人は臨終の時、どんな言葉を交わすのだろうか。
ホスピス医として長年にわたって数多くの患者をみとってきた淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏は、次の三つの言葉を挙げている。
感謝(ありがとう)、ねぎらい(ごくろうさん)、謝罪(ごめんね)。
いずれもみとる側、みとられる側双方の人間関係を凝縮した言葉だ、と柏木氏は著書で説明している。
ぼくは4年前の夏にすぐ上の兄を亡くした。病状が急変して死に目には会えなかったが、亡くなる2日前に電話で話すことができた。兄は死期をさとっていたのか、ぼくの名を呼んで「ありがとう」と言って電話を切った。ぼくの方こそ「ありがとう」なのだが、そうは言えず、言葉につまった。
臨終では、みとられる側が意識を失っていたりすると、言葉を交わせないわけだが、病床での折々の会話ではやはり先の言葉が語られるのではなかろうか。
それで思い出すのは吉行淳之介氏のことだ。最期の様子は宮城まり子さんの著書に詳しいが、氏は入院中、まり子さんの手を取ってこんな言葉をかけたそうだ。「君は僕と暮らして損したね。ごめんよ」。そう言って五十数日後に亡くなったことを思うと、死別を意識しての言葉であったかもしれない。
その吉行氏の友人、遠藤周作氏は、遺宅で彼の死に顔を目にして、「長年、ありがとう、吉行」と言うのが精いっぱいだったと自著に記している。「ありがとう」の一言に、遠藤氏は40年のつきあいを凝縮させたのだろう。
遠藤氏の最期はラジオ番組でご一緒した奥さんの順子さんからうかがったことがあり、順子さんの著書にも詳述されている。氏は1年間ほとんど口がきけず、夫婦の会話も失われていたそうだ。しかし臨終の時は、「主人の顔が歓喜に充(み)ちた表情」になって、「おれはもう光の中に入った。おふくろにも兄貴にも逢(あ)ったから安心しろ!」というメッセージが奥さんにあったという。言葉がなくても、手を握り、気持ちを伝え合った夫婦の間では、そういう「会話」もあるのだろう。
ところで柏木氏もおっしゃっていることだが、臨終の3語が、他でもきちんと使われるようになれば、それぞれの人間関係も随分よくなるのではなかろうか。とりわけ「謝罪」である。人間、なかなか謝れないものである。(専門編集委員)
毎日新聞 2008年2月6日 東京夕刊
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