォート・コルヴィル」が刻まれている。 |
* 「日本回想記」 |
マクドナルドは、日本滞在中に観察したことを手帳に書き留めていたが、晩年、それを
元に「日本回想記」を 綴った。 彼は、アメリカインディアンの血を受継いでいるためか、 アイヌを鋭い洞察力で克明に観察している。 「私は、アイヌがアジアの本土から、タタ ール人の国である樺太の半島を通ってやって来たと考えている。彼 らの中に入った時、初めは、濃い顎髭を生やし、櫛を入れてない長髪をたらし、顔を洗っていないタタール人の 盗賊の巣窟に入り込んだみたいだと感じた。 彼らは、人柄も服装も粗野で野蛮に見えた。清潔で洗練され教 養のある日本人と比べると、この点全く反対である」。 |
「蝦夷はアイヌの故国だった。(中略)体格上も、精神的、道徳的特性においても、たしかに別の民族だった。 彼らは、全体として肉体的にはより強健で、日本人にはない 濃い顎髭と濃い髪を生やしているのが普通だが 、従属民族という意味で道徳的には劣っていた。 しかし、それはあくまで私の知っている範囲に限っての話で ある。 というのは、私は彼らの家庭生活について判断する機会に全く恵まれなかったからだ。 彼らは、素朴で 親切な人であると思えたし、私に示してくれたサマリア人(聖書ルカの福音書に記されている困った人に情け深 く、親切な人)のような親切さを、私はいつまでも感謝の念 をもって思い出す」。 また、マクドナルドは、日本で 見るもの、聞くもの、全てのものに興味を持ち、ちくいち観察していたことが分かる。 |
船で護送される時でさえ、彼は船乗りたちのかけ声を聞き逃さなかった。
「船乗りは作業をしながら、絶えずあ る歌の繰り返し部分を、体の動きに合わせて歌ったり口ずさんだりしていた。 漕ぎ手は、手を早める場合、歌 わず『 I see you. I see you』と聞こえ るように、あるいは、『Yos in yo! Yes in yo!(ヨイショ!、ヤッショ!)』と いうように、早く呼んだ」。 また、「肝っ玉の太い奴だ」と言った長崎奉行のことを感謝の念を持って特筆して いる。 |
本来なら処刑されても当然だった彼を、英語教師として抜擢したのは、多分、奉行自身の首を賭けた、彼の独 断による大胆不敵な行為で、「国民の福祉のため、我身を犠牲にするこの勇壮な行為は、歴史に記録する価 値がある」と讃えている。 マクドナルドの「 日本回想記」は、鋭い洞察力で観察された大変貴重な記録だった が、出版の資金繰りなどがつかず、ワシントン州東部歴史協会より本が千部出版されたのは、彼の死後三十 年ほど経った一九二三年だった。 以後絶版となったが、一九九〇年にオレゴン歴史協会出 版(Oregon HistoricalSociety Press)より復刻版が発行された。 |
* 最近のマクドナルドに関する動き |
一九七九年(昭和六十三年)、利尻ロータリークラブによって利尻富士町野塚の展望台に「ラナルド・マクドナ ルドの顕彰の碑」が建立された。 一九八八年には、オレゴン州アストリアに彼の記念碑が建立されたのを機 に、「マクドナルド友の会」も発足した。 後日、その日本支部も組織され、現在世界中に二百名程の会員が いる。 マクドナルドの墓のあるワシントン州トロダでは、二〇〇一年、彼の日本冒険百五十周年を 記念して、 彼の偉業を讃える日英両語の展示パネルが建てられた。 また、日本最初の英語教師としてマクドナルドの 話を載せた中学三年生用の英語教科書が教育出版より発行され、来年度から導入される予定。 |
マクドナルドは、自分自身のことを「奇想天外な漂流者」、「この上なく風変わりな異
邦人」と分析し、そんな 彼に対して日本人は、「優しさと思いやりがみなぎり、それは私への好意と処遇に表れていた」と言っている。 「かつて私を暖かくもてなしてくれた 日本人ほど親切で、ありがたいと思う人はいないし、彼ら以上に尊敬す る人はいない」。 「彼らの親切な心配りは全く変わることは無かった。 私は、気心の合った共感から、彼らが 心から好きだった。 この共感さえあれば、人種とか信条とか世間的な利己心に惑わされないで、放っておい ても、我らアダム一族(人類)全員が素晴らしい親族になれるのだ」。 |
