共産主義理論とその虚構性

一.進化論

1 人間の祖先は猿ではない

 この地球星を眺める時、絶対者であられるその神様の前に相対できる存在はいったいどのような存在でしょうか。今日、ある学者たちは猿だと言うのですが、猿が相対になることができますか。皆さん、動物園に行けば猿が本当に尊いでしょう? ある動物学者たちは、人間の祖先が猿だと言うのですが、それならば、その学者に対して「先生、あなたのお祖父さんは誰ですか。猿ですか。では、猿の何十代目の孫であられる先生」とあいさつしてみなさい。喜びますか。とんでもないと言うのです。気分が悪いのです。皆さん、猿が皆さんのお祖父さんならばうれしいですか。

 人間がアメーバから進化したというのですか。生物学者とか生物学教授とかいう人たちは、猿が自分のお祖父さんであると言うのです。このような妖邪なことが天下を滅ぼしているので、それらを掃討するために統一教会の文先生が出てきたのです。ここにいる青年たちもそうではないですか。

 見なさい。力の法則では出力と入力が互いに同じという法はありません。公式がそうです。必ず、入ってくる力が大きいのです。そうでしょう? 

 皆さんは、これを物理で学びます。電気を見ても、モーターを得て出ていく力よりも入ってくる力が大きいのです。いつでもそうです。作用すれば力が消耗されるのです。作用するのに、プラスとなる法がありますか。

 マイナスになりますか、プラスになりますか。小さくなるでしょう? それでは、アメーバが作用するのにどうしてプラスになれますか。そうできないのです。プラスになろうとするならば、どのようにしなければなりませんか。プラスになろうとするならば、第三の力が加えられなければなりません。入っていく時より、高次的な基準の力の作用体となるところにおいて、どうやってプラスになるかというのです。作用すれば、マイナスになるのです。

 それでは、人と猿とを比較してみましょう。猿はただキッキキッキと言い、食べて、寝て、子を産むのが第一です。猿が故郷のお父さん、お母さんを見たくて泣きますか。猿と人間は根本が違います。猿がお兄さんを心配し、あるいは、父母のために死のうとしますか。それでは人はどうですか。そのようなことをしますか、しませんか。種子が違うのです。そして、猿たちが集まって座って、祖先が何をどのようにした、神様がいるのかいないのかと議論するすべを知っていますか。霊界があるということを考えたりもしますか。この宇宙が平和の世界となり、一つの世界となり、愛の花園になるということを夢見ますか。そのような猿が進化して人間になったという人たちは、犬や豚のようなやからです。

 人とは種子が違います。人間は、自己を中心にしたものではなく他を中心として、より大きいことを中心として所望しながら生きるようになっているのであり、自己より低いものを所望しながら生きるようになっていないのです。次元が違うのです。

 人間は古代から、すなわち、人間が生じた時から神を崇尚してきました。神様を崇尚しない種族はありません。神様を考え、我々人間がもっとよくなる宇宙を考えながら来たのです。猿は、その頭でそのようなことを考えられますか。何千、何万段階が過ぎてもできないのです。猿に、そうすることのできる内容、力がどうやって加重して入っていきますか。話にもならないのです。

 共産主義は、人間は物質から出てきたと言います。それが可能ですか。物質にそうできる観念がありますか。どんなに人間の能力、すべての調和のビジョンをもってくっつけても、物質自体がそのような素質をもつ道がないのです。弁証法ではすべての物質、すべての存在世界は変化し発展すると言いますが、これ(高い理想、高い基準に向かう心)も発展して変わるのかというのです。昔の人から今の人、何万年後の人がこれに対する本性が変わって発展できるのかというのです。それは変わるもののようですか。猿は高等動物ですが、猿がそのような考えをもちますか。何千年何億年どんなに力を加え、ありとあらゆることをすべてやっても、そうできる本性の心を猿がもつことができるかというのです。このような観点から見るとき、我々人間には猿とは違って、本性的にその偉大な本然の作用が投入されたという結論を下すことができるのです。

 ですから人間に、このような変わる素性ではなく、変わらない素性を投入したのは、変わらない主体の相対的作用によって、その対象的実体になるようにするためなのです。このような論理が妥当であると見るのです。我々にそのような本性があるということは、そのような本性をもった主体的実体があるためであるという結論を下すことができるのです。ここから、主体の観念と対象の観念を知ることができ、私は主体と相対的関係によって因縁づけられているということが分かるのです。

 それでは、主体となるその方のそのような本性を投入したことは、それ自体だけのためのものなのか、より次元の高い理想郷のためなのでしょうか。

 これが問題です。より大きいことのために、より大きいことを願って投入したという結論を我々は下すことができるのです。

2 進化論は流れていく一つの歴史的遺物

 チャールズ・ダーウィンという人が書いた『種の起源』を見れば、彼は進化論を起源に弱肉強食という論理を提唱して、力をもって世界を支配して新しい文化圏を形成することを正当化させる悪も行いました。このようなありとあらゆる悪がすべて起きたのです。

 では、種の起源が何かというのです。根本問題に入っていくのです。それを考えるようになる時、神様がいるのかいないのかという問題、今日、哲学的な観点からは意識が先か事由が先かということが大きな問題として台頭しているのです。人間の根本は何ですか。猿から始まったのか、また別の何かの種の起源があるのかという問題、このような根本問題を解決しなくてはならないのです。

 最近、進化論と言えばみんな流れていく一つの歴史的遺物になっていますが、それは進化して発展すると言うでしょう? 進化するならば、なぜ逆には進化しないのですか。逆に行くこともできるのではないかというのです。東にも行くことができ、西にも行くことができるのではないですか。進化することのできる方向を誰が定めてくれましたか。自己が成長しながら方向を定めますか。アメーバから、これが発展して人になる時まで数多い高次元段階を経て行きますが、高次元に向かって発展できるその方向を誰が定めてくれたのかというのです。なぜ、そのように高次元に向かうのかというのです。

 下に下がって行くこともできるし、横にも行くことができるでしょう。それはどういう意味かと言えば、女子が男子みたいにもなれ、男子が女子みたいにもなれ、言い換えれば、二つとももつことができるのです。一つは前にもち、一つは後ろにもち……。そのような理論まで出てくるのです。女子は女子としてこうでなくてはならないという方向性、男子は男子として絶対こうでなくてはならないという方向性を誰が決定しましたか。それを、女子が決定し、男子が決定しますか。我々の祖先たちが決めたのですか。彼らが決定したのではありません。この宇宙が決定したのです。この宇宙の中心となる、何らかの意思があるべきです。その意思の主体を神様であると見るのです。神様が、「男子はこうでなくてはならず、女子はこうでなくてはならないのである」と、このように決定しておいたのです。

 共産党式は、自然に適応するのは自然的な道理であるとします。根本もなく適応するというのですか。

 作用がないならば、アメーバからより大きな存在が出てくることはできません。より大きな存在が出てこようとするならば、必ず作用が起こらなくてはならず、ここに何かの力が連結されなくてはなりません。すなわち、力が連結されようとするならば作用をしなければならず、作用をしようとするならば主体と対象の関係があるべきです。

 主体と対象は、絶対マイナスとなるところでは作用をしません。プラスとなるところでだけ作用をします。そうなのですが、主体と対象の関係は必ず相対的関係となっているべきです。したがって、アメーバから発展しようとすれば、発展できる、また別の何らかのマイナスとか、また別の何らかの主体とかいう、ある何かに対して与え受ける合同作戦をすべきです。そのようにしてのみ、より大きいものが出てくるようになっているのです。そうでなければ、何ものも出てこないのです。言い換えれば、第二の力が必要なのです。その次、目的が必要で、方向が必要です。ですから、進化するには勝手に進化するのではなく、方向があるべきです。方向を知らなければなりません。方向が絶対に必要なのです。

