楽天市場  インフォシーク マルクス・アウレリーウス「自省録」第2章 (ジャンル:そのほか)  楽天ブログ(Blog) 004545 ランダム
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三十路男のつぶやき(;´д` )
マルクス・アウレリーウス『自省録』 第2章

朝起きたら自分にこう言い聞かせる。--おせっかい、恩知らず、威張りやさん、裏切り者、やきもち焼き、社会性のないやつ、こういう連中を避けて通ることはできない。この連中の性質は、ひとえに善と悪について理解していないことによる。しかしぼくは、善の本性は美しく、悪の本性は醜いことを知っている。それに、駄目な奴とぼくの間にはそう大差はないことも知っている。彼らとは血を分けた兄弟であるだけでなく、知性、神性の程度において同胞なのだ。だから、ぼくには傷つけられて兄弟に腹を立てたり、逆に兄弟を傷つけたり、憎んだり、ということはない。両脚や両腕、やまぶた、歯並びが互いに調和しているのと同じに、人間は協力するために神様に創られている。人に腹を立てたり、キライになったりするのは他人の邪魔をすることだし、他人の邪魔をするのは自然と神に反することなのである。


ぼくという存在は、それが何であろうと、身体と息、そして内なる指導原理で構成されている。本を読むことは諦めろ。読書に熱中するのはぼくには許されていないのだ。死に掛けていることを自覚して、自分の身体にとらわれてはだめだ。。肉は単に血と骨、神経、静脈や動脈でできているだけ。二番目の、息はどうか?息も、吐いたりすったりするだけの単なる空気だ。では三番目に、指導理性は?
こう考えること;ぼくはもう老いた。理性をこれ以上、奴隷のごとくしておくことはできない。自分勝手な衝動に操られるわけにもいかない。現在に不満を抱くことも、未来を不安がることも許されない。


神々の振る舞いは摂理そのもの、運命は自然そのもの、摂理に支配された事象が自然を織り成している。すべては自然から現れ出でる。必然もそのように存在し、宇宙---ぼくもまたその一部である!---の特性を形作る。特性は自然の善なるものとして表れ、善が自然を定義する。ひとつひとつの要素の変化、そして要素の変化が引き起こす構造の変化が宇宙を形作っている。
もし以上のことを、本当にぼくが信じているのだったら...これに対して、満足しなくてはいけない。余計なことを考えてはいけない。本を読みたい気持ちは棄てなくてはいけない。ごちゃごちゃいうのではなく、よろこびをもって、誠実に、神様に対して心から感謝して、死ぬことができるように。

思い出せ、ぼくがどれだけ前からいろいろなことを先延ばしにしてきたか、神様から機会を与えられながら、それを有効に使わなかったか...。ぼくは今こそ宇宙の一部分であること、宇宙の偉大な支配者が、ぼくという存在を照射してくれていること、を強く感じなければならない。ぼくの持ち時間は限られている。ぼくの頭にかかっている靄を取り払おうとしなければ、時間はどんどん過ぎて、二度と還ってこないだろう。強く自戒すること。

頭から片時も離してはならないこと----ローマ人として、男性として、なすべき仕事を威厳と愛情をもってきちんと果たすこと。これ以外の余計な雑念から離れて、自らをいたわること。自らをいたわるためには、どうすればいいのか。それには、常に一期一会の精神を忘れないことだ。つまり、でたらめやむやみな熱情、偽善、ナルシズム、自分の取り分が少ないことへの不満、こういったものを捨て去ること。。
一人の人間が、静かに満足した生を過ごすのに、一体どれだけたくさんの「もの」が必要だろう?ほんのちょっとしたことしか必要ない人は、神様という存在に近づく----、そして神様もそれ以上その人に無理難題を押し付けることはしないだろう。そうならないと。

恥をせいぜいかくこと。駄目なときは駄目。自分がすごいなんて思わないこと。行く河の流れは絶えず、人の一生は短い。ぼくの人生はもう終わろうとしているのに、自分に対して尊敬を払わず、他人の顔色ばかり伺っている...そんなことは許されない。

