アジア認識の変容と日本外交(大学院プロジェクト)

日本の中国報道

〜言論の自由に対する姿勢の変化と今なお残る問題点〜

平成12228

政策メディア研究科修士課程 小野 貴樹

 

1.  問題の所在

 19961014日、日本新聞協会編集委員会(各新聞社編集局長で構成)は、1982年以来行われてきた日中記者交流を当年限り中止することを決定した。これは同月11日、中国側の中華全国新聞工作協会から日本新聞協会に、靖国神社や尖閣諸島の報道で、「中国人民の感情を傷つけ、友好を損なう言論を発表をしている」との理由をあげ、参加者リストの中から産経新聞記者を招請しない文書が届いたのを受けたものである。

 19961016日付朝日新聞朝刊の天声人語欄には、新聞記者交流の訪中団派遣中止を説明した上で、「言論には言論を。意に沿わぬ主張をしたものとは接触自体を拒絶する、との今回の姿勢は、なかんずく国際社会では、著しく説得力を欠く」と述べられ、中国に対する新聞界の強い姿勢が読み取れる。

 この日本新聞協会の決定は1998721日、産経新聞が北京に中国総局を開き、常駐記者を派遣することで中国外交部と合意31年ぶりに特派員を常駐することになったこと[i]に大きく影響を及ぼしたとする説もある[ii]

一方で、1998106日、読売新聞中国総局北京支局の中津幸久特派員が中国から国外退去処分となった。北京市国家安全局によると、中津記者の報道活動に「取材に違法行為があった」と通告。押収資料の中に「国家機密」とする文書があるとし、その所持は中国国家安全法に違反すると指摘した。中国当局は取材源を明かすよう要求したが、中津記者は取材源について一貫して供述を拒否したため国外退去となった。

 その原因となった記事は、同年624日の読売新聞朝刊に掲載された趙紫陽前総書記に関する「『天安門』再評価求め公開書簡」と題された文章である[iii]。記事は趙紫陽前総書記の近影とともに、趙前総書記が、クリントン米大統領の訪日にあわせ、共産党中央に対し、天安門事件を再評価して解決するよう求める公開書簡を送るという内容である。 

この中国当局の措置に対して、日本の新聞各社はあまり大きく取り上げていない。読売は2面の2段。事件の事実と編集局長のありきたりの談話が載っているにすぎない。同じく22段なのが、毎日新聞。関連記事を載せ、中津記者が6月に書いた趙紫陽に関する記事が関係しているとの見方を示し、読売新聞より詳しい。日経は2面、東京は社会面でいわゆるベタ記事。朝日は第3社会面で3段だが、文字数が少なく扱いは小さい。産経は第4社会面で48行分の見出し。青木彰東京情報大学教授のコメントを載せている分、他社よりは意識が異なる。

 そもそも日本の対中報道には特殊な環境があった。「覚書」による記者交換取り決めと中国国内での取材制限である。19644月に「日中記者交換に関する覚書」が交換され、常駐記者による本格的な中国報道がはじまった。しかし、1966年に中国で文化大革命がはじまると、外国人記者はスパイと見なされるようになり、記者の取材活動が厳しく制限されるようになる。19686月、日本経済新聞の北京特派員だった鮫島敬治氏が中国の公安当局に逮捕され、一年半にわたり北京の監獄に拘束されたのをはじめ、1967年まで9人いた北京特派員が、国外退去処分やビザ切れによる再入国拒否などで減りつづけ、19709月から19711月までの約3ヶ月朝日新聞の秋岡記者ただ一人になるという事態にまで発展した。その後日中両国の国交が回復し、1974年に「日中常駐記者交換に関する覚書」が政府間で結ばれ現在に至っている。

198758日には、共同通信社北京特派員の辺見秀逸記者が、中国の国家安全省から「不法な手段で国家機密を窃取し、デマの報道をした」として10日以内に出国するよう退去処分を通告された。辺見記者は、同年2月27日付で報道したケ小平党中央顧問委主任の前年12月30日付の講話など、学生デモと胡耀邦前党総書記辞任問題に関する3つの党中央機密文件(通達)について報道していた。

日本のマスコミの中国報道に関しては、衛藤瀋吉・三好修共著、『中国報道の偏向を衝く』(日新報道出版部、1972)で朝日新聞をはじめとする日本の報道界の中国に対する偏向報道を指摘する著作があるほか、中国国内における特殊な取材環境とそこから生じる中国報道の特殊性を論じる論文が多数存在する。

本稿は、そうした論文や冒頭に記述した最近の日本のマスコミの動きをもとに、中国当局による日本の報道機関に対する姿勢によって、日本の中国報道はどのような影響を及ぼされてきたのか、そしてそれが現在に至るまでにはたして変化してきたのかを論じるものである。さらに変化してもなお残る問題点を考察していく。

「変化」を考察するにあたって、特に重視する点は、日本の報道機関の中国報道に対する「制度上の変化」と「言論の自由に対する姿勢の変化」を考慮するが、現実には制度上の変化はみられないため、「言論の自由に対する姿勢の変化が生じた」ことを考察していき、その姿勢が変化したとしてもどうすることもできない「いまなお残る問題点」を探っていく。

 

 

 

 

 

 

 

章立て

序   問題の所在

1章                  中国報道の特殊性とその変遷

1節  記者交換実現まで

2節            相次ぐ追放と国交回復

3節            「日中常駐記者交換に関する覚書」以降の報道

2章                  北京特派員の実態〜現状分析と比較〜

1節            北京特派員と中国当局の対応

2節            日本記者と他国記者との相違

3節            国外退去処分とその対応

3章                  日本の報道機関の変化と現状

1節            日本の報道機関の変化

2節            いまなお残る問題点

結論                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1章  中国報道の特殊性とその変遷

第1節                           記者交換実現まで

 19549月に報道各社の中国訪問団の受け入れが許可され、一行(朝日・毎日・読売・日経・中日・北海道・東京・共同・NHK・ラジオ東京)は1116日に下関を船で出発した。これが戦後初の中国現地取材である。19554月に、日本新聞協会加盟有志社が中国の人民日報・人民中国の記者を招待して歓迎昼食会を実施、これに対して中国新聞工作者連誼会が同年7月に、日本新聞・通信・放送関係代表団の訪中を受け入れ、周恩来総理との会見を果たした。

 1957年には日本新聞協会と中国新聞者工作協会の間で、北京に常駐記者をおくことの検討が始まる。共同と朝日は記者の北京駐在が認められ、それぞれ、今村俊之(駐在8ヶ月)と松野谷夫(6ヶ月)を派遣した。しかし、同年8月東京で第3回原水爆禁止大会が開かれた際、新華社通信記者が1ヶ月の滞在延長を政府の不許可により認めらないことがあり、同時期に滞在期限が切れた共同と朝日の今村、松野両記者の延長も認められず帰国。同年10月、第4次日中貿易使節団とともに訪中した共同の山田充彦記者が、@日中記者交換は互恵平等、相互主義を原則とすべきであるA今後日本政府が中国人記者の入国を認めない限り、日本人の常駐特派員を認めないB貿易使節団の同行記者の取材活動は使節団の行動範囲内に限られる[iv]、旨の電報を中国外交部新聞司の見解として伝えてきている。同年12月には新華社通信の丁拓、呉学文両記者が中国紅十字会長李徳全女史らとともに来日し、はじめて新聞協会と記者交換問題についての直接的な話し合いが開始された。

