Shinya talk

     

 

2008/02/04(Mon)

毒を食わされても仕方がないよな日本人。

食の話のついでに、問題になっている中国食品の件について少々。
昨年の私の周辺で起こった十大ニュースのひとつに謎のウインナー事件がある。
上海に行った知り合いがそれなりのいいホテルの朝食の記念にと自分の犬のために数本のウインナーを持って帰った。
だが犬が食わないというのである。
「やはりカリカリばかりやっているのでだめなのでしょうか」と差し出したウインナーにウムッと負のオーラを感じた私はこれをもって帰り、千葉の野良猫で、いつも飢え、いかなる食材もたちどころに食ってしまう(野菜、こんにゃく、カレー、なんでもかつえたように食う)にホイッとやってみたところ、天地がひっくり返るほど驚いた。
猫またぎというべきか、一瞬臭って、そのまま無視したのである。

この猫が食わないということは恐ろしいことである。
猫は独特の嗅覚で危険を悟ったのかも知れない。一体何が入っているのか?。

まあそんなわけで中国食品の恐怖というものを身近に感じた昨年だったが、今回の中国餃子の件に思うことは、中国人も恥ずかしいがそれ以上に日本人の方が恥ずかしいと思わなければならないということである。
生きて行くための「食い物を作る」という人間にとって基本的なことを他の国にまかせておいて、それに何が入っていたかにが入っていたと騒ぐのは自分の尻を他人に拭いてもらって汚れていると騒ぐに等しい。他の国の人間が利益を考えたとしても日本人の健康やお尻のことなんか考えるわけがないのである。他国人が作ったものを食う限りにおいて日本人はえらそうなことは何も言えないのだ。

この自分で食うものを生産しない国の人間が、また家庭内においても料理作りをサボタージュして、お手軽な出来合いの冷凍食品を子供に食べさせる構図は、まあこれは食材他人まかせ国家における地続き的因果というべきもの。

この一件が広く海外に喧伝され、日本人の食の退廃の実態を知られないことを願うばかりだ。

     

 

2008/02/04(Mon)

近江町市場はよい。

4日の昼は近江町市場の中にある「さしみ屋」で食べた。
「さしみ屋定食」2000円。
5種の刺身そのたもろもろ、調理も手早く大変美味しくいただいた。
近江町市場の活況はうらやましい。
私の郷里の門司港の市場が青息吐息で閉店も相次いでいることを思うと、金沢の人のこのように市場を大事にする気持ちがすばらしいと思う。

それにしても鮮魚店に並ぶ日本海の魚の種類の何と豊富なことか。しかも値は東京の半額くらいだろう。魚の知識には多少詳しいと思っている自分の知らない魚が2種あったのにも驚いた。
このように鮮魚において有り余る食材が居並んでいるというのに、昨日の「太郎」の鍋の凡庸な鮮魚の選びが何なのかあらためて考えざるを得ない。
その前の日には新興の料理屋で食ったがこっちは創意工夫を凝らし、味もよく、値段も安かった。
このことは東京でも言えることだが、新興の店というのは新しい客を獲得するためにしのぎをけずり、工夫をこらし、値段もできるだけ抑えるという血の出るような努力をしている。
老舗というものは伝統がある分、時代に即した工夫に欠け、マンネリに陥り、料理そのものが「死に体」になってしまうということは多々あることだ。
私が面倒を見ている駒ヶ根のベンガルカレー「アンシャンテ」の小笠原君に、年に2度は工夫をこらした新しいメニューを考えなさいと言っているのもそのためだ。

     

 

2008/02/03(Sun)

老舗に気をつけろ!

 赤福や吉兆に限らず、代替わりをした老舗の食は、名前と常連客の上にあぐらをかき、あちらこちらで退廃の一途をたどっているようだ。今日、鍋ものではここと地元の人に教えられて金沢の主計町の「太郎」という料亭に行ってみたのだが、お粗末。
出汁の味はまあまあ。だが特段に優れているというわけでもない。
具は鮮魚だが(本来鮮魚料理は漁と河岸が休みになる日曜に食べるものではないが今日しかないので仕方がなかった)魚の中では安価な鱈がやたら多い。鯛はたった一切れ。カワハギにいたっては小ぶり。カワハギは大きいものは値が張る。小さいものは雑魚扱いになる。
野菜類は白菜に甘みがあるが、この程度の白菜ならどこにでもある。きのこ類がシイタケ、エノキダケと至って平凡。練り物は淡白すぎて存在感がない。
おわりに雑炊となるが、平凡。雑炊についてきたお新香が貧弱。キャベツの塩もみを叩き刻みにし、その横にタクワンが二切れ。美味しくない。まるで民宿のお新香だ。
メインではない、お新香とデザートと言ったものにこそ、その店のデリカシーと気合が現れるものだ。だから侮ってはならない。
最後のデザートにはおったまげた。
その店の宣伝ティッシュに重ねられた普通のミカンひとつがごろんと出てきたのだ。別に特別なミカンではなく、その辺の果物屋で売っているようなものである。
料亭のデザートでミカンぶっきらぼうにごろんと出てきたのは後にも先にも初めての経験のことであきれるより笑えた。

