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「私はすべて肯定されなければならない」というビョーキ

~倖田來未の「腐った羊水」発言があぶりだしたもの~

三田 典玄(2008-02-08 15:46)
2月2日。芸能ニュースで話題になった倖田來未の「腐った羊水」のラジオでの発言に対するネットからの多くの「抗議メール」。それについて、私は2月4日に自分のmixiの日記と自分のBLOGに、以下のような自分の意見を書いた。記事のために冗長な部分などを幾分修正しているが、ほとんど原文のままである。

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だいぶ前から、PCとかインターネットでの「ストーカー」みたいな行為がどこでも目に付くようになった。今度の倖田來未の「腐った羊水」発言に対するネット上のバッシングなんかは、どうもそういう「常識はずれ」のような気がしてならない。

聴取者はそれなりにいるラジオでの発言だが、なにも倖田來未に限らず、大阪のおねえちゃんはこのくらい過激なことは、ヨタ話で平気で言う。実際、彼女の発言はラジオのトーク番組だ。誰も問題にしなければ、そのまま済んだことだと思う。

トーク番組なんてのは、要するに「ヨタ話」がほとんどだし、それを倖田來未のようなタレントが言ったところで、たいした問題ではない。彼女は女性ではあるが産婦人科の専門の先生ではない。

もし、産婦人科の専門の先生が同じことをラジオで言ったら「おなじことを言うにも、もう少し発言を気をつけろ」という話は、あってもいいと思う。でも、名前の売れているタレントだとか歌手のヨタ話と最初からわかっている発言を針小棒大に取り上げてバッシングのサカナにする、なんてのは、あまりに大人気ない。

そういう取り上げ方なら、むしろ倖田來未なんかよりも、大学のセンセイの肩書きで「ゲーム脳」なんてことばをさも本当にあることであるかのように言い、ニセの科学的裏付けまで作って、あれこれこねくりまわし、商売のタネにした方のほうが、はるかに悪質だろう、と記者は思う。本物の専門分野の権威をかさにきての「脅し」はあまりにも残酷だ。

人と人とのコミュニケーションにもいろいろなものがある。そして、いろいろな背景を持った人がいる。いろいろな場面がある。その「あらゆる場面で」「あらゆる発言を」問題なく行う、なんてのは、1人の人間のキャパシティをはるかに超えている。

だからこそ、世の中には専門家がいるわけだが、その専門さえ、最近は先鋭化している。ITの専門家といっても、いまやデータベースの専門家もいれば、ゲームの専門家もいる。さまざまな分野での専門家がなんとか連携を保ってITという業界を作っている。これはどんな業界や学会でも事情はそう変わらないはずだ。

だから現実の社会では「失言」「間違い」なんてのは、当たり前に多いはずだ。つまり、専門の中でも、専門の外でも、失言、間違いは当たり前にある。専門の中のほうが、間違いが少ない、と言う程度のことだ。

ただし、多くの人の手を経て十分に考えられたはずの「論文」などに間違いがあれば、それはお詫びして直すしかない。どんなに厳重にしても、間違いは起こるし、そのときは間違っていない、と思っても、後で間違いが判明することもある。

日本人研究者として、世界的に稀有の業績を残したといわれる野口英世なども、ちょうど微生物の研究の中心が顕微鏡で見える「細菌」から、電子顕微鏡でなければ見えない「ウィルス」に移る直前、という悪いタイミングでもあったため、その業績の多くの部分に「間違い」がある、というのはいまや常識だ。そして、彼自身、その「ウィルス」で死んだ。専門の分野でさえ、こういうことがおきる。

ましてや、大阪のおねぇちゃんの軽口くらいで、こういうことが始まり、本人がダメージを受けるということになれば、誰も彼も「なにも言わないほうが得だ」ということになってしまうだろう。間違いはあろうと、言いたいことが言える社会は大切だ。そのためにも、それが「大阪のおねえちゃんの軽口」か、それとも「専門家がそれなりの研究をした結果」なのか、くらいの判断はつけてほしいものだ、と思うのだ。

「倖田來未の言ったこと」に「大きく傷ついた」という人だっているかも知れないけれど、それが専門家が言ったことでない、ということであれば、不愉快にはなるけれども、聞き流してもかまわないものでしかない、ということくらい、誰にでもわかるはずだ。

このまま、こういった「バッシング」が野放しにされることが続き、多勢に無勢の、集団ヒステリーさながらの「ことばの暴力」がまかり通らないよう、倖田來未さん自身も、しっかりと反論する必要があると思うのは、私だけではあるまい。

こんなことが続けば、誰にとっても、この社会がどんなに住みにくいものになるか、ちゃんと考えてほしいと思う。

いま、世の中には欲求不満がたまっている。だれでも、名前の知られている人、良い思いをしていると思える人には、なにかと理由をつけて、正当性を叫びつつ、愚にもつかないバッシングを引き起こして、溜飲を下げる、そういう人間はいっぱいいる。

だから、そういう人間にはひっかかりたくはないが、ひっかかってしまったら、あとは常識をちゃんと知る、バランスのとれた人間は黙るしかない、というこの現状は、いくらなんでもひどすぎる。