 次いで19583月、中国新聞工作者協会から日本新聞協会に「日本側が新華社の両特派員の入国を許可し次第、中国側も日本人記者2名の入国を許可する」と伝えてきた。これに対し日本新聞協会は、当時国内で外国人登録法の指紋条項の改訂で中国人記者の滞在問題が解決することから「新華社両記者の入国は5月以降が妥当と思われる」と返答した。これにより、日本新聞協会と中国新聞工作者協会との交渉による記者交換は実現の目前までせまった。

 しかし、同年52日長崎国旗事件が起こり、日中関係の冷え込みを受け、協議は棚上げの状況が続き、2社の記者も8月には帰国した。それと前後して民間や政党の訪中団への同行取材という形で、記者の中国入国は続いた。だだし、自由な取材が行なえるという状態ではなく、例えば、1958227日には、日中貿易第4次交渉団同行記者団に対し中国外交部は「日本側の非友好的態度のため記者団の取材活動を制限せざるを得ない」と言明し、東北地方への取材旅行申請を拒否する事態などが発生した。

 1964年にフランスが中国を承認するに至り、日本の報道関係者の間で、再び北京常駐記者派遣に向けての動きが加速した。日本の報道関係者は中国新聞工作者協会と日本新聞協会との間で、民間貿易や政党の関係者の介在なしに実現に向けての動きを進めようとしていたが、中国新聞工作者協会の権限がどこまであるのかが不明確となってきた[v]。日本新聞協会はあくまでも、中国新聞工作者協会を「正式な交渉相手」とする既定路線をくずさなかったが、訪中した自民党代議士・松村謙三は、1964419日に廖承志中日友好協会会長との間で「日中双方の新聞記者の交換に関するメモ」を交わした。松村代議士が北京において、寥承志との貿易会談の中で記者交換問題の原則事項を話し合い、それを基礎として高碕、寥両事務所の代表者間で記者交換に関しての会談が行われ妥結されたのである。

 同「メモ」において、@交換事務はLT両事務所を窓口として連絡、処理する、A交換記者数は8名、B記者の安全保護、C取材活動の便宜供与、D通信自由の保証、などが取決められ、言論の自由の観点から許容し得る内容のものであった。

 上田常隆日本新聞協会会長は訪中前に松村代議士と会談し、その際に「側面協力はぜひお願いしたいが、あなたが直接この問題の交渉に当たられることは絶対さけて頂きたい」と述べたのであった。しかし、実際にはこの要請は反故にされ、松村代議士の責任で記者交換に関する交渉が行なわれた。515日に新聞協会は帰国した松村、竹村祐太郎両代議士を招き、事情の説明を求めたが、既成事実を受け入れる雰囲気が高まっていたため、「北京に行ってみたら、事情が変わっていた」とする説明に対してそれ以上の追及は行なわれなかった。

「メモ」を受け、1964929日に日中記者交換が実現し、日本側からは、常駐9(毎日、読売、産経、日経、西日本、共同、NHK、東京放送、朝日)、短期5(中日、北海道、河北、南日本、時事=1115日帰国)の14人が北京入りを果たした。中国側からは7人(新華社、人民日報、公明日報、大公報、北京日報、文准報、中国新聞)が来日した。

 このようにして、当時は念願だった日中記者交換は実現したが、この記者交換体制は日本新聞協会が主体となって妥結されたものではなく、政治家、貿易業者によって締結されたLT貿易協定の枠組の中で決められたものであり、万が一記者交換体制の運営上重大な紛争が生じて、日中友好という政治的動機をもつ貿易機関と、言論の自由という重要な使命を持った報道機関との間に利害の不一致が生じた場合、深刻な矛盾が生じることになるという問題が残された。

 

2  相次ぐ追放と国交回復期の報道

 記者交換が開始され3年を過ぎた1967年に入ると、文化大革命の影響もあり、中国当局はそれまで以上に外国人記者団全体に対し厳しい態度を取り始めた。ソ連邦記者の追放やロイター通信記者の逮捕などが続き、自発的出国も相次いだ結果、北京常駐記者は激減した。

 日本関連では、1966128日、毎日・高田記者が劉少奇攻撃の壁新聞の伝送を北京中央電報局で拒否されたのをはじめ、1967217日には同じく毎日・高田記者が中国当局から「紙面が反中国的である」との警告を受けた。この後、日本人記者団の「追放」が相次ぐのである。

 19679月には中国外務省新聞局は反中国報道を理由に産経(柴田穂)、毎日(江頭数馬)、西日本(田中光雄)の3記者に国外退去を命じた。

 同年1012日には廖承志事務所が読売に対して、読売新聞社が上野松坂屋で開いた「チベットの秘宝展」とそれに合わせたダライ・ラマ招待は反中国活動であるとして、同社の北京常駐資格を取り消す措置を取った。また、95日に滞在期限切れとなり帰国していた読売系列の日本テレビ放送網(民放代表)の後任記者への入国許可も下りなかった。

 196867日には、日経の鮫島敬治記者がスパイ容疑で中国当局に拘束された。鮫島記者は投獄の後、19691217日釈放され、直ちに帰国した。日経や鮫島記者は同事件に対して未だに沈黙を保っており、逮捕された理由等は明かにされていないが、同記者が寥承志の末娘(当時北京大学日文科)の日本語家庭教師をしており、寥一家や日中関係担当者と親しかったことや中国の内情に詳しすぎることなどが原因とする説がある[vi]

 同年11月には、滞在期限が切れ一時帰国していたNHKの塩島俊雄記者の再入国が拒否された。196985日に再入国が許可されるも、19709月の一時帰国後の再入国が再び拒否された。1970919日、中国側は818日に東京で共同通信社がホストとなって開催されたアジア通信社同盟第3回総会に台湾の中央社が参加したことを理由に共同通信・中島宏記者に国外退去を求めた。

 国交正常化以前に北京に戻ることのできた社はいずれも、中国当局に「謝罪」を行なっている。毎日はこれを潔しとしなかったため、1974年になるまで支局が復活しなかった。

 なぜ、中国当局によるこのような国外退去処分が相次いだのか。196836日、「LT貿易」に替わり「覚書貿易」が制度化されるにいたり、記者交換の実施につき、従来の9名からの5名への減員が取り決められ、19588月に訪中した社会党の佐多忠隆代議士に中国側が示した3条件「政治三原則」の適用がより厳格に行なわれることとなった。自民党の古井喜美代議士と田川誠一代議士が日中覚書貿易事務所代表として、中国側の中日備忘録貿易弁事処代表との間で「1964419日の新聞記者交換会談メモ修正に関する取り決め事項」と題する文書に調印したのである[vii]。これは、前述の@中国を敵視しないこと、A二つの中国をつくる陰謀に加わらないこと、B日中両国関係の正常化への発展を妨げないこと、を示した「政治三原則」と、「日中関係で政治と経済は密接な関係にあるから、これを切り離して別個に論じ、ことを進めるべきでない」という「政経不可分の原則」に基づいて日中記者交換を維持しようとするもので、全くの中国ペースで決められた。日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日など4社や今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

 三好修・前毎日新聞論説主幹(当時)は『経済往来』19724月号に調査報告「新聞はこうして北京に屈服した」(『中国報道の偏向を衝く』収録)を発表し、で19683月の交渉で、田川誠一、古井喜実らによって新聞協会及び日本の報道各社の関知しないところで、64年の「メモ」が秘密裏に勝手に変質させられた上に、その事実を新聞協会と報道各社に対し、公式には何も説明をしなかったとしている。

