第2次世界大戦以後の戦場の性
ベトナム戦争
総論
第二次大戦後の冷戦時代で、もっとも長く戦闘がつづいたのはフランスが主役の第一次と、アメリカが主役になった第二次(1961-75)のベトナム戦争であろう。
戦争と性の問題がここでも登場するが、その態様は基本的に第二次大戦期と変らない。ベトナム軍は主として長期のゲリラ戦術に依存したので、仏米軍による女性へのレイブ、拷問、虐殺の事例が少なくない。
フランス軍が持ちこんだのは、植民地軍の伝統的慣習になっていた「移動慰安所」(Bordel Mobile de Campagne)であった。慰安婦は北アフリカ出身者が多く、存否をめぐる論議はたえなかったが、現地人女性は防諜の上で望ましくないという観点もあり、最後まで続いた、とバーナード・フォールは書いている。(Bernard B. Fall,street without joy1961pp126-27)この方式は、日本人・朝鮮_人の慰安婦連れで転戦した中国大陸の日本軍と似ている。
第二次ベトナム戦争ではピーク時の米兵は五十万を超えたが、九割近くが第一線以外の後方勤務であり、サイゴンを中心にベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この額域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。
ライケに駐屯した第一師団第三旅団(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の実況(スーザン・ブラウンミラーがピーター・アーネット記者に試みたヒアリング)
(出典Susan Brownmiller,Against our will(1975)pp94-95)
1966年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿」(Official military brothels)が設置された。
ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があった。バーとバンド演奏所の他に60室の個室があり、そこで60人のベトナム人女性が住みこみで働らいていた。
彼女たちは米兵の好みに合わせて、『プレイボーイ』のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく本番だけ」(quick,straight and routine)がモットーで、一日に八人から十人をこなす。
料金は五〇〇ピアストル(二ドル相当)で、女の手取りは二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。彼女たちを集めたのは地方のボスで、金の一部は市長まで流れた。この方式で、米軍は「デイズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していたのである。
慰安システム
女たちは過ごとに軍医の検診を受け、安全を示す標札をぶら下げていたが、それでも米兵の性病感染率は千分比で200(1969年)に達していた。これで見ると日本軍の慰安婦システムをそっくり模倣したのではないかと思われるほどすべてが酷似しているが、集件や環境が同じなら誰が考えても似た方式におちついただけのことかもしれない。
ベトナム戦争末期には、この種の女性たちが30万-50万人をかぞえたとも言われる。戦争が終ると彼女たちの「更生」が問題になる。最初はリハビリ・キャンプへ入れられるが、そのうち外国観光客用ダンサーへ出したとエンローは書いている。(Cynthia Enloe,op.cit,pp33-34)
ベトナムの韓国軍
ベトナム戦を戦ったのは米軍だけではない。英軍も豪州軍もインドネシア軍も参戦しているが、最近になって注目を集めてきたのは、米軍に次ぐ延べ31万人を派兵、5000人とも3万人ともされる混_血児を残してきた韓国軍である。(『世界』1993.8号『韓国の経済発展とベトナム戦争』宮崎真子)
長くタブー視されていた韓国の派兵と兵士たちに残したトラウマをとりあげた映画「ホワイト・バッジ」(1992)の公開がきっかけになったが、慰安婦問題に関わっている朝鮮_人女性のなかには「韓国人はベトナム人殺しと女買いの悪いイメージを残したのです……ベトナムに対して韓国は30数年間、過去を清算しなかったのです」(『世界』1997.4号元 慰安婦 尹明淑)と言い出す人も出ている。
しかし、この実態は これまで 韓国ではほとんど 報道されていなかった。
アメリカ駐屯基地周辺の慰安婦