日常の細々としたことが自分の外で起こるから、気が散るって?そんな時は、収拾がつかなくなる前に、何か新しくて善いことについて考える時間を持つべきだ。
そしてもう一つ気をつけることは、忙しくしすぎて疲れてしまうこと。そうなってしまうと、言葉や考えを向けるべき目的を見失ってしまう。

人の心について注意深く観察していないからといって、不幸になるとは限らない。でも、自分の心について注意深く観察していない場合、そいつはきっと不幸になるだろう。

次のことを念頭に置くこと:世界における自然と、ぼくのなかの自然、この二つはどのようにつながっているか、全体はどのように、部分はどのようになっているか?そして、自然(ぼくもまた、その一部である)のありように沿った言説や行動は、だれからも妨げられない。

テオプラトスは善悪の比較をするとき(まあありきたりの見方といえばそうだけど)いかにも哲学者なことを言っている。つまり腹を立てた人が犯す過ちよりも、欲望に駆られた人が犯す過ちのほうが重い。なぜなら、怒っている人は苦痛と無意識な良心の呵責を感じつつ理性に背いているのに対し、欲にまみれた人は快楽に支配され、罪に対して開き直った女々しさがあるから。
テオプラトスはさすが哲学者で、これに関連して苦痛によって犯す過ちよりも、快楽によって犯す過ちのほうが重いとも言っている。これは正しいのだろう。前者は苦痛によって怒らざるをえなくなった人という感じだが、後者は快楽を衝動的に欲望しているという点がすなわち駄目なのである。

いつ死んでもよいかのごとくあらゆることに対して向き合い、行い、話し、考えること。もし神様がほんとにいるのならば、それは少しも怖いことじゃない。なぜなら、神様はぼくを悪いことに巻き込むようなことはなさらないだろうから。逆に、神様がいない場合はどうか?もしそうなら、あるいはもし神様がぼくたち人間のことなんか気になさっていないのならば、神様のいない宇宙、摂理のない宇宙に生きていて何になるだろう?
というわけで、やっぱり神様は存在する。ぼくたち人間どものことを心にかけておられる。そして人間がほんとに悪いことの中に落ち込むことのないように、すべての力を与えてくださった。もし未来に何か悪いことが起こるとしても、それは乗り越えるべき試練として用意され給うたんだろう。宇宙の摂理がそのようにしないはずがない。これらは神様が知っていながら防ぐことも、正すことができないから見過ごすということもないに違いない。したがって善人にも悪人にも平等によいこととよくないことが起こるようにしたわけではない。とはいいながら、死と生、名誉と不名誉、苦痛と快楽、富と貧、こういうのは善人にも悪人にも平等に起こる。しかしこれはそれ自身において栄えあることでも恥ずべきことでもどちらでもない。したがってこれらは善でも悪でもないのだ。

月日は百代の過客とはよく言ったもので、すべてはなんてすみやかに消えてしまうのだろう。形あるものは宇宙の中に、形なき記憶は永遠の中に。すべての感覚的なもの、特に快楽としてぼくたちを誘惑するもの、苦痛としてぼくたちを怖がらせるもの、虚栄心の喝采をぼくたちに与えるもの、などはどんなものなのだろう。なんとそれらは安っぽく、いやしく、きたなく、腐っていて、死に近いのだろう。
これはぼくたちの頭でもわかることだ。褒めたり褒められたりしあっている人間とは、死ぬということは、そもそも何なのか。もしぼくたちが死それ自体をちゃんと眺め、理性によって死からファンタジックな思い込みを取り去ったとき、それは自然の摂理に基づくもの以外の何者でもないことに気がつくだろう。そんな自然の摂理を恐れる人は、まだ未成熟だ。しかも死は自然の摂理であるだけでなく、自然にとって必要不可欠なものでもあるんだ。
いかにして人は神に近づくか?人間のどんな部分が、どのようにして、近づくのだろうか?