 これに対し、田川誠一は、68年に「政治三原則」の適用が新たに加えられたとしている点について、それは1964年の時点から暗黙の了解として存在していたと反論を行なっている。また、朝日と日経も田川代議士の主張に理解を示したのであった。

 田川代議士の主張が中国側の認識であるとするならば、「政治三原則」に抵触する報道を行なった社の記者に対し追放処分が下されるのには理由があるということになる。しかし、日本側としては北京での取材活動がそのようなものに縛られるものであるとの認識は少なくとも公式には持っておらず、「追放」が中国当局の勝手な行為として認識されるのは当然である。

 朝日、日経は最後まで「政治三原則」に抵触する報道を行なっていない。ここにおいて、1964年の時点で、松村・田川両代議士らに対して記者交換実現に向けての斡旋を新聞協会とは別ルートで要請していたのではないかという疑惑が発生する。別ルートでの依頼があったとするならば、64年の交渉及び68年の交渉の当事者の一人である田川代議士などから、中国側の「政治三原則」に対する認識が両社の幹部に伝えられ、紙面作りに反映されたと考えることも可能である。

 1967年の3社追放の際、日本新聞協会内でも断固たる措置、つまり記者の引き上げを行なうべきであるとの声が産経や東京から上がったが、朝日はいわゆる「歴史の目撃者」論を主張した結果、日本の報道機関の一致した行動が取られることはなかった。この時点で少なくても建前としては存在していた、「九社一体」は崩壊し、各紙の中国報道に対するスタンスに一層大きな差が生じてくる。

 当時朝日新聞社は、社内の権力闘争が激化していた。その中で、19677月に広岡知男専務が美土路昌一社長の後任として社長に就任し、19679月には秋岡家栄記者が野上正記者の後任として北京に赴任したのであった。この二つの人事は、それまで必ずしも「親中」とは言えなかった朝日の中国報道に大きな影響を与えたのであった。

 前記のように、朝日新聞はいわゆる「歴史の目撃者」論を展開し、北京に記者を常駐させることが一番大事であるとの考え方をとった。広岡社長は「歴史の証人として北京に一社だけでも踏みとどまる」と社内で語り、「中国の良い点を書き、悪い点を書くな」と支持したといわれる[viii]。秋岡記者はこの広岡社長の方針に反することなく特派員としての仕事を行なった。時には中国当局のスポークスマンを代行しているかのような記事まで書くこともあったほどである。

 以下では1969年末から国交正常化までの朝日の紙面に現れた注目すべき記事と中国報道に関する動きを紹介する。

 まず、19691114日付け社説では、「中国代表権問題に現れた新潮流」と題し、重要事項指定確認決議案の提案国となることを批判。197011日付けでは、70年代の日本外交の緊急課題は「日中国交回復」と「アジアの諸問題である」として日中国交回復促進に向けての朝日の姿勢を強調した。

 さらに、広岡知男社長は、1970320日から421日まで松村謙三氏の友人という資格で松村訪中団に加わり、中国を訪問。419日には訪中団一行と共に周恩来総理との会見をした。この模様は420日付けで大きく取り扱われた。また、422日付けに「中国訪問を終えて」と題する広岡社長の署名記事が掲載される。

 続いて同年426日付け社説では、「今こそ日中関係改善の論議をおこせ」と題し、196911月の日米共同声明の台湾条項が中国を刺激したとして、佐藤総理を批判。1970429日付け社説では、「日中友好に逆行する自民党声明」と題し、「多くの世論調査は、国民が一日も早い日中国交回復を願っている」論じ、ムード形成を行なう。

 翌1971年の元日付けでは「日中国交回復へ踏み出せ 政府の基本姿勢いまこそ転換を」と題した2部構成の特集が組まれ、社としての日中国交回復実現に向けての並々ならぬ決意を示した。

 同年321日に世界卓球選手権大会に参加する中国選手団が来日した際、この選手団来日に朝日新聞社は関与。前年の広岡社長訪中の際、中国卓球団を受け入れる話が持ち上がり、帰国後広岡社長は、東京本社運動部を通じ日本卓球協会に日中卓球交流についての協力を要請し、朝日主催での日中交歓卓球大会実施の検討を始めた。その後、名古屋での世界選手権への中国選手団受け入れが決まると朝日主催による大会案を撤回、世界選手権への全面協力を約束し、世界選手権の後に各地で行なわれた日中交歓卓球大会を後援し、中国選手団の身元引受人にもなった。

 同年526日には緒方竹虎以来の主筆制が復活し広岡社長がこれを兼ねることとなる。当時、朝日は最高裁問題、朝日ジャーナル回収問題、朝霞事件(川本三郎記者解雇)と報道機関としての信頼を損なうことにつながる事態が次々と起こっており、社内体制の引き締めのためにこれは実施された。一方で、中国報道において、広岡社長の意向が一段と強く反映される体制が整えられたと捉えることも可能である。

 同年615日から7月末まで本多勝一編集委員が中国を取材し、826日付け夕刊

から1225日付け夕刊まで40回に渡り「中国の旅」が連載された。同年717日及び18日付け社説では、715日のニクソン訪中の発表をうけ、佐藤内閣の中国政策は破綻しているとして退陣を要求し、同年84日付け社説で「国府政府追放反対の音頭をとるな」と題し、国連における中華民国追放反対行動は日中関係に悪影響を与えると論じて、政府の猛省を求めるている。

 同年1023日付け社説では「中国招請をはばむ重大な首相裁断」と題し、国連総会における「逆重要事項指定決議案」と「複合二重代表制決議案」の提案国となったことに対し、佐藤内閣を厳しく批判。同年1027日付け社説では「世界潮流の変化と日本」、「国会を日中復交前進の舞台に」、「中国の国連参加の意義」と題して中国の国連加盟を歓迎し、すなおに中国をむかえいれようとしない佐藤内閣に反省を迫っている。

 同年1028日、同社後藤基夫編集局長が周恩来総理と単独会見を行なう。同行は中江利忠経済部次長(後に社長)、永井道雄論説委員(後に文部大臣)、波多野宏一論説委員、秋岡正栄北京特派員で、116日付けの紙面で会見の模様は大きく伝えられることとなる。この後、1119日から8回に渡って、「開かれた革命中国 本社特派員団の報告」が連載された。秋岡記者と周恩来総理との個人的パイプの存在がこの会談実現に寄与している。

 同年9月以降、林彪失脚・墜落死報道を巡るトラブルが起きる。外電及びサンケイ等が早くから林彪失脚説を打ち出す中、朝日の紙面には北京から送られてくる秋岡記者による特に変化は見られないという調子の記事が載り続けた。日経や共同も腰の引けた原稿を北京から送っていたのは事実だが、朝日は野上正論説委員(前北京特派員)が122日の夕刊コラムで失脚説を取り上げるまで「誤報」を流し続けたのである。このことによって朝日の中国報道が「偏向している」との従来の批判が一層厳しくなった。

 翌197267日付け「座標・北京から」では、秋岡記者がこのコラムで、日中正常化に向けての中国側の条件(一つの中国の堅持と日華条約の破棄)と佐藤後継は福田ではダメだとの中国側の認識を事実上伝達する。同年710日に中国上海舞劇団(孫平化団長)が来日した。孫平化団長は大平外相、田中総理と会談し、田中訪中が決定したのであった。上海舞劇団は日中文化交流協会と朝日新聞社の招きで来日した。