また、随所で「彼らは私の知る限り、生来最も賢い国民」であり、「愛国的団結の最も強固な国民」である。 「彼らが必要としているのは、外からの光だけである」と言っている。 マクドナルドは、日本では幽閉生活し か送っていないにもかかわらず、日本人に対して大変好意的な感想を持っている。 果たして、彼が今の日 本や日本人を見て、同じ 感想を持つかどうかは謎だが、彼の日米関係に与えた貢献を考えると、評価され るべきはマクドナルドの方である。 アメリカインディアンの諺に「It's easy to be brave from a distance」とい う、「遠くから眺めるだけなら勇気は要らない/高見の見物は簡単」 という意味合いの名言がある。 二十四 才の若さゆえに出来た行動かもしれないが、ラナルド・マクドナルドは、死を覚悟で真の勇気を実証した。 |
<参考文献> |
Ranald MacDonald : The Narrative
of his early life on the Columbia under the Hudson's Bay. Company's regime; of his experiences in the Pacific Whale Fishery; and of his great Adventure to Japan; with a sketch of his later life on the Western Frontier, 1824-1894 |
<取材協力/Special Thanks> |
利尻富士町教育委員会社会教育係学芸員兼社会教育主事・山谷文人 |
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● ハワイは今 |
* ガスキャップ施行から6か月 --- 車一台に65ドルの負担増 |
* ホノルル市、警察官と消防士に三千万ドル --- 三年間の支払い分で合意 |
* セント・ルイス校の新総長に法曹界の重鎮 ワルター・キリミツ元判事 |
* ハワイの失業率二・四% --- 15年振りの低水準 |
* 2005年の不動産大口取引 --- 過去最高の43億ドル |
* 交通違反罰金法 --- 一部廃案で名義変更簡単に |
* アロハ航空が新型ジェット6機を --- この夏までに導入 |
* ハセコー・ハワイ社がエワビーチに新ゴルフ場 --- アニー・エルスの設計 完成は来年11月 |
* ハワイの航空各社 片道39ドルの島間運賃を発表
--- ハワイアン、アロハ航空ともメサが計画している片道低運賃に追従 |
* ガスキャップ施行から6か月 --- 車一台に65ドルの負担増 |
全国で初めてと云われるハワイ州のガソリン価格統制法の施行(去年九月一日より)から六か月、車一台当た り、六十五ドルを支払った計算になるとDBEDT(州事業経済 開発・観光局)が公表した。 ハワイ州内のガソリン 価格が米本土の市販価格より平均三〇%は高い事から価格統制を施行した規制(ガスキャップ)は、米本土の 石油取引元卸市場の平均価格を計算し、ハワイ州内の卸売価格を毎週水曜日に指定してきた。 |
その結果、統制されたガソリン価格はハリケーンカトリーナ直後より、二六%も下がった(全国平均価格は二一 %減)。 統制されなかったディーゼル価格が五%しか下がってない市場に比べると、消費者はそれなりの恩典を 受けてきた。 同規制を廃止すべ き(下院)と云う案と修正して更に価格低下を期待する上院案が今年の州議会 で審議されている。 同規制の創案者ロン・メノー上議(上院消費者保護委員長)は、「成果はそれなりにあったと 思う。 修正案で東南アジア元卸市場の価格を加える事により、価格は更に低くなるだろう。 一ガロン十六セント ぐらい...」と、価格修正案成立に精力的に動いている。 |
* ホノルル市、警察官と消防士に三千万ドル --- 三年間の支払い分で合意 |
HPD(ホノルル警察署)に所属する約二千人とHFD(ホノルル消防署)の六百人は、労働基準法で認められた時 間が支払われなかったとホノルル市と交渉を続けていたが、 三月上旬、総額三千万ドルを支払うことで合意した、 と市長事務所から発表された。 警察官として平常勤務外の司令伝達、出張、食事休暇が取れなかった分、また 、警察車の洗車等はいずれも無給としているホノルル市に対し、公平労働基準法に違反するとして一九九九年 から二〇〇二年までの支払いを要求した集団訴訟を起こした。 |
