先日図書館に行った折に、ふと手を取ってみたものに以下がありました。
・曽野綾子氏 沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!
前書きに聖書を引用した文章が載っていて、それについてはまったく同感でした。
「他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。」
日本軍の沖縄住民虐殺についての記述に対して、仕方なかった事として終わってしまわれているのはとても残念です。集団自決が軍命令か否かの問題よりも、むしろこちらの部分について突っ込んだ方が、リアリティがあったのではないかと感じました。
本著作の矛盾については取り上げている方が沢山いらっしゃいますので、興味のある方は検索して頂けたらと思いますが、それとは別にこの問題については以下が参考になるかもしれません。
・沖縄タイムス 【連載】「集団自決」を考える(6月14日〜)
Please stop the government! Our dugong are crying !! And we are crying!!!
US government and Japanese government has a plan of the construction of the HUGE MILITURY BASE at Okinawa now. Please stop them! That plan will destroy not only the living environment of dugong, but also OUR LIVING ENVIRONMENT in Okinawa.
Will you kill us, and our dugong? Please appeal to the public and your government to stop that plan. Please help us!!!!
Save the Dugong, Stop the Airbase
2008年01月05日
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昨日、「暗殺・リトビネンコ事件」を観てきました。
プーチン、FSB(ロシア連邦保安庁)批判をした元FSB中佐リトビネンコが毒殺される前にインタヴューに答えたフィルムをドキュメンタリーにしたものです。
機会がありましたら、ぜひ観てみてください。
>他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。
これが聖書のことばとは知りませんでした。
でも、私は前半は客観的に正しく、後半は少し違うように思います。
自省することなく批判することは厳に慎まなくてはいけませんが、批判そのものは、必要だと思います。
自分自身が批判されることを承知で、誰かを批判しなければならないことは、残念ながら現実世界にいくらでもあるからです。
現実に悪がある以上、批判されることを恐れて、他者の批判を控えるとしたら、悪を見過ごすことにしかなりません。
「人を裁け、裁かれんがため」ということばがあります。
これは、自分自身をよりきびしい批判に置くためにこそ批判をするべきだという言葉です。
リトビネンコのような結果にならないためにも、悪を憎むのであれば、自身の存在をかけて、批判するべきであり、それは、私、あなた、彼、彼女に関わることなく、悪を批判することでしかないと、映画をみて思いました。
ご指摘の点ですが「批判とは建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」という理解に基づいています。
悪に批判で対峙するのは、それだけでは改善もできませんし、やっていることが同じになっているのではないかという反省もあります。批判することだけが方策ではありませんし、それに頼る必要ははないと思っています。
批判を展開するよりも、問題点のご指摘と、よりよい方策の提案、を選択する方が、次につながると思うんですね。
でも、これは単に用いる辞書の違いや、特定の問題に対峙するときの姿勢の違いであって、おっしゃることとの差異はあまりないとも思います。
ただ、「人を裁け、裁かれんがため」については反対です。それが罪に当たるかの判断は非常に難しいので、冤罪を避けるためにも、憎しみ合いによる報復の連鎖を避けるためにも「誰も裁いてはいけない」を支持しています。
って、結局私は甘いという指摘をこちらでも頂いてしまうのかもしれませんが...
>批判を展開するよりも、問題点のご指摘と、よりよい方策の提案、を選択する
というJitohさんの意見賛成です。
甘いと言われるのは 私も一緒です。
誰でも人から意見をされたり、批判されることは辛いもの・・・がんばって反論しても思うことの半分もいえないときは自己嫌悪にさえ陥ってしまいます。
一方で、あざみ子さんの言われる
>批判そのものは、必要だと思います。
とも思います。
批判されることで、自分が成長できるという前向きな考えが持てるときには、自分を批判している人の人間観察すら楽しめたりします。
なかなか 人間的にそこまで成長できないのですが・・・
彫金の世界でも人のことをこき下ろす人がいます。聞くに堪えないときもあるのも事実です。そういう時は、逃げ出してしまいます^^
人に意見をするということは非常に難しいことですが、言わないとなかなかわかってもらえなかったりすることも多いこの頃で、立場上、人に意見をする場面も多く・・・
ただ、自分の言葉によくよく注意せねば・・と自分に言い聞かせております。
極端に人を批判しないように・・・
怖っ〜〜〜〜って言われないように・・^^
総じて同感です。あざみ子さんの書き込みでも触れましたが、単に辞書の違い、手法の違いなんだと感じます。
私も「(ネガティブな)批判」は避けますが、問題があれば警告を行うことに躊躇ありません。批判をしない分、非常に厳格な対応になっていると思います:)
|ただ、自分の言葉によくよく注意せねば・・と自分に言い聞かせております。
極端に人を批判しないように・・・
ええ、子供に対する教育などでは、物事の重大さを理解してもらうために時に厳しい表現を使わざる得ないときはありますね。ただ、相手を思う意思がある限り、それは批判ではないと思います。
私も厳しくなりすぎないように気をつけなくてはいけないですlol
おふたりの日頃の批判ということに対しての姿勢と私もかわらないのですが、
本来、批判は純粋理性批判というように、誹謗中傷とは違うものであり、客観的に捉えなおす契機にするべきもの、「問題点の指摘」というのは、つまりは「批判」ということです。
なぜ、私が批判という言葉にひっかかったかというと、 曽野綾子が、
「他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。」
という言葉をなぜ前書きに引用したのか、という疑問です。
本書を読んでいないので、よくは分かりませんが、曾野綾子が大江健三郎の『沖縄ノート』を批判するのは、大江健三郎が、軍や国を批判するから、自分も批判するということを言いたいのではないでしょうか。
あるいは、沖縄県民が戦中の軍や国を批判するのは、慎まなければならない。
ということを言いたいがためではないのでしょうか。
本来、批判は理性的に、しなくてはいけないからするべきものであり、誰かが批判したから批判するとか、批判しないとかいうものではないはずです。
> ただ、「人を裁け、裁かれんがため」については反対です。それが罪に当たるかの判断は非常に難しいので、冤罪を避けるためにも、憎しみ合いによる報復の連鎖を避けるためにも「誰も裁いてはいけない」を支持しています。(>Jitohさん)
上記の言葉の「裁く」というのは、批判するということです。
批判(誹謗中傷ではなく、問題点の指摘等)をすれば、相手からも批判が返ってくるので、自分のためでもある。という意味です。
ですから、冤罪を生むような裁判のことをいっているのではありません。
私も死刑制度には反対なのですが、
>「誰も裁いてはいけない」を支持しています。