 同年930日付け一面・広岡主筆の署名記事「日中正常化と日本の進路」では、929日の日中共同声明を受けて日中の友好を論じている。

 国交正常化の達成という現実と秋岡記者が吉田実記者と交替し8月末に帰国したこともあり、この後の朝日の中国報道は「外電も多用して多角的に」なった。このため、中国側は「朝日は中国に冷たくなった」と指摘した。逆に考えると、国交正常化以前の朝日の中国報道の熱の入れようと、中国側がそれに好印象を抱いていたかがここから明らかになるのである。

 

3節 「日中常駐記者交換に関する覚書」以降の報道体制

  日中国交回復から2年後の197415日、日中両国政府は「日中常駐記者交換に関する覚書」を北京で調印した。これは日中双方の記者が常駐する現在の体制のもととなるものである。この覚書では「日中の記者交換は1972929日の日中両国政府の共同声明の精神に基づいて行うものとする」と述べられており、同声明3項で述べられている中国の「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である」という「立場を十分理解し、尊重」することや、前文で十分理解するとされている「復交三原則」2項の「台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない」という精神に基づくことが報道各社が中国に特派員を派遣することの前提となっている。要するに、日中友好の精神に反し(反中国的で)、台湾独立を支持する報道機関や特派員は中国に受け入れられないのである。

 日本新聞協会加盟各社の在京外信部長会は「記者の活動は自由であるべきであり、政府間による常駐記者枠の協定は、いかなる国との間においても本来、このましくない」として、日中両国政府に対して記者枠制度の早期撤廃を求めている。しかし、これは現在に至るまで撤廃されずに残されたままである[ix]

 産経新聞社が1998年までの31年間、北京に支局をおかず、台湾にのみ支局を開設していたのは、まさにこの制度の顕著な例であり、1998年に北京に支局を開設した際に、北京の支局を「中国総局」、台北の支局を「台北支局」と格差をつけて称するのもまさに現在に至るまで1974年の「覚書」の効力が影響しているためである。

 さらに中国国内には、外国人記者向けに定められた法律が存在する。まず、198139日に公布された「外国記者駐在管理暫定規定」がある。同規定の12条で「常駐記者の業務活動は、正常な取材、報道の範囲を超えてはならない」[x]とされており、この中の「正常な取材」や「報道の範囲」について具体的な記述がないのが特長である。つまり、「正常な取材」や「報道の範囲」に関して規定するのは、中国当局の裁量に委ねられているわけで、そうである以上中国当局に「不正常な取材」や「報道の範囲を逸脱した」として拘束された場合、反論することが不可能なのである。

 19901月になると「外国記者及び外国常駐報道機関管理条例」が国務院から公布される。これに基づいて北京市は同条例の実施規則を定めており、5条で「外国の北京駐在記者及び報道機関が、中国人のスタッフを雇用したり、住宅を借りて事務所とする場合は、北京外交人員服務局を通して手続をしなければならない」とされ、北京常駐の特派員の取材や活動拠点を決まった区域に限定して管理することが規定されている[xi]。その他、中国領内のいかなる取材活動も事前に当局の許可を得なければならないことが定められているという[xii]

 このように1972年に日中両国が国交を回復したあとも、「言論の自由」や「公正報道」が厳格に求められる日本の報道機関において、中国報道は絶えず一定の制約があり、北京特派員をはじめとする中国報道の関係者に様々な問題を投げかけ続けてきたのである。

 また、上記の制約ではないが、19875月に共同通信社の逸見庸特派員が、胡燿邦総書記辞任の内幕をスクープして国外退去処分になった際には、中国当局は外国人出入国管理法第5条、刑法第102297186各条に違反したためと説明している。外国人出入国管理法第5条では「外国人は中国に滞在する間、中国の国内法を遵守しなければならないこと」が定められ、刑法10条は「国家主権、プロレタリア独裁、社会主義革命、社会主義建設、社会秩序などを破壊、危害を加える行為は法に照らして罰せられる」、同97条はスパイ行為に関する規定で、罪が重ければ10年以上、無期懲役の刑が定められている。同186条は機密漏洩に関する規定で7年以下の刑が科せられるものである[xiii]。事件の経緯は次章以下に別途のべるが、辺見特派員は「計4回にわたって胡燿邦総書記辞任の背景などに関する中国共産党中央の内部文献を報道したが、これをめぐって3月に中国外務省から情報源を明かにするよう要請を受け、拒否するなら良くないことが起きると警告された」と述べており、書いた記事が中国名誉を傷つけたり、国益を損ねたり、安全を脅かすような内容があったとは思えない事項でも国外退去の対象になるという別の側面の特殊性も存在する。

 

 

第2章  北京特派員の実態〜現状分析と比較〜

第1節                北京特派員と中国当局の対応

  第1章では、日本の報道機関の中国報道が、これまでいかに特殊な制度のもとで行われてきたかを時系列的に述べてきたが、本章では実際に取材をし、記事原稿を書いてきた北京特派員のおかれた環境を取り上げ、中国報道への影響や変化、外国の報道機関との比較を、実際に報道機関から北京特派員として派遣された記者が残した多くの著書をもとに述べていく。

 まず、1960年代から1970年代にかけては第1章でも詳しく述べてきた通り、北京特派員の北京での行動は極めて限られており、特に文化大革命期にはし烈をきわめた。1967年になると中国当局は、文化大革命に関する報道を厳しく規制するようになり、壁新聞の取材や国内旅行ができなくなった。さらに、西側諸国の外交官とともに、中国国内の外国の報道機関の記者はスパイと見なされ、一般の中国人との接触は、記者と接触すると同様にスパイと見なされる中国人の身の上の危険にも及ぶため、実質的に不可能な状態だった。

 やがて次々と北京特派員が国外退去処分、もしくは再入国を拒否され、19709月から19711月までの約3ヶ月間、朝日新聞記者の秋岡記者ただ一人だけという時期もあった。

また1968年には日経の鮫島敬治記者が逮捕され、同年65日から19691220日までの五百数十日間監禁生活を送っている。当時新華社は鮫島記者の事件に関し、「鮫島記者は特派員の身分を利用し、長期にわたってスパイ活動を行い、中国の政治、軍事、経済各部門の情報を大量に盗み、米国と日本反動派に提供した。中国の取調べに際し、同人はその罪を認めざるを得なかった。中国の関係当局は同人を寛大に取り扱い、国外退去処分にすることにした[xiv]」と報道しており、具体的に鮫島記者が何を行って逮捕されたのか明確にはしていない。

 問題は当時の北京特派員にとって、心理的に公正な報道は可能だったのかということであろう。唯一国外退去処分を免れた朝日の秋岡記者をはじめ当時派遣されていた特派員たちが、当時の林彪副主席のクーデター計画の失敗に関する報道に関して誤報を流しつづけたとしてこの時期の報道が偏向していたとしてよく議論される。同副主席は毛沢東を暗殺して実験を奪おうというクーデター計画を企てたが、事前に情報が漏れて失敗。航空機でソ連への逃亡中、モンゴルで航空機が墜落して死亡した。フランスのAFPをはじめとする欧米の報道機関は、同年101日の国慶節のパレードが中止されたり、人民日報から同副主席の名前が突然でなくなったことから、林彪氏の失脚説を報道した。しかし、日本の記者らは同事件に対して沈黙を守ったり、同年922日に「一部伝えられた『祝賀パレード中止』の報道について、中国筋は『パレード中止などは今までのところ聞いていない』と首を一ひねり、『“政治的事件”など何を意味するのか』と一笑に付している[xv]」と打電するなど一貫して否定。秋岡記者は1972210日には「林氏、失脚後も健在」と報じている。