老舗恐るべし。
だな。

ちなみに従業員の名誉のために言うなら年増の仲居さんの対応は大変よかた。

     

 

2008/01/08(Tue)

  新風舎の倒産に関しての私的見解

 新風舎があぶないとの情報がもたらされたのは昨年の秋のことだった。
 そして昨日、東京地裁に民事再生法の適用を申請し、事実上の倒産の運びとなった。

 これ以上の被害者を出さないという意味においては結果に納得はする。だがこの新風舎問題にかかわった私のような立場の者は反面苦い思いもある。

 一昨年この問題をブログで取り上げたのはキャンペーンを張るというような大げさなものではなかった。
 ときおり私のところに送られてくる簡易写真集の成り立ちを調べてみるに、私のような出版にかかわる人間から見ると詐欺まがい行為に世間知らずの若者がひっかかっているとの心証を強くしたわけだ。そこで被害に遭った人たちに投稿を求め、ブログに順次アップした。当然人間には感情があり、怒りというものが根底にあるわけだが、私がそのような挙に出たその真意はまず情報の共有化と等分化が必要だと念頭にあったからである。

 当出版社はひろく一般人から多くの金を集め、やがて出版界においても出版点数においては講談社を抜き、トップに立つ勢いがその時点であった。このことは何を意味するかというと情報の占有化が進むということだ。当社は大手新聞雑誌などに多大な広告を出稿し、一方的なプラスイメージを一般に植え付け、さらにその広告出稿によって大手マスコミにも口封じができる立場に立ったのである。
 一例として朝日新聞 などはbe on Saturday「フロントランナー」という紙面で、自費出版ブームを作った詩人経営者新風舎社長松崎義行さん41歳(2006年10月7日)という大々的なインタビューを行っている。私のサイトの投稿者も実際にその記事によって新風舎に信頼感を抱き、迷っていた当社の企画に乗ったという方も何人かおられた。こういった金を動かすことのできる者が情報を占有するという今日的情報化社会の不健全な状況を少しでも改善すべきだという思いが、ブログで何日にも渡って被害者の実話を取り上げた真意である。ちなみに私はこの件に関し朝日新聞の一編集委員に電話で忠告をするとともに、なぜこういう記事ができるのかそのメカニズムを知りたいとの注文を出したが満足の得られる回答はなされなかった。

 以上のような流れの中で私の新風舎を扱ったブログはさまざまなミラーサイトに反映される形で広がりを見せたわけだが、私はその後このブログの継続を断っている。

 それは以下のような理由がある。

(月)まずこの問題がネット上で炎上する過程で新風舎から出版した人々に向かって軽率とも言える誹謗中傷や蔑視がまかり通るようになったことである。
 この雇用事情の厳しい世の中で働きながら200万の金を貯蓄することは並大抵のことではない。その有り金をはたいての念願の自本が宣伝もなければ流通もしないただの金儲けの駒であったというダメージを受けた上に、さらにそのことを第三者に誹謗されるという二次被害のようなものがひろがりはじめたわけだ。そして私のサイトにも悲鳴に似た投稿が多く寄せられるようになった。
 私はこの問題に関して自分のメッセージはなるべく出さず、被害の事例のみを載せ続けるということを心がけたわけだが、そういったやり方が問題のリアリティを高め、今日の結果の一助になったということはあるだろう。だがこれ以上火に油を注ぐことはそれに応じて二次被害者がさらに増大するという危惧が生じたのである。

(火)ブログというものは曲者で、かりにそのような記事であったとしても、それはれっきとした情報であり、書けば書くほど相手側(新風舎)に情報をもたらし、対応の材料を与えてしまうということが起こりはじめた。このことはある程度予期してはいたが、純度の高い情報を一定量掲載してのちは、それ以上はむしろマイナスになる傾向があると私は判断したわけだ。

(水)たとえば新風舎では数多い賞の中で写真賞も設定しており、この賞の設定そのものが出版勧誘のための人寄せに使われたわけだ。だが私の目から見ると上位の賞を実際に取った作品の中には十分に鑑賞に堪えるもの、そして今後に期待できるものもあった。
 たとえば10回目の大賞『戦争ジャーナリストへの道―カシミールで見た「戦闘」と「報道」の真実』(著者桜木武史)はまじめな作品であり、コメントに私の影響で写真をはじめたとある。また他の大賞の中には写真界の大きな賞である木村伊兵衛賞の候補に上った優れた作品もあった。そういう意味ではこの賞そのものの存在理由はあったわけで、また現在は審査員を降りている平間至さんの功績もあったわけである。
 そういった純粋に表現として成立する作品が、こういったいびつな出版の構造の中でつぶれさていくのには内心じくじたるものがある。ましてや写真環境は今日大変厳しく、少しでも若い新人の育つ環境が欲しいと思っている私のような者のやっていることが結果的にその芽を摘むことになるというのは自己矛盾を感じざるを得ないのである。

(木)このことはいまだにその真偽のほどは不明だが、私のところにはこの問題の炎上に関しては新風舎との競合関係にある文芸社に関連のある者が油を注いでいるという情報が複数もたらされてもいた。
 他の投稿によると文芸社も似たり寄ったりのことをしているが、矢面に立たないような巧妙なやり方をしているという元内部者の報告もあった。かりにそうであれば、新風舎を糾弾することは他を利するという矛盾をも生むわけだ。

(金)投稿者の同意を得てブログへアップした本人が半ば特定され、訴訟問題に発展しかかったこともある。相手側は私個人との争いは避けたい意向だったが、ブログに掲載した以上、何千万もの損害賠償を匂わせるような内容(おりしもオリコンによるフリージャーナリストへの訴訟問題がネットでは騒がれており、相手側はこの材料を例に攻めてきた)にただのフリーターの若者(女性)を矢面に立たせるわけにはいかず、私が責任を負うかたちで弁護士を立て(結局大出版社おかかえの弁護士は役にたたず、私がすべてを仕切るはめになったのだが)事態をなんとか収束したこともある。
 自本を出した者の二次被害もそうだが、私のサイトに情報を寄せる人々にも被害が及びかねないという事態も多々生じたわけだ。

(土)今取り上げたことは数例に過ぎないが、この新風舎問題に関するブログが一定の役割を果たしたとみなしたことも継続を断ったひとつの理由でもある。

 
 ただ、昨日のようにひとつの結論が出て、これ以上の被害者が出ないことは喜ばしいことだが(ただし今現在でも1100人に及ぶ被害者予備軍が存在する)、その間いつも念頭にあったのは、マスコミのこの問題に対する腰の引け具合である。私の知るところこの問題に触れたマスコミがなかったわけではない。だがいったいに及び腰であることは否めなかった。
 だが昨日新風舎が倒産するや、解禁されたかのように一斉にこの問題を報じるマスコミの姿勢は滑稽以外のなにものでもない。私のところには特集を組みたいのでインタビューに応じてほしいという新聞や雑誌の要請も来ているが、こういったことは事後ではなく、渦中にあるときに勇気を出して行うというのがマスコミのやるべきことではないか。

 またマスコミに限らずこの間、こう言った問題になぜそれなりの名のある作家や写真家などが口をつぐんで触れないのかということも不思議のひとつであった。
 確かに自分に被害があるわけではなく、その辺の若者が出版詐欺のようなものに引っかかっているだけの話だから関係ないと言えば関係のないことではある。その背景には活動の場や世間を狭くするという、この日本の蛸壺世界における表現者独特の嗅覚が働いていることは否めない。だがかりにその恐れがあったとしても、ある一定の地位を得、後進を指導する年齢に達した者は少なくとも自分がかかわる表現の世界における理不尽な出来事に対し、それに関与する義務とは言わないまでも、必要があるように思うのである。
 またそれと同時にこの詐欺まがいの出版事業に心ならずも結果的に加担してしまったと言える広告塔となった、たとえば谷川俊太郎さんや当出版社で本を出している江川紹子さんなど作家たちの見解もこの際聞きたい。 
 当初はその出版の構造はあずかり知らなかったとしても、一昨年から昨年にかけあれほど話題に上った新風舎問題を、その社から出版している作家が知らないはずがないからだ。

 またたとえば私のブログでも名前を伏せて書いたのだが、ある作家が新風舎から対談本を出すにあたって私との対談の収録を要請してきた。私は新風舎の行っていることに関して納得の行く説明がなされれば同意してもよいとの返事を編集者にさしあげたのだが、その後「今回は引き下がらせていただきます」との返事があった。ということは新風舎自ら不正を払拭する説明のできないことを認めたかっこうなわけだ。
 私はその過程でその作家、つまり新井満さんに直接電話を入れ、新風舎の事業内容をふくめ、私がなぜこの企画に乗らないかをお話しした。それは暗に作家としての矜持を保ってほしいとの私の思いを伝えるコンタクトでもあったわけだ。だがその後この出版は双方のきわめて日本的な優柔不断と馴れ合いの上に立って丸く事が進んだわけだ。