と、書かれていますが、Jitoh さんの個人的なお気持ちは分かりますが、現実的に法治国家であれば不可能です。
自分は手を汚していなくても、法によって「誰か」が裁いているわけです。
繰り返しになってしまうかもしれませんが、批判の意味については、残念ながらネガティブな意味で用いられるのが現在では多数だと認識しています。なので、私は使わないことにしています。
「批判の応酬によって切磋琢磨する」ということを仰りたいのでしょうけれど、私はそういう社会を好みません。それよりは「尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する」の方が望ましいのです。
法治国家の下り、手を汚していなくても、の下りは正しい解釈だと私は思いません。
法の目的は「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」そのための仕組みであって、それが物事の善悪を決めるわけではありませんから。
曽野綾子氏のこの著作についてのご指摘の点について、大きな矛盾があることについては、私も同感です。その目的については、一定の考察できるのですが、想像にすぎないのでここでは言及を避けさせてください。
あ、それと申し上げ忘れましたすみません、リトビネンコ事件については存じていますが、その映画も注意してみたいと思います。ご紹介ありがとうございました(__)
「批判も必要」ということの主旨が十分に伝わっていないようなので、ふたたび。
> 繰り返しになってしまうかもしれませんが、批判の意味については、残念ながらネガティブな意味で用いられるのが現在では多数だと認識しています。なので、私は使わないことにしています。
批判が物事の否定的側面を語る、ということはたしかですが、多数かどうかで、批判を排除するのではなく、批判の内容を検討する必要があるだろうと思います。
批判はジャーナリズムの根幹をなすものであり、Jitohさんが言われるように、
「批判とは建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
として、批判を排除、否定したら、ジャーナリズムを否定することになります。
Jitohさんが使わないようにしているのは、Jitohさんが、批判をする必要があるという切迫した現状にいないからでしょう。
やむおえず批判をせずにいられない場合も、また批判せずにいられないひともいるのですから、批判という行為も批判という言葉もないがしろにしてしまうわけにはいきません。
誹謗中傷の隠れ蓑に使われるということならば、誹謗中傷を排除すればいい。
だいぶ前のことですが、某短歌結社の主宰者に自作の短歌についての講評をいただいたことがあります。
某氏は、日頃、結社のトップにいると、なかなか批判が耳に入らない。自分のところに来る前に消えてしまうこともあるし、よほど気をつけて、自ら批判に耳を傾ける姿勢をもっていないと聞き逃してしまう、といわれていました。
講評はとても辛口なので、メンバーがどんどん減って、経済的にも大変なので、友人から加入してくれと言われたわけです。
で、自作に対する講評を得たわけですが、某氏の意見は了解したが、私は納得できないので受け入れられない言い、かなり激しいやりとりになりました。
それは某氏に対する批判でもあったからです。
某氏の添削は絶対で、今まで、そういうことはなかったというのです。
しかし、某氏は、「つい、いじりすぎてしまう」ということを漏らし、会の最後には今日は楽しかった。と言われました。
少々、手前味噌ですが、力を持つものにたいしてこそ、批判はより必要なのです。
そして、自覚的なものほど、その必要性を感じているのです。
>「批判の応酬によって切磋琢磨する」ということを仰りたいのでしょうけれど、私はそういう社会を好みません。それよりは「尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する」の方が望ましいのです。
尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する方が好ましいと思いますし、いつも批判が必要だとは思いません。したくないひとに批判するべきだともいいません。
人を裁け、裁かれんため、を実行しているのでもありませんし、できるとも思いません。
否定してしまいがちな批判というものを、肯定的側面から捉えなおすことを提示したいだけです。
人間は不完全な生きものです。
だからこそ、相手を批判しないのではなく、相手の否定的側面も気づいたものが率直に語る勇気を持つ。
それは、身近なひとに対するほど難しいことでもあるのですが。
批判しないようにするのではなく、必要なら、責任をもって批判し、理性的、公正に、といいたいのです。
Kariさんの言われるように「批判も必要」ということですね。
>法治国家の下り、手を汚していなくても、の下りは正しい解釈だと私は思いません。
法の目的は「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」そのための仕組みであって、それが物事の善悪を決めるわけではありませんから。
う〜む、
「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」ということは法に従って、「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為」=物事の善悪を判断し、裁いているということではないのですか?
それが必ずしも絶対ではないにしても。
自分が直接関わっていないだけで、社会的生活をしていれば、人を裁く、という現実から逃れられないはずです。
そういう痛みをもつからこそ、冤罪も法律の運用も自分の問題として考えるということになるのでは。
法によるのとは別に、日々、私たちは自分の価値観で人を裁いているはずです。
口にする、しないに関わらず。
ブログを管理するということにおいても。
繰り返しになってしまいましたが、いちおう、私の言いたいことは言ったつもりですので、レスはなくていいです。
アサーティヴなコミュニケーションとして「批判」を否定、排除する傾向にあるのは知っていますが、批判の必要性についても考えていただければ幸いです。
私はもうはじめのコメントで言い尽くしてしまってますが、数点気になる部分があるのでちょっとだけ。
|ということは法に従って、「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為」=物事の善悪を判断し、裁いているということではないのですか?
いえ、それでは順番が逆になってしまうのです。法に触れなければ何をしてもいいかというと、それも違いますし、法よりも前にまず、良識があるのであって、皆が自らの良識に従う社会ならば、法は不要ですから。
「それが現実なんだ」という主張もわかりますが、そこにとどまっているのではなく、より高みを目指したいんです。
それと、ジャーナリズムの否定とかまでいくと、ちょっと飛躍が過ぎると感じました。
批判は容易です。しかし、こうした安易な力を放棄することで、もっと強いものを手に入れることができますよね。
ご指摘アサーションもそうですが、これは今日の交渉術、コーチング等の基本的な考え方でもありますね。批判や裁くことを禁じた聖書等の教えは、非常に深い知恵があると、私は感じます。
って、単に辞書の問題ですね、やはり。「肯定的な批判」についてですが、それがあるとすると、私はそれを批判とは呼ばないと思いますから。
でも私も、徹底的に批判することはあります。自分自身に対してXD
なかなか、主旨が伝わらないようです・・・(−_-;
>って、単に辞書の問題ですね、やはり。「肯定的な批判」についてですが、それがあるとすると、私はそれを批判とは呼ばないと思いますから。
「肯定的な批判」?
私の言っているのは「批判の肯定的側面」です。
また、しばしば言葉を遺棄してしまうということがありますが、それは放送禁止用語と同じで、ことばの本質の問題を隠蔽してしまうことになります。
「ただ、単に辞書の違い」をお話していたのでしょうか?
