お部屋1403/今日のマツワル71
さほど落ち込んでいるわけではなく、涙で目を腫らしているわけでもないのですが、先週、鴨沢祐仁が亡くなったことを知って以降、気分がすぐれません。風邪をひいたためだったりもするのですけど。
もう少し距離のあった人であれば、さっさか追悼文のひとつも書けたのでしょうが、ここまで「マツワル」で簡単にお知らせしただけで、どことなく書きにくくて、時間が過ぎてしまいました。単純な話、書くことが多すぎて、少し頭の中を整理しないと着手ができない。
鴨沢さんは、昨日、火葬されました。一区切りついたってことで、そろそろまとめておこうかと思った次第。
鴨沢さんは、自分が亡くなったあと、皆に悲しんで欲しかったはずです。また、死んだあとに自分は評価されると信じて疑ってませんでした。
私は「死んだあとのことはどうでもいい。だって死んでんだから。死んでから評価されたって意味はない」と言い、対して鴨沢さんは「せめて死んでから評価されたい」と言っていました。
鴨沢さんの絵は、今後も人を魅了するでしょうが、もし本当に死後の評価を求めていたのであれば、今は評価されずとも、今生でもっと多くの作品を残しておいてもよさそうです。
「これだけの作品を描いたのだから、いつか評価される」と思っていたというよりも、鴨沢さんは、今とは違う世界、今とは違う自分を想像するのが好きでした。今が辛いからではなく、もともとそういう人でした。ここではないどこか、今ではないいつかに生きていたかった人だったのだと思います。
鴨沢さんは、「もう漫画は描けないので、これからは文章を書く」と言いだしたことがあります。
「毎日書いているよ。芥川賞をとってベストセラーになると思うんだよ」
「小説を書いているんだ」
「いや、エッセイ」
「だったら、芥川賞はとれないよ」
なのに、芥川賞の授賞式に着ていく服のこと、サイン会に着ていく服のことをもう考えてました。
良くも悪くも、そういう人でした。夢を見続けた人。だから、あれらの作品も生まれたのでしょう。
だとするなら、残された者としては、少しでも鴨沢祐仁という人がいたことを知らせるのも追悼になろうかと思います。今まで存在さえ知らなかった人がその作品を目にする機会を少し増やすくらいのことは私にもできそうです。
今まで鴨沢さんの作品を見たことがなかった人はこちらをごらんください。
以下、転載したのは、再録ものを含めて、20回以上続く予定の「鴨沢さんの思い出」の1回目です。これ以降も時折転載するかもしれませんが、鴨沢さんの作品だけを純粋に愛したい人たちは読まない方がいいかも。
< <<<<<<<<<マッツ・ザ・ワールド 第1822号>>>>>>>>>>
< 鴨沢さんの思い出1>
夢を見ました。家族で実家の居間にいます。ふと気づけば、そこに亡くなった父もいます。父は自分で死んでいることに気づいておらず、元気そうに話しかけてきます。その顔を見ているうちにボロボロと涙が出てきました。
起きたら泣いてました。
まだ外は暗い。1時間半しか寝ていなかったのですが、目が冴えてしまい、いったん起きて仕事をしました。
朝になってから再度布団に潜り込みました。涙の次に睡眠を邪魔したのは電話です。最近、固定電話が鳴ることがめったになくて、「誰だろうな」と思いつつ、眠くて放置。
うつらうつらしていたら、また電話が鳴りました。それで起きることにしたのですが、電話に出ることはできず。
留守電は入っておらず、携帯電話を見たら、こちらにも着信記録があります。心当たりのない番号です。こちらには留守電が入ってました。
「津川聡子です」
以前、タコシェで働いていたことのある漫画家です。もう何年も連絡をとってませんから、携帯には登録してませんでした。
「鴨沢さんが亡くなったというメールを昨日もらいまして、松沢さんがもしご存知なければと思って、念のために電話しました」
電話を切ったあと、しばらく窓の外を眺めて呆然としました。
鴨沢さんとは先週電話で話していて、来週あたりに家に行くことになってました。それでも、予想できなかった突然の死というものではなくて、「遂に来たか」というのが正直な感想です。
この2日前に鴨沢さんにメールをしていて、それに対して返事がありませんでした。それもよくあることなので、とくに気に留めてなかったのですが、今になってみると、「なるほど、そういうことだったのか」と納得できます。
「案外鴨沢さんが出るのはないか」と思ったわけではないのですが、私はなぜか津川さんにではなく、鴨沢さんのうちに電話をしました。留守電になってました。
それを確認して、津川さんに電話。
津川さんは、鴨沢さんの友人である堀本さんからのメールで知ったそうです。
鴨沢さん自身、堀本さんのことを「一番の友人」と言っていたことがあります。鴨沢さんを無理矢理役所に連れていって生活保護を受けさせたり、自己破産の手続きを手伝ったのが堀本さんです。鴨沢さんがここまで生きてこられたのは堀本さんのおかげであって、堀本さんがいなければ、もっと早くこういう事態を迎えていたかもしれない。
鴨沢さんからその存在は繰り返し聞いてましたが、直接は会ったことがありません。
「私も会ったことはないんですけど、鴨沢さんのブログで知って、メールをくれたんです」
津川さんが堀本さんに聞いているここまでの経緯をざっと聞きました。
堀本さんが今週の頭に鴨沢さんちを訪れたところ、電気はついているのに、チャイムを押しても出て来ません。鴨沢さんは死んだように眠り続けることがあるため、土産の食べ物をドアのノブに引っ掛けて帰りました。
その後も連絡がとれず、金曜日つまり昨日、再度訪れたら、土産がそのままになっています。しかも、昼なのに電気がついたままです。これはおかしいというので、市の福祉課に連絡。福祉課の人が中に入ったらテレビがついたままです。警察に連絡し、中を調べてもらいました。そして、風呂場で亡くなっているところを発見。
「今日、司法解剖なんだそうですよ」
中から鍵がかかっていて、外傷もないので、殺されたってことはないでしょうが、「自殺か」とも私は思いました。
もし自殺だったら、電話で話した時に何か信号を出しそうですし、このあと会う話もしないでしょうが、鴨沢さんは鬱だったので、いきなりの自殺もあり得ます。
ここ20年ほど、鴨沢さんは生きているのが精一杯でした。もちろん、楽しい瞬間もさまざまあったでしょうが、その何倍も苦しい時間を過ごしてきました。それに耐えられず、死のうとしたことが何度もあります。口で言うだけではなく、実行に移そうとしながら、死にきれなかったこともあります。
そのことを知っているだけに、自殺という選択をした可能性を考えてしまったのですが、発見されたのