2005.4.10の説教から
  「かわや」           マタイ福音書 15: 1−20
 
  イエスと弟子たちは食前に手を洗うことをしなかった。単なる怠慢とか、衛生観念の欠如の故ではない。食前の手洗いは衛生的な問題ではなく宗教的な問題であった。それは、汚れた人や物との関わりを断ち切ることを意味する儀式に他ならない。イエスや弟子たちにとって、野外での食事、人々との分かち合いの食事、病人や汚れの烙印を押されて罪人呼ばわりされている人たちとの食事は日常のことだった。食前の手洗いが、それをしたとたんにその共なる食卓が破綻してしまうようなことであったとすれば、イエスと弟子たちがそれをしなかったのは、当然の帰結であった。
 エルサレムからやってきたファリサイ派の人々や律法学者たちがそれに対して難癖をつけてくる。するとイエスは応えた。「口から入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのだ。すべて口に入るものは、腹の中を通って、便所に出されていく。しかし口から出てくるものは、心から出てくるのであって、それこそ人を汚すものなのだ。したがって手を洗わずに食べたとてそのことは人を汚すようなことにはなりえない。」何ともイエスらしい受け答えではないか。
 特に注目したいのは、「かわや・便所」という言葉。新共同訳聖書にそんな言葉はないが、ギリシャ語原典にははっきり「便所(アフェドローン)」と書いてある。新約聖書中、この言葉はこの箇所にしか使われていないが、聖書外の文献には当時の便所事情が記されているものもある。当時、城壁で囲まれた都市の中にかなりの密度で住民が集中して生活したアテネなどの都市国家において、糞尿をいかに溜めていかに処理するかということは都市建設上の大問題だった。アテネには糞尿処理の専業者が存在していたらしい。糞尿のことをギリシャ語でコプロスと言うが、それを集めて処理する人のことをコプロロゴイと呼んだ。コプロロゴイは国有奴隷であった。彼らは町中の糞尿を集めて城壁の外に捨てに行くのだが、その際、城壁から十スタディオン〔約2キロ〕以内には汚物を棄ててはならないことに決まっていた。それがいかに過酷な労働であったことか。しかもそのコプロロゴイたちは差別の対象であった。都市生活は、糞尿処理の大問題と共に、そういう差別問題をも抱え込まざるを得なかった。
 エルサレムにおいても事情はほとんど同じであっただろう。イエスの時代のエルサレムの人口を推定するのは困難だが、5万人から15万人の間であっただろうと言われている。祭りの時期と平時では人口が大きく変動するが、いずれにしてもあの城壁に囲まれた狭い範囲に5〜15万というのはかなりの密度である。糞尿の処理問題も深刻だったに違いない。そのエルサレムの市街を囲む城壁の南端に「汚物門」または「糞門」と呼ばれる小さな門があった。そこから城外に出ると、左手にケデロンの谷、右手にヒンノムの谷があって目の前で交わっていた。ヒンノムの谷(ゲ・ヒンノム)は、「地獄(ゲヘナ)」の語源だが、そこにはエルサレムの城内から排出された糞尿や動物の死体などが投げ捨てられ、周辺には忌み嫌われた病人や物乞いの人々の居住区があり、まさにそれは「地獄」の様相を呈していた。おそらくここでも、城内の住民から差別された人々がコプロロゴイとして、毎日その糞門を通って場内の糞尿を集めては運び出してヒンノムの谷に捨てる作業をさせられていただろう。逆に言えばエルサレムの場内に暮らす浄い人々は、それらの「汚れた人たち」に、糞尿や死体などの汚れを押しつけて、自らの清さを享受していたのだった。以前にも話したが、イエスが「狭い門から入りなさい」と言われたのはこの「汚物門・糞門」のことだったとわたしはほとんど確信している。糞尿運びのコプロロゴイたちが出入りするその小さな門を、彼らと肩を並べてくぐりなさい。イエスはそう言われたのだろう。
 さて、エルサレムにおける便所の事情、糞尿問題の事情はそういうひどい有様だったが、イエスが生活し神の国を宣べ伝えたガリラヤの農村地帯においては事情は異なっていた。都市と農村では糞尿の扱いがまるで異なるからだ。ある研究によれば、いずれの国や地域においても都市化が進むに従って糞尿は汚物と見なされ、厄介者扱いされるようになり、その厄介者を処理する人が卑賤視されるようになるのだということらしい。しかし都市化されない農村に於いて、糞尿はお金を払ってでももらい受けるべき宝物だった。イエスのたとえ話の中で「糞尿(コプロス)」という言葉は、すべて「肥料」という意味で使われている。そこには汚物という感覚はない。むしろそれは新たな命を生み出す聖なる可能性を秘めたものでさえあった。マルコの平行記事には、「腹の中を通って便所に出される」というイエスの言葉の後に、もう一言イエスの不可解な言葉が記されている。「こうして、すべての食べ物は清められる(マルコ7:19)」。マタイはこの言葉の意味が分からなかったのだろう。もったいないことにこれを削ってしまった。「どんな食べ物も、いずれウンコになって便所に出されてしまえば、すべて浄いものになるのだ。」これは農村で育ったイエスらしい発想であって、エルサレムからやってきたファリサイ派や律法学者たちには、理解に苦しむ、そして聞くに忍びないような下劣な言葉に聞こえたことだろう。
 「誰が、どういう作法で、誰と食べた、どんな食べ物であろうと、ウンコになって便所に出てしまえばすべて浄い肥料になり、新しい命の源になることがわからないのか。そうだとしたらどの食べ物が浄いだの、浄くない人と食べてはならないだの、そんなことを言うのはおかしいじゃないか。むしろそんなことを言って、人に汚れを押しつけ、人を差別し、卑しめているあなたたちの言葉や思いの方がよほど汚れているというものだよ。」イエスのこの言葉、どちらかといえば「都市生活者」のわたしたちは、素直に聞き取ることができるだろうか。汚いモノを誰かに押しつけ、こぎれいに生活するわたしたちは、このイエスの命に満ちあふれた言葉を受けとめることができるだろうか。