一面的な固定観念ではなく、批判という言葉を多面的に、もう少し丁寧に検討してみてください。ということをお話してきたはずなのですが。
批判という言葉を辞書で引くと
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ)Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。
と、なります。
「批判を仰ぐ」とか、「批判に耳を傾ける」というのは、批判の必要性、批判を大切に考える一般的なことばですが、Jitoh さんの言われる
「批判は建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
という認識からは、こうした批判のもつ大切な役割がそぎ落とされています。
> ご指摘アサーションもそうですが、これは今日の交渉術、コーチング等の基本的な考え方でもありますね。批判や裁くことを禁じた聖書等の教えは、非常に深い知恵があると、私は感じます。
Jitohさんの言われる上記のことについては、社会生活をする上での知恵として分かりますが、批判や裁くことを禁じている社会がパラダイスかということそうではなく、ブッシュ政権を支える基盤になっているのはご存知のはずですね。
Jitohさんが批判をネガティヴにしか捉えていないことが心配なので、再考してみてください。と言っているのです。
コミュニケーションは言葉を介してしているわけですから、ご自分の辞書にこだわっているだけでは、会話は成立しません。
特に、考えの違うひとと会話をする場合には、すれ違ったまま徒労に終わってしまいます。
少なくとも「皆が自ら良識に従う社会を目指したい」「そこにとどまっているのではなく、より高みを目指したい」と思われているわけですから。
>批判は容易です。しかし、こうした安易な力を放棄することで、もっと強いものを手に入れることができますよね。
「批判は容易」と言われていますが、それは容易な批判しかご存じないからではありませんか。
容易にできる批判なら、どんどん放棄しましょう。
本質を見失ってしまいませんものね。
問題は批判は容易で、批判を放棄すれば、もっと強いものを手に入れることができるというふうに、批判そのものを容易な力によるものだと言っているところです。
批判は、本来容易な力でできるものではありません。
アンナ・ポリトコスカヤに批判を放棄させて手に入れるもっと強いものとは?
こうして、Jitohさんを批判している私も「うるさい人」「コワイ人」と言われるのがオチなのです。
主観的、情緒的なきれいごとになってしまわないように、老婆心ながら。
レスは、お気になさらずに。
多くの方には理解が難しい事柄なのだとおもいますし、これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから。
広辞苑4版では批判は以下のように説明されています。
1.批評し判定すること。ひばん。
2.人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。「強い―を浴びる」
3.マルクスの用語としては、イデオロギーの論理的批判に止まらず、それを生みだす物質的条件・階級的基礎を明らかにすることによって、それを克服すること。
こんにちは。
残念な返信ですね。
レスはお気になさらずに、と書いたのはゆっくり考えて戴きたかったからなのです。
レスはいつでもいいのですから。
>多くの方には理解が難しい事柄なのだとおもいますし、これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから。
「多くの方には理解が難しい事柄」なのだと思われるのならば、より以上に理解できるように説明するべきなのです。
十分な説明を欠いて、「理解が難しい事柄」「これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから」と言うのでは、あなたには理解できないでしょうし、する気もないでしょう。という相手に対する誹謗です。
言葉は丁寧でも、慇懃無礼です。
私は批判の必要性、その肯定的側面について、思うところを書いてきました。
それに対する自分を問うた十分な返信はありませんでした。
高みを目指したいというJitohさんが言われるような「それが現実なんだ」ということを言ってきたのではないのですが。
知識や考えは自分の中だけにあると絶対なものとなりがちです。
ときどき、ひとに語って相対化する必要があると思いますが、いかがでしょう。
残念ながら、私たちはことばによって、説得的に語るということ以外、理解しあう道はありません。
ことばを放棄したら、力に訴えるしかなくなってしまうのです。
そして、それが悲しい現実だからこそ、ことばを大切に語らなければいけないのです。
言葉を放棄するのは、厳に慎んで戴きたい。
ひとりの人を細かく分析、評価、また批判するのではなく、トータルな個人としての存在としてみる必要があると思いますし、企業などでの評価、個人に対する批判が、精神を冒すという事実は無視できない現実です。
会社や、社会、国、学校というような個人を取り巻く、より大きな力からの分析、評価、また批判は、力が均衡でないだけに個人の存在を歪めてしまいかねませんし、私も否定的です。
しかし、一対一、あるいは信頼関係における論理的な批判は、ときに必要ですし、言葉によって論じている学問や学説にとっては重要です。
だからこそ、「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉があり、あえて、否定的な内容である批判を歓迎するということになるわけですし、歴史的にも学問や学説を進める上でも必要なものだったはずです。
また、より巨大な力に対するジャーナリズムは、権力のチェック機能として、批判というものがなくては成立しません。
以上、繰り返しですが。
Jitohさんも徹底的に自分を批判すると言われていましたが、その必要があったからこそ、自身を批判されたのではないのですか。
言葉の安易な理解と扱いは安易な思考と言動に繋がります。気をつけましょう。自戒を込めて。
批判は、物事の解決、克服のためにこそされるべきであり、批判をどのように生かすかはひとにかかっています。
批判という言葉に責任はありません。
>「批判は建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
これは、一般的見解でもありますが、論争や反目を生むことはありますが、論争は生んだ方がいいと思います。
ときにまともではない論が入ることはありますが、それは仕方がないことなのです。
また、解決に結びつかないことはたしかにありますが、その時点での解決にはならなくとも、長いスパンで見れば批判が有効であったということはよくあります。
批判から反目が生まれるとしたら、人間の弱さだとしかいいようがありません。
それは無視できない事実ですが、そのことは、むしろ内在している自らの弱さに気づく契機になるということもあります。
そのときにはただ、相手を憎んでいたことが、時間の中で冷静に客観的に見ることができるようになり、受け入れることができるということもあり、それは決してマイナスではないのです。
それもまた、人間の力ですね。
批判は誹謗・中傷とは違い、本来反目し合うものではないのですが。
人間はそれほど強い生きものではありません。
それでも、人間は強くなれる生きものなのです。
自分を含めて、批判されて、そのことに耐えられる人は多くはありませんし、たいがい、感情的になって、関係は壊れることの方が多く、たとえその批判内容が正しくてもいい結果にはならないとお考えなのでしょう。