学校の教育、家庭の教育。それがまともなものであったのかどうか。それが本当に試されるのは、こういうことがおきたときの態度で、ある程度はわかるような気がする。

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これに対しては、関心のある方が多いらしく、このことを報道したmixiのニュースへのコメントでも一千をこえるコメントを集めていた。また、私のところにも賛否両論のさまざまな意見をいただいた。

おおむね、私のところに来た意見の大半は、私の意見に同意してくれている人が多かった。

「賛成」の方は「その通り」「この騒ぎはなんだか異常だ」という意見が多く、「反対」の方は「自分が不愉快だ」「放送という公器では、あってはならない」などの意見が多かった。中には私の意見には賛成でも反対でもないが、今はこんな世間だから、という意見もあった。

これらのいただいた意見をはじめから読んでみると、私の意見に「反対」である、という方は、その多くがラジオなどのマスコミに、自分が非常に影響を受けて育っているために、マスコミの影響が非常に社会的に大きなものと感じられ、マスコミの言うことが日本人すべての常識になる、ということをとても恐れているのではないか、ということがわかってきた。マスコミで言うタレントの一言で自分の生きる場所が誰かに囲い込まれるような不安を抱いている。そのため、それがマスコミのような一方的なメディアであっても、常に過敏に反応する。

また「賛成」という方は、逆に「マスコミの影響などはたかが知れている」という意見が多く、そういう人は自分の主義主張を持ち、マスコミに流されない自分、というのを強調していた。

ここからは私の意見だが、要するにマスコミの影響力を非常に大きいもの、と見るかどうか、というのは、この日本ではかなり意見が分かれるのではないかと思う。

特に最近、こういった騒ぎで目に付くのは「おれの言うことが絶対に正しく、他は認めない」という強硬な意見だ。自分は絶対に正しい、ということを言うために、あらゆる理論武装をし、あらゆる手練手管を使う。ときには論争相手を物理的につぶそうとさえする。こうなると、ただのストーカーまではあと一歩だ。

心理学では「大人」と「子供」の分かれ目を測るひとつの指標として「自分と他のものを区別できるかどうか」ということがある、という。つまり、子供のころは自分が悲しくて泣いていると、自分の身の回りのものすべてが悲しく見える。郵便ポストも空も家も、みんな泣いているように見える。でも、大人になると、ひとりで悲しんでいたり怒っている自分を客観的に眺めることができ、悲しんでいるのは自分だけだ、ということがわかる、という。

そして、あえて私は言いたいのだが、この「子供の心情」を自覚しないまま大人になってしまった人が、実はネットの世界にはかなりいて、それがこういう事象を盛り上げる「ネット・ストーカー」になって「炎上」を作っている場合もあるのではないだろうか、と思うのだ。

たとえば「自分が不愉快だから」という意見は、その人個人の思いに過ぎず、それが公のものであるかどうか、ということとは関係がない。しかし、悪知恵のついた「子供の心情を持った大人」は、「自分の思っていること=多くの他人が思っていること」というように話を無意識にすりかえ、自分の意見が大勢の意見である、というように「正当化」し、なんとか他人の意見を自分の意見と同じものにしよう、と考えるのではないか。

これは「自分が悲しいと回りもみんな悲しい」という「子供のこころ」と、ある意味同根のものだと考えることができるだろう、と、記者は思っている。つまり、「自分が悲しいとみんな悲しい」という状況を受け入れることはできても「自分が悲しいのにこの人は悲しいと思ってくれない」という事実は、受け入れがたい。だから、自分と違う他人の存在を許せない、という「子供のような大人」ができあがるのではないだろうか。

結果としてこの心理学で言うところの「幼児性」を大人になってもそのまま残し、それを利用する人たちも、日本ではかつていたことが思い出される。たとえば「非国民」ということばは、そういう国民末端の心情を使って組み立てられた国家のプロパガンダであったのではないか。もちろん、こういった「こどものこころ」を利用した国家や宗教団体などのプロパガンダは日本に限らず数多い。

しかし、そうは言うものの、倖田來未の相手にするファンのいくばくか(ひょっとしてかなり多くの部分)は、そういう「子供のようなこころ」があるからこそ、彼女という人間に思い入れを抱き、ファンになっているのじゃないだろうか?であれば、それがたとえ大人になりきっていないようなファンであったとしても、やはり大切にしなければならない。そういうファンがいてこそ、彼女が「注目」され、芸能界での商売ができるのだから。これが大人ばかりを相手に商売をするのではない、という「人気者」の宿命だろう。

逆に言えば、こういう「大人のような子供」は、結局はこういう「お金を落としてくれるありがたいお客様」として、持ち上げられ、いい気持ちにさせられ、カネを払わされる、ということでもある。世の中を知り尽くした老獪なおじさん、おばさんは無駄金を一切使わないが、子供は自分のサイフにお金がある限り、好きなものにお金を使ってくれる。これを難しい言葉で言うと「子供は可処分所得が高い」と言うわけだ。

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