 「反中国的」だとして、いつ逮捕、監禁、もしくは国外退去処分になって支局が閉鎖されるかという強迫観念のようなものがあったかもしれないと当時の北京特派員たちの心中を察することは可能であるが、秋岡氏はじめ当事者の口からは未だに明かにされていない。しかし、北京特派員の経験者の執筆する中国報道に関する論文の中では、必ずここの部分に触れられており、日本の中国報道の問題に関する原点と言えるであろう。

 では、その後現在に至るまで、在北京の特派員はどのような環境のもと取材活動を行ってきたのであろうか。まず、住居や事務所であるが第1章、第3節で述べた「外国記者及び外国常駐報道機関管理条例」にのっとって、「外交人員公寓」と呼ばれる、外国大使官員や外国人記者専用の団地式アパートに限定されている。北京市内には「建国門外」「斉家園」「三里屯」「塔園」の四ヶ所の外交人員公寓があり、北京特派員は全員いずれかのアパートに事務所と住宅を構えている[xvi]。さらに現地スタッフはみな外交人員服務公司から派遣されてきている。それらのスタッフの中には「外国人記者の監視と報告が義務付けられている」と言う人もいるという[xvii]。このように、事務所や住居という生活の基本的部分から中国当局の管理が及んでいる状況が現在も続いている。

 次に取材活動においていかなる環境だったのかを記述する。特派員は、中国領内のいかなる取材活動も事前に当局の許可を得なければならず、どの地域でも自主的な取材はその地域を管轄する当局の新聞局や外事局のの許可を要するわけであるが、それ以外に電話の盗聴や尾行、インターネット傍受などの方法により「管理」、言葉を換えれば「監視」されているといわれている。

 尾行や盗聴などに関しても北京特派員経験者が多くの証言をしているが、元時事通信社北京支局長の信太謙三氏は著書[xviii]のなかで「強制尾行」の経験を語り、中国公安当局による「強制尾行」の目的を「相手に心理的な圧迫を与えて警告すること」として、「振りきってしまう」か「完全に無視する」ことがそれに対する対処法だとしている。同氏によれば、その時の強制尾行は、それより少し前に「六・四事件以後、国外内に逃れた敵対分子が再び浸透してきて破壊活動を強めている」と指摘している当時の中国公安相、陶駟駒氏の演説原稿を全文入手したことを報道したことに関係していると考えているという。そして、「しつこい強制尾行に遭うと、やはり『内部資料入手』型のニュースを書くことを躊躇する気持ちが生れてしまう」と述べている[xix]

 電話盗聴に関しては産経新聞元中国総局長の古森義久氏は「私自身は確証をもたないからそんな断言はできない。しかし、状況証拠はいくつもある[xx]」と述べており、実証することは困難だが、少なくとも北京特派員の間では、信太氏いわく「支局の電話が盗聴されているというのは常識」とされている[xxi]。読売の元北京支局長高井潔氏は、「北京特派員というのは24時間、盗聴と尾行で監視される生活を送っている」と記述されているニューヨクタイムズ元北京特派員夫妻が書いた『新中国人』[xxii]について、「24時間の監視生活というのは、「ちょっと大袈裟ではないか[xxiii]」と述べているものの、「盗聴」「尾行」そのものの否定はしていない。同じく読売元北京特派員藤野彰氏も「常時というわけではないが、当局による尾行や監視も中国では昔からつきものだ」として自らの体験を語っている[xxiv]

 さらに、北京特派員が書いた記事を中国当局がすべてチェックしており、時には記者個人に対して警告することもある。20002月、中国外務省高官が日本人記者団と懇談をした際、高官は翌3月に行われる台湾の総統選挙に触れて「一つの中国」の大原則を強調し、「日本の報道機関も台湾問題は中国の内政であることをきちんと認識して、台湾独立の風潮を助長するような報道は絶対にしないで欲しい」と要求。その後、あっさりと「この2月と3月は、とくに日本のマスコミの報道内容を詳しくチェックしますからね。気をつけて下さいよ[xxv]」と述べている。中国外務省新聞局の中に外国人特派員がどのような記事を書いているのかをチェックするセクションがあると言われている[xxvi]

 最後に北京特派員が一番恐れているのは、国外退去処分、あるいは、逮捕・拘留であろう。第1章で述べた通り、過去の中国報道の経緯から、日経の鮫島記者逮捕、国外退去処分の多発という事実から、北京特派員の事実を追求するという姿勢に影響を及ぼしているのではないかという問題だ。最近でも、1987年の共同通信の辺見秀逸特派員の国外退去処分に続き、199810月に読売新聞の中津幸久特派員が国外退去処分になっている。さらに、辺見記者の事件の場合、情報を提供したとされる人物[xxvii]は逮捕され、投獄された。中国当局の管理のもと、当局の許容を超えた活動を行ったものについては国外退去、逮捕・拘留されるということは北京特派員にとっては大きなプレッシャーにしかならない。信太氏はこのことに関して「こうしたプレッシャーの中で、国外退去にならないように、取材先に迷惑がかからないようにしながら、しかも、党や政府が隠そうとする真実さえも報じていくのは精神的にタフでないとやっていけない[xxviii]」と述べている。

 

第2節                日本記者と他国記者との相違

 それでは、中国国内での日本人記者の待遇は、日本人記者だけのものなのであろうか。そもそも、「外国記者駐在管理暫定規定」や「外国記者及び外国常駐報道機関管理条例」などは日本人記者だけ出なく、他の外国人記者にも適用されるので、基本的に事務所や住宅に関する条件は変わらない。しかし、日中の記者交換が1974年に日中両国政府により調印された、「日中常駐記者交換に関する覚書」によって成立している以上、他国との差は歴然としてくる。

 例えば、産経新聞が31年間、北京に支局を設置することが出来なかったこと、1998年に支局が開設されてからも北京の支局を「中国総局」、台北の支局を「台北支局」と称することなどからそのことが読み取れる。北京に支局が開設されることを受けて、産経新聞社住田良能常務取締役主筆は「日中間に残った不正常な状態を解消するために双方が誠意をもって協議を続けた結果、『一つの中国』の原則と日中共同声明・日中平和友好条約の精神に沿って建設的な日中関係を築いていくという枠組の中で、常駐記者問題解決の合意に達した[xxix]」と述べており、日本の報道機関があくまでも「覚書」に拘束されていることを示している。

 しかし、欧米のマスコミは、北京と台北の両方に支局を構えても、中国から北京支局開設の許可が下りなかったり、北京支局を「中国総局」と称するよう要求されることはない。APUPI、ロイター、AFPの四国際通信社が北京と台北の両方に同時に特派員をおき、ニューヨク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ウォール・ストリート・ジャーナル、ロサンゼルス・タイムズなどの米国四有力紙は北京に常駐記者をおく一方で台北にも自由に記者を派遣している。

 中国当局は「日中間には過去の歴史的な経緯があるからだ」と日本と欧米のマスコミの対応の違いについて述べている[xxx]。そのため日本の報道機関は、これまで北京と台北の両方に支局を開設できなかったのである。

 次に、日本の報道機関や外務省、政府等の中国への対応の甘さも、中国側の態度に起因していると思われる。例えば前節で記述した、中国外務省高官の「この2月と3月は、とくに日本のマスコミの報道内容を詳しくチェックする」という発言なども、中国当局と日本の報道機関の関係が特殊であることを示している。日本の報道機関は自国の政府やアメリカ政府から「報道内容をチェックする」と警告されたら、それをそのまま大人しく受け入れるであろうか。激しく反発するのが当然のことなのではないだろうか。