たしかに、一般的にはそうなのですが、十分に議論、やりとりをした結果、批判に相応の正当性があるのならば、批判を受け入れるということはできないものだろうかと思います。
「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように。
それは、容易なことではありませんし、なかなかできることではないのですが、それがより強いものを手に入れることであり、高みを目指すことだろうと私は思います。
済みません、ちょっと厳しく受け取られてしまったみたいで、私の申し上げ方がよくなかったと反省しております。
持っている価値観や常識が異なるように、言葉の意味やその解釈は人それぞれ違うものですが、そのことを私は「辞書の違い」と表現させて頂きました。
また、批判が必ずしも悪手ではないというのはもちろん存じています。立場上、批判を能動的にアピールしたいというのも存じています。この点では申し訳ないです。
ただ、もっとよい方策があるのです。また、信条としてそのスタンスを取ることは私は、極力避けています。
しかし批判をしないというのは、大変な困難を伴います。すべての方にこれが可能だとは私も思いません。その意味で、批判を用いざる得ないシチュエーションもあると思いますし、それを否定するものでもありません。
一方、もしも可能なら、どうして様々な教えとして、批判や裁くことを禁じているのか、この点についても考察していただけましたらとてもありがたいのです。
私はこれら価値観を理解して10年以上になりますが、今さら後戻りする気にはなれないのです。
意に添えず、大変申し訳ないです(__)
コメントを最初から読んでいただければ、私が一般的な、また、曾野綾子の本からの引用だと言うJitohさんの引用されたことばについて、私なりに考えた上で書いているということはお分かりいただけるはずです。
言葉の意味やその解釈は人それぞれですが、言葉をどのように理解するかは思考や言動と密接な繋がりがあります。
私からみるとJitohさんは批判もし、人を裁いておられるのですが、Jitohさんはそうお考えではないようです。
批判は本来、するべくしてするものであり、止むに止まれぬ気持ちでするものでなくてはいけません。
少なくとも、私が何がしかの批判めいたことを書く時には、そうありたいとつねに思っています。
辺野古での基地建設反対も、日本の軍事政策に対する明解な批判なくしてありえません。
http://www.ne.jp/asahi/teori/suzume/natume.htm
もっと、よい方策があるといわれるのならば、それを語るべきなのです。
私には、批判ということばを、非難や攻撃ということばと同一に捉えておられるように思えてしかたがありません。
いちいち揚げ足とって突っかかってくるなぁ。
人それぞれの考えを絶対認めないの?
人それぞれの考えを認めないのではなく、ひとそれぞれの考えを認めるためには、話しを聞く必要があるということなのですよ。
聞いた話が自分の意見と違った場合に「そういう考え方もあるのか」と終われないのでしょうか?
考え方が違うという風に他人の思考を認めて議論せず、複数の意見があるという事でよいのでは?
自分と違う考えを「間違い」とか「わかってない」と指摘して、必ず自分と同意見にしないと納得いけないような感じです。
世の中は色んな人がいて色んな思考回路があって当然なのです。自分が全てではないのです。
自分に合わない人を認めなくては喧嘩の原因、さらにはそういう行動が戦争の元になるのです。
一般常識的に見て、攻撃的で揚げ足取り見えるのを自覚してらっしゃるなら、それは世間一般で攻撃で揚げ足とりなのです。
わかっていて喧嘩を売る行為ではないですか?
あざみ子さんが色々考えている事はわかります。
知識や思考はいいのですが、議論の仕方を学ばないと騒動屋になってしまいますよ。
あざみ子さんに限らないのですが、このような行動を取られる方々が諍いや対立を生み出し、しいては戦争を産んでいるというのは、私も感じます。
今後ともよろしくお願いします。
あざみ子さん、おはようございます。
多くの方はこのテーマをについて、お金を払ってセミナーに行ったりして勉強されています。ここで私がある程度詳しくお話しすることはやぶさかではありません。
あざみ子さんにご理解頂けないのは、説明が下手な私の問題もあるかと思います、その点申し訳ないです。でもその内容が理解できないのは、本当に他者の責任なのでしょうか?
申し訳ありませんが、説明を強要されてしまうのは、それでは私としても、話をさせていただくモチベーションも維持できなくなってしまうというのが、正直なところなのです(__)
すこし落ち着いてご自身が書かれた内容について、読み返していただけたらと願ってやみません。
一方、このようなことをされるのは、よっぽどのことがあったのかと、心配しています。
>あざみ子さんに限らないのですが、このような行動を取られる方々が諍いや対立を生み出し、しいては戦争を産んでいるというのは、私も感じます。
つまり、あざみ子女史も諍いや対立、しいては戦争を産みだすような行動をとっている、と思っていると。
>内容が理解できないのは、本当に他者の責任なのでしょうか?
つまり『あざみ子女史自身』の理解力が足りない、と言いたいのかと。
>説明を強要されてしまうのは、それでは私としても、話をさせていただくモチベーションも維持できなくなってしまう
つまり「お前とはもう話す気も無いよ」と言いたいのかと。
ではその前に
>私がある程度詳しくお話しすることはやぶさかではありません。
と書いてるのは何なのかと。
「やぶさかではない」というのなら喜んで詳しく話をする、という意味ではないのかと。
>すこし落ち着いてご自身が書かれた内容について、読み返していただけたら
「冷静じゃない」と言いたいのかと。
自分の書いた文章を読み返すべきは、Jitoh氏本人じゃないのかと。
>考えを認める行程として話を聞くのは当然ですね。
聞いた話が自分の意見と違った場合に「そういう考え方もあるのか」と終われないのでしょうか?
「議論の仕方」といわれていますので、議論だとお考えなのでしょうが、
「そういう考え方もあるのか」ということになるには、まだ不十分だということです。
>考え方が違うという風に他人の思考を認めて議論せず、複数の意見があるという事でよいのでは?
自分と違う考えを「間違い」とか「わかってない」と指摘して、必ず自分と同意見にしないと納得いけないような感じです。
自分と同意見にしないと納得しない、などということはありません。
「・・・ような感じ」と半ば自覚されているようですが、印象ですね。
一般常識的には、分かりますが、
Jitohさんとは、ほんとうのことを言う関係になりましょう、ということを合意してきました。
また、ご自身「より高みを目指したい」、「強いものを手に入れたい」とも言われています。
批判の不十分な部分についても誠実な対応と思えないことの私の指摘に、Jitohさん自身お認めになり、反省もされています。
つまり、その必要があったということです。
私の書いたものを、読み返していただければ幸いです。
思うところ(問題点の指摘とよりよい方策の提案)を率直にお話しているだけですし、まだ核心部分については十分とは言えません。
一般常識の範疇で語れないということなのですよ。
で、残念ですが,jitohさんはここブログではなく、メールでのやりとりを希望されています。
本来でしたら、みなさんにもJitohさんのお考えを聞いて戴きたかったのですが。
ところで、ROMerさんは、私のこともご存知のようですが、どちらからお越しですか?