 方向には、その方向が行こうとする終着点があるべきです。それが目的点なのです。目的観がなくてはならないのです。これが問題です。

 その次には力です。力の公式的な原則を見るならば、このような公式がありますか。人間において、入ってくる力と出ていく力とが同じになれますか。力が入ってきてこのように作用したのですが、作用しようと入ってくる力と、作用した後の力、出ていく力は同じであり得るでしょうか。ここには消耗が起こるでしょう? 運動をすれば、消耗が起きるでしょう。ですから、入ってくる力と同じにはなり得ません。作用した後の力はいつでも小さいのです。進化論者たちは、作用をすれば力がもっと大きくなると言うのです。そのような公式はありません。そのようになれば、この世の中はひっくり返るのです。ですから、第二の力が必要です。

 それでは第二の力はどこから補充するのでしょうか。より大きい目的を達成するためには、第二の力の加入が成立しなくてはなりません。第二の力は、主体と対象の合わさった立場には可能なのです。きっぱり出るのです。理論的に合うようになっているのです。そうではないですか。主体と対象が二つ合わさるので、もっと大きい力が出るのです。ですから、神様は主体と対象の関係を発展的な相対形として整えて、新しい目的の価値を提示した結果、より大きいものへと発展したのです。創造原則がそのようになっているので、小さな物質から宇宙が形成されるのです。

3 「自然に生じた」という言葉はごまかし

 今日、共産主義社会では、進化を通して人間になったと言います。それならば、人間になる前に動物はどうやって生まれたのでしょうか。これが問題です。猿はどのようにして生まれたのでしょうか。

 この世界がどこから生じたのでしょうか。今日、科学者や共産主義者たちは「自然に生じた」と言いますが、それはごまかしです。ごまかしているのです。その「自然」はどこから生じたのですか。創造物全部がどうやって生じたのでしょうか。創造しなかったならば、どうやって存在するようになったのかというのです。共産主義者たちは、ただ「自然に」生じたと言うでしょう。

 数百万の医学博士がどんなに研究しても解決できない、この人体は神秘の王宮ですが、「お前はどうやって生じたのか?」と尋ねる時、「私は自然に生じた」と言えば、それは話になりますか。非常に科学的な素質を、属性をもった自然であると言う時、その自然自体が神様と同じです。結局、原因なしに生じる法はないのです。

 今日、進化論を適用しますが、アメーバならアメーバが繁殖するのにおいて、アメーバよりも大きいものが生じるためには、つまり、現在のものよりも大きくなるためには、別の力が加えられなければならないのです。力がプラスされたというのです。(板書しながら語られる)それでは、アメーバ自体が力をプラスしながら発展させることができますか。アメーバ自体が、そのような力を加入させることができるのかというのです。そのような能力があるのかというのです。少しでも上がっていき、もっと大きなものになれるとすれば、ここにもっと大きな力をプラスしなければならないのです。

 それでは、これ自体が力を創造してプラスできる能力がないのに、どこからどうやって来るのですか。そのような論理が成立しますか。それ自体としては、不可能なのです。それ自体としては、より大きな力をプラスさせることができないので不可能なのです。ですから、それ自体はより次元の高い前進ができないという結論は、理論的な結論なのです。

4 人間を中心とした進化論批判

 人間が生命をもって生まれる時は、宇宙のすべての生命をもって生まれたような、相対的な原因をもって生まれたということを、我々はここで語ることができるのです。人間一つをモデルにして、低級微生物から高級動物まですべて造ってきたのです。ですから、進化というのは結果的打診にすぎません。

 ですから、出発から一つの目的体である人間を目標として、この宇宙が生成され現れたということを、我々はうかがうことができるのです。微生物からすべての生物、高等動物まで、生成されるところには一つの原則的な過程が連結されています。

 これを見る時、これは無意識的な発展によって成ったものではなくて、意識的な目的観によってそのようになったという結論を下すことができると見るのです。ですから、すべての存在は目的観が入っている存在として出発したということを、我々はここで理解しなければなりません。

 一つの存在を考える時、必ず内的目的と外的目的をもっています。大体このように見るならば、人間も二つの目的体になっています。体の目的と心の目的があります。このように二つの目的をもっていますが、一つの帰結点は同じです。

 では、なぜ二つの目的をもつようになったのでしょうか。これが問題なのです。内的な世界と外的な世界があるために、物質世界と精神世界があるために、この二つの世界を連結するために二つの目的をもった内容をもたずにはいられないのです。これが相克するとか分立するのではなく、一つにならなければなりません。調和的統一を成すところにおいて、すべての人間の理想的実存性が形成されるのです。これが一つになるところにおいて、無秩序ではなく、その二つは一つの統一的目的である人間完成という標準に向かって終結するようになるのです。そのように完成した男性ならば男性、あるいは、女性ならば女性自体が一つになるために活動するのです。

 男子と女子が、なぜ一つになろうとしますか。我々がここでダーウィンが言った進化論を論ずる時に、進化というのは必ず一つになることのできる先進作用がなくては不可能だということを提示しなくてはなりません。進化という決定を見る前に、進化できる先進的作用、お互いが合わさろうとする力があるという事実を、我々は認定しなくてはなりません。この先進的な力、先にあって進化を起こすことのできる力は、より高いものへと前進するようになっています。

 では、これを誰が提示したのかというのです。進化していくものそれ自体が、高いところに行かなければならないという方向性を提示することはできないのです。方向性をなぜもつのでしょうか。必ず目的という意識をもたなければ、方向性は決定しないのです。勝手に行くためです。ですから先進的な力の作用、合わさって一つになろうとする作用と、その次に方向性と目的性というものを認定しなければ、進化して高等動物に前進、発展するという論理を立てることができないと結論することができるのです。

 進化も、一つの作用として見るならば、なぜ起きるのかというのです。一人では作用ができません。作用とは、相対的関係から起こるのです。作用するにおいて、必ず二つとも利益になって大きくならなければならず、小さくなれば絶対に作用しません。この原則を知らなければならないというのです。男女がお互いに愛を中心にして作用しようとするのは、自分たちが損害を被るためではありません。より次元の高い発展のために、その目的のために、作用しようとするのです。

 その作用は誰のための作用でしょうか。お互いのための作用であるという結論が出ます。その方向は誰のための方向でしょうか。お互いのための方向です。お互いのための方向からのみ発展します。その目的は誰のための目的でしょうか。お互いのための目的です。お互いのための目的からすべてのものが形成されるのです。

 ですから、作用するところには必ず二重性があり、方向性にも二重性があり、目的にも二重性があるという結論を下すことができます。

5 すべての存在は目的意識が先在している

 弁証法では、方向性とか目的性を認定しません。その次に、作用性に対する根本問題に触れないようにします。なぜ作用しようとするのか、なぜ一つになろうとするのか、という問題に触れませんでした。それ自体を中心として発展するというのです。発展する場合必ず大きなものに発展する、ここに突然変異という仮想的な論理を立てて、補填しようと努力しています。

 なぜ突然変異が起こるのかというのです。それでは、作用は誰が成し、方向性は誰が提示し、そのような結果になった目的は誰が提示したのかというのです。それ自体が提示できるのでしょうか。できないというのです。

 我々男女が、愛する場合において、古代の祖先たちと今の我々と、愛する方向とか作用とか目的が違うでしょうか。そこには、なぜ突然変異が起こらないのかというのです。人間が今まで進化したならば、人間以上へと進化すべきなのに、なぜ人間で停止したのかというのです。これが問題です。人間が停止すると言って、こうなりましたか。「私が停止する」と、人間が考えて停止しましたか。人間がそれを決定したのではなく、決定した位置に人間がひとりでに立っているのです。この事実は、既にこの宇宙に意識が先に在ったという結論を下すほかないということです。

 我々は、目一つを見てもすべて答えることはできないのです。今日、弁証法とか進化論をもって、これについて話すことができないのです。皆さんは将来、共産主義者たちと戦うべきです。今、進化論と弁証法を壊すべきです。進化論だけ壊してしまえば、弁証法は壊れるのです。今、闘いは何ですか。意識が先か、物質が先かという問題です。共産世界は、「物質が第一だ、物質が始めだ」と言い、民主世界では、「意識が先だ」と言います。