 同様に、前節で述べた中国当局の尾行や盗聴に関しても、日本新聞協会として中国側に一度も抗議したことはない。しかし20003月、北京駐在の各国記者からなる「中国外国特派員クラブ(FCCC)」は、尾行や監視に対する抗議の書簡を中国当局に送っている。この抗議書簡は中国外務省の朱邦造報道局長と国務院新聞弁公室の趙啓正主任にあてて、特派員クラブのテッド・プラフカー会長(英エコノミスト誌の嘱託特派員)名で書かれている。「最近、北京駐在の外国特派員数人が中国政府の公安当局係官に終始、公然として尾行と監視を受け、取材活動だけでなく、家族を含む私生活に支障をきたすようになった」として「正当な報道活動をする記者へのこの種の嫌がらせは全国人民代表大会の開催に先立って始まったが、全人代と記者の両方の威厳を傷つける行為だ。監視はあえて明白な方法で実施され、記者に対する威嚇を目的とすることが歴然としている」と書かれている。

 このように、日本以外の外国メディアや外務省は中国政府に対して毅然とした態度をとっている。伊藤喜久蔵氏によれば、かつてニューヨーク・タイムズが中華民国の一ページ全面広告をのせた時、北京政府はこれに抗議して将来の北京特派員選考に影響があると同紙を脅した。すると同紙はこのことを記事にして紙上で発表し、北京の脅しをはねのけたという[xxxi]

 同様にニューヨーク・タイムズ元北京特派員だったN・クリストフ、S・ウーダン夫妻は著書の『新中国人』の中で次のことを明らかにしている。天安門事件後の1990年春、ウーダン夫人の中国国内における記者証の期限が切れた際、中国外務省が記者証の更新を拒否、その後夫人が記者証の申請をしてもそれに応じなかった。夫人はその件に関し、北京のアメリカ大使館に助力を求め、大使館は中国外務省に問題を提起。さらには、中国人記者から申請のあったアメリカ入国のビザ発給をストップしてしまったのだ。その後、アメリカ大使館の戦略的な対応が功を奏し、ウーダン夫人は記者証発行の申請を認められた。

 

3節  国外退去処分とその対応

 日本の報道機関と他の外国の報道機関との中国に対する対応のし方は、北京特派員が国外退去処分になった時、さらに如実に現れる。1968年に日経の鮫島記者が逮捕・拘留されたのとほぼ同じ時期の19678月、英ロイター通信のグレー特派員は鮫島記者と同様の容疑で逮捕された。これに対して英国政府や報道界、国民は、一致して人道主義の立場から釈放を要求する一大キャンペーンを展開した[xxxii]。鮫島記者の場合、前述の通り沈黙を守っており、日経も日本新聞協会も一切沈黙したままだった。

 19875月に国外退去処分になった共同通信の辺見秀逸特派員の場合は、北京駐在の中江要介大使が政府の訓令に基づいて中国外務省の斉懐遠外務次官(報道担当)と会談し、辺見特派員の国外退去処分に対し正式に遺憾の意を表明するとともに、北京常駐日本人記者の報道活動に制約が生れないように注意を喚起、辺見記者の退去処分の理由についての説明も求めた[xxxiii]。この時期、教科書問題、靖国神社参拝問題など、日中関係が悪化していたとはいえ、上記のように外務省がめずらしく毅然とした態度を示したが、日本新聞協会は何の抗議声明も出さなかった。共同通信社も「唐大堤へ提供した五百元は中国語教授料であり、辺見記者の取材活動は正当だ」と反論しながらも、同年515日に同社編集幹部が北京に行き、交代記者派遣で話をつけている[xxxiv]

 199810月に読売新聞北京特派員の中津幸久氏が国外退去処分を受けた際には、外務省外務報道官が「基本的には中国政府と報道機関との間の問題だ。現時点で日本政府として特段の措置をとることは考えていない[xxxv]」と述べて、「中国と報道機関の問題」として介入しないことを表明し、読売新聞も老川祥一編集局長が「中津記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信しており、文書類の入手ルートなどを明かさなかったのも、取材源の秘匿という報道倫理に沿ったものと考えている」と中津記者の報道姿勢に誤りがなかったことを強調し、「中国治安当局が国家安全法違反と認定し、同記者を国外退去処分にしたのは誠に遺憾だ」と中国当局に対して遺憾の意を表明。ところが報道した紙面では扱いが小さく、他社も同様。問題の所在でも記述したが、読売は2面の2段。事件の事実と編集局長のありきたりの談話が載っているにすぎない。同じく22段なのが、毎日新聞。関連記事を載せ、中津記者が6月に書いた趙紫陽に関する記事が関係しているとの見方を示し、読売新聞より詳しい。日経は2面、東京は社会面でいわゆるベタ記事。朝日は第3社会面で3段だが、文字数が少なく扱いは小さい。産経は第4社会面で48行分の見出し。青木彰東京情報大学教授のコメントを載せている分、他社よりは意識が異なる。また、日本新聞界としての共同歩調は取られなかった。

 これに対して、同年1119日に国外退去処分を受けた独・週刊誌シュピーゲルのユルゲン・クレンプ北京特派員の問題で、独外務省報道官は「極めて深刻な事態」と述べ、中国政府に対し処分の撤回を求めていく方針を明らかにしている[xxxvi]

 米国でも国務省のルービン報道官が、読売新聞と独シュピーゲル誌の北京特派員が相次いで国外退去処分を受けたことに対して、「中国には表現と報道の自由を尊重する意思があるのか、深刻な問題を提起している」と批判、米政府が最高首脳レベルで懸念を伝えたことを明らかにし、「中国の憲法は言論と報道の自由を基本的権利と規定している。この基準を中国で働くすべてのジャーナリストに適用するよう求める」と述べている[xxxvii]。この他報道自由を守るための活動を続け、パリに事務局がある国際的な組織「国境なきリポーターたち」は同年107日、中国の江沢民国家主席に対し、中津記者の国外退去処分を「報道の自由に対する極めて深刻な侵害だ」として、処分の取り消しを求める書簡を送っている[xxxviii]

 この他、日本と他の国の報道機関と比べて異なるのは、日本の場合国外退去処分になる記者に対して冷たいという状況だ。欧米の記者はいわゆる特ダネを書いて国外退去処分となった記者は本国では英雄になるのだ[xxxix]。国外退去処分にはなっていないが、前述した『新中国人』著者のニコラス・クリストフ元北京特派員夫妻は、中国当局と様々な衝突を繰り返し危険な状況に陥りながらも天安門事件の報道で、アメリカのジャーナリストにとって最高の栄誉であるピューリツァー賞を受賞している。さらに日本の北京特派員の多くは国内の外国語大学中国語学科を卒業して、北京特派員になることを記者生活の一つの大きな目標としている専門家が多い。すなわち、中国から国外退去処分を受けることはそのような記者にとって、自らのライフワークを否定されることになってしまうため、中国には一定以上には嫌われないようにしたりしなように配慮し、報道活動での自制さえも生れてくる傾向があるという[xl]

 

第3章 日本の報道機関の変化と現状

第1節         日本の報道機関の変化

 本章では、日本の報道機関の中国報道が言論の自由に対する姿勢の面において、果たして変化してきたのかを検討し、それでもなお残る問題点を指摘してみたい。

 制度上の面では、1974年に日中両国政府で調印した「日中常駐記者交換に関する覚書」のもと現在でも日中の記者交換が行われており、第22節で述べた、産経新聞中国総局開設の際のように「『一つの中国』の原則と日中共同声明・日中平和友好条約の精神に沿って建設的な日中関係を築いていくという枠組」の中で日本の報道機関は中国報道を続けている。現在、中国国内に常駐可能な日本人特派員の枠は75人で、これは19961016日に、日中両国政府間で口上書を取り交わして決まったものである。したがって、制度上の制約において、記者交換の制度を撤廃するように求める声はあるものの[xli]、日本の報道機関の変化は見られない。