総論
ベトナム戦争にかぎらず、アジアの売春産業と米軍の基地経済は切っても切れぬ関係にあるようだ。日本(沖縄を含む)や韓国では米軍の駐留が半世紀前後の長さにわたるので、構造化していると言ってよいだろう。
とくにアジア諸国の経済水準が低かった1970年代以前は、ドルの威力が大きく、米軍は基地周辺に特権的な売春システムを築きあげ、各国政府はその下請的任務を引き受けさせられていた。関連の犯罪やトラブルが起きても、「治外法権」的な処理がまかり通っていた。
慰安婦をめぐる環境変化
その間に売春の態様は さま変りしていく。日本本土では売春防止法(1956)の成立をきっかけに女性たちの境遇は逐次改善されていったが、沖縄では1972年の本土復帰まで前借金など戦前の本土に近い搾取形態が残っていた。(女性のアジア人権法廷』明石書店1994)
沖縄の地位が向上すると、こんどはより安価なフィリピンの女性が移入され、似たような役割を担った。
韓国では、日本と同じように、米軍占額下の1947年11月、公娼制度(管理売春)を禁止する法令が出たが、やはり有名無実に終る。
朝鮮戦争の未亡人と慰安婦
朝鮮戦争(1950-53)は、多くの未亡人と孤児を生みだした。1956年の韓国政府統計によると、全国で五十九万人もの戦争未亡人がいて、こうした母子家庭などの女性たちが、生活難のため米兵相手の売春婦となった。57年の統計では、その数は4万人と推定されている。62年には「淪落行為等防止法」が成立したが、これまた形だけのものに終る。
朝鮮戦争後も、ひきつづき米軍は韓国に駐留した。売春婦たちはドルを目あてに、米軍基地周辺の「特定地域」に群がった。「ヤンコンジユ」(洋公主)と呼ばれる米兵相手の売春婦は見下される存在だが、最近でも2万7千人をかぞえるという。(尹貞玉編『朝鮮_人女性が見た慰安婦問題)
東豆川基地の慰安婦
在韓米軍歩兵第2師団所属の兵士が東豆川のキャンプ・ケイシーに整列したトラックの横を歩いている。
政府の高位関係者は来年末までに在韓米軍の3分の1程度を削減するという米国の案はまだ確定したものではないと明らかにした。
米軍基地の縮小で米軍兵用慰安婦の今後が心配される
なかでも有名なのは三十八度線に近い東豆川基地で、ピーク時の6500人からは減ったが、最近でも60数店に1500人の米兵用慰安婦がひしめいている。強制検診制があり、女たちは安全カードが必携だというから、往年の日本軍慰安所と瓜二つである。
しかし1982年にここを調査した臼杵敬子によると、慰安婦になった動機は「同棲した男の裏切」「結婚の破綻」「家族からの疎外」が多く、以前のような家庭の貧困という背景は少ないという。(臼杵敬子『現代の慰安婦たち』1992)また、米軍師団長が売春抑制を指令すると、互助会がストをうって米軍を屈伏させた話もある。
外貨獲得と慰安婦制度
有名なキーセン観光や「ジャパゆき」さんのたぐいも、一方ではフェミニストたちの猛反発を受けるが、売春に依存する経済構造から見れば、失業ないし外貨収入の減少を招き、貧困への逆戻りを強いる矛盾となる。
ベトナム戦争時に米兵の休息地として賑ったフィリピンやタイも米軍の引揚げで深刻な打撃を受けたが、カンボジア内戦を収拾するため、国連の平和維持部隊(UNTAC)が1992年に派遣されたときは、一時的に売春景気が復活した。
現在の戦場の性を巡る状況
旧ユーゴスラビアの内戦(1992)で、「民族浄化」を名目とした組織的レイプや強制妊娠、慰安所の設置が、国際法延による裁判にかけられようとしているように、「戦争と性」の関わり方は変貌を遂げようとしているように思われる。
湾岸戦争(1990-91)では、職業的娼婦に代って兵士同士の性充足法が一般化したようである。
米大統領の諮問機関である「女性の軍務委員会」の調査によると、参戦した男女混成部隊の兵士4442人に対するアンケート調査で、64%が「前線で異性兵士と何らかの性関係があった」と回答した。その頃、これまで中絶が事実上禁止されていた米軍関係の病院でも中絶が出来るようになったという。(毎日新聞1992.10.4)佐藤和秀「女性兵士を男性兵士は慰安婦にし、男性兵士を女性兵士は慰安婦にし…いくら戦線で遊んでも軍が中絶で後始末を付けてくれる」(『正論』1993.12号)と書いたような情景となった。(慰安婦と戦場の性 秦郁彦)
戦場での性処理は、強_姦などの蛮行をなくす手段として、また、兵隊を性病から守る手段として、日本や韓国も含め世界各国で行われていました。
現在の価値観から見れば罪悪ですが、太平洋戦争や朝鮮戦争、ベトナム戦争当時は当然のことだったのかもしれません
韓国軍の慰安所6に続く