【群馬】“遺伝子”を引き継いで BOOWY 解散から20年2008年2月4日
高崎市出身者が主要メンバーの伝説的ロックバンド「BOOWY(ボウイ)」の解散コンサートから、今年四月で二十周年を迎える。二十周年に合わせて発売されたアルバムなどは全国的に高い人気を誇り、同市内の肉親や関係者たちも感慨を深めている。こうした中、高崎市も「ボウイの遺伝子を引き継がせたい」とオーディションを企画。「ミュージシャンの街・高崎」という面から、アピールをもくろんでいる。 (菅原洋) 氷室さんの母親 「二十年もたつのに、いまだに応援してもらえるのはありがたい」 ボウイの元ボーカリスト、氷室京介さんの高崎市に住む母親は実感を込めた。 母親によると、バンドの最盛期には実家にファンが押し掛け、近所迷惑になるほど。このため、氷室さんは県内でライブがある時も実家に戻れず、近くのホテルに泊まったという。 母親は「(米国在住の氷室さんが)三年に一回ぐらい帰郷しても、十分か十五分ほどしか寄らない」と、ソロで活躍する氷室さんの相変わらずの多忙ぶりを嘆いていた。 山田かまちと同級 一方、氷室さんが、詩や絵に才能を発揮しながら早世した山田かまち(一九六〇−七七年)と、小中学の同級生だったことはあまり知られていない。ボウイの元ベーシスト、松井常松さんを含めて三人は実家も近所で、遊び友達だったという。ボウイには、かまちをテーマにした曲もある。 高崎市片岡町の「山田かまち水彩デッサン美術館」は、氷室さんが寄せたメッセージを拡大パネルにして展示している。 メッセージには「せめてあと十年…。あの非凡で多彩な才能を振るう事ができたら…。君を思い出す度に、その事をとても残念に思います」とつづっている。 添えられた手紙の中で「彼が今も僕のそばにいてくれたら、きっと最良の理解者や友として相談に乗ってもらえたのに」と心情を吐露している。 広瀬毅郎館長は「このメッセージをいただいたのは(バンドが解散してソロ活動を始めた)十数年前の多忙な時。そんな時でも心のこもった長文を寄せるところに、氷室さんの人間性が表れている」と指摘する。 広瀬館長は一昨年、氷室さんの実家の近くで偶然本人と立ち話する機会があった。「四十代のはずだが、十歳は若く見えた。偉ぶらず、フランク。かまちが生きていたら、氷室さんに歌詞を提供していたはず」と想像を膨らませていた。 音楽の街に ボウイやその後もソロで活躍する元メンバーたちも意識し、高崎市は一昨年夏、JR高崎駅の自由通路に路上ライブを希望する若手ミュージシャン専用のコーナーを開設。週末などはにぎわいを見せている。 続いて、同市は現在、ボーカリストなどを目指す若者を対象にしたオーディションを募っている。審査員はともに同市出身の作曲家で、人気歌手の浜崎あゆみさんにも曲を提供した多胡邦夫さんと、東京音楽大卒の吉田ゐさおさん。 三月二十三日に同駅前でライブ審査をして、優秀者は音楽関連会社の無料レッスンが受けられ、全国的なオーディション出場への道も開ける見通し。締め切りは今月二十二日。 担当するラジオ高崎の野村寛和課長は「ボウイも各地のオーディションに挑戦した、と聞く。高崎にはボウイの遺伝子が残っており、第二のボウイが育ってほしい」と期待を込めている。 BOOWY メンバーは氷室京介(ボーカル)、布袋寅泰(ギター)、松井常松(ベース)、高橋まこと(ドラムス)の4氏。高橋さん以外は高崎市出身。1982年にデビュー、当初のライブは客が20人程度の日も。それが1988年4月に東京ドームで開かれた解散ライブには2日間で約10万人を動員した。氷室さんの力強いボーカルに布袋さんの個性的なギターが絡むスタイルは、後のミュージシャンたちに多大な影響を与えた。オリジナルアルバム6枚のほか、ライブやベスト盤も発表、アルバムだけでも総売り上げは1000万枚を超える。解散20周年に合わせたアルバムもヒットチャートの上位に食い込み、若いファンも増えている。
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