第16錠『海に行こうよ』
「眠れないのなら、いいものがあるわ」
丸テーブルを挟んで僕の向かいに座った小日向さんは、怪しい勧誘員のような笑みを浮かべ
てそう言った。だが、その笑みになにか惹かれるものを感じたのも事実だ。
小日向さんは黒い革のポーチから無数の錠剤を取り出すと、テーブルの上のトレイにそれら
をおはじきみたいに丁寧に並べていった。
文脈から見て、今僕の目の前に並べられている錠剤が睡眠薬であることは明らかだ。僕は昼
食後の軽い身の上話のつもりで自らの不眠を小日向さんに打ち明けたのだが、意見より先にこ
うも具体的な解決策が提示されるとは、思ってもみなかった。
近頃、大学で昼食を摂る時はこうして小日向さんと二人でいることが増えた。開放教室に行
けば水野たちがいるが、僕には集団の中よりも、学食の隅の小さなテーブルのほうが性に合っ
ている。どうやらそれは小日向さんも同じのようで、七月になってもまだ互いの携帯電話の番
号も知らないのに、週に一度は、僕たちはこうやって昼食をともにしている。
それにしても、彼女はいつも同じ革のポーチを身につけている。ひょっとして、彼女はこれ
らの睡眠薬を常に携帯しているのだろうか。
「どれでも好きなものを一つ、無償でプレゼントしてあげる」
近いうちに医者の手にかかることも考えていた僕にとっては、それはなかなか魅力的な提案
だった。だが、僕の睡眠薬に関する知識は皆無に等しい。彼女がおはじきみたいに丁寧に並べ
たそれらも、僕には同じ形の石ころにしか見えない。
「レンドルミン、サイレース、ハルシオン、デパス、マイスリー、ソラナックス…どれも然る
べきところで不眠を訴えれば簡単に手に入る薬よ。無料試供品として進呈するわ」
「ご好意痛み入るね。どうせなら処方箋もつけてくれない?」
どうやらそのセリフがツボに入ったらしく、小日向さんは口元に手を当てて、うつむきがちに
くすくすと笑った。簾みたいな前髪で表情が隠れていて、ほんの少し不気味だった。
「睡眠薬の効果には個人差があるけど、もっともポピュラーなのはデパスかしら。これは睡眠
薬じゃなくて抗不安剤ね。国内では様々なケースで処方されているわ」
「ふぅん…」
小日向さんの得意げな医学解説を聴きながら、僕は五十嵐のことを思い出していた。
僕と密室で逢瀬を重ねるようになる以前、彼女もデパスという抗不安剤を常用していたと言っ
ていた。日常のふとした拍子に、どうしようもなく不安が止まらなくなることがあり、その都
度机の引き出しの中から、ペンケースに保管してあるそれを取り出して服用するのだ、と…。
「じゃ、こいつをいただくことにするよ」
そう言って手に取った錠剤は、見た目には日常的に服用する風邪薬や頭痛薬となんら変わり
ない。その気になれば、なんの抵抗も警戒もなく、今この場でコップ一杯の水とともに飲み下
すことさえできそうに見えた。
灯りの落ちた1LDKは、薄暗いほら穴のようだ。
茜の部屋は調度品が少なく内装は簡素なので、物を探すのには苦労しない。僕はベッドの上で
寝静まっている茜を起こしてしまわぬよう、物音に気をつけて自分の鞄の中を物色していた。
目当ての品は、鞄の底でやはり石ころのように転がっていた。僕はそいつを手に取ると、足音
を忍ばせてそっと台所の前に立った。
携帯電話の液晶画面が放つ光をペンライト代わりにしてコップに水を注ぎ、錠剤を手に取
る。なんの変哲もないありふれた形状の錠剤なのに、まじまじと見つめていると、その表面の
石膏のような白さに吸い込まれそうになる。
躊躇なく、ふた粒を一気に嚥下した。喉の奥を過ぎると体内に異物が侵入した感触は消え、
あとには水分による潤いだけが残った。これなら、頭痛薬を飲むのと遜色ない。それで安眠を
確保できるというのなら、願ってもないことだ。
茜が待つベッドに戻ると、ナイトテーブルの上の目覚まし時計は午前二時を指していた。台
風のように頭の中を駆け巡る思考に煩悶としながら、寝つけずに二時間を棒に振ったことにな
る。いつものことだ。
