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「天国」脱出2008年02月04日 私が一橋大学に赴任したのは1990年だから、かれこれ20年近くになる。それまで勤めていたのは、東京大学の社会科学研究所。研究所だから学生を教えない。教育負担がないということは研究者にとっては「天国」のようなところだったから、「なぜ教育に時間をとられるところに?」と随分疑われた。そんなとき私はこう答えたものだ。「学生を教えたかったから」。うそではなかったが、少し説明がいる。自分の大学時代に対するある悔いが根っこにある。 □ □ 私は大学に他人の倍近くいたが、ほとんど授業に出ずじまいだった。試験を受けに教室には行ったが、教師の顔がわからず、事務職員に「先生」とやってあきれられたこともあった。一体どうして? そう、学生運動に精を出していたからだ。教室には授業の始まる前にその日のビラをもって駆けつける。教師に時間をもらって、アジる(演説をすることをこう呼んだ)。終わって、教師が授業を始めるのを横目に教室をあとにする、という毎日であった。大学生活に悔いはないが、とはいえ、自分が研究者になるんだったら、あの時授業に出ていればとその点だけは悔いが残った。 □ □ だが、そんな私が研究者になりたいと思ったのも学生時代の経験だった。当時、アメリカがベトナムに全面介入を始めた。浪人していた頃、ベトナム戦争に反対して小田実を代表にして「ベ平連」が結成され、私は恐る恐る、その集会やデモにでた。それがはじめだった。爾後(じご)、学生運動の中で、ベトナム戦争反対のビラを書きながら、いくつもの疑問にぶつかった。 一体なぜ日本はアメリカのベトナム戦争に追随して加担しているのか。それにもかかわらず憲法の下で、自衛隊の派兵はできないままであった。なぜ自民党政権なのに、改憲ができないのか。なぜ日本では自民党政治がこんなに続くのか――などなどである。授業にろくにでないで言うのも何だが、私のそうした疑問に、なかなか大学の研究者たちは答えを示してくれなかった。猛烈に本を読んだ。疑問は深まり広がるばかりだった。こうなったら、自分で勉強して解くしかない。これが研究者になったきっかけだ。 □ □ それだけに、学生が抱える問いをともに考え、その切実な問いに答える研究をしたい。学生を教えていればそれが分かるというようなものではないにせよ、学生と格闘したい。学生に私の考える問題を投げかけたい。ところが、研究所での研究にはそうした学生とのキャッチボールがない。そんな不満が年々膨れ上がっていたとき、一橋大学からお誘いがあった。渡りに船と、私は勢い込んで大学にやってきた。 ◆わたなべ・おさむ◆ 47年東京生まれ。東大社研助教授を経て90年から一橋大社会学部教授。『憲法「改正」―軍事大国化・構造改革から改憲へ』『安倍政権論―新自由主義から新保守主義へ』(ともに旬報社)、『高度成長と企業社会』(吉川弘文館)など著書多数。 マイタウン多摩
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