私に「議論の仕方を学ぶ」ように言われるのならば、責任ある発言として、やはり自ら名乗られるべきでしょう。
☆Jitohさん
私とのやりとりをメールでしたいと希望されたのではなかったのですか?
返答ありがとございます。
いきなり攻撃的な書き込みで失礼しました。
自分は、人はそれぞれの考えを持っていて、それぞれが正しいと信じて行動しているのだから、議論をあまりしない人間なのです。
「貴方の考えはわかった。でも、俺はこういう考えだから好きにやらしてもらうわ」というスタンスで生きています。
でも、人の意見を聞かないワケではなく、聞いて「そういう意見もあるんだな」と楽しんでいるだけです。
聞くだけなら損はないし、考え方が広がりますからね。
自分の確固たる信条があれば、心に余裕をもって他人の意見を聞けると思うのです。
だから、今まで何も言わず「みんな色々思想をのべているなぁ」とココを読んでいたのですが、今回あざみ子さんの書き込みが否定するだけのクレーマーに感じて意見させていただきました。
普段ここを読んでて色んな人の意見があり、自分的に賛成も反対もありましたが、何も言わずそれぞれの主張を聞いて、世の中の自分と違う見解を吸収できて参考になりました。
自分はブログの内容について意見を言うつもりはありません。理解してもらおうと思わないし、自分の考えが人と違う事もわかっていますので。
人の考え方を聞いて楽しんでいるだけです。
でも、建設的は議論は読んでて勉強になりますが、否定するだけで、代替論がない書き込みは不快になります。ただ、相手を潰したいだけの攻撃に感じたので今回書かせてもらいました。
議論は、攻めて自分の意見に同調させる為にするのではなく、複数の意見を合わせてプラスの方向に持って行くためだと思います。
貴女とJitohさんの関係に意見するつもりはありませんので。
お二人がいろいろな議論を深く追求できる関係なのは素晴らしい事と思います。
>私の書いたものを、読み返していただければ幸いです。
もちろん読んでいますよ。
上にも書きましたが、皆さんやあざみ子さんの意見に賛成も反対もあります。
主張について否定も批判もしません。読んで参考にして楽しんでいるだけなので。
>一般常識の範疇で語れないということなのですよ。
一般の人が常識を持って読めるブログなので一般常識的に感じた印象を書きました。
決してあざみ子さんの考えを否定するものではないです。
素晴らしい意見をお持ちだと思いますよ。
ただ、ケンカ腰になっている感じだったので勿体ないと思いました。
>やはり自ら名乗られるべきでしょう。
ハンドルネームでROMerと名乗っていますが…
住所氏名言わなきゃなりませんか?
自分はブログ持ってないですし。
誰でも閲覧できるブログなので、自分のような通りすがりが読んで書き込んでもいいんですよね?
空いた時間に色んなブログを適当に読んで、リンクを辿ってきたのです。
そんなに私ごときの意見に皆さんが興味があるのかわからないですが、気が向いたらご説明してもいいです:)
ROMerさん、おはようございます。
私もスタンスは同じです。自身の良識に従って行動をしています。
しかしそれが時に厳しい対応になってしまうこともあり、時にそれは反省材料であったりもします(__)
|誰でも閲覧できるブログなので、自分のような通りすがりが読んで書き込んでもいいんですよね?
この点ですが、そのblogなり掲示板を管理される方の方針によりますね。こちらでは、それが「公序良俗に反しない。読者が不快に感じない。商売目的でない。」であるなら、自由に書き込んで頂いて構わないですから。
自分が誰かを名乗れというのは、荒らし行為をする方に対して、身分不詳のまま匿名性に隠れて悪事をする方に対しては私もお願いしたりしますが、今般それがROMerさんにあるとは私は感じませんので、名乗られなくても大丈夫です。
でも、名乗ることが可能なら、それはご自身の発言の責任を高め、読まれる方もその信ぴょう性を信じることができると思いますので、お勧めはしています。
あざみ子さん、おはよーございます。
私が誤解を解かずに放置しているのが、一番の問題だったのかと反省しています。でも、こんなことお話ししたくなかったんです... ごめんなさい。
また時間見てmailさしあげますね。すみませんが、忙しくて今だめなので、ちょっと待ってください(__)
「こんなことを話したくない」と申し上げたのは「まるで自分の正当性を証明することに固執し、自尊心を満足させるためにそんなことをしていることになってしまわないか。そんな自分を見るのが一番恥ずかしい。」という気持ちがあるからです。
しかしそうして私が躊躇しているうちに、ROMerさんの方から正確なご指摘を頂いたのですが、一方でROMerさんが攻撃の矢面に立たされてしまうのを拝見して、ROMerさんにとても申し訳なかったです。また、そもそもあざみ子さんにこういう行動をさせてしまっているのは私自身の対応のまずさがあるからですし、あざみ子さんに対しても非常に申し訳なく思っています。先日の A.Kirishima さんに対する失敗を繰り返しているように感じて私は自分の愚かさをまた反芻しました。
今回この件について、昨日までの時点では、少し距離を取って、時間をおいた方がいいと判断していました。
数人の先輩方に改めて教えを請いました。「相手を傷つけたくないと配慮しているつもりでも、そういうことをされること自体が相手にとっても失礼と取られるかもしれない。理解されないとしても、率直にお話しした方がいいのでは。その方が誠実な対応といえるかも。」と言ってくださる方がいました。
もう少しご説明させて頂きますね。
この誤解は最初に申し上げた「辞書の差異」だけで基本的にあざみ子さんとの意見の相違は私にはないのです。この点は大きな問題ではないと思っていますが、批判はいけないことだと解釈できることは先に申し上げた通り大切なことだと思います。またROMerさんのご指摘くださったディベートの方法論の話もとても大事ですね。
これらを含めて別にエントリを立てるか、ここにぶら下げるか考えてみますのでちょっとお待ちいただけたらと思います。
ひとまず、冷静になられたようなのでよかったとは思います。
でも、今回も感心しません。
私に私信でやりとりしなければならない理由はなにもありません。
23日に、以降はメールでやりとりしたいと言われ、
感情的なメールなので返信しないでいたら、翌日24日には私の批判を書かれました。
批判してはいけない、裁いてはいけない、というJitohさんが、
>あざみ子さんに限らないのですが、このような行動を取られる方々が諍いや対立を生み出し、しいては戦争を産んでいるというのは、私も感じます
と、私を戦争の元凶のように批判、裁いているのです。
私が申し上げてきたのは、つまりはその矛盾、ダブルスタダードです。
どのようなご意見を持とうとも、批判してはいけない、裁いてはいけないとお考えになるのはかまいませんが、その矛盾、ダブルスタンダードに気づかれないことを見過ごすわけにいきません。
言動の不一致はひとには決してめずらしくはありませんが、感情的にならずに冷静に論理的に突詰めれば、わかることなのですよ。
突詰めて話し合うことをせず、簡単に相手が武器を持っているとか、攻撃を仕掛けようとしていると言って、裁いてしまうことこそ戦争の元凶だと思います。
> 「こんなことを話したくない」と申し上げたのは「まるで自分の正当性を証明することに固執し、自尊心を満足させるためにそんなことをしていることになってしまわないか。そんな自分を見るのが一番恥ずかしい。」という気持ちがあるからです。
Jitohさんのよくないのは、欺瞞的にきれいごとですませようとするところです。
> しかしそうして私が躊躇しているうちに、ROMerさんの方から正確なご指摘を頂いたのですが、一方でROMerさんが攻撃の矢面に立たされてしまうのを拝見して、ROMerさんにとても申し訳なかったです。また、そもそもあざみ子さんにこういう行動をさせてしまっているのは私自身の対応のまずさがあるからですし、あざみ子さんに対しても非常に申し訳なく思っています。先日の A.Kirishima さんに対する失敗を繰り返しているように感じて私は自分の愚かさをまた反芻しました。
私がROMerさんを攻撃の対象にしているような言い方は良識を疑います。
何かを発言したら、当然、その発言に責任が生じます。
ROMerさんには、ご本人も議論に割って入って、私に投げかけた発言に対して責任があるのですよ。
最初にコメントされたのは、
>あざみ子ってなんでそんなに攻撃的なの?