だれよりもみじめな人間とは、あらゆる物事を見聞し、詩人のいうとおり「地の深みを極め」*、他の人の心の中を探ろうとしておきながら、自分としては自己の内なるダイモーンと向き合ってその真実に仕えなければならないことを自覚しない奴のことだ。(ラピュタのムスカ大佐みたいな。)ダイモーンに仕えるとは、激情、無定見、神や他人に対する不満などに汚されないようそれを守ることを意味している。
神様に対してはそのすごさを認め敬意を抱かなければならないし、人間に対してはその無定見さを愛さねばならない。(ぼくも人間で、ようするに同胞なのだから。)とくに人間が善と悪の峻別に対して無知である場合、それは哀れむべきことだ。白と黒の見分けがつかないのと同レベルの無知なのだから。

もしぼくが3000年生きようとも30000年生きようとも関係なく、どんな人でも現在生きている生涯以外何も失うものはないということを忘れてはいけない。だからどんなに長い一生でもどんなに短い一生でもその意味では同じである。なぜなら現在は万人にとって同じ--つまり等しく失われるものであるから。失われる瞬間は本当に一瞬だ。だから、こうも言えるだろう。誰も過去や未来を失うことはできない。持っていないものを失うことはありえない。このとき、二つのことを覚えていないといけない。
一つ目。万物は気が遠くなるくらい昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している。したがってこれを100年見ていることも、200年見ていることも、無限に見ていることも、違いはなにもないということ。
二つ目。繰り返しになるけど、もっとも長生きした人も、もっとも短命な人も、失うものは同じであること。人が失うことができるのは等しく現在だけであり、つまり持っているものも現在だけなのである。

「すべては主観である。」犬儒学派のモニモスが言ったことばだが、このことばの意味は明白だ。そしてこのことばを真実である限り受け入れるならば、その効用も明白である。

人の魂が自己を汚す場合。---もっとも汚すのは、自分から宇宙の膿やガンのようになる場合である。なぜならば何が起こっても、それに対して腹を立てるのは自然に対する離反であって、他のあらゆるものは自然の一部に含まれているからである。
二番目。ある人に対して嫌悪感を抱いたり、腹を立てて相手を傷つけようとする場合。
三番目。快楽または苦痛に打ち負かされた場合。
四番目。仮面をこしらえ、不正直、不真実に行動したり話したりする場合。
五番目。自分の行動や衝動を何の方向にも向けず、でたらめ、脈絡なしに、なんでもお構いなく力を注ぐ場合。人の行動は、どんな小さなことでも、目的に関連して行われるべきものなのである。この場合、理性的動物たる人間様の目的は何か?それはもっとも尊ぶべき都市および国家の理法と法律---すなわち宇宙の摂理---に従うことである。

人生は一瞬にすぎず、人の本質は流転し、その感覚は鈍く、その肉体は腐敗しやすく、その魂はとらえきれず、、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。一言で言えば、肉体に関するすべては流れであり、魂に関するすべては夢であり煙である。はかない。人の一生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却される。であれば、ぼくたちを導くことができるものは何か。
それはただ一つ、哲学である。すなわち自己の内なるダイモーンを守り、これが損なわれないように、傷つけられないように、快楽と苦痛を制御できるように、何ごともでたらめにおこなうことのないように、偽りや偽善のないように、他人から惑わされることのないように、すべての出来事すべての自己に与えられている分は、自分自身の由来するところと同じところから来るものとして喜んで受け入れるように、何にもまして死を安らかな心で待ち、これを肉体を構成する要素が解体することとみなすことができるように、ダイモーンを保つこと。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素自体にとって少しも恐れるべきものではないとしたら、どうしてぼくたちがこれを恐れなければならないのだろう?それは自然の摂理によるものだ。自然によることで悪いことは一つもないのだ。
カルヌントゥムにて記す
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