 この目は物質です。物質によって構成されています。目がどのようにして生じたのかと言う時、目がただ生じたくて生じたと考える人は狂った人です。鼻はじっとしているのに、目はなぜ動きますか。「なぜ目が動くか」と言う時に、「動きたいから動くのでしょう」と言うのが進化論式であり、弁証法式です。目の目的は見ることです。見るところに目的があるために動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻は、ちりが付いてもじっとしているのに、目はなぜこのように絶えずパチパチするのかというのです。なぜそうなのですか。なぜそうかと言えば、水分が蒸発して乾くので、水を撒いてやるためにそうするのです。

 まゆ毛はなぜ生じましたか。ちりを防ぐために生じました。「なぜそのようになっているのか」と言う時、そのようになりたくてなったと言うのは進化論式です。それは、そのように簡単ではないのです。それがただそのようになったと言う人がいれば、「ばかげたことを言うな」と、こう言うのです。

 このように考える時、目というものが本来生じる時から、この宇宙があることを知っていたのかというのです。ここには太陽があり、ここには空気があり、ほこりが生じ、水蒸気になって蒸発するという事実、このような宇宙があるということを始めから目というものが知っていたのだろうかというのです。それを知っていたでしょうか。一番始めに、目がそれを知っていたのだろうかというのです。それでは、「知らなかったのにそのようになった。知らなかったのに進化的発展によってそのようになり、弁証法的発展によってそのようになった」と言えば、やめろというのです。それがあり得ますか。

 ですから既に、この目が生じる時には太陽があり、空気があり、ちりがあり、水蒸気が蒸発するという、天文学的、博物学的知識基盤の上に存在し始めたという事実を我々は否定できません。理論的に否定できません。ですから物質が先か、意識が先かという時、どちらが先ですか。

 根本的に人間がどこから生じたのかという問題を見る時に、人間自体の意識、あるいは、人間自体の発展的作用の何かの原因によってそうなったのではありません。必ず根本的な作用があり、方向性があり、目的観があったということを認定できる内容を、先に提示しなければならないのです。このように見る時、人間とかすべての万物が自分勝手に進化、発展したのではなく、必ず作用はこうあるべきだ、方向はこうあるべきだ、目的はこうあるべきだという意識の決定的な目的的実体として存在し始めたということを、我々は論理的に否定できないという事実を知るべきです。

 それでは、人間はなぜ生まれたのでしょうか。人間は、高等動物としてなぜ生まれたのかというのです。人間は高等動物として作用し、高等動物として行くべき方向があり、高等動物として成すべき目的をもって生まれました。このようなことを知るべきなのです。

 

 

二.唯物論の解説と代案

1 マルクス主義と哲学の限界

 マルクスは、どのような人でしょうか。マルクスのような人が聖人ですか。マルクスは聖人の仲間に入ることはできません。皆さんが知っているように、聖人とは人間を主にして現れた人ではありません。人間を主とした主張をする人は聖人になることはできません。

 哲学は、それを主張した人がいつも問題になるのです。マルクス主義ならばマルクス主義を主張した人が主導的な役割をするのです。その思想圏内にすべて融合させるために、世界へと発展させてくるのです。その中心が誰かと言えば人間なのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるのにおいて、内在的な作用をするものが今日の哲学思潮であるというのです。

 そうですが、聖人の道理はそうではありません。聖人の道理の中心が何であるかと言えば、人間でなく神様です。これが違うのです。ですから、神様を紹介できない人は聖人の隊列に同参できないのです。

 今日、マルクス主義とか何主義とかいうものは一つの哲学です。哲学はその個人的誰かによって始まるのです。哲学は知識の起源を通して現れるものであり、神様との関係、生命の起源を通して現れたものではありません。哲学は、人間とは何かという問題を探究する場合において人性説を主張したかもしれませんが、生命の起源はどこからかということを追究することはできませんでした。その問題を追究するものは哲学でなく宗教です。

 哲学は神様を発見しようとしましたが、発見できずに落第しました。神様を見失ってしまい、人間が第一だという人本主義へと流されました。人間を見いだすこともできず、物質が第一だという物本主義、唯物主義へと流れ出ました。

 今日の思潮は何が動かすのでしょうか。哲学が動かします。しかし、哲学は生命と関係があるものではありません。皆さんはそれを知るべきです。哲学は生命を左右することのできる根源的な立場にはなれないのです。生命の対象的な立場に立つ知識の根本になることはできますが、生命の内容を決定できるもの自体にはなれません。ですから、哲学は生命を救うことはできないという結論が出てくるのです。

 聖人たちは哲学者ではありません。聖人たちを分析して見る時、彼らは何をもって生きたのでしょうか。何かの戦法をもって生きたのではありません。もちろん、知識を教えてあげたでしょう。人生の道理の一面を教えてあげることはしましたが、それは何を中心として教えてあげたのでしょうか。世の中を占領するための戦略的なことを教えてあげたのでしょうか。彼らが教えた内容は違います。全部違うのです。

 知識は知れば知るほど占領していくのです。今日の西欧哲学とは占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくというのです。たくさん知れば知るほど自己を越えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心にですか。世界を中心にですか。自己を中心にですか。

 世界のための道に従って行くと言いますが、誰を中心にしてかと言えば、どこまでも自己自体を中心にするのです。ですから、その結果は必ず唯物思想に結集されてしまうのです。哲学は人生の生命問題を根本的に解決できないために、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなれなかったのです。

2 思想と哲学の二大思潮

 皆さんの心の世界は、皆さんが誕生する前から始まったのです。また、皆さんの対外的な世界も皆さんが誕生する前から始まったのです。それでは、この宇宙は何の考えもなしに、ただそのように生じたのでしょうか。違います。ここにあるピアノが生じるためにも、ここにはそうできる内容があったために生じたのです。どうやって生じたのか分かりませんが、何かの調和的力が作用したために結果として現れたのです。したがって、物体は原因ではなく結果なのです。

 皆さんが生まれる時、心的起源が先ですか、物質的起源が先ですか。私が生まれてみると、この世の中もあったし、私の心もありました。それではどちらが先ですか。物質が先だということはあり得ないのです。このような問題を中心として思想と哲学の二大思潮をつくって、「精神が先だ」「物質が先だ」と言いながらお互いが正しいと主張しています。

 それでは、皆さんは精神がないのに、「私は行く」と言うことができますか。できません。先に考えて、その次に行動するのです。そのようになっています。そうではないですか。ご飯を食べる時、無意識で「私は食べる」と言うことができますか。食べようと考えた後に食べるのです。これを見る時、どちらが先ですか。内的なもの、すなわち考えることが先なのです。

 それでは、皆さんは体の欲望が大きいですか、心の欲望が大きいですか。体の欲望は、ご飯を一膳多く食べれば満腹になるように限界があります。しかし、心の欲望には限界がありません。それでは、どちらが大きいですか。心の欲望に限界がありますか。物質的欲望、すなわち体の欲望には限界があります。しかし、その限界線を越えて要求するのが心の欲望です。これは皆さんの生活の中から明らかに知ることができるのです。

 今までの歴史は、このような目的に向かって発展してきたのです。このようにして目的とする世界を成すための一つの手段と方便として立てられたものが主義と思想です。ここで、物質的な面を中心としたものが唯物主義であり、精神的な面を中心としたものが唯心主義です。民主主義は、唯心主義である宗教と文化を中心として発展してきています。人類はこの二つの思想が対立する間にとどまっています。

 今日、世界思潮を大別して見る時、どのような世界観になっているでしょうか。物質的世界観と精神的世界観になっています。言い換えれば、唯物史観と唯心史観が対立しています。この物質的な面と心的な面が対立する立場で一つの中心へと行くことができるでしょうか。それは不可能なことです。我々人間を見ても、心と体から成っています。心とは、我々が現実的なものをもって分析し、処理することのできないものです。物質的な環境とか内容によって観測しては、一つの結果を下すことができないものが心の世界であることを、我々は知っています。

