親指シフト入力の優秀さについては、このサイトでも他のページで触れているし、より詳しく解説したサイトも公開されている。詳細は、そういったサイトを参照してもらおう。
ここでは、逆の視点で考えてみたい。現在パソコンユーザーのほとんどが何の疑いもなく使っているローマ字入力は、なぜここまで普及したのか?
ローマ字入力は容易なのか?
ローマ字入力では「覚えるキーの数が少なくてすむ」という説明がしばしばなされる。
だが、別項でも指摘したとおり、キーボードのアルファベット配列は英語用に最適化されたのものなので、日本語のローマ字入力には本来向いていない。指先の訓練が必要になるのは、おそらくこのためだろう。
同時に頭の中で日本語からローマ字つづりへの変換が正確かつ迅速にできる必要がある。こんな作業を普段からやっている人は普通いないから、ローマ字入力を修得するためにはその頭脳訓練が必要になる。そして条件反射的にその作業ができるようになっても、確実に頭脳負担が増す。特に文章を「創作する」ときには、これが大きな足かせになる。
こういったいくつもの負担を考えると、「覚えるキーの数が少なくてすむ」という理由だけでローマ字入力が普及したとは考えにくい。何か決定的な理由があったはずだ。それは何か?
初期のパソコンの操作
僕はパソコン技術者ではないので詳しいことは知らないが、パソコンが最初に普及したのはOSの一種であるMS−DOSが登場してからだと思う。それ以前にも「BASIC」というOSだか、プログラミング言語だかが人気だった時代がある。どちらも少し使った事があるが、今のパソコンとは使い方が全く違う。
このころのパソコンには、マウスがなかった。パソコンに何か指示を与える時(=入力)は、すべてキーボードへの打鍵に頼っていた。パソコンが理解できる「言葉」で「コマンド」(命令)を打ち込むと、それに対する答えが画面に表示され、次の指示を要求してくる。パソコンの起動から終了まで、この作業の繰り返しだ。
ここでコマンドの入力に使われていたのがすべて「半角英数」、つまり英文字だ。コマンドも英単語をベースに作られていた。コマンドだけではなく、ファイル名などもまだ日本語が使えず、「半角英数で8文字以内」とかいう制約がついていた。
つまり当時パソコンを動かそうとすれば、文書作成や日本語入力がどーのこーのと言う前に、いやがおうでも英文字を頻繁に打鍵しなくてはならなかったわけだ。
さらに当時のパソコンの主なユーザーは技術者たちだった。その多くはプログラミングの作業もこなす。このとき使われるのも「半角英数」だ。これは現在パソコンやソフトを開発している技術者にしても同様だろう。
英語を含め半角英数文字を多用する人にとっては、それとは別にカナ文字配列を覚えなくてはならないとなると負担になるし、混乱もする(この混乱は親指シフトを使っていてたまに英字を使おうとした時に、実際に経験する)。このようなユーザーの場合、ローマ字入力の有用性が高いのは事実だろう。
そんな初期のパソコンの時代に「パソコンでの日本語入力はローマ字入力」が常識化したのだと思う。…というより、他に選択肢がなかったのかもしれない。
ワープロ専用機と日本語用キーボード
パソコンがまだそのような状況にあった時代、技術者以外のユーザーにとって一番需要のあった日本語文書作成、つまり「ワープロ(ワード・プロセッサー)」に関しては専用機が登場した。いわゆるワープロ専用機だ。
ワープロ専用機では、使用目的を日本語文書作成に限定し、操作性が簡略化された。素人には分かりにくい「コマンド」による操作は必要なくなり、このため文章中で英文字を必要とするとき以外に半角英数文字を使用することはなかった。キーボードにも各社が工夫をこらした。富士通社が開発した「親指シフト」も、そんなメーカー独自の日本語用キーボードのひとつだった。
しかし他社が開発したキー配列は市場で受け入れられず、その代わりにJIS規格によるキーボードが普及していった。今日でもパソコン用キーボードの多くに刻印されているJISカナ配列だが、これもユーザーには受け入れられなかった。なぜか?
アルファベットキーや親指シフトのカナ文字キーが上下3段・左右10列に納まっているのに対し、JIS規格のカナ文字配列では上下4段・左右12列の範囲に及んでいて、左右の手首を動かさない「ホームポジション」を保ったまま打鍵するのが一般に困難、というのがその主な原因と聞いている。つまり、JIS配列には人間工学的欠陥があったのだ。
VAIO PCG505SのJIS配列キーボード
にもかかわらず「お上のご意向」に従う形で、ほとんど使われないJIS配列のキーボードが普及し、それを手にしたユーザーは、必然的にローマ字入力を選択していった。メーカーはコストダウンのためにそれ以外のキーボードの開発・販売には消極的になっていった。
こうして、日本語ワープロ専用機でさえも日本語に適応したキー配列を事実上失っていった。親指シフトを例外として。
ローマ字入力普及の背景
ローマ字入力が普及した背景を整理してみよう。
(1)初期のパソコンのOSでは、基本操作に半角英数の入力が必須だった。
(2)プログラマーなどの技術者は、半角英数の入力を優先する。初期のパソコンユーザーの多く、そして今日パソコンやソフトを開発しているのは、そんな技術者たちだ。
(3)使えないJISカナ配列のキーボードが普及してしまった。
ローマ字入力がここまで普及したのには、それなりの歴史的な背景があったのだと思える。逆に言えばローマ字入力が日本語入力に際して「使い易い」からでも「優れている」からでもなかった。どれも、現在の一般ユーザー各個には直接関係ない事情ばかりだ。
パソコン新時代
パソコンが一般ユーザーに広く普及し始めたのは、先進的な使い易さを持ちながらも高価だったMacの低価格化、そしてそのライバルとして開発されたMS−DOSの発展型OS・Windowsの登場がキッカケだった。90年代初めのことだ。
パソコンの操作性は格段に容易になった。もうコマンド入力は必要ない。ほとんどの基本操作はマウスで可能になり、文字入力以外でキーボードに触れること自体が少なくなった。
そして、90年代後半からのインターネットの急速な普及。技術者でも研究者でも「おたく」でもない普通の人々が、まるでテレビやオーディオを買うようにパソコンを買って使う時代がやってきた。
現在の一般ユーザーの多くにとって、もはやローマ字入力の必然性はない。にもかかわらず、いまだにローマ字入力全盛である。IT革命がうたわれているが、このキーボードの問題を解決しなければ、日本でのパソコン普及は本当の意味での末端ユーザー(特に中高年層)には及ばないだろう。
国はほとんど無意味なJIS配列キーボードを強要するのをただちに止めるべきだし、メーカーや技術者は「一般ユーザーにとっての」キー配列を今一度真剣に考えるべきだ。ユーザーに対してキーボード選択の自由を保証し、特にNICOLA(親指シフト配列の普及を目的とした企業団体)に参画しているメーカーは、積極的に親指シフトへの対応を進める義務があるはずだ。
だが何より大切なのは、一人一人のユーザーがキーボードのキー配列にもっと感心をもつこと、本当に使い易いものを積極的に求めることではないかと思う。
もう一度考えてほしい。「自分はなぜローマ字入力を使っているのか?」を。
このページに掲載されている文章、画像の無断転用・複製を禁じます。Copyright © 2003 Tomoaki Kurihara. All rights reserved. (Revised on 20, Apr., 2003)