 では、報道機関の中国報道に対する姿勢は全く70年代と変わらないのであろうか。1972年に『中国報道の偏向を衝く』[xlii]で日本の中国報道に対する問題が提起されて以来、幾度となく北京特派員経験者が日本の中国報道に対する問題を論じてきた。特に、報道機関の使命である「公正報道」や「言論の自由」に関する側面に関しては様々な議論がなされてきた。そして、1990年代に入ってようやく「変化」と言える顕著な動きがでてきた。

 19961014日、日本新聞協会は1982年以来毎年行われてきた日中記者交流を目的とする日本人記者訪中団の派遣を取りやめた。それは、招請側の中華全国新聞工作者協会が日本新聞協会に、靖国神社や尖閣諸島の報道で、「中国人民の感情を傷つけ、友好を損なう言論を発表している」との理由を挙げ、参加者のリストの中から産経新聞記者を招請しないと通達してきたため[xliii]で、日本新聞協会は同協会編集委員会幹事会で討議の結果、中国側の要求は「相互互恵・平等の交流計画の原則にもとり、報道の自由の原則にも反する」として満場一致で派遣中止を決定、続く編集委員会でも承認されたものである。

 この日本新聞協会の措置は、日本の報道界が「言論の自由」という点で中国側にはじめて一致団結して疑問を投げかけたという点で、非常に画期的であった。朝日新聞は同年1016日の天声人語で「ある論調に対して、受け取り方がいろいろ分かれるのは当然だ。しかし、言論には言論を」と述べて、「意に沿わぬ主張をした者とは接触自体を拒絶する、との今回の(中国側の)姿勢は、なかんずく国際社会では、著しく説得力を欠く」と日本新聞協会の措置を肯定している。また、同紙は15日夕刊の素粒子では「産経記者を尖閣報道ゆえに中国が排除。しかし、わたしたちと産経は言論の自由で同志だ」と語り、読売新聞の渡辺恒雄社長も「他の新聞社がはじめて全員一致で訪中中止を決めたことは進歩であり、歴史的である[xliv]」と新聞大会の中で述べたといい、中国に対する強い意思がわかる。東京外国語大学の中嶋嶺雄学長もこの件に関し、「いわゆる日中友好ムードのなかで醸成されてきたわが国の中国報道にまつわる病理と悪弊を、ほぼ四半世紀にしてようやく切除しようとする強い意志がわが国の報道界に形成されはじめたからである[xlv]」と述べており、日本の報道界の中国報道に関して、「言論の自由」に対する姿勢の変化を強調している。

 この件に関して読売の元北京支局長、高井潔司氏は「日本側は報道の自由に対する挑戦と受けとめ、訪中団そのものを取り消す事態となった。もし中国のマスコミや当局が、産経の記事をもとに対日批判をやるのなら、当然産経にもビザを発給すべきだろう。産経を日本の代表的な新聞と認めているわけだし、反論があるなら、それこそ産経の記者に中国の現実をみてもらい、大いに議論を深めればよい[xlvi]」と述べており、朝日のいう「言論には言論を」の主張とほぼ同じ考えを表明している。

 兼ねてから中国報道に対して、一貫した姿勢を貫いてきた産経新聞も、1998年に中国総局が開設されてから中国当局による締め付けが行われてきた[xlvii]が、当時同社が初代総局長の古森義久氏を派遣する時に、古森氏と同社の羽佐間会長は次のような会話のやり取りをしたという。「僕はジャーナリストとして事実を曲げて伝えることはできないが、それで追放されてもいいか」と古森氏が心配して言うと、羽佐間会長も同社清原社長も「君が書きたいように書いてくれ」といって送り出した。「古森氏は当局の重圧をはねのけて、中国が偽造・模造大国である実態、日本の対中ODAで北京のインフラが整備され、軍事的プレゼンスを高めているという実態を次々と報道しました。他のメディアが一切伝えてこなかった事実ですから、大反響を呼びました」と続けて清原社長は古森氏を絶賛している[xlviii]

 第2章第3節でも取り上げたが、199810月に読売新聞の記者が国外退去処分を受けた際にも、記事の扱いは小さかったものの同社の老川祥一編集局長は一通りのコメントの後、「なお」と続けて「読売新聞は、日中両国の相互理解が深まるよう、今後とも公正な中国報道に努める姿勢に変わりはない」と述べており、同社の記者が国外退去処分を受けても「公正」な「中国報道」をしていくことを強調していた[xlix]

 

2節  いまなお残る問題点

 前節で、少なくとも日本の報道機関の中国報道に関して「言論の自由」に対する姿勢の変化を述べてきたが、本節では報道機関の「変化」によってだけではどうすることも出来ない「いまなお残る問題点」を述べていく。

 まず、前節冒頭でも触れた通り、1974年に日中両国政府により調印された「日中常駐記者交換に関する覚書」のもとで記者交換が行われていることこそが、いまなお残る問題点の最たるものであろう。そもそも、「言論の自由」をもとに「公正報道」を使命とする日本の報道機関が、政府間の取り決めにより制約を課しているということは、それ自体「公正報道」を困難にするものではないだろうか。在日華僑の作家、夏之炎氏は1987年に「日本から派遣された記者の立場は、ほかの資本主義社会から派遣された記者の立場と少し違う。新聞社同士の単なる派遣・交換ではない。中国に派遣された日本の記者の立場はある意味で半官半民だから、外交関係の原則に従わなければならない。72年の国交回復時の共同声明とか、78年の日中平和友好条約とかの原則にのっとって記者活動をしなければならない[l]」と述べているが、報道機関が国家関係を考慮に入れながら「公正報道」をすることが可能なのだろうか。この「覚書」の精神に従わなければ、中国に支局を開設できないという制度は「中国報道」の公正性という観点から鑑みて、撤廃すべきではないだろうか。

 次に、「言論の自由」に対する姿勢の「変化」によって解決できないと考えられるのが、第1章第3節で述べた、「外国記者駐在管理暫定規定」や「外国記者及び外国常駐報道機関管理条例」などの中国国内の外国人記者に対する法規制である。これは、中国の内政上の問題であり、このこと自体を問題とするものではないが、この法規制によって、北京特派員が公式発表や公式報道に頼らない発掘型の直接取材を行うことに危険を伴うということである。そして、自由な取材ができないために、ときおり「誤報」も生じることになる。 

199733日、読売新聞は夕刊で、元中国全人代常務委員長の彭真氏の死亡を、複数の消息筋の情報として報道した。しかしこれは後の公式報道で426日に、彭真氏が死亡したと発表され、明らかに「誤報」となり、同紙はおわびと訂正記事を掲載している[li]。取材の自由が許されておらず、情報を確認する体制が整っていないためこのような「誤報」が生じてくるのではないだろうか。特に中国の場合、「指導者」の動静を探ることは困難であり、ケ小平氏の死亡に関しては、日本の報道機関各社は並々ならぬ困難を強いられていたことが北京特派員経験者から語られている。