 この心の世界は具体的な内容をもっていないようですが、それが物質的な世界を管轄しているのです。このようなことを見る時、高次的な内容を整えた内的な原則を通して物質世界を分析することができますが、物質的なものをもってはその次元が及ばないために、心的世界を分析するとか解決することはできないことを、我々は知っています。

 今日、世界の思潮は二つに分かれています。右と左、唯心と唯物に分かれていますが、これらは、ある一日互いにぶつかるようになるのです。ぶつかる時、喜びでぶつかるのでしょうか、恐怖でぶつかるのでしょうか。これが問題です。恐怖でぶつかる日には世界はすべて死亡であり、喜びでぶつかる日には世界はすべて幸福です。脅威と恐怖によって一つにしようとすれば終わりがきますが、平和と喜びの内容によって一つにしようとすれば永遠であることができるのです。

 人間の精神は高い理想を追求します。人間の精神はすぐに神様まで至るようになります。肉身は我々の理想を具現する道具です。しかし、これは努力と鍛錬と自己犠牲を要求します。人間の精神が追求するものと、肉身が追求するものの間には緊張が生じます。精神は信仰の世界を探し、肉身は理性の世界を探します。

 このような理由のゆえに、人間の歴史には二種類の平行する思潮が生じるようになりました。一つは理性的で外面的であり、肉身の優位を強調するものです。言うならば、肉体的な満足、肉体的な美、科学に重きを置くことによって、すべてが身体的感覚にパターンを置く実証を重視します。またもう一つの思潮は、宗教的伝統的なもの、これは人間の肉身を超越する価値を重視します。精神的法則や価値、そして神様の啓示は科学の実証対象になることができません。人間生活で見ることのできるこれら二種類の思潮が、まさに今日の世界に見る二つの対立したイデオロギーの根本なのです。

 民主世界、すなわち自由世界は宗教的伝統から出発して発展しました。民主主義の現代的概念はまさに、「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記一・27)という聖書のみ言に見つけることができます。これはまさに、人間は神の子女であるので民主世界では人間を尊重するという意味になります。ですから、人間に選択の自由を最大限許容すべきです。なぜならば、自由なしには人間の行動が価値をもつことができないからです。

 一方、共産主義は人類歴史においてより外面的であり、世俗的な思潮の結実です。啓蒙思想とフランス革命を経てきた後、マルクスは暴力と社会工学的技法を応用して、神様に対する信仰を追い出し、暴力による社会秩序の構築を主張しました。マルクス主義の社会工学的技法は、神様を否認する人間観に根拠を置いています。

 しかし、その結果は何ですか。マルクスの見解や主張を擁護する人たちがいるにはいますが、マルクス理論を実験し、実践してきた歴史が七十年になるソ連当地での結果は、一言にして悲劇的な失敗というほかありません。共産主義の勢力を強固にするために一億五千万の無辜の人命が犠牲になりましたが、マルクスが約束していた正義と繁栄の世界はそのどこにも実証することができませんでした。今日、これら両大イデオロギーと、これを信奉する諸国は地球星でお互いに正面対決しており、かつて想像さえもできなかった巨大な破壊力をもって世界を威脅しています。

3 歴史の発展過程と共産主義

 今まで発展してきた歴史のすべての内容を人体に比較して考えてみる時、最近まで世界を動かしてきた人たちは頭のよい人たち、すなわち知性人でした。それで、頭の時代であったと言うことができるのです。そして、第一次、第二次世界大戦を前後しては軍閥、すなわち力ある人たちが世界を動かしました。腕の時代でした。今は労働者や農民を中心とする脚の時代に入ってきました。なぜこのように歴史が発展してこなければならなかったのかと言えば、サタン世界のすべてのものを天が取り返してくるためです。すなわち、人類歴史は神様の復帰摂理歴史です。それで頭のよい人たちは、たくさん天の側になりました。今日、世界を指導する民主世界の知性人たちは大部分、神様を信奉する人たちです。アメリカでもそうです。今、サタンはだんだん頭を取られ、体を取られ、後には脚へ追いやられるのです。

 自己の心のままに蹂躙した人類をみんな奪われて、しまいには神様の前から除去されるほかない運命に立っているために、サタンは、自己も侍られず神様も侍られないようにしようと、「神はいない」という共産主義を生じさせるようにしたのです。皆さんはこれを知らなければなりません。

 それゆえ今、世界的にサタンの「分離現象」が起こります。頭からの分離、手からの分離現象が起こります。そして、頭は神様を象徴しますが、これは人体の情報機関であるということができます。すべての事物を観察する器官が頭にあり、顔には七個の穴(口、鼻二つ、目二つ、耳二つ)があります。ですから、七数を代表できる情報網をもって、サタンと悪なる者たちを断ってしまうのです。

 それで、最後の手段としてサタンが逃避するのです。そのために、神様に敵対していたサタンが今は神様を肯定して自己自体を爆破させなければならない終末時代に来たのです。自己と神様を否定することによって神様も侍られなくなり、自己も侍られなくしようとするのです。このような思想が共産主義です。また共産主義は、人間を神様のもとに帰ることができなくしようとする思想でもあります。

 また、彼らは会議を夜にします。秘密指示とか秘密事項を決議するのもすべて夜にします。反面、民主世界では昼にします。そして、共産主義者たちは地下で謀議をします。ですから、このような運動を世界化させて全世界を魔鬼化しようとする集団が共産党であり、神様が主管なさらなければならない世界を身代わりし、治めてみようとして現れた悪魔の集団が共産党なので、神様の頭痛の種であろうというのです。

4 唯物論の正体

 今、神様とサタンが人間を介して戦っています。皆さん、聖書を見ると、サタンは空中の権を手にした者であると言いました。また、この世の君がサタンであると言いました。ですから、神様はサタンが手にした空中の権と地上の権を奪ってこなければならないのです。

 それが第一次世界大戦前まで、すなわち世界的な問題を中心としてサタンが天と戦う世界時代までは、霊的世界を天が占領してきたのです。このように天が霊的世界を占領したので、サタンは地上世界に降りてきたのです。世界的な霊的世界を奪われたサタンは、世界的な地上に向かって降りてきたので、世界を糾合して天の世界に反対するようにするのです。これは何ですか。霊界を代表した世界的なキリスト教文化圏とサタン文化圏の戦いが起こるのです。お互いに戦うようになっているというのです。

 霊的世界でもキリスト教文化圏を中心としてサタンと戦って出てくるのです。それと同様に地上で戦う場合においても、霊的な神様とキリスト教国家が合わさり、サタンとキリスト教に反対する国家が合わさって世界的な戦いが起きたのです。

 そうならば、サタンはこの世界が自己の主管圏内にいるために世界中の人々の中で一番の知識層、一番の上流階級の人たちを糾合して神様に反対するのです。それが第一次世界大戦までの戦いでした。世界を掌握した上流階級層がサタン世界を動員して神側を打つ時なのです。人に例えて言えば、サタンが最高の頭の部分を動員して天に反対した時なのです。それが、第一次世界大戦です。

 その次に、サタンはそれを奪われるので、上流階級から中流階級へ入っていくのです。追われて降りてきたのです。人間で言うならば、首の時代は過ぎていき、腕の時代、すなわち、力の時代に入ってきたのです。力をもって世界を一度掌握し、神様に対抗するぞと言うのです。それが、中流階級に該当する軍閥時代です。力をもって世界を掌握するために、力がなければならないのです。これが第二次世界大戦です。ですから、サタンは中流階級まで追われて降りてきたのです。人間で言えば、腰以上を全部天が奪ったのと同じなのです。

 それで、サタンが追われて下がっていき、今は行くところがないので一番下、足の時代に向かう時が来たのです。これが、サタン世界の最後の足場である労働者、農民の時代だというのです。

 共産主義は労働者と農民を中心にしたものです。足の裏だというのです。下部、下級階級、労働者、農民を中心にして糾合するのです。今、サタンは下部構造にまで下がってきたので、ここから追い出される日には自分が行く所がないのです。自分が行く所がなく、人類に侍られることもなくなるので、神様も侍られなくするために「神様はいない、神はいない」と言うのです。それがサタンの主義なのです。

 それで、地の主義、唯物主義というのです。そして経済主義というのです。経済をもって世界を主管してみようというのです。マルクス主義は何かといえば経済哲学なのです。内的な神様、心の部分は全部除いてしまうのです。私だけが人類を所有するという主義なのです。このようなことを見る時、どれほど悪賢く狡猾なサタンであるかを皆さんは知らなければなりません。ですから、最後に残ったサタンの知恵の学問が共産主義であることを、皆さんが知らなければなりません。

 人間を立てて世界を制覇しようというのではなく、物質をもって世界を制覇しようというのです。人間よりも物質を上にする人々です。物質が祖先だから、物質の世界を認定しますが、人間の価値を認定しないのです。

 人間は神様を中心として成された内容をもってこそ価値があるのですが、それを全部否定するので、この世の中は物質だけが残った世界になりました。ですから、人間一人を消すことを家一件壊すよりも簡単にするのです。家を一件つぶすのか、人間を十人処分してしまうのかといえば、人間十人を処分してしまうのです。人を消すのは問題にもならないのです。この主義が今、世界を激しく揺さぶっているのです。

 上流、すなわち頭と胴体が責任を果たしたならば足は頭の支配を受け、胴体の支配を受けるようになるのですが、それらが全部責任をもつことができないので足だけ行き来して騒がしいのです。この民主世界が責任を果たして、首と胴体のような上流と中流階級が主と合わさったならば、正常的な人間の体をもって世界を一つにできたでしょうが、それができなかったために全部死んでしまったのと同様になっているのです。

 物質は被造物です。被造物である物質を愛する主義が世界を支配するのにそれほど執拗ならば、創造主のためにする民はどれほど執拗でなければならないのかを考えるべきです。被造物のための主義をもつソ連が被造物主義を中心としてその主権を愛することよりも、創造主を中心とする主義が創造主の主権を愛するにおいて何倍以上にもならなければいけないのです。それは、当然の道理です。

  人間は今まで、土地を奪う戦い、人を奪う戦いをしてきました。唯物論は人の体を引いていこうとする理論です。そこには、心と永遠なる理念と天倫の大目的と共に同行できる心的な理念がありません。

 この世界は人間のものです。しかし、唯物史観は経済史観を土台にしており、物質世界を価値視します。しかし、民主主義は人間それ自体を中心にします。共産主義はまず人を探さなければなりません。このような意味から民主主義は共産主義より一段階進んでいます。

 皆さんも知っているように、共産主義の究極の目標は、無神論的唯物論の旗のもとに全世界を征服して共産党独裁をすることです。実際に、労働価値論、剰余価値論、弁証法的唯物論、歴史的唯物論のようなマルクス理論は真理とは正反対であり、暴力革命を正当化するために主張されたのです。

5 唯物論の代案

 無神論が何かというのです。神様はいないというものです。物質を中心とする唯物論と人本主義はそう言うのですから、それを批判すればいいでしょう。無神論は自己を中心としたことのほかには何もないのです。ローマのような国がなぜ滅びたのかというのです。それは創造原則において、神様の理想の原則、原因と結果の原則に一致しなかったためです。原因は何ですか。自己投入です。自己投入をして神様は何をしようとするのですか。愛を見いだそうとするのです。神様全体を投入しても神様に必要なものは愛なのです。より大きいもののために、自己を投入したのです。これが根本です。ローマのような国は世界を中心として理想的世界を願いながら、ローマを中心にしておいて、自己以上の投入をしなかったのです。対象的な世界に対して、自分を犠牲にして自分の国以上の投入をしなかったのです。ローマが犠牲となり、投入したならばどのようになっていましたか。全部ローマのようになったのです。ローマのようになるのです。

 ですから神観、唯心論とか唯物論の対決に対しては、根本をはっきり植えておいて一致して出ていけば、すべて終わるのです。

 無神論と有神論を中心として、体制が神様はいないと言うようになれば、既にそれ自体が破壊です。それ自体が消耗なのです。愛の原動力の補給を受けられないのです。力が作用すれば作用するほど消耗するのです。共産主義者たちは共同所有を中心としてきましたが、なぜ共有が個人所有よりよくないのか、これが問題です。共有の立場のすべての所有権をもった党員たちが、個人を党の利益よりも重要視しなければならないのです。そうすればいいのです。分かりますか。党自体が願う利益を尊く思い尊重するのと同様に、党自体が個人を党自体よりも尊く考えることができなければなりません。

 それは何かと言えば、党の所有であると同時により高い個人所有なのです。そのような概念が立っていないのです。いつでも、個人は党のためにしなくてはならないというでしょう。党が個人のためにするという概念がないのです。それがサタンです。独裁体制というのです。それが理論的な独裁体制と何が違うのかというのです。何がサタン側ですか。それは、党を中心とした党絶対主義でしょう。党が個人のために家庭のためにという、より小さいもののために何かしてあげるという主義ではないのです。それがサタンです。違うというのです。ですから、個人を地獄に引いていこうとするのでしょう。個人が理想的授受作用の相対基盤をもつことができないので、すべて破壊分子、無価値の存在になるのです。ですから、地獄のほかには行くことができない、このように見るのです。何の話か分かりますか。

 共産党は矛盾です。矛盾だというのです。労働者や農民を中心として独裁政権をつくらなければならないという、それは論理的矛盾です。そのような論理は理想的な論理となることはできないのです。理想は必ず授けて受けなければなりません。一人で理想を実現しますか。

 そうであるならば、神様は最高の理想主体なので、神様自体だけでいらっしゃってもよいだろうに、神様ご自身が被造世界を造ったのは相対理想圏の愛を追求するためだったのです。ですから、我々が愛の論理をこのような創造の起源から立てていかなければならないのです。違いますか。それはいかなる時でも除くことはできないのです。観と言えば、個人的観とか家庭的観とか、その骨と骨が連結しなければならないのです。ですから我々は愛の心情圏を中心としてすべて連結されなくてはなりません。東に住んでも、西で住んでもその方向は間違いないでしょう。

 物質をもってはできないのです。よい物があれば党がもとうとして、個人に与えないようにします。物質をもって、所有欲を中心としてはできません。愛でなければ不可能なのです。父母が主体になっていれば、愛を通してよい物を自分はもたないで子供のために与えようとするでしょう。自己を消耗して与えようとするでしょう。世の中にそのような愛がなくて、所有欲を中心としては、自分のものを第二人者に与えようと考えないというのです。子供を除いて、みんなそうではないですか。個人主義を中心としてサタン側に全部取り入れられるのです。ですから、そのような世界は愛を実現する場が既に全部破壊されているのです。ですから、個人主義とか所有欲はサタンに属するのです。

 愛を中心とした所有欲は物質ではありません。理想です。その理想のためにすべてのものを犠牲にできるのです。我々人間が必要な生活面、すべてのものを犠牲にできるのです。私の生命までも犠牲にできるのです。ですから、その次元が違うのです。次元が違うためにそれ以下の人間生活は問題にならないのです。どんなに犠牲になってもです。しかし、個人を中心とした個人主義の所有観念はそうではないのです。その次元の高い段階に上がることができないのです。

 皆さんも共産主義を知っていますが、共産主義理念とは物質を中心とした思想です。神様を中心とした思想ではないのです。物質を中心とした思想なのです。また民主主義は何かと言えば、人間を中心とした主義です。それでは本来のアダム主義は何ですか。それは真なる愛の道、真の愛だけもつならばすべてのことが全部解決するというのです。では真の愛主義はどこから出発しますか。それは神様からです。では人間が願う理想の境地がどのようなものかと問う時、ご飯を食べて楽に暮らす世界ではありません。真の愛主義の世界であるというのです。