今僕の隣で半身になって寝ている茜は、三時間前、ビデオショップで借りた熟しきっていな
い林檎のような安っぽい恋愛映画を食い入るように見つめて、涙で頬を腫らしていた。僕は時
折その横顔を盗み見ては、彼女との感性の違いについて考えていた。
その時のことをなんとなく思い出しながら、僕は茜に背を向けてベッドの上に横たわってい
た。今空中から僕たちを撮影すれば、互いに背を向け合って丸くなった僕たちは、羽を開いた
蝶のように見えるのではないか。そんな馬鹿げたことを考えているうちに、いつの間にか僕は
安らかな眠りの中へと落ちていた―――
翌朝目を覚ますと、茜はとっくに部屋から消えていた。
僕を部屋に残して一足先に自分の大学に向かった茜は、「あんまり気持ち良さそうに寝ていた
から、起こさないでおくね。講義に遅刻しないように」との短い置き手紙をしたためていた。
彼女はごく頻繁に、このような甲斐甲斐しい新妻の真似をしてみせる。
顔を洗うまで頭は半分眠っていたままだったが、身体が前日の疲労を蓄積しているような感
じはまるでない。昨晩までの僕は鎧を身に纏いながら生活していたんじゃないかと思うくらい
に、全身が軽くなった気がした。熟睡した後に感じる朝の清涼感も、ずいぶんと久し振りだっ
た。
時間を忘れて眠ったお陰で一限と二限の講義には出そびれたが、それでもなんとか昼休みに
は間に合った。僕は開放教室には向かわずに、淀みない足取りで食堂へと向かった。喧騒を避
けるように食堂の隅の席で独りプラスチックの食器をつつく小日向さんの姿を見つけると、僕
は一も二もなく彼女にこう訊ねた。
「おはよう。あの薬は、どこで手に入るの?」
翌日には、僕は心療内科のドアを叩いた。
ついこの前まで、耳鼻科と歯科以外の医者の手にかかる日が来ようなどとは、思いもしなかっ
た。心療内科と精神科、精神神経科の違いすら、小日向さんに丁寧に解説してもらうまでは、
考えてもみなかったのだ。心身医学という見地から、心理的な要因が身体的な症状となって現
れている患者を扱うのが心療内科らしいが、眠剤さえ処方してくれれば、僕にとっては看板の
違いなど取るに足りないことだ。
待合室で問診表を書き、診察の順番を待った。ひと昔前に流行ったヒーリングミュージック
が、どこからともなく聴こえてくる。平日の昼間だというのに、待合室には僕以外にも何人か
の患者の姿が窺がえた。サラリーマン風の男性から若い主婦のような女性まで、患者の層は様
々だ。誰も彼も、街に出れば一度はどこかですれ違いそうな、いたって普通の人に見える。心
の不健康は、鏡には映らない。薬の匙加減を決める医師だって、結局は自己の知識と比較し
て、推測でものを言うことしかできないのだ。
それでも心の不健康を患った人間が医師を頼るのは、そこに“救われたい気持ち”があるか
らだ。医師やカウンセラーを通した自己との対話を頼って。あるいはもっと単純に、不健康を
紛らわせて日々をやり過ごすための薬を頼って。僕は紛れもない後者だった。
「中原要さーん」
呼ばれて僕は立ち上がる。今から始まるのは診察ではなく、いわば僕が薬を処方してもらう
に足る不健康かどうかを見極めるための面接だ。
三十分ほどの診察を終えて、僕はまず真っ先に煙草に火をつけた。
次いで携帯電話を開き、昨日教えてもらったばかりの小日向さんの電話番号をプッシュした。
ほとんど間を持たせずに電話に出た小日向さんは、挨拶は飛ばして単刀直入に訊ねてきた。
「どうだった?眠剤と安定剤は出た?」
「出たよ。意外とあっさりね」
心療内科での初診は、拍子抜けするくらいあっさりとしたものだった。医師に促されるまま
に、家族構成や自覚できる症状、不眠の傾向や生活の様子などについて、虚実織り交ぜて語っ
た。たったそれだけのことで、医師が出した結論は「軽症のうつ病の可能性がある」という、
なんともはっきりしないものだった。とりあえず薬を出しておくので、事後の様子を見てまた
来て下さい、と通院を勧められた。
医師は、入眠困難と早朝覚醒は仮面うつ病やうつ病の患者には比較的多く見られる睡眠障害