いちいち揚げ足とって突っかかってくるなぁ。
人それぞれの考えを絶対認めないの?
と、いう批判です。
もちろん、私は人それぞれの考えを認めないというようなことはありません。
友人もそれぞれですからね。
ROMerさんは、理性的に返信したから、レスを返したこられたのでしょう。
ご自分の対応のまずさが原因だといわれるなら、あのような行動、とかこのような行動をさせてしまった、というような、常軌を逸しているとでも言うような言い方はやめてください。
>この誤解は最初に申し上げた「辞書の差異」だけで基本的にあざみ子さんとの意見の相違は私にはないのです。この点は大きな問題ではないと思っていますが、批判はいけないことだと解釈できることは先に申し上げた通り大切なことだと思います。
辞書の差異に問題はないと思いますよ。
ことばの解釈は、そのことばを扱う人間の責任です。
それから、上記に書きましたように、意見の相違を問題にしているのではないです。
誤解されているようですが、セミナーでお金を出して聞く一般論を講釈してくれといっているのではありません。
具体的に、批判はいけない、ということの自分自身を問うた話しをお聞かせくださいということです。
一般論をいくら聞いてみても意味がありません。
なぜなら、Jitohさんは批判も裁くこともされているからです。
そのためにも、Jitohさんとも切り離せないはずの辺野古の基地建設反対の根本にある日本政府に対する批判を事例に、批判ではないもっといい方策を、ぜひ考えてみてください。
なぜ、これほどこだわるか。
『批判はいけない』はJitohさんにとって、ただのお題目になっているようにおもわれてしかたないからです。
感情的になっている訳ではないんですが、正直な気持ちをmailにさせていただいたものです。ここでのお話は、既に何の進展も見られないと判断できましたし、これ以上ほかの方のお目汚しになってもいけないので、これ以降はmailでと思ったのです。が、ROMerさんが書き込まれ、その内容に対して攻撃的な対応を取られているのを拝見して、放置できなかったのです。
残念ですが、そのご様子では、今はお話ししても耳を傾けては頂けないのかもしれませんが、お答えできる部分ご回答させて頂きます。
ダブルスタンダードだとのご批判についてですが、そうではありません。
私は冒頭で書かせて頂いた内容と意味は同じですが、少し表現を変えて書いてみます。
批判には多分に否定的な要素が含まれ、それは危険なもろ刃の剣になるものだと思います。本人にその気がなくても、誹謗や攻撃を相手に対して感じさせてしまうと、そこから対立を生じ、やがて批判の応酬によって議論そのものが台無しになってしまう。こういうものを沢山拝見しているのです。
特にblogや掲示板においては、批判されることを恐れるあまり、発言そのものを控えてしまうということが起こっていて、批判によって発言の封殺がされているのだととらえています。また、これは批判を展開する方自身もご自分自身が発展的な発言をする機会を奪っていることにもなっています。
これら理解があるので、批判という言葉を用いることは極力避けようという古くからある知恵です。
そしてその代りにもっと目的に合った明確な言葉を使います「提案」「嘆願」「進言」などですね。そしてそれは時には「叱責」でもあります。
小学校で子供たちに議論のやり方を教えるときの話をさせてください。
先生は、先ずテーマを与えて生徒に一通り意見を出させます。いたずら心旺盛な子供のことですから、やがてその内容は辛辣ないやみや中傷を含んだ批判ばかりになってきます。
それを見てから先生は一旦議論を止めて生徒に対してこう言います。
「相手を批判することはしてはいけません。相手の立場に立って、建設的な議論を心がけてください。」
私のミスは、これらのことは常識だと思っており、ご説明を怠ったことです。
ディベートの基本は、相手の話の矛盾や誤りをひとまず置いておいて、同調点を探し、それに対して協調して結論つないでいくことだと思います。
一方、上記とは別に私がもうひとつご指摘さしあげているのは、あざみ子さんの議論の手法についてです。
あざみ子さんのされていること、これは一般からみれば荒らしにほかなりません。
ただ、一般の荒らしはここからさらに、謝罪要求や誹謗中傷という一線を越えてしまうのですが、その点について常識の枠を守られていらっしゃいますので、ありがたいと思っています。でも、それが正しい行為だとは私には思えません。
ROMerさんがご指摘され、私が同調したのはその部分です。これが、非常に御気分を害されてしまう結果になってしまったのは申し訳ないです。
でも常軌を逸したなんて、そんなこと誰も思っていません。敬愛してやみません。あざみ子さん、単にやりすぎなんですよ。
mailでも書きましたが、自警団も、客観的に見ればテロリストになってしまうと思うんです。また自分では正しいことをしているという使命感があるので、その事には気付きにくいのです。好き好んで荒らしになる方はいません。でも、結果的に荒らし行為になってしまう、これは他人事ではなくて、私も非常に注意しています。
あざみ子さんは、多くのネトウヨとや荒らし行為をする方と対峙されてきて、それに慣れ、ご自身もそれを利用されているというのは分かります。しかし、言葉を相手を攻撃する武器として使うことは、避けて頂きたいのです。