 以上のように今回の問題は製造業に限らず文化事業の出版界にも偽装や不正がはびこりはじめていることをあらわすとともに、今日のマスコミの弱腰をもあぶり出し、そして西欧における作家の社会意識と日本の作家の社会意識の違いをあらためて浮かび上がらせたと言える。


追伸・今回は新風舎倒産の報に接し、仕事の合間の急遽のコメントであるがゆえ、至らぬところは文面の部分修正を行う可能性がある。

     

 

2007/11/16(Fri)

番組告知

ETV特集 「ケータイ小説・藤原新也・次代へのまなざし」

11月18日(日) 22:00〜23:00
NHK教育 ◇ETV特集◇


出版不況の続く中、注目を集めている「ケータイ小説」。携帯電話の書き込み機能を使って発表される小説である。作者も読者も大半が10代、20代の女性。毎日更新される作品には、多いときで一日に数十万の読者がつく。本にして出版されると軒並み数十万部売れ、中には100万部を超えるベストセラーも生まれるほか、映画化された作品もある。今なぜ、若者たちにケータイ小説が求められるのか。写真家で作家の藤原新也氏が書き手、読み手、を追いながら、現代の若者の心象風景に迫る。

                           NHKコメント


     

 

2007/11/07(Wed)

デヴィッド・シルビアンの演奏事情

デヴィッド・シルビアンのスタッフから東京公演に来ていただいた聴衆の皆様へという、次のようなメッセージが寄せられたのでアップしておく。


「デヴィッドの東京公演に来てくださった聴衆の皆様からのお声、拝聴いたしました。
東京公演当日、デヴィッドは風邪で咳がひどくなり、数曲割愛させていただきました。
デヴィッド自身後半に、「私は風邪で病んでおり、残念ながら数曲カットさせていただくので、少し短い公演となりますがどうかご了承ください」とアナウンスしましたが、終了後、その旨をご説明しなかったことをお詫びいたします。
また本人も、公演に来てくださった皆様のご理解とご支持に感謝しています。この場をお借りして今後も皆様のご支援をよろしくお願いいたします。」


私側へのメッセージによるとデヴィッドは、その開演直前から咳がだんだんひどくなっていたらしい。しかし、講演が始まると歌唱は、まるで、何事もないかの様にちゃんと声が出ていたが、曲と曲の間では、咳き込んでおり、それがだんだんひどくなっていくので、スタッフも心配になっていたとのことである。

後半で、彼が、「私は風邪で病んでいますので、残念ですが数曲カットさせていただき、少し短いセットになりますが、ご了承ください」とアナウンスし、そのまま続行、(3曲カット)最後の、「ライブラリアン」はかなり苦しそうだったらしいが、(咳をこらえて)それさえ、観客には普通に歌っている様に聞こえたとのことだ。
したがって、アンコールがないので、聴衆は、戸惑ったのではないかという。

彼自身による英語の説明は、よくわからなかった人が多ったと思うので確かに何らかの日本語での説明のアナウンスを入れるべきだった。
デヴィッドは、よほど咳を溜め込んでいたようで、楽屋にかけこんで2、30分、言葉を挟めないほど咳き込んでいたらしい。
ロシアで風邪をひいて以来、全快しないまま、引きずってきたらしいが、長かった最後の大阪そして東京公演をよいものにしたいと願って、会話も避け、ひとときもきをゆるさず気を張りつめてきたとのことだ。
しかしながら、演奏自体ははずかしくないすばらしいものが出来たと考えているという。

     

 

2007/11/06(Tue)

このポカは習性という他はないな

 小沢がシナリオを描いていたというのはとんだ過大評価だった。
 そこまで権謀術数に長けた男ではなかったということだろう。

 小沢が土壇場でポカをやることは金丸信の東京佐川急便の闇献金問題のおり、その参謀として、世論を読みきれなかったばかりか、上申書を出すまで弁護士も立てていない、そして時効のかかっていた時期すら見誤る、という初歩的なミスをおかして、金丸を塀の中に落としてしまった、というあの”事件”に象徴的に現れているわけだが、人間というものは学習をするわけであり、あれから15年、当時50歳の壮年が65歳の老獪であるべき年齢に達したわけだ。
 少しは進歩しているかと思っていたが、また大ポカをやらかした。こういうのは宿命というのか、一種の身についた性格、素性のようなものかも知れない。
 人間、素性を修正するということはなかなか難しいということだろう。

 小沢一郎という人はあのごつい顔のせいでコワモテ、豪腕、という言い方がされるが、もとを質せばいまは花盛りの小泉、安部、福田、麻生、と同じ世襲議員、二世議員のひとりである。写真家の私の目から見るなら二世議員の特徴と言えば”顔をつくる”ということだ。