だと言っていた。それは裏返せば、僕の状態がそれらの病状と合致する、ということに他なら
ない。もっとも、僕は自分の感情の上下や睡眠障害が、病気のせいだなんて思わない。問題は
もっと奥のほう…自分にも分からないくらい深い奥のほうにあるような気がしたが、ひとまず
薬を処方してもらうために、医師の出した結論には「そうですか」と答えておいた。
それに、第三者からはっきりと今の自分の状態を告げられて、安心したのも事実だ。
小日向さんは、僕の面接の合否を、まるで長年連れ添った友人のことみたいに熱心に聞いて
くれた。昨日も三限の講義をさぼって、僕に薬の種類や薬の入手方法について、ひとしきりの
ことをレクチャーしてくれたのだ。どことなく、身近に自分と同じような性質の人間が一人増
えたことを、喜んでいるようだった。
「小日向さんのお陰だ。今度学食おごるよ」
診察の様子を逐一報告した後、そう言って電話を切った。
手提げのバッグに携帯電話をしまう。バッグの中には、保険証といっしょに眠剤と安定剤を包
んだ紙袋が入っている。たった三十分程度の拘束時間と五千円札一枚で、僕が一番必要性を感
じていたものが手に入るのだ。―――なんて安い買い物だ。
それから、騙し騙しやり過ごす日々が始まった。
大学で、量産された機械みたいに同じ顔をした友人たちと付き合う時も。バイト先のイタリア
料理店で、僕の将来にとって一銭の足しにもならなさそうな、変化のない厨房仕事に従事する
時も。くたくたになって茜のアパートに転がり込み、彼女の満足を得るためだけに、ただなん
となくいっしょにいる時も…僕は常に、安定剤の庇護下にあった。
安定剤は魔法の薬じゃない。飲み下して人生がばら色に染まるわけでもない。
ただ、僕が膝下まで浸かっていた泥水を、ぬるま湯くらいには心地よく変えてくれる。それだ
けでじゅうぶん、僕にとっては依存するに足る価値があった。
もう近頃は、薬でも飲んでいないと、心がまともな日なんてないんだ。心ない人の心ない一
言や、日々の暮らしになんの変化もないという事実…生きていれば誰の身にも降りかかる些細
な出来事が、僕をどうしようもなく不安にさせる。
普通の顔をして外を歩くには、どうしても薬が必要だった。
「またお薬飲んでるの?」
とある夏の夜。僕より先にベッドの上に横たわり、すでに就寝の準備を済ませていた茜が、
悲しいニュースを眺めるような目で、僕にそう問いかけた。僕は短く「そうだよ」とだけ答え
て、インターネットの通販で購入したメラトニンを三錠、一気に嚥下した。
このところ、就寝前にメラトニンを飲むことが習慣化している。僕にはもはや、それが寝る
前に歯を磨くことと同じ、ごく自然な、当たり前の行為のように感じられる。
部屋の灯りをつけたままじゃないと安心して眠れない子供といっしょだ。僕はこれがないと
眠れないんだ。一週間が地続きになっていて小休止がない日々は、身も心も疲労困憊するんだ
よ―――だから、そんな目で見ないでくれよ。
「夏休みになったら、どこか行こうよ」
僕は茜の気をどこか別なところに逸らしたくて、ベッドに潜り込みながらそんなことを言っ
た。僕も茜も大学は補講期間に入っていて、二ヶ月にも及ぶ、高校の時とは比較にならないロ
ングバケーションが、もう目の前に迫っている。
「どこかって、どこに行くの?」
「きみが行きたいところでいいよ」
そう返すと、茜は薄闇がべったりと貼り付いた天井を見つめて、思案げに唸ってみせた。
僕はといえば、行き先は本当にどこだって構わない。今なら、天国と言われても地獄と言わ
れても首を縦に振ってしまいそうだ。だってもう僕は気づいている。誰と宇宙のどこに行った
って、結局僕は一人なんだろう。今僕と肩を寄せ合って並んでいる彼女だって、僕をどこまで
理解しているのか怪しいものだ。もちろん、僕のほうだって。
頭を悩ませること十数秒、茜が出した結論はこうだった。
「海に行きたい」
直後に彼女は、夏休みなんだから折角だし、と付け加えた上で、僕の気が乗らなければ他の場