両者の交渉は定期的に開かれ一年余りの交渉で合意に達したもの。
市長事務所は近々ホノルル市議会に特別 予算として計上する。 同合意によるHPD、HFDの署員の未払い額がいくらになるかの具体的数字は公表されてい ない。 |
ホノルルより先にマウイ郡とハワイ郡の警察官は、二〇〇四年十二月一人最低千五百
ドルから三万四千ドルの 一時金を受け取っている。 チャールズ・デジュ市議は、「法廷外交渉で和解したことは好ましい。ある説では五千 万ドルを越えると云われていたので和解を歓迎すべきだ」とコメントしている。 |
* セント・ルイス校の新総長に法曹界の重鎮 ワルター・キリミツ元判事 |
ハワイのカトリック宗立校セント・ルイス校の新総長に一般人(宗教に関係のない)のワルター・キリミツ元判事が 指名された。 キリミツ新総長は七月一日に就任する。百六十年の歴史を誇るセント・ルイス校はアレン・デロング 総長(七十二才、神父)が一年前に総長職を退き、後任が決るまで総長代理を置いてきた。 同校現理事会は 後任総長を全国的に公募し、二十七人の候補者を三人に絞り、最終的にカトリック教とは無関係のワルター・キリ ミツ元判事を後任として迎えた。 |
キリミツ元判事の総長指名の理由は、同判事が一九五八年にセント・ルイス校を卒業したOBであることと、有能 な指導力に同校の再興を期待したいとしている。 セント・ ルイス校は初めての一般人総長に学校の再建をかけ ている。 十年前には八百八十人の生徒数を抱えていたが、今学期は七百六十人と百二十人も減少した。小(四 〜六年生) 、中(七〜八年生)、高(九〜十二年生)生は、六千五百ドル、八千六百ドル、九千二百ドルを年 間支払っている。 |
隣接地にはシャミナード大学もあるが、同大学に進学した学生は二〇〇三年からの三年間で十二人しかいない。 宗教立に関わらず同敷地内にある神学校に進んだのはここ数年、一人もいない。それでいてUHや米本土の有名 大学には卒業生の九八%が進学している。キリミツ次期総長は現在、ハワイ大学副総長(法律担当)を務めてい るが、 「新総長に就任する時にはUH職をもちろん退きます。年俸も少なくなりますが、セ ント・ルイス校が私に大 きな期待をかけてくれたことにOBとして応えたい」と抱負を 語っている。 「低学年の施設を完備し、K〜十二年(幼 稚園から高校まで)の一貫性校を目指したい。 それに現在すでに付帯しているシャミナード大学、神学校もセント・ ルイス卒業生が利用するメリットを検討したい。 とにかく学生、生徒数を増やし校則に準じた学校を作りたい」と語る。 |
* ハワイの失業率二・四% --- 15年振りの低水準 |
ハワイ州の一月の失業率は二・四%と十五年振りの低い水準を記録した。また時間給も平均で十四ドル十セント と一年間で五%上がった。 過去一年のインフレ上昇率が三 ・八%だから実質収入も増加したと州労務局がハワ イ経済の堅調さを裏付ける数字を発表した。 |
ハワイ州の失業率、二・四%は全国平均の四・七%の半分。
他の四十九州で失業率の 三%を切っている州は ない。 リーロイ・ラニー教授(ハワイ・パシフィック大学=エ コノミスト)は、「ハワイの低失業率は仕事はあるが労 働力がないと云う事でもう二十一か月も続いている。 三%を下回る完全就業と言える労働社会で二・四%と云う 低さは賃金も当然上昇していることを意味する」。 |
ハワイの恵まれた労働市場は一人が複数の仕事を持ちながら数値を引き上げているこ
とも含んでいる。 要は複 数の仕事口があることがハワイ経済の基盤となっていると云 う。 |
* 2005年の不動産大口取引 --- 過去最高の43億ドル |
二〇〇五年度に売買された大口不動産物件(ホテル、ゴルフ場、倉庫、ショッピングセンター)は、四十三億ドル を越え過去の記録を更新した。 コリアーズ不動産会社の 調べでは、去年一年間に売買された大口物件(住宅 は含まれていない)は四百三十一 件で、取引額が四十三億ドルを越えた。 前年度は二百八十四件で三十六 億ドルだった。 |
最も多かったのはショッピング・センターで総額十四億ドル。