 ときおり小沢はぐっとコワモテ風に顔を作る。
 小泉は作りすぎるほど作ったし、安部に至ってはカメラ目線などと、まるでタレントのように衆を意識したパフォーマンスをやらかして評価を下げた。福田は一見ポーカーフェイスだがやはり、一瞬コワモテ風に顔を作ってしまう。

 こういった顔で小技をきかしてすぐ表情が読めてしまうスケールの小ささというのは二世議員の特徴で、吉田茂、池田隼人、大平正芳、田中角栄といったかつての大物政治家にはなかったことだ。
 田中角栄がカメラ目線などといってカメラを見つめながらコメントする図というのは考えられないことであるし、大平に至ってはぬーぼーとした牛が寝そべっているようで、一体何を考えているのかすらわからなかった。
 そういう意味では保守革新ともボクちゃん止めますと、すぐ職務を放り出してしまう軟弱なリーダーをいただかなくてはならない平成の民は不幸と言えば不幸である。

     

 

2007/11/05(Mon)

シナリオだろう

選挙出馬の人選をし、出馬要請をする場合、その前に探り(品定め)を入れるという手続きがある。
何年か前に民主党にその探りを入れられたことがある。
私の「東京漂流」のファンで一度ぜひ会ってほしいという民主党の議員が私の同郷ということもあって、会ったのだが、案内された料亭に行って、様子が違っていた。即座にこれは探りだとわかった。そこには当の議員の他、長老風の他、何人かのお目付け役のような議員が同席していたのである。
私は政治音痴を装い、つまらぬ座談でその場をしのいで帰ったのだが、その席に居た議員がまあそこそこの人間であったとしても、たかが知れていた。堅物というか冗談が通じないのである。品定めされる側が逆に品定めした格好だ。
マスコミに出る民主党の議員も口だけ達者でそこそこの人間に過ぎないが、見たこともないような民主党の若手議員の中には小泉チルドレンと甲乙をつけがたいくらい有象無象の馬鹿がいる。

小沢はこういった民主党に見切りをつけ、シナリオを書いたんだと思う。
もしまだ彼に国政に対する情熱があるのなら、近いうちに民主党を割って出るのではないか。
それしか残された道はないからだ。
密室政治はイカンというような建前論議だけにうつつを抜かしていると本質が見えなくなる。

     

 

2007/11/02(Fri)

デヴィッドのライブの時間短縮について

 30日に文化村で行われたデヴィッド・シルビアンのライブはのっぴきならない旅に出ていて行くことができなかった。大変残念だ。
 全世界をまわって東京公演が最後の公演だったらしいが、1時間ほどステージに立ち、そのままアンコールにも応えず、最後のあいさつもなくライブを終えた。
 8000円という決して安くはない入手の難しいチケットを買った観客の中には肩透かしを食った思いを持った人も多かっただろう。

 今回の世界ツアーは2ヶ月に30公演と過酷なスケジュールが組まれており、途中でスタッフから入ったメールによると、体調には相当気を使っていて、風邪をひくのを恐れて人に会うのも最小限にとどめていたようだ。

 だが残念ながら最後の東京公演では相当体がまいっていたらしい。本来ならモスクワなど3会場でキャンセルしたように、東京公演もキャンセルしなければならないような体調だったと思うが、最後の公演ということで無理をおして挙行したのではないかと思う。
 その結果が上記のような内容になったわけだが、やはり体調管理が出来なかったということでプロとしては非難されても仕方がないことだろう。

 こういった場合、体調が悪くても無理をして最後までやり通すということがプロなのか、途中でやめることがプロなのかというのは難しい選択である。

 美空ひばりの最後の公演がそうだった。
 死ぬ前の最後の公演の終わりの方の歌はあの伸びのある声は影をひそめ、独特の細やかなファルセットも不安定で、曲の終わりのビブラートにいたっては意識して伸ばそうとするものだから、不自然な感じがした。ファンとしてはそんな歌を最後に聴きたくなかった。
 そのように無理をしてでも最後までやり通すことを評価すべきかどうかというのは難しい問題だ。たしかに物語性としては泣ける。だが一方ではプロとして恥ずかしくない歌を歌って聴かせるというのは最低の条件なわけだ。

 デヴィッドはこの点完ぺき主義者で、音の収録時でもわざわざ外国から呼んだインストルメント奏者でも収録後に普通の耳ではわからないような微妙な欠点でも見つかればキャンセルして他の人を呼びやり直す、というくらい徹底している。
 今回の公演の短縮化はそういった彼の完ぺき主義によるものであることは明らかだ。聴きに行った友人の話によると1時間の公演はすばらしいものだったという。それ以上続けると完璧な演奏が出来ないと踏んだのだろう。