所でも構わない、と遠慮がちに言った。
海、か…。
僕が海と言われて連想するのは、水と戯れる茜の姿でも、絵葉書や旅行代理店のパンフレット
でしか見たことのない南国の海水浴場でもなくて、懺悔するように自分の心の内を告白する五
十嵐の横顔だった。昨年の初夏、あの浜辺で、僕は彼女と本当の心の理解者になれるような気
がしていたんだ。
あの頃の僕の頭の中は、一日中五十嵐に独り占めされていて、茜や繁原のことで胸が詰まる
ようなこともなかった。子守唄のような潮の満ち引きも、ただひたすらに時間がゆっくり流れ
るのを祈っていたことも、いつかいっしょにディズニーランドに行こうという約束も、僕だけ
の宝物みたいに、ずっと胸にしまっていた。たとえ嘘に塗り固められていても、あれは僕にと
って、もっとも純粋な季節だった。青春だった。
「…そうだね、海に行こう」
あの時間はもう還ってこないけれど、追体験をする権利くらいなら、僕にだってあるはずだ。
もう遅いとは分かっていても、後悔は募る。今なら、嘘なんてなくたって、もっとちゃん
と、五十嵐の言葉に耳を傾けてあげられるのに。誰かに理解されたいという思いも、自分だけ
が不良品で独りぼっちなんじゃないかっていう気持ちも、今になって、痛いほどに分かるよ。
友里ちゃんの結婚式からか、あるいは大学の開放教室で、僕がいない場でのみんなの発言を
盗み聞きしてしまってからか。いつからかは分からないけれど、僕が人間関係の輪の中にい
る、ということを実感できなくなってしまってから、もうずいぶん経つ。僕が誰かを理解する
ことも、僕が誰かに理解されることも、子供が描く夢物語なんだと知った。知ってなお、僕は
それを渇望している。…かつての五十嵐が、そうであったように。
そして、そんなことを考える度に、僕は心の中で茜に「ごめんよ」と呟く。今もこうして肌
を寄せ合って、手を繋いで並んでいるのに…
僕は、こんなにも独りだ。
安定剤の効用について、一つだけはっきりと分かることがある。
確かに安定剤や眠剤は不眠を解消してくれるが、不安を解消してくれるわけではない。夏休み
の宿題から目を背けて、遊ぶことにかまけるのと同じ。酒に溺れるのと大差ない。目の前の問
題を見て見ぬフリをするのが少し上手になる…安定剤の効用とは、ただそれだけのことだ。と
どのつまり、腹の底に堆積した不安の質量は変化しないのだ。
僕がそれをはっきりと自覚したのは、波のない平穏な夏休みがしばらく続いたある日のこと
だ。
その日、僕は夕方までバイト先の厨房仕事で汗をかき、茜のアパートに向かう途中でショッ
ピングモールに立ち寄った。いつも甲斐甲斐しい新妻のように僕の世話をしてくれる茜に、な
にか手土産を持って行こうと思い立って、国産の安ワインを物色していたのだ。
僕も茜も、アルコールには頓着がない。当たり障りのないカベルネ・ソーヴィニョン種のワ
インを一瓶購入すると、僕は屋外駐車場へと抜ける広場に足を向けた。
そこで茜の姿を見た。
水野といっしょに無邪気な笑みを浮かべて歩く、茜の姿を。
最初は、気が動転するというよりも、僕は黙ったまま、狐にでもつままれたような感覚でそ
れを見ていた。二人はすぐ近くに僕がいることなんて気づかぬまま、料理店が並ぶほうへと過
ぎ去ってゆく。僕は樹木のようにその場に立ち尽くして、その後ろ姿を目で追っていた。
なぜ茜が水野といっしょにいるのか、しばらく考えた。
大学進学後、かつての級友としてではなく、恋愛関係にある異性として、水野に茜を紹介した
ことならある。三人で外食することも、二度三度あった。その後は二人の間に特に接点はなか
ったはずだが、まさか二人が互いの連絡先を交換しているとは思わなかった。水野だって、今
は愛沢さんという素敵なガールフレンドがいるはずなのに。
その日の夜、僕がわざと少し遅れて茜の部屋を訪ねると、彼女はいつもと同じ顔で僕を迎え
入れてくれた。安ワインを差し出すと「そんなのいいのに」と言って、照れ臭そうにはにかん
でみせた。僕もなにも見ていないような顔をして、いつも通りに振る舞った。