今は無理かもしれませんが、可能なら記憶にとどめて頂けましたら幸いです(__)
重ねて申し上げますが、こんなことを私のから伝えるのは、ものすごく苦痛です。全く、自分が悪魔になったみたいです。でもあざみ子さんはもっともっと辛いとおもいます。本当にごめんなさい(__)
いろいろお気遣い感謝です。
そんな気にしないでくださいな。
自分はそんな矢面に立たされた感覚はないですから。
まぁ、最初にイキナリきつい言い方をしてしまったのであざみ子さんも気分を害されたでしょう。
急に知らない人間が「アンタの言い方が悪い」なんて突っ込みを入れたのですから。
自分は議論の内容についてはどうでもいいです。
Jitohさんの意見もあざみ子さんの意見もアリじゃない?と想います。
そして俺自身も違う意見です。
でも「批判」がどうとか言っても、現実社会では自分は感情的になります。
「賛成」も「反対」もあり「どうでもいい」時と「どちらもよい」時もあり、逃げる時も、暴力に走る時もあります。
そんな人間性確立されてませんから、日によって気分によって変わるもので、俺はこういった議論に参加しません。
でも、読んでて勉強にはなるのですよ。
だから時々仕事中にふらっと読んでたのですが、今回あざみ子さんの書き込みが「攻撃」と「否定」ばかりに感じたので、つい「ケンカばかりしないで次進もうよ」と思って書きました。
やはり読んでて楽しいのは「意見」→「反対/否定」→「代替論」という建設的な議論なので「否定」の繰り返しについ声を荒げてしまいました。
俺はあざみ子さんの意見を否定するつもりも責めるつもりもありませんよ。
「批判」についての議論はこのまま続けてください。
俺は上記に書いたような理由で自分の意見を言いません。議論に参加しません。
ただ、このようにココに書き込まない見るだけの読者がいる。というより、そういう人の方が多い事をわかってください。
あざみ子さんもちゃんとブログを持ってらっしゃるワケですから、参加しない不特定多数の読者を意識する必要性は理解していると思います。
今回俺は単純に、内容ではなく言い方に対して「文句ばかり言わんと次行ってくれ」的な突っ込みをしただけです。
路上で事故処理をしている2台の車両に対して「ジャマだコラ」とクラクションを鳴らしたようなもんです。
このブログのテーマに何ら関係ない突っ込みです。
結果、いろんな人巻き込んでテーマに関係ない書き込みでコメント欄使ってしまってJitohさんにも申し訳ない。
ですから、まぁ俺の事は置いといてそのまま議論続けてください。
ただ、こういう風に感じてる読者がいるのですよと覚えておいてくだされば、文章を書く時の参考になるかな、と。
これまでのご発言から常識的な判断をされていることがわかりましたので、現在では安心してお話をうかがうことができます:)
でも ROMer さんの最初の書き込みについては、第三者的に見れば独り言のような内容ですが、当事者の方から見たら敵対と取られてしまい、それが火に油を注ぐ結果にもつながってしまうものでした。
私も同様に気をつけなければいけない反省点なのですが、それが必要だと判断されるシチュエーションでも、ご注意いただけたら助かります。
それと「発言しない読者」これは、一番気を遣わなければならないのだと私も感じています。ROMerさんのご意見は、多くの方が参考になると思います。
特に、多くの方はかかわりになると自分が今度は攻撃対象になってしまうということを恐れて、自分の発言を控えてしまうものだと思います。ですので、発言される方というのは強引な考えを持って暴力的に攻撃する方だけになってしまうのだと思います。そんな中で、意見を出して頂くことは、勇気のある立派な行為だとおもいます。ただ、そこで使う言葉には気をつけたいですね、自分が荒らしにならないために。
|ですから、まぁ俺の事は置いといてそのまま議論続けてください。
ありがとうございます。しかし残念ですが、ここでの内容は日本語解釈の差異だけで、そもそも議論するようなことでもないんです。おそらく、直接会って話せば、一笑に付すようなことですし。また、無益な論争は避けたいという立場からも、これ以上は私からのお話しは避けたいです。
もしご期待されていたようでしたら、申し訳ないですが、お許しください。
今後ともよろしくお願いいたします。
Seesaaの障害で、数日コメントの書き込みが反映されない状況になっていました。
このタイミングで、削除のご依頼を受けたいくつかの発言を削除しました。また、荒らし発言を制御するため承認制にしていますので、ご了承ください。
Jitohさんから、戦争の元凶、ブログ荒らし行為と名指しで批判されているあざみ子です。
議論を続けてほしいというROMer さんのご要望もありますので、いつまでも繰り返していても仕方がないのですが、私へのレスにお答えに参りました。
☆Jitohさん
レスを書かれるのならば、すぐにではなく、しばらく時間をおいてからにすることですよ。
>感情的になっている訳ではないんですが、正直な気持ちをmailにさせていただいたものです。ここでのお話は、既に何の進展も見られないと判断できましたし、これ以上ほかの方のお目汚しになってもいけないので、これ以降はmailでと思ったのです。
「メールで」と私信を送りながら、翌日にはブログで批判、コメントを書くということが,感情的になっていないと言えるのでしょうか?