 このような理由があったとしても、やはりそれは公演短縮のエクスキューズとならない。友人として私が謝るというのは筋が違うが、次回の新作東京公演では今回のライブ短縮のお返しをするような公演をすることを切に願う。

 

     

 

2007/10/23(Tue)

敵は本能寺にあり (2)

一体あの亀田問題は何だったのかと騒ぎがおさまってキツネにつままれたような感じが否めない。私は昔からのボクシングファンで海老原や原田の時代から数多くの世界戦を見てきたが、確かにあの世界戦は異様だったし、プロレスまがいの反則を見たのもはじめてのことだ。
 だが、たかが一介のスポーツという娯楽だ。
 
 TBSが亀田一家をここまで悪のヒーローに仕立て上げたとしても、対戦相手の内藤選手の口から「国民のため」という言葉が出たとき、妙な違和感があった。国民のために闘い、国民のために勝利した、という言い方は国民である私もその中に含まれるからである。

 そして”国民”はたかが娯楽スポーツのヒール役が負けたが最後、熱狂とも言える怒りをこの一家に集中させた。確かにあの陰湿な陰に隠れての目つぶしは見るに耐えないものだったが、亀田一家もここまで問題が怪物のように肥大化したことにあっけにとられたのではないか。

 私はこの不可思議な現象を見ながら、ここに例の「怒りのシフト」が起こったのだと見ている。

 かつてナチスのヒトラーは第一次大戦以降の不況と大きな負債を背負ってあえぐ国民の怒りを巧妙にユダヤ人への怒りにすり替えながら、一介の小政党をあれよあれよというまに国民的な政党に押し上げ、ファッシズムへの道を歩んだ。

 アメリカの赤狩りもしかり、スターリン、ムソリーニ、あらゆる独裁者はこの国民の怒りを他のものにシフトさせ成功をおさめた。
 ひるがえって亀田問題の直前まで私たちが国民規模で怒りをためていた問題とは何かということは火を見るより明らかだろう。

 年金問題である。
 舛添要一厚生労働大臣は、その国民の怒りを見越して「盗っ人は一人残らず牢屋に入ってもらう」というようないかにもタレント上がりらしい、大衆ウケのよい見栄を切って、半ば国民の怒りの溜飲を下げさせつつあった。問題はチンケな盗みを働いた者にお縄をかけるというような抹消的なことで解決するものではないということは誰の目にも明らかなわけだが、このご時世、国民の怒りの代弁者が必要であったということだろう。

 そこに鬱積した国民の怒りを一手に引き受ける格好のターゲットが現れたというわけだ。あまりにもタイミングがよすぎる。怒りは一機に亀田一家になだれ込んだ。
 たかが大阪の小さな町の零細事業者ではないか。
 年金問題で鬱積した国民の怒りの津波が一点集中したらひとたまりもない。そして立派にお縄にかかり、舛添が名指しした者のようにあたかも身代わりのごとく”国民”の前で謝り、怒りのガスぬきをしたわけだ。

 そして今、どうだ、亀田問題の前に燃え盛っていた年金問題は一体どこに行った。
 他愛ないものだ。
 この問題を解決しなければならない、一国の首相が亀田問題に言及するの図は皮肉である。
 
 振り上げたこぶしの下げどころを失っていた舛添や、年金問題を引き継いだはずの福田首相は亀田一家に救われた感があるからだ。

 本当は批評ではなく、菓子折を持ってお礼参りをしなければならないところだ。
 

     

 

2007/10/17(Wed)

敵は本能寺にアリ

先ほどの亀田家の謝罪記者会見を見て痛々しい思いを禁じえない。
スジが違うだろうと思うのである。

亀田家をヒール役として演出し、
公器でありながら子飼いのタレントの行き過ぎた言動を抑えることなく、
東南アジアあたりからピークを過ぎた当て馬選手を呼んできて勝ち星を積み重ねさせ、
番組では幾らゲンナマを積んでいるのか知らないが、歴代の世界チャンピョンにゴマをすらせ、
まだ世界チャンピヨンに挑戦する力量のない10代の若い選手をけしかけ、せっかくの才能を潰す。
あげくの果てがボクシングという神聖なスポーツを場末の見せ物に変えてしまった。

この一連の虚構に満ちた興業を主催し莫大な利益を上げようとしたのはTBSだろうが。
亀田家はその1被害者とみなすことも出来るのである。

まず謝るべきはこの一連の演出を行ったTBSの担当プロディユーサーである。
そしてさらに一国の首相すら発言するまでに事が大きくなったこの現状ではTBSの社長の説明責任が発生していると言わねばならない。

そういった論調がマスコミの間から出ないというのは不思議である。
同業だからか?
特に他のテレビ局はそういった論調を作りにくい立場にあるだろうが、テレビ以外のメディアでは可能なはずだ。
というより魔女狩りのように亀田憎しの感情が先に立って肝心な本筋に思いが及ばないのかも知れない。
昨今のメディアスクラムの中で熱狂する若いマスコミ人にありがちなことだ。

このブログは多くのマスコミ人が読んでいることがわかっている。
今からでもそういうことを書いてほしい。

     

 

2007/10/16(Tue)

反則に”若さ”がない!