 

 

三.唯物弁証法の解説と代案

1 ヘーゲルの根本的な過ち

 ヘーゲルの弁証法は間違っています。ヘーゲルの弁証法に出てくる「闘争」という概念をどこから引用したのか分かりますか。人間の心の奥に深く入ってみれば、良心と肉心が戦っています。それでヘーゲルは闘争が元来からあるように考えたのです。神様が創造した世界それ自体に闘争があると曲解しました。これは、人間が堕落したという根本的な事実を知らなかったためです。人間の本心を深く調べてみれば、相反する二つの心が対立していることを知ることができますが、そのような二つの心、すなわち良心と肉心が互いに対応しながら歴史が発展してきたと見たのです。ヘーゲルが「堕落」を考えられなかったことが根本的な過ちです。

 堕落した結果として現れた人間自体を分析してみれば、人間は相反する二種類の性質によって結合しています。そのために、神様が人間をこのように相反する二種類の性質をもった存在として創造したことが原則であると考え、宇宙もそのようにでき上がったという理論を立てるようになりました。共産主義思想はすべての事物を弁証法的理論によって分析して、歴史の発展も弁証法によって理解するのです。現実世界の一切を上部構造と下部構造に分けて、これらが互いに闘争しながら歴史が発展するという戦闘的な理論を展開しています。ですから、発展するためには以前のことを破壊しなければならないという理論が出てくるようになったのです。

 元来ヘーゲルの弁証法は現在の人間を堕落していない立場で考えました。しかし事実は正反対です。人間が堕落したことによって良心と肉心の対立と闘争が始まったのです。元来創造本然の人間の内部には矛盾性はなかったのです。そのような面から見る時、我々には本然の基準に一致する現実的な運動が絶対必要なのです。ヘーゲルは「生活の場」が矛盾を懐胎していると見ました。それが日常のことにすべて適応して、宗教は異常なものであると考えたのです。しかし、ヘーゲルの考えと彼が立てた理論は根本的に間違っています。堕落した結果の人間を中心として、それが創造本然の人間であるとして考えた点が間違いであったのです。ですから我々がここにおいて強調しなくてはならないことは、人間は堕落したという観念を早く宣布することです。

 我々人間は自体の内で良心と肉心が互いに争っています。その二個の力の拡大が民主主義世界と共産主義世界、唯心と唯物の二つの世界に分立して現れています。今その結実の収穫期に向かって前進することが末世の時代思潮の現象です。

 このような観点から、我々の統一思想はどのようにしなければならないのでしょうか。本来から出発点が間違っていたので、我々は一次元高い根源へと帰っていかなければなりません。一次元高い根源的な立場での人間はどのような姿ですか。これは良心と肉心が戦っている人間の姿ではなく、良心と肉心が一致している人間なのです。絶対的な一致、永遠なる一致という基準から見る時、霊界と地上と一体とならなければならないのです。

 まだ我々はみんな偽者です。見てみなさい。なぜ偽者かというのです。心と体が一つになれずにあえいでいるではないですか。それが何の本物ですか。二つが戦っているのに本物ですか。本物と言うことができますか。(できません)。このような人間自体を見て弁証法という矛盾した論理が見いだされたのです。人間自体の闘争からすべて見つけ出したのです。ヘーゲルのような人たちのことを言っているのです。

 今日一般の哲学者たちが堕落という観念を知らずに人間の心を開いてみたので、「そのようなものである」として、弁証法とか何だとか全部このように出てくるのです。闘争が起源であるということもすべて一理あることのようですが……。堕落したその立場から見る時のことですが、人の心をじっと探して入っていくとまさに闘争しているのです。堕落した結果から見ればまさにそのように見えるのです。

2 作用の原則から見た弁証法の誤謬

 共産主義者が言うのですが、大宇宙には力があってすべてのものが発展するというのです。環境世界を認定してから論理の出発をしているのです。一つの存在が存在するためには、存在するための環境をもたなければなりません。水、土、空気がなければならないのです。これは環境の絶対要件です。

 彼らの論法によれば、進化させる環境はどこからでしょうか。そのようなものがある道理がないのです。それは矛盾です。「進化できる環境の基準はどこからか」。「自然に」。「自然にと言うならばどのような方法で?」。「力によって」。「力はどこから生じるのか」。力は一人では生じないのです。力が存在する前に相対基準があるのです。科学的現象においても、目的に連結する相対基準がなければ作用できないのです。運動が生じません。

 それならば力が存在する前に何が必要ですか。力が存在するためには相対基準がなくてはなりません。相対基準を認定するためには主体と客体の観念がなくてはなりません。主体と客体、プラスとマイナスが授受するためには共同目的の基準がなくてはなりません。ですから作用とか力の現象は、力の共通目的において生じるほかないのです。そうであるならば、共産党がいう弁証法は崩れてしまうのです。

 正というものと反対になるものがあり、それらが闘争して合体していくというのです。正というものと反対になるもの、それらは二個の違う観念として全く違うものです。違う目的圏です。互いに違う目的圏が一致することができるのでしょうか。正というものと反対になるものがあるということではなく、反対のものがあり、そこに正が生じるための闘争過程があるというのです。相対作用は共同目的圏内に限って作用するのです。絶対に、マイナスとなり損害となるところには作用しないのです。共同目的を完遂する圏内において互いに引っ張り合いながら作用するのであり、これを見てみるならば、共産主義の弁証法は根本的に間違いであることが分かります。

 すべてのものは相対的に存在しています。相対が定められれば目的観は自動的に出てきます。その目的は、二つを合わせたものよりももっと大きい価値をもつのです。ですから二つが合わさることは互いに矛盾対立して合わさるのではなく、共同の目的達成のために互いに合わさるのです。

 これが統一教会の理念の根本を成しています。ですからこのような根拠をもって弁証法さえ覆しておけば、共産主義の唯物史観とか経済理論などマルクスのすべての理論はみんな覆されるようになっています。

 共産主義とは何ですか。これがないというのです。主体も認定しないし、対象も認定しないのです。方向性もありません。目的性もないというのです。この中のどれか一つを認定すれば全部壊れていってしまうのです。ここでは主体と対象の関係を闘争として見ています。

戦って一つになると言うのです。世の中にそのような法がどこにありますか。そのようなことがあり得ますか。女性と男性と戦って一つになる、心と体が戦って一つになると言うのです。彼らはまた主体と対象においても、「物質が先であり心が先ではない。心は物質による派生物である」と言います。何ですか! 全く逆さまです。逆さまにひっくり返してしまいました。このサタン! 「方向は闘争である」と言いながら、闘争の方向を取っています。平和の方向ではありません。「統一は血を見なければならない。血を見て統一だ」と言うのです。これは歴史発展の原則にも、宇宙存在原則にも違反しているのです。

 力は必ず主体と対象が互いに授け受けするところから出てくるのです。しかし、主体と対象がいるとしても互いに損害となる時には授け受けしません。首を切るとしても授け受けしません。例を挙げて言えば、思春期になった処女と青年が恋愛する時は、男性も女性を対象にしたく、女性も男性を対象にしたがらなくてはなりません。すなわち、互いが出会って私もよく、あなたもよくなければならないのです。自己にプラスとなるものを発見しないでは、絶対に自己のものを与えません。与えるのが嫌なのです。あの人と暮らせば私が利益になる、すなわち損害とならずにプラスとなるという与件を発見すれば、授け受けしようとするのです。

 そうですが、当初それに対してみて、初めの日からマイナスだという時は対そうとしますか。絶対に対そうとしません。主体と対象はお互いの目的を中心として見てみても、自己一人で願う目的よりもプラスとなることのできる内容を相対から見つけられなければ授け受けしようとしません。言い換えれば、好ましい結果が現れなければ授け受けしないのです。