感情的になっていないのならば、不誠実だということです。
>が、ROMerさんが書き込まれ、その内容に対して攻撃的な対応を取られているのを拝見して、放置できなかったのです。
ROMerさんヘのレスのどの部分が攻撃的だったのでしょう。
「中東の笛」でもあるまいに(-_-;
ROMerさんが「矢面に立たされた感覚はないですから」と言われるのは当然でしょう。
論理に耐えられないひとが起こす冤罪事件のようなものです。
>お答えできる部分ご回答させて頂きます。
一般論ではなくということをお願いしましたが、ご自身言われているように、一般論を超えるものではありません。
また、「多くの方には理解が難しい事柄」と言っておられたはずが、「こんなの常識」と言われているのも矛盾しています。
相手を見下しているだけではありませんか。
常識は前提であり、さらにその先に議論をすすめていたわけですが、そのことに耐えられないというのは一般的にはめずらしいことではありません。
レベルをどこに合わせるかです。
同じように見えて、どこに違いがあるか、それを見極めてみることも必要なのです。
身をさらして語るからこそ鍛えられます。
どんなに声が小さかろうと考えが違おうと責任のある発言ならば、大切にしたいと考えてきました。異論のある方もおられるかもしれませんが。
それを声の小さいひとが書き込みにくい雰囲気にしていると貶めて、議論を回避したいだけのお話です。
批判をどう生かすかはひとにかかっています。
言葉を廃棄することではなく。
議論における一般論に留まらず、批判の最も必然的に立ち上がってくるところ、不可避の部分について自分自身の問題として考えてみてください、とお願いしてきました。
残念ですね。
Jitohさんの『批判をしてはいけない』『裁かない』は、お題目にすぎず突詰めて考えていないというのは、一般論の域を出ないということに象徴しています。
>>また、批判が必ずしも悪手ではないというのはもちろん存じています。立場上、批判を能動的にアピールしたいというのも存じています。この点では申し訳ないです。
ただ、もっとよい方策があるのです。
身近であろうと思われる辺野古の基地問題に対する批判ということを例に、Jitohさんの示唆されている「もっと、よい方策」をぜひ、具体的にご教示ください、とお願いしたのですが。
みんな知りたいはずです。
Jitohさんの展開している「批判はしてはいけない」「裁いてはいけない」を考えるならば、避けては通れません。
コミュニケーションは言葉によるわけですから、言葉をどのように考えるか、使うかはその人の考えをあらわしています。
単なる揚げ足取りではないんですよ。
>ダブルスタンダードだとのご批判についてですが、そうではありません。
残念ながら、ダブルスタンダードではない、というお話しにはなっていませんね。
一般論を上げたからといって、Jitohさんの言動がダブルスタンダードではないという証明にはならないのです。
>>あざみ子さんに限らないのですが、このような行動を取られる方々が諍いや対立を生み出し、しいては戦争を産んでいるというのは、私も感じます
上記はJitohさんの欲するところの一般常識的に批判です。
「提案」「嘆願」「進言」「叱責」、何を当てはめられるのかはわかりませんが、どのように言い換えてみても、内実は批判であり、内容を問わない言葉の言い換えに意味はありません。
ダブルスタンダードの好例です。
批判すること自体は、悪いとは思いませんが
Jitohさんの場合、自己回復のためにそれがあるということが、大きな問題なのです。
ご自分でも半ば、そのことが気づいておられるので、
>>A.Kirishima さんに対する失敗を繰り返しているように感じて私は自分の愚かさをまた反芻しました。
と、言われたのでしょう。
裁く、裁かないとは、どういうことなのか、誰のためなのか、お考えになることです。
> ROMerさんがご指摘され、私が同調したのはその部分です。これが、非常に御気分を害されてしまう結果になってしまったのは申し訳ないです。
でも常軌を逸したなんて、そんなこと誰も思っていません。
「ご気分を害した」のではなく、ダブルスタンダード、矛盾が出ていますよということなのですよ。
同調するのは簡単です。
特に、自分の立場が危うい時には。
「申し訳ないです」とか「常軌を逸したなんて、そんなこと誰も思っていません」なんて、むなしい弁解はやめることです。
批判したのならば、その言葉に責任をもつことです。
もてないのならば、するべきではありませんし、間違いならば、訂正する以外にありません。
>あざみ子さんの議論の手法についてです。
>あざみ子さんのされていること、これは一般からみれば荒らしにほかなりません。
ただ、一般の荒らしはここからさらに、謝罪要求や誹謗中傷という一線を越えてしまうのですが、その点について常識の枠を守られていらっしゃいますので、ありがたいと思っています。でも、それが正しい行為だとは私には思えません。
手法はありません。
Jitohさんのことばに対して、精一杯私の思うところを返しているだけですよ。
常識の枠を守っているのではなく、常識の枠を超えているのです。
見過ごせないからですね。
Jitohさんは常識の範囲でいたいなら、「高みを目指したい」とか「もっと強いものを手に入れたい」とか言わないことですよ。
自己回復を果たすために、自分は人より一段上にいるような発言は慎しまれることです。
言うだけなら誰にでもできますから。
>あざみ子さん、単にやりすぎなんですよ。
その必要がなければ書きませんし、普通はしません。
必要があるから書いているのですよ。
「高みを目指している」「もっと強いものを」と書かれていたので、一般常識を超えた突詰んだお話ができると思ったのですが、理解していただけなくて、残念ですね。
常識の範囲に安住していたのでは、考えの違う人に説得的に語ることはできないません。
結果、考えが対立したら、危険な存在として、相手を簡単に裁いてしまうのです。
それが弱さですね。
>今は無理かもしれませんが、可能なら記憶にとどめて頂けましたら幸いです(__)
> 重ねて申し上げますが、こんなことを私のから伝えるのは、ものすごく苦痛です。全く、自分が悪魔になったみたいです。でもあざみ子さんはもっともっと辛いとおもいます。本当にごめんなさい(__)
欺瞞的で、偽善的なだけですから、書かない方がいいです。
私は天使ではありませんから、大丈夫、ご心配なく。
以上、批判ということから発して、いろいろ語ってきました。私なりの「問題点の指摘」と「よりよい方策」の提案だったわけですが、
>ここでの内容は日本語解釈の差異だけで、そもそも議論するようなことでもないんです。
と、言われているように、徒労に終わるのでしょう。
たとえ、徒労に終わっても、ここをお読みのみなさまに何がしかきっかけにしていただければ、それでいいと思います。
長すぎるとエラーになるようなので、分割しました。
はい、お元気そうでよかったです。私は、最初のコメントでいうべきことはすべて言ってしまったのでもうそれ以上は何もありません。ただ、あざみ子さんが息災であればと祈るばかりです。
それより、今日は沖縄でも寒かったです。そちらはもっとですよね。風邪ひかないように祈っております!
すぐにレスせずにいられないのはどうしてなのか、お考えになることです。
>私は、最初のコメントでいうべきことはすべて言ってしまったのでもうそれ以上は何もありません。
謝罪され、反省されたのはまやかしだったのでしょう。
自己懐疑をもつことです。
Jitohさんはご自分が思うほど善人ではありません。
「汚れていない私」と他というように観念的自己回復を果たすということを繰り返さないために。老婆心ながら
では、ごきげんよう。
すぐにレスせずにいられないのは、なぜなのかよくお考えになることです。
>私は、最初のコメントでいうべきことはすべて言ってしまったのでもうそれ以上は何もありません。
謝罪され、反省されたのはまやかしだったのでしょう。
自己懐疑をもつことです。
あなたはご自分が思うほど善人でも誠実でもありません。
「汚れていない私」と他者というように人を裁いて観念的自己回復を果たすということを繰り返さなことです。老婆心ながら
では、ごきげんよう。