自分の頭の中で、あれはこういうことだったのだ、と勝手に解釈して、結論を出した。それ
でも茜が水野といっしょに笑いながら歩く姿は、僕の腐りかけの頭の裏に、焼きついて離れな
かった。
素面になると、なにもかも見過ごせなくなって、心の中には、塵が積もるように、また少し
不安が堆積されてゆく。その日の夜も、僕は薬を飲んだ。
見なければよかった、知らなければよかった。そんな後悔は後を絶たない。
夏休みに入って二週間が経過したある日のことだ。茜の部屋にある、彼女が母親から譲り受け
たという古めかしい鏡台。その引き出しの中から、僕は後悔の種を見つけてしまった。
予期せぬ出来事だった。僕はただ、茜がテーブルの上に置いたままにしていた化粧品を引き
出しの中に戻しておいてやろうと思っただけだ。さして特徴のないありふれた木製の引き出し
がパンドラの箱だなんて、僕は知らなかった。
中から出てきたのは、とても懐かしい鍵だった。
見覚えのある、取っ手が緑色のゴムでできている鍵。それはかつて五十嵐が所有していたもの
で、僕と彼女だけの、秘密の楽園へと通じる扉を開く鍵だった。行方不明になってから一年近
く経ってから、茜の部屋で見つけるなんて、思いも寄らなかった。
手に取った瞬間、様々な疑問が頭をかすめた。なぜこの鍵が、こんなところにあるのか。鍵
を隠したのは繁原ではなく茜だったのか。もし彼女がやったんだとしたら、それはどういう意
図だったのか…四方八方からなぞなぞを出題されているみたいで、どれから答えを出せばいい
のかすら、分からない。
「……要くん?」
突如茜の声が耳に届いて、僕ははっとして振り返った。シャワールームにいるはずの茜が、
いつの間にか僕の隣に立っていた。血の巡りが止まってしまったかのように、顔面蒼白になっ
て。
「それ…どうしたの?」
「きみがしまい忘れた化粧品を引き出しに戻そうとして、見つけた」
僕に後ろめたいことなどなにもない。臆することなく、正直にそう答えた。
茜は落ち着かない様子で口元に両手を当てていた。床に蛇のように視線を這わせ、僕の目を見
ようとしなかった。
「違うの…私はただ、それは去年繁原くんが…」
突然のことに困惑しているのか、どこから説明すべきか戸惑っているのか、茜の弁解は要領
を得ない。彼女のこんな無様な表情、見たくなかった。
「…いいよ、どうでも」
僕は茜の言葉を遮るようにして、手に持っていた鍵を引き出しの中にそっと戻した。
そう、もういいんだ。もうどうでもいい。なにを知ったって今更だろう。頭を不安に絡め取
られるのには慣れてしまったよ。ただ、僕はもうこれ以上疲れるのは耐えられない。
「鍵は記念品として取っておきなよ」
きみにとっては、きっとその鍵を隠すということが、幸福への切符だったんだろうからね。
僕がそう言うと、茜は枯れ井戸みたいに言葉を失ってしまった。櫛で梳かしたばかりの髪を
そっと撫でてやると、彼女は黙って泣いた。細い肩をぐっと引き寄せると、僕は一つの逃げ道
を選択した。
衣服を捨てて僕たちは折り重なる。その行為に没頭している間だけは、僕は不感症になって
いられる。疑問も不安も後悔も感じない人間になることができる。肌の上で汗は玉となり、部
屋の温度は上がっていく。外は熱帯夜だ。
虐待された猫みたいな茜の金切り声を聴きながら、頭の中が真っ白になって、全身から力が
抜けていくのを感じる。二人して大きな息をつくと、僕は茜の上に覆いかぶさるようにして倒
れた。茜の肩に顎を乗せて瞼を閉じる。背中に彼女のか細い指の感触だけが残る。
なにも考えられない頭になる。
ずっとこうやって目の前の問題を先送りにしてきた。自分に都合の悪いことは、できるだけ考
えないようにしてきた。五十嵐の時も、茜の時も。ずっと僕はそうやって生きている。
これまでも、そしてこれからも。多分僕は、ずっとそうやって生きていくのだろう。
この夏、結局僕たちは海には行かなかった。
なにか理由があったわけではなく、気がつけば季節は過ぎていたのだ。
僕には前進も後退もない。僕はどこにも行けない。