 好ましいとはどういうことですか。プラスとなるということです。悪いとはどういうことですか。ひっきりなしに取っていって、全部なくなってマイナスになるのです。良いとはプラスとなり盛んになるものであり、悪いとはマイナスとなり滅びるものです。ですからマイナスとなるところにはどんなに主体と対象の因縁があるとしても、どんなに強力な力を加えてみても授け受ける力が出てこないのです。力が生じることができないのです。そうでしょう? そうですか、違いますか。

 このような点から見る時、共産主義の弁証法はこれが分からない論理なのです。力の対決を認定するためには主体と対象の関係を結ばなくてはなりません。これが先決要件です。皆さんが化学実験をする時、元素のイオン化傾向を見ても元素が無条件に作用しないことが分かります。しかし元素が目的とする結果により好ましく、もっとプラスになることのできる要素が少しでも備わればいっぺんに作用するのです。もしマイナスとなる要素が少しでも入っていって、自己自体に侵害を受けるようになる時には絶対に作用しません。この宇宙は自己自ら保護作用をするのです。これが原則です。科学的な原則であるというのです。分かりますか。

 今日世界的に問題になっている、共産主義者たちが重要視する哲学、弁証法はとても大きな問題になるのです。ですから目的観念をもたない存在はないのであり、より素晴らしい目的を追求しないところには発展がないのです。人間を見てみれば、我々人間は結果的な存在です。何かの原因があって存在しています。

3 共産主義の闘争観念

 共産主義思想の内容である弁証法を見るならば、それは矛盾と闘争の原理を提供するのです。必ず存在するものは矛盾過程を中心として上下、上部構造、下部構造に分別されるのです。上部構造と下部構造は一体化することができず、上部構造は下部構造を搾取するというのです。そこには愛の概念がありません。闘争の概念だけです。

 彼らが追求するものは何ですか。ユートピア、理想とは何ですか。闘争の過程によってもたらされる平和の世界です。その平和の世界は今日民主世界でいう平和とは違います。平和に違背するすべての者を粛清します。反動分子であるというのです。ですから反動分子の首を全部切ってしまい、反動分子がいないようにしたその世界を(彼らは)平和と言うのです。違うのです。

 今日ソ連が平和を主張しますが、その平和はマルクス・レーニン主義を中心としてそこに違背するすべての反動分子たちを粛清してしまい、そこに支持しない分子がいる立場で一つになった平和の境地を言うのではありません。全部首を切って粛清してしまって、反動分子のいない立場でマルクス主義一辺倒の立場に立った、そのような反対する群れがいない境地を言うのです。そのような平和のことを言うのです。違うのです。

 民主世界の平和は、左右が共に一つになることのできる概念を言います。根本的に違うのです。左右が一つになり、和合して理想的な動きを備えるその境地を民主世界では平和であると言うのです。そこには粛清の概念がありません。包括的概念があり観念的概念はありますが、粛清の概念や破壊的概念がないというのです。ですからこの共産主義は人類が受け入れることができない主義なので、我々のような人は世界的にその先端の旗手となって戦っているのです。そこでは愛、家庭までも、父母までも搾取の元凶であると言うのです。子供は父母の立場を自己の利益のために活用する存在として、搾取的な母体と見るのです。そこには愛を話すことができません。そこに真が存在できるのかと言うのです。

 今日共産世界について言えば、「世界を全部制覇しなければならない」、このように言ってそこに反対するものは全部首を切り、粛清をしたでしょう。自己の同僚もお構いなく、父母もお構いなくみんな粛清したのです。しかし、そこに行ってみると、これでもなかったというのです。また、出掛けなければならないというのです。人を虐殺して成したものを見れば、そうできるでしょうか。親友も見忘れ、父母も見忘れ、みんな見忘れるのです。「ただ党だけがある!」。やせっぽちの党だけです。見れば見るほど恐ろしく、見れば見るほど冷徹であり、見れば見るほど情が離れていく党だけが「第一である!」と、こう言っているのです。

 心と体が溶けて入っていって「ああーいい」と、こう言える所になることはできないのです。そのようですか。間違いなく行っては、走って出てくるのです。みんな走って出てきます。弁証法を中心とした変わる論理体裁をもったために、そこには永遠に住むことができません。その理論は永遠なる、高次的な何かを見つけることはできないことを知らなければなりません。そこには理想がありません。

4 闘争理論の矛盾

 今、世界は民主世界と共産世界の二つになっていますね。どちらが本物ですか。お互いに本物であると言うでしょう。では誰が、本物であると公認しなければなりませんか。歴史が公認をしなければならないのです。

 共産主義理論で言えば、歴史が公認しなければならないという言葉は成立しません。弁証法的論理によれば、歴史は闘争によって発展すると言うので伝統がありません。ですから、伝統破壊の魁首がサタンです。サタンが破壊の先導者です。千年万年の歴史を立てることができないのです。理論体裁が間違ったために、歴史的弁護を受けられません。それは何かと言えば、変わらない原理、原則の真理による伝統的歴史背景がないということです。それならばいつ、彼らが語るユートピア世界、真理に立脚した変わらない歴史的伝統基盤を共産世界が築くのでしょうか。彼らは、社会主義社会を経て共産主義社会になっていくと言います。共産主義社会、それが終わりとなるのでしょうか。矛盾した論理をもって世界をどのようにするというのですか。

 唯物論の弁証法には闘争概念が入っています。矛盾を中心として、それを克服するところから闘争概念が出てくるのです。しかし、理想的な世界を成すところにおいて、結論は、闘争概念ではない投入概念にあります。すなわち、主体となるものが投入しなくてはならないのです。投入すればどのようになりますか。十くらい高かったものが自己を投入すれば、自己は下がってきますが相対は上がっていくのです。

 ここの大学生は、「ああ、意識革命がなされなくてはならない。悪なるものは滅ぼし、善なるものは残らなければならない」と言いますが、それは正しいのです。では、共産党が善ですか。弁証法的唯物論の核心は闘争なのです。闘争して栄えることがありますか。そのような論理が正しいですか。男性と女性が愛することが闘争ですか。男性と女性は愛によって一つになるのであって、闘争によって一つになりますか。二大矛盾的存在が男性と女性であると言うのですが、これらが和合によって一つになることは何と言うのですか。このようなでたらめな人々がいるので、世の中がだめになっていくのです。

 弁証法、それはこっけいなものです。二つが対立して、戦って一つになると言うのです。それは、女性と男性が毎日のようにけんかして、あさっての朝にはもっと発展するという論法です。そのようなことがあり得ますか。とんでもないことです。戦えば互いに損害を受け、後退するようになるのです。世の中に、歴史的に戦いをして富強となった国を見ましたか。

 弁証法論理は闘争概念です。不平から始まるのです。サタンが神様のみ旨を破綻させながら理論的な拠り所をもって現れて世界舞台を混乱させるこの時に、その裂け目に挟まれて染まってはいけないのです。

 共産主義の闘争概念は何ですか。上部構造と下部構造、上下、前後の二組に分けて戦うようにして、お互いを弱体化させてのみ下そうとする主義です。しかし愛によって絡み合えば、誰がのみ下しますか。歴史時代で第一イスラエルが滅び、第二イスラエルが滅んだ事実を我々が直視している以上、第三イスラエル圏を中心として我々が行かなければならない道は万教の統一であり、万国統一の思想をもって行く道です。こぶしと力でするのではありません。愛をもって、十年、二十年、千年、万年、溶かし切るのです。

 このめちゃくちゃな結果をもってどんなにしたとしても、問題は既に解決できない段階に越えてしまっているのです。ですから世界の人々は、今人間がなぜこのようになったのかという問題を知らなければなりません。今日、宗教では漠然と堕落してこのようになったと言いますが、具体的な内容を提示できないために、歴史は混乱の渦中で没落しているのです。