マウイ島のホエラーズ ・ビレッジが一億七千万ドル で、GGP(ジェネラル・グロス・プロパティーズ)社の買 収が最も大きかった。 ホテル、ゴルフ・コース部門の十一 億ドルが二位。 ワイキキ・ ビーチ・マリオット・リゾート・ホテルを買ったゴールドマン・サッチ投資グループが トップ で二億七千五百万ドル。 今回の調査は五百万ドル以上の大口取引の集計である。 同不動産会社は今年 は大きな物件が残っていないので総取引額は三十億ドルを切る かも知れないと予想している。 |
* 交通違反罰金法 --- 一部廃案で名義変更簡単に |
中古車を買ったが、前所有者が交通違反の罰金を払っていなかった時には同車のオーナーシップの変更が出来 ないと云う現行法に対し、州議会で同案を廃止する法案が進行している。 現行法は去年九月一日から施行さ れ始めたもので、州司法当局が罰金の徴収を増やす為に強く支持した。 |
司法成立後、買った中古車の前のオーナーが罰金を支払っていなかったことが知らさ
れていない新オーナーは、 名義変更が出来ないことを知り泣く泣く他人の罰金を払って名義変更したケースや、中古車ディーラーは罰金を 支払わないと転売できない、現行法の不公正をなげいていた。 同法を廃案化する法案は上院と下院に提出さ れ、すでに第二読会を通過したと云う。 |
* アロハ航空が新型ジェット6機を --- この夏までに導入 |
破産状態から立ち直ったアロハ航空は、島間空路に使用している老朽化した機体のほぼ三分の一を、ボーイン グ737-200型ジェット機六機導入すると発表した。 新しい航空機の第一便は四月到着、この夏には六機全部 が就航する。 一機は購入、五機はリースする。 |
同社は現在、島間空路用の737-200型を十三機、米本土との往復空路用の737-700型八
機、合計二十 一機を保有している。 また、アロハ航空は、新しい機体に加えて、新規投資により米本土でのサービスを拡大し、 サクラメントとオレンジ郡のジョン・ウエイン空港との間に週六便を就航させると発表した。 この新しいサービスは 五月一日に始まる。 |
この新しいジェット機の導入は、競争相手のハワイアン航空が三千百八十万ドルをかけて、長距離空路用の 767-300型機を十四機から十八機に四機増やすと発表したことに対抗するもので、また路線の拡張計画は、フ ェニックスに本拠を置くメサ・エア・グループ社が新規参入することに対抗するもので、メサは昨年九月、五千万 ドルを投資して新しい島間空路を開設するとすでに発表している。 |
* ハセコー・ハワイ社がエワビーチに新ゴルフ場 --- アニー・エルスの設計 完成は来年11月 |
エワビーチに宅地開発を進めているハセコー・ハワイ社が、このほど、アニー・エルスの設計による「ホアカレイ・カ ントリークラブ」(十八ホール、チャンピオンコース)を着工した。 完成は来年の十一月頃。同社のナンシー前田 副社長は、「カポレイ近くのオーシャンポイントに宅地開発をしておりますが、この一角にヨットハーバー、 総合レジ ャー施設、そしてこのゴルフ場とクラブハウスを建設します」と説明した。 |
アニー・エルス・プロは、「ホアカレイは素晴らしい景観と環境にあり、腕を振るって面白いコースに仕上げます。 完成後は、これを記念してアニー・ルイスカップを毎年催し、地元のキャンベル高校に寄付したいと思っています」 と語った。 なお、このコースはセミプライベイトコースになるもので、地元及び外国の会員を募る予定。 |
* ハワイの航空各社
片道39ドルの島間運賃を発表 --- ハワイアン、アロハ航空ともメサが計画している片道低運賃に追従 |
ハワイの二大航空会社、ハワイアン航空とアロハ航空は三月二十二日、島間の片道運賃を半額にすると発表 した。 この動きは、フェニックスに本拠を置く低料金航空会 社、メサ・エア・グループ社の参入により促されたも ので、メサは、片道三十九ドル からの運賃で、ホノルル、カウアイ、マウイ、ビッグ・アイランドとの間の運航を開 始すると発表したことへの対抗策。 |
アロハとハワイアン両航空によると、三十九ドルの運賃は手数料と税金は含まず、大部分の空路について六月 九日から九月三十日まで有効で、四月七日までに購入し、座席に空きがあることが条件となっている。 |
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