今回はちょっと!?かなり重たい話です。
フジテレビ放送の「1リットルの涙」という
連ドラがあるのをご存じですか?
このドラマは主人公の亜也が中学3年生の時、
突然、脊髄小脳変性症という難病にかかってしまう。
反射的にバランスをとり、
素早い滑らかな運動をするのに必要な小脳・脳幹・脊髄の
神経細胞が変化し、ついには消滅してしまう病で、
発症の原因が不明のため治すことができない。
それでも亜也は進学校の県立東高校に入学、
新しい友達に囲まれて勉学に励んでいた。
しかし病は徐々に進行し、
亜也はとうとう自力で歩くことすらできなくなってしまう…。
ひとりの少女の実話であり
生きた軌跡をつづった感動のベストセラー
『1リットルの涙』をドラマ化したものです。
何故私がこのドラマについて
日記に書こうと思ったかというと、
私の父もこの奇怪な難病にかかっているからである。
私が小学校5〜6年生の頃から
父の様子が少しずつ変わり始めた・・・
寝言が非常にすごくなり、
夜な夜な大声で部下をしかっていた。
私はその夜中の時間帯がとても恐ろしく恐怖だった、
普段とても優しく温厚な父が豹変してしう魔の時間帯・・・
心配で心配で仕方なかった。
そのうち地区の草野球ではボールが投げられなくなり、
まっすぐ歩けなくなった。
貧血もすごくて、私が中学の2〜3年生の頃
やっと病院に行くことにした。
最初の診断だと、「自律神経失調」とのことで
ストレスからくるものだと診断された。
私の父は銀行員でその頃、単身赴任で
新しい支店の立ち上げの責任者として
毎日、毎日、会社の為に必死で働いていた。
体調が悪くても、愚痴一つ言わずに、
私にもとても優しく接してくれた。
そうこうしているうちに・・・
どんどん病状が悪化していった。
歩くと倒れる、お風呂に入ると倒れる、
父が仕事から帰ってきた時間は家に「どし〜ん」「どし〜ん」という
凄い音が響き渡っていた。心配で心配で涙が出た。
その度に家族みんなで父に駆け寄り支えて布団につれて行った。
これは、本当におかしいということになり
再度病院を掛け持ちしたんだ。
その頃には、会社も休職するようになっていた。
地元の大きな病院の診断で初めて「脊髄小脳変性症」という名前がでた。
そん名前は聞いたこともなく、何万人に一人の難病だと説明された。
勿論私には、その病名は伏せられていたんだ・・・
母親の優しさだったのかもしれない・・・
母も父も、その病名を信じたくなく、というか信じられず
再度、東京にある親戚の叔父がやっている病院に診断に行った。
そこでもやはり、同じ診断だったんだ。
父は、家族に辛さも、愚痴も何も言わずに
それを一人静かに受け止めていたと思う。
今思えばのことだけど・・・
ある日、足のおぼつかない父と手をつなぎ庭を散歩した。
それまで私には、あまり病気の事を話さなかった父
初めて父が私に・・・
「もうすぐ、こうやって一緒に歩くことが出来なくなるんだよ。」
私は笑顔でこう答えたんだ、
「そんなことあるわけないじゃん。じきに良くなるに決まってるよ。」
これは私の本心であり、決して父へのなぐさめの言葉ではなかった。
私はまだ、この病気の恐ろしさも怖さも知らなかったから。
直る病気だと疑わなかったから。
いつでも優しく温かい。
心の澄んだ父がこんな病気になるなんて、
神様は見ているんだからって・・・
ここから私たちの家族と父の病気との共同生活が
始まったんだ・・・
今の父は、何も話せず、何も動けず、
何も食べることができない・・・
でも、家族の大黒柱として、
今でも優しいその顔で私を見つめてくれる。
それだけで、幸せな気持ちになるんだよ。
いてくれるだけで幸せなんだから・・・
明日、父は何回目かの入院生活に入る。
手術をするからだ・・・
入院中ずっといつでもそばについていようと思っている。
頑張って生きていてくれる父が大好きだから・・・
今日は、ちょっと感傷的な話になってしまった・・・
私の大切な大切なお父さんの話でした。
明日から明るく楽しく頑張るぞ!!