 そのような観点から、我々統一教会はこの歴史を見る時どのように見るのでしょうか。

 闘争歴史は闘争歴史ですが、善悪が交替する闘争歴史である、このように見ているのです。それが違います。これがだんだん世界的な戦争になっていけばいくほど、そこに対して悪なるものと善なるものが互いに戦って、悪なるものは除去され善なる世界へと移っていくというのが我々統一教会の歴史観です。

 父母の心に発展と革命が必要ですか。どうですか。動物も子供を愛するすべを知っているでしょう。(はい)。マルクス、レーニン、あるいはヘーゲルの弁証法論理を適用して、「変遷するだろう」と言う時、そこに適用できますか。適用できません。復帰は弁証法に適用できません。発展をしないのです。発展しません。発展する世界、共産主義世界へと戻っていくという言葉は全く間違った言葉です。それはみんな荒唐無稽な論理です。発展しないで、出発から変わらない過程を経て変わらない終着点まで連結し一つに統一できるその何か、そのような愛の世界でなければ、一つの世界を成すことはできないのです。理論をもってしてはできないのです。理論をもってできるのでしたら、私は既に共産党たちをみんな打ち負かしてしまったでしょう。十代の少年時代から共産党と闘争した経歴をもっているので、今日、世界的な反共の宗主となったのです。

 宗教がいつまで必要なのでしょうか。この矛盾したものを清算し、神様と人が一つになって理想郷に到達する時まで必要なのです。ですから完全な、完成した神様の人が顕現するようになる時は、宗教は必要ないのです。さあ、我々自体が矛盾したこの環境から希望の理想郷を憧憬していますが、宗教という枠を通してこそそこへ行くことのできる道がある、理想に到達する可能性があるというのです。これは理論的に合っているのです。

 けれども、矛盾した人間が飛躍とか闘争とか言って理想世界を実現するという、このような論理は不可能なものであるとの結論が下されるのです。今日、弁証法という論理だとか共産主義理論をもっては不可能なのです。そうできるパターンの基準がないのです。これは基準を無視するものです。基準がないのです。彼らは、物質が精神より先にあると言うのですが、それは、肉の固まりである体が完全であるということです。我々自体を見る時、体が心よりも完全ですか。体は限定圏内にあり、心は無限定圏内にあるのです。ですから、どちらが大きいかと言えば心が大きいでしょう。体が大きいのではないのです。

 このように分析して、今日、共産主義と民主世界の両体制を見る時、それでも、唯心体制を中心として宗教形態を経ていく道を通して理想の実現が可能であるということに、理論的妥当性がよりあるというのです。レバレンド・ムーンという人はどのような人ですか。このような問題の渦中で誰よりも苦心した人なのです。

 千年、万年過ぎても変わらないその基準をどのように立てておくのでしょうか。

 億万年後の人たちが過去の一つの絶対的な基準を中心としてすべての精誠を尽くし、死力を尽くしてもそこに届くのには不足であると言うことができ、そうでありながら、絶対的にもたなくてはならないという信念に徹することのできるよりどころの上に立った主義ならば、その主義を中心として世界は自動的に統一されるのです。

 このような点から見れば、共産主義の唯物弁証法を中心とした現象世界では絶対に統一はあり得ません。闘争を通して統一をするということ自体が論理的な矛盾なのです。彼らは未来に望みをもって統一を追求していますが、そのような方法によっては統一した世界を成すことはできません。

5 弁証法によって説明できないもの

 真の愛とは何ですか。変わるものでしょうか、変わらないものでしょうか。では、この愛を中心として、何とかこの世の中で変わらない愛の種類を一度探してみましょう。何ですか。夫婦だけで愛することですか。では、父母が子供を愛することですか。どちらが変わりませんか。

 さあ、父母の愛ですが、子供が父母を愛する愛と、父母が子供を愛する愛とどちらがより変わらないものですか。父母が子供に対する愛はこの世の中の愛がみんな変わっても変わらないでいるという事実を、我々は歴史を通して知ることができます。

 では、ここで問題となるものは何ですか。今日、共産主義が弁証法によって、父母が子供を愛するそのような考え、あるいはそのような愛の力を説明することができるのかというのです。それが問題です。できますか、できませんか。絶対にできないのです。絶対にできません。

 例を挙げれば、共産党の最高幹部の息子が共産党法に引っ掛かって死刑場に出て、死んでいく時、そのお母さん、お父さんの心はどうでしょうか。「えい、この野郎、死ね。さっさと死ね」と、こうでしょうか。「ああ、共産党だろうと何だろうと全部ほうり出しても、この父母の愛を中心とした子供を助けたい」という心があるでしょうか、ないでしょうか。どちらの心が先立つでしょうか。死ねという心が先立ちますか、許してあげて同情する心が先立ちますか。どちらの心が先立ちますか。共産主義理論、弁証法論理を教えているその教授たちはどうでしょうか。同じですか、同じでないでしょうか。同じなのです。

 では、労働者や農民の息子、娘が死のうと刑場に出ていく時はどうでしょうか。それは違うのでしょうか。それは違いますか。

 それは自然の現象です。犬も自分の子供たちのためには死ぬ場に行くのです。動物もそうなのです。それを革命できますか。共産主義理論がそれを変更させることができますか。それが通じますか。このような真の愛、本然の愛は、共産主義とか民主主義とか、その他の何かをもってしても革命できないのです。革命できないのです。変更できないというのが結論です。分かりますか。間違いなく認定しますか。理論的に認定しますか。

 では、その父母の愛はなぜそうなのでしょうか。なぜ、そのような愛が人間の世の中に残っているのかというのです。その愛がどこから出てきたのですか。その父母の愛を、生まれる時からもって来たのでしょうか。どのような動機の結果でしょうか。原因がどこにあるのかというのです。その愛を私がもたなければならないと考えてそのようになるのでしょうか、自分も知らない動機の結果でしょうか。動機的な立場でしょうか、結果的な立場でしょうか。それはどのようなものが起源ですか。結局は皆さんの先祖に上っていって始めの根源に何かがあった、その名前が神様としても、そのような本体があったという事実がここで分かるようになります。それを知らなければなりません。

 人間は結果的存在であり、原因的存在ではありません。結果がそうであるということは、原因と結果は同じでなければならないために、原因と一つにならなければならないのです。同じ模様として似ているために、結果がそうであるならば原因がそうなのです。それは理論的なのです。原因がないのに結果がそうであるならば、それは妄想的です。この言葉は至極科学的です。

 父子関係の愛、それは善いですか、悪いですか。世の中にどんなに革命と変遷があるとしても、今まで弁証法的変化によって発展するという論理がいくら膨張していたとしても、父母が子供を愛する心を革命する力はありません。ありますか、ありませんか。鳥たちが自分の雛を愛することを革命できますか。それは変わることができるでしょうか。絶対的です。千年前でも万年前でも同じなのです。

 共産主義はすべてのものが闘争の概念を中心として発展すると主張します。それならば、鮭が出会う場合も、そのように生きてもっと発展しなければならないはずですが、その場所を探していくのがどのくらい大変でしょうか。探してきて、さらに子を産んで死にます。それはなぜ死ぬのかというのです。

 永遠に変わらず絶対的なもの、良いもの、すべてのものが吸収され、すべてのものが和することのできる良いもの、それが何ですか。神様がいらっしゃるならばその変わらない中心体、その変わらない中心体の心をもってもだめなのです。そこには愛がなくてはなりません。愛を探さなくてはなりません。

 共産党にも尋ねてみると、愛は永遠であることを願い、愛は全体的であることを願っているのです。そのようなことも言っているのです。同じなのです。

 ですから、弁証法的哲学理想が人間に幸福をもたらすことはできず、変わらない愛の哲学理想が人間に幸福をもたらすことができるという結論は、理論的結論です。何の話か分かりますか。それは誰も不平を言う人がいません。王も好み、労働者も好みます。階級を超越するのです。階級が存在できません。階級が存在することができないということを知らなければなりません。