 マイク・タイソンがホリフィールドの耳を衆目の前で堂々と食いちぎった(ホリフィールドがタイソンのパンチを恐れ、打ち合いをせずに終始頭をつけてきたのにキレたタイソンが耳の一部を食いちぎった試合)反則にくらべ(レフリーの見えないところでジクジクと目潰し行為を繰り返した)亀田大毅の反則には”若さがない”よね。

 昨日会った大竹伸朗君の発言には笑ってしまった。

 そう言えば内藤も「若いのになぜこんなに上手いんだ」って言ってたな。

 

     

 

2007/10/15(Mon)

この道はいつか来た道

亀田大毅と戦って一躍時の人となってテレビに引っ張りだこの内藤大助にビルマで亡くなったジャーナリスト長井健司の姿が妙にダブる。

チャンピョンでありながら月収15万という信じられないほどの辛酸をなめていた彼の存在や名前すら私たちは知らなかった。
長井健司も同様だ。
それは彼らの存在や仕事をマスコミがそれまで無視していたということに他ならない。
それがかたや勝利者となり、かたや死者となった暁に、俄然マスコミはよってたかって我が事のように熱狂。

内藤大助のとなりで子供を抱えている奥さんのお顔にそこはかとなく疲れが滲んで見えるのは気のせいかな。

まあこの無節操な総雪崩現象というのが昨今のテレビの真骨頂と言えば言えるわけだが、なんか怖いよね。
このムード。

     

 

2007/10/12(Fri)

愛の賛歌

エディット・ピアフに「愛の賛歌」。

知っている人は知っているが知らない人はぜんぜん知らない。
とくに若い人は多分知らないんじゃないかな。
ピアフの歌は好きだったから、映画のコメント書きに応じた。

ピアフ役のコティヤールの演技が抜群。
当初私は配給会社から送られてきたDVDを12インチのノートパソコンで見た。
小さな画面ながらその演技の迫力が伝わってきて、めったに書かないコメントを書いたわけだ。
ところが昨日、実際に映画館で見ると印象が変わっていた。
大画面の16チャンネルの大音響の中で見ると、その迫力が加算され、少し演技過剰に見えてしまうのだ。
いや演技は相変わらずいい。
だがその激しく熱い人生が今の醒めた時代には妙に浮いて見える。

12インチの音量の小さな世界で見たときは、その激しさが相殺されてころあいになっていたのである。
いい映画には違いないが、映画館の大画面と音ではちょっと若い人には「暑苦しい」と言われそうだ。
今はさまざまなシーンで映画を見ることが出来る時代だが、どのようなメディアで見たかによって、その内容まで異なって見えるというのは小さな発見だった。

     

 

2007/10/11(Thu)

晩節を汚す

 つい最近、あの硬派のジャーナリストでならす鳥越俊太郎が自分の癌にかかった時のドキュメント映像を垂れ流しながらアメリカの生命保険会社「アフラック(American Famirly Life Assurance Company of columbus)」のCMに出ているのを見て度肝を抜かれた。
 彼が癌にかかったのはおそらく2,3年前のことだと思うが彼は癌で死んだ私の兄とほぼ同じ年齢であったことから人ごとながら、がんばって欲しいという思いがあった。
 この彼が手術前にオペレーションルームに運ばれる映像はコマーシャル用に撮られたのかどうかは不明だが、その映像がコマーシャルに転用されるのを見て、癌すら商業主義に売り渡されるその光景を兄の死と重ね合わせながら忸怩(じくじ)たる思いを抱いたのである。
 
 彼がCM出演しているアフラック(AFLAC)と言えば間抜けなアヒルキャラクターで安心感を演出している契約数ナンバーワンをうたう外資系の生命保険会社だ。
 だが内情は金融庁の出した保険金不払い報告命令を受けた国内38社の内、最上位にあたる4位の19億円もの”不払い実績”(4月期の途中経過であり増える可能性大)を”誇る”いかがわしい保険会社なのである。
 私はアフラックと双璧を成す外資系の生命保険会社アリコ(保険金不払い7億3千400万)に関わる人間(日本の保険会社から引き抜かれた中間管理職)にじかに話を聞いたことがあるが、その販売促進会議の模様は異様だと言う。日本のそれのようにお茶のみ話などのウームアップ時間は一切なく、いきなり数字が飛び出し、いかなる人間的な余韻もなく終始数字で終わるというのだ。