直接取材の危険性に関して、信太謙三氏は「この危険の大きさは時代や状況によって変わってくるわけで、一般的に言えば、中国が改革・開放政策を実施し、中国経済が発展し、人々の生活が豊かになってくるに従って、確かに減ってきている」と述べているものの、「しかし、危険がゼロになったわけでなく、しかも、皮肉なことに、そこに大きなニュースが眠っている[lii]」と日本の報道機関と中国国内の制度の間に横たわるジレンマを語っている。

ただし、日本の北京特派員たちも、現在では「どこからが危険で、どこまでが安全なのか」をある程度把握しているようである。高井潔司氏は「チベット独立、台湾独立、反体制派に関するニュースには極めて敏感で、この辺りのニュースに触るときはやはり慎重な対応が必要なのではないか[liii]」と述べており、今後はその事項に関連した報道がいかに報道されていくかが、中国報道で注目していくべき点であろう。

最終章  結論

 これまで述べてきた通り、中国報道には制度上の特殊性が存在する。1964年に日中間で締結された「日中双方の新聞記者の交換に関するメモ」により、日中関係の枠組みの中に組み込まれ、1968年には「政治三原則」と「政経不可分の原則」を厳格に適用された「1964419日の新聞記者交換会談メモ修正に関する取り決め事項」が調印、国外退去処分が相次いだ。1974年には「日中常駐記者交換に関する覚書」が日中両国政府により調印され、「日中友好の精神」と「一つの中国」に沿った態度を表明しなければ、北京に支局を開設することができなかった。

 日本の報道界はこうした制度のもと、様々な経緯を経て1996年に、少なくとも「言論の自由」に対する姿勢の変化を見せた。それまでは、北京に特派員を置くことに主眼をおき、日本の新聞界が一体となって中国側に日本の報道界の使命である「言論の自由」を中国側に主張したことは一度もなく、まさに画期的なことであったと言える。そして、その変化はこれからの中国報道にも大きな変化となって現れてくる可能性が大きい。

 しかし、そうした「姿勢の変化」がみられてもなお残る問題点は存在する。それが、まさに中国報道の特殊性である記者交換の制度がいまだに存在することであり、さらには中国国内の外国メディアに対する規制である。日本の報道界は、いままさにそうした「姿勢の変化」と「いまなお残る問題点」の間に横たわるギャップを埋めるべく、次なる変化へと向かっているのではないか。

 

 

 

 

 

 

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 朝日新聞、読売新聞、日本経済新聞、毎日新聞、産経新聞                                            



[i] あわせて日本の主要新聞・通信社が、北京市局を中国総局に格上げし、台湾・台北に支局を開設、または再開した。このような経緯は、他諸国の報道機関にはない日本独特のものであった。

[ii]中華週報1876web    http://roc-taiwan.or.jp/news/week/1876/102.html

[iii]毎日新聞1998107日朝刊。ほか、高井潔司氏、信太謙三氏、古森義久氏の著書に中津記者の顕著な実績として趙紫陽氏の記事を挙げている。(高井氏は中津記者追放当時の上司)

[iv] 三好修、衛藤瀋吉共著『中国報道の偏向を衝く』104

[v] 新聞界では記者交換問題を政治的なものとして動くのは一切排除するといった風潮があったが、中国新聞工作者協会の性格が民間団体に過ぎないという情報が日本新聞社協会にもたらされたため、このような不安定な状況に陥った。

[vi] 伊藤喜久蔵氏の見解。伊藤喜久蔵著「朝日新聞と中国報道」『諸君!』第1212号、文藝春秋、198012月、131

[vii] 田川誠一『日中交渉秘録』、毎日新聞社、1973年、105108

[viii] 伊藤喜久蔵「朝日新聞と中国報道」、『諸君!』第1212号、文藝春秋、198012月、132

[ix] 信太謙三「中国報道の光と影」、『中国21』、愛知大学現代中国学会、20011月号、142

[x] 信太謙三「中国報道の光と影」、『中国21』、愛知大学現代中国学会、20011月号、152153頁、信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、115

[xi] 藤野彰『嘆きの中国報道』、亜紀書房、199411月、34

[xii] 古森義久『北京報道700日』、PHP研究所、2000年、20

[xiii] 朝日新聞、1987517日朝刊

[xiv] 三好修、衛藤瀋吉共著『中国報道の偏向を衝く』118

[xv] 共同通信社の特派員電。三好修、衛藤瀋吉共著『中国報道の偏向を衝く』182

[xvi] 藤野彰『嘆きの中国報道』、亜紀書房、199411月、30

[xvii] 信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、21

[xviii] 信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、94

[xix]  信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、98

[xx] 古森義久『北京報道700日』、PHP研究所、2000年、63

[xxi] 信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、99

[xxii]N・クリストフ、S・スーダン共著、伊藤 正、伊藤由紀子共訳『新中国人』、新潮社、1996

[xxiii] 高井潔司『21世紀中国の読み方』、蒼蒼社、1998年、257

[xxiv] 藤野彰『嘆きの中国報道』、亜紀書房、199411月、32

[xxv] 古森義久『北京報道700日』、PHP研究所、2000年、30

[xxvi] 信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、118頁。但し「…セクションがあるという。」という言いまわしで表現されており確証はない。

[xxvii] この情報を提供したとされる人物が本当に辺見記者の情報源だったかどうかは明らかにされていない。

[xxviii] 信太謙三「中国報道の光と影」、『中国21』、愛知大学現代中国学会、20011月号、154

[xxix] 産経新聞1998722日付朝刊

[xxx] 信太謙三「中国報道の光と影」、『中国21』、愛知大学現代中国学会、20011月号、142143

[xxxi] 伊藤喜久蔵「朝日新聞と中国報道」、『諸君!』第1212号、文藝春秋、198012月、135

[xxxii] 伊藤喜久蔵「朝日新聞と中国報道」、『諸君!』第1212号、文藝春秋、198012月、132

[xxxiii] 朝日新聞1987513日付朝刊

[xxxiv] 伊藤喜久蔵「中国報道−いかに真実を伝えるか」、『東亜』、霞山会、19887月号、15

[xxxv] 日本経済新聞19981017日付朝刊

[xxxvi] 日本経済新聞19981119日付朝刊

[xxxvii] 読売新聞19981120日朝刊

[xxxviii] 朝日新聞1998108日朝刊

[xxxix] 信太謙三『北京特派員』、平凡社、1999年、29

[xl] 古森義久『北京報道700日』、PHP研究所、2000年、50

[xli] 伊藤喜久蔵「中国報道−いかに真実を伝えるか」、『東亜』、霞山会、19887月号、1314

[xlii] 衛藤瀋吉、三好修共著、『中国報道の偏向を衝く』、日新報道出版部、1972

[xliii] 朝日新聞19961015日付朝刊

[xliv] 産経新聞19961017日付朝刊

[xlv] 産経新聞19961025日付朝刊

[xlvi] 高井潔司『21世紀中国の読み方』、蒼蒼社、1998年、273

[xlvii] 古森義久『北京報道700日』、PHP研究所、2000年、4347

[xlviii] 産経新聞社会社案内、清原社長の言葉 http://.sankei.co.jp/pr/guide2000/index.html

[xlix] 読売新聞1998107

[l] 伊藤喜久蔵「中国報道−いかに真実を伝えるか」、『東亜』、霞山会、19887月号、13

[li]高井潔司『21世紀中国の読み方』、蒼蒼社、1998年、282283

[lii]信太謙三「中国報道の光と影」、『中国21』、愛知大学現代中国学会、20011月号、152

[liii]信太謙三「中国報道の光と影」、『中国21』、愛知大学現代中国学会、20011月号、153