小説『ウルトラ・ダラー』に描かれている物語はフィクションだ―諜報の世界でいまこうした地下情報がそっと流布されつつある。何者かによって静かな情報戦が仕掛けられているのだ。

 「嘘のような真実」が、じつは「事実に見せかけた虚構」だった―。こうして人々を贋情報に誘い込む。古都ウィーンに張り巡らされた地下水道のようにディスインフォメーションが流れていく。情報の震源地は、EU(欧州連合)の金融首都フランクフルトだ。

 「著者としてあなたはどう対応するのですか。関係者はみな息をひそめて見守っていますよ」

  インテリジェンス・オフィサーのひとりからこう尋ねられた。

 「あれは小説だと一貫して申しあげているはずです。なにも付け加えることなどありません」

 やれやれとため息をつきながらこう応じ、定石どおり沈黙を守り通すことにしている。情報戦で感情を露に反論などすれば、わが情報源を危険にさらしてしまうからだ。

 「でも出版元の新潮社は『これを小説だと言っているのは著者たったひとり』と本の帯で謳っているじゃありませんか」

 こんな挑発にも決して乗ってはいけない。外務省のラスプーチンこと佐藤優氏は、わが『ウルトラ・ダラー』を「日本に初めて出現したインテリジェンス小説だ」と見立てている。情報戦の渦に吸い寄せられるのはこうした著作の避けられない宿命なのだろう。

 当欄の3月号に、伝説の二重スパイ、リヒャルト・ゾルゲは「フランクフルター・ツァイトゥング」の花形特派員だったと紹介した。ナチの党員証をもつ彼は、帝国陸海軍は南進するという読みに基づいて、極東情勢を精緻に分析してみせた。そのゾルゲ・リポートは、スターリンに宛てた諜報報告と比肩しうるほど冴えわたっている。奇妙な符合なのだが、今回のディスインフォメーションの舞台もまた保守系の高級紙「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」だった。東アジア地域を中心に出回っている北朝鮮製のドル紙幣は、じつはCIA(米中央情報局)がアメリカ国内で自ら偽造した疑いが濃いと報じたのである。北朝鮮がアメリカを標的に仕組んだはずの「通貨のテロリズム」は、なんとアメリカの諜報当局による自作自演だったと指摘したいらしい。

 この記事を書いたのは、かつて東京特派員を務めたクラウス・ベンダー記者だ。このベンダー・リポートの核心部分をいま少し詳しく紹介しておこう。北朝鮮製といわれてきた偽ドル紙幣を仔細に調べてみると、綿と麻が一定の割合で混ぜ合わされた独特の用紙に、タグを混ぜた特殊なインクを使い、高級凹版印刷機械で刷りあげられている。北朝鮮がこれほど高度な印刷技術を持ち合わせているはずがないというのである。日用品も満足に作ることができないならず者国が精巧な偽ドルなど刷れるわけがないという前提で記事は書かれている。基幹産業に十分な電力さえ供給できない国が、電力を大量に消費する核兵器の製造など手がけられるわけがないと見立てて誤ったことを忘れてしまったらしい。この報道からしばし間をおいてピョンヤンにある国連事務所の金庫から北朝鮮製の偽ドルが見つかったというニュースが流された。アメリカの当局による黙示の反証なのだろう。

 GIORI社なくしてドル紙幣なし―。ベンダー・リポートに主役として登場するこの印刷機械メーカーは、紙幣づくりの世界に王者として君臨してきた。その本拠はレマン湖の畔、スイスのローザンヌにある。彼らは常の営業活動などしようとしない。GIORI社製の最新鋭機を手に入れようと、各国の造幣当局や証券印刷の業者が日参している。そんな顧客のなかに贋金づくりのプロフェッショナルが紛れ込んでくる。このためGIORI社の情報管理は厳格を極めている。印刷機械さえ手にすればドルもユーロも無尽蔵に刷りあげることができるからだ。

 だが、鉄壁に見えたGIORI社にもほころびは生じていた。欧州で屈指の富豪と謳われたGIORI社の当主が、美貌の愛人を伴って乗っていた旅客機がハイジャックされてしまう。バングラディッシュのダッカを飛び立ったボーイング727型機は、離陸直後に武装したテロリストに乗っ取られ、アフガニスタンのカンダハルの空港に強制着陸するよう命じられた。スイス政府はただちに秘密警察を現地に派遣し、犯人グループと折衝に当たっている。そして事件から7日後、当主と愛人は無事釈放された。犯人グループは身柄と引き換えに何を要求したのだろう。GIORI社はいまも口を固く閉じたままだ。聡明な読者ならもうお分かりだろう。捜査当局と密接な関係を持つGIORI社の当主より、ガードが甘い億万長者など何処にでもいる。テロリスト一味の狙いは、GIORI社のハイテク技術にあったのである。

  GIORI社の当主を襲ったテロリスト一味。フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙を仕留めた情報機関。ともに手練れのひとたちというべきだろう。麗々しい論説は書きたがるが、地を這うように事実を追う取材は見下す。そうした権威主義的な高級紙こそしばしば罠に嵌まってしまう。現に彼らは易々と蜘蛛の巣にからめとられてしまった。そもそも偽札捜査は、CIAではなく、世界最小にして最強の捜査機関、米財務省系のシークレット・サービスが担ってきたのだ。にもかかわらず日本のメディアまでがこの粗雑な記事をそっくり転電している。情報操作のプロたちもさぞかし満足していることだろう。

 だがこのフランクフルト発の「調査報道」は熟読に値する。イラク戦争で一敗地に塗れた超大国アメリカが、東アジアでも地歩をいかに突き崩されつつあるか、その実相を見事に映し出しているからだ。北朝鮮の情報当局はそんな超大国の弱いわき腹を衝いて反転攻勢に転じつつある。偽ドル偽造と資金洗浄でマカオのバンコ・デルタ・アジアに溜め込んだ総額30億円にのぼる黒い資金を白と言いくるめて奪還しようとしているだけではない。贋金づくりはCIAの仕業だと言い募っている。だが、6カ国協議に北朝鮮をどうしても復帰させたいブッシュ政権は、ベルリンの米朝協議でこの汚れた資金を誘い水に使ってしまう。その果てに北朝鮮は4月14日までに核施設を凍結すると約束するのだが、その見返りに資金の全額返還を新たに要求した。さしものブッシュ政権も黒い資金を直接手渡すのは気が引けたのだろう。中国銀行に仲介を頼み込んだのだがぴしゃりと拒絶されてしまう。こうした現実は東アジアに巨大な力の空白が生じていることを窺わせる。その真空を埋めようと各国が動くとき乱気流が巻き起こることを戦乱に彩られた歴史は教えている。

敬称略


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