 「まるで数字のサイボーグがテーブルを囲んで会議をしているようで最初に出たときは外資とはこういうものかと思いましたよ」

 苦笑いしながらそのように言う彼は確かに給料は上がったが味気ない日々を過ごしているらしい。
 またその外資の保険会社は人間の営業というものを一切しないのが日本の保険会社との大きな違いという。
 あらゆるタレントを起用して絨毯爆撃のようにコマーシャルの投網を打ち、それに引っかかってくる魚(保険加入者)をただ待つのである。したがって会議では精密詳細にその投網と魚の関係や効率の検討がなされる。
 このように顧客をただの数字に換算する外資系というものがいかに日本の経済風土を破壊してきたかということは、例えばたとえ目の前の利益がなくとも長い目で暖かく中小企業を支え、日本の発展の底支えをしてきた長銀が外資系金融機関によって破綻に追いやられたことを見ればわかることだ。
 そして今日の貧富の格差社会や一層の競争社会化を推進したのも元はといえば外資とそのシステムの流入が大いにかかわっていることは私たちは知らねばならない。六本木ヒルズの最上階を借り切り、まさに日本の頂上に君臨し、そこに行くには専用のエレベーターを使わなければならない特別待遇を受けている”最強外資”の異名を持つ投資銀行ゴールドマン・サックスなどはまさにその象徴だろう。

 話を保険会社に戻すならアフラックに限らず国内38社のうち保険金不払いのない社がたった1社(カーディフ生命保険。ただしこれは個人加入保険ではない)というふうに私はもともと生命保険会社というのはおしなべていかがわしいと思っている。金を取っておきながら正常な支払いを履行しないというのはこれは立派な業務上の詐欺である。逮捕者が出ないのがおかしい。 
 そういった、しかも外資(アメリカ)の生命保険会社のCMにイラク取材でアメリカの欺瞞に言及し「イエスの箱舟事件」や「桶川女子大生ストーカー事件」などで果断な反権力的取材をこなしてきたジャーナリストである鳥越がなぜ醜態を曝してまで出て保険加入を勧誘しているのか。
 これは七不思議のひとつである。

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 私が鳥越の行動を軽率と誹るのは癌にまつわる個人的な思いがあってのみのことではない。また犯罪に近い違反を犯している企業のコマーシャルにジャーナリストが出るという理不尽を思ってのみのことでもない。
 ひょっとすると今の若い人にはこの心情はわからないのではないかと思うが、かつて私たち団塊の世代より上(私は団塊の世代ではなく上だが)の、公権力にたてついた世代というものには企業のコマーシャルに出るようなやからは最低という意識があったのだ。
 私は学生運動に参加したわけではなくただの一匹狼で世界をうろついていただけの話だが、日本に帰ってきてそれなりの注目を浴びると当然のコースのように大枚を積まれてコマーシャル出演の依頼を受けた。だがそこの一線は守るべきだということくらい分かっていた。アサヒドライビールやウイスキー、服飾メーカー、西武デパートなどおそらくこれまで10本の指を数えるくらい断ってきているがバブルのころには不動産会社の年間契約で数千万というのもあったから今では笑える話しである。終わったわけでもなく今でもカメラ関係やプリンター関係の依頼があるが断っている。誰しも金が欲しくないという者はいないと思うし、若い人はそんな自己規制はくだらないと思うかも知れないが、私たちの世代にあってはそれは人が持つべきあたりまえの矜持というものなのである。
 ネットで鳥越と検索をするとあるブログではおそらく若い人であろうが「アフラックのコマーシャルで鳥越俊一郎が癌と戦っていることを知った。やはりすごい人だと思う」というようなうすら寒い寝言を書くような人間がいたりして時代意識の変容に呆然とするのだ。
 言っておくが企業のコマーシャルに出て消費をあおるような行動をよしとするのは日本人くらいのもので、日本以外の国、たとえばアメリカにしろヨーロッパにしろ下種と考えられていることを知っている人は少ない。たまにアメリカの俳優が日本のコマーシャルに出ると、契約時にそのことを決して本国においてはバラさないようにと但し書きがつくくらい彼らはコマーシャルに出ることを恥と考えている。それは私たちの世代も同様である。

 当然、私より4歳年上の鳥越は私たちの世代の意識を十分共有しているはずであり、ましてやジャーナリストである。2,30代なら若気の至りということで許されもしょうが、社会の木鐸となるべき70歳に手が届こうとする人間のやることではない。紙媒体から民放テレビ媒体へとくら替えしたジャーナリストの末路を見る思いがして残念という他はない。










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