ここから本文エリア 奥にも部屋ある特殊な石室、百済の姫2人を追葬か2008年02月08日 石舞台をしのぐ巨大石室は奥の部屋まで持つ独特の構造だった。その主は誰か――。奈良県明日香村の真弓鑵子(まゆみかんす)塚古墳(6世紀中ごろ)は、特異な古墳として学界では知られながら、その全貌(ぜんぼう)がわからなかった。村教委による調査によって、被葬者像に迫る手がかりが初めて見つかった。(渡義人、編集委員・小滝ちひろ)
真弓鑵子塚古墳は南北2カ所に入り口がある巨大古墳とされ、1913年と62年の2度、考古学者らが測量した。しかし民有地だったこともあり、詳しい発掘はないままだった。 昨夏から村教委の調査が始まり、新たな事実が相次いで判明した。北側の入り口が実は石棺を納めるためだけの臨時出入り口とみられ、室内から石壁で入り口をふさいで、遺体を納めるための玄室とは別に「奥室」をつくったとみられる。 玄室と奥室の両方から石棺の破片がみつかったことなどから、少なくとも石棺2基と木棺1基が安置されていたらしい。南側の入り口から新たな死者を葬る追葬が数回あったとみられるため、調査にあたった西光慎治技師は「この地の首長が一族代々のために広い墓を造り、その権力を示したのではないか」とみる。 被葬者の素性を知る手がかりは、石室の床から見つかった、炊飯具をかたどるミニチュア土器。「渡来人の古墳からよく見つかる土器だ。このころ蘇我氏に近づいて勢力を伸ばした渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の墓では」と、和田萃・京都教育大名誉教授(古代史)は指摘する。 東漢氏は朝鮮半島の先端技術を伝えた集団で、崇峻天皇(?〜592)暗殺などでも暗躍したとされる。巨石を積み上げたドーム状の石室は朝鮮半島には多く見られ、彼らの技術力の証しだろうか。 一方、京都橘大の猪熊兼勝教授(考古学)は当時の大権力者・蘇我稲目(?〜570)を候補に挙げる。稲目が百済の姫2人を妻にしたという日本書紀の記述をふまえて「追葬されたのはこの2人ではないか。石舞台より古くて規模も大きいし、石舞台の主という馬子(?〜626)の父、稲目の墓でも不思議はない」。 石室構造はわかったが、古墳の形がまだ確定しない。現状では直径約40メートルの円墳とされるが、前方後円墳という見方もある。河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「6世紀中ごろは古墳の形を重視した時代。これだけの石室を造る力と技術を持つ実力者の墓は前方後円墳かもしれない」と話す。周囲に広がる平らな土地は、前方後円墳を思い起こさせる。 PR情報この記事の関連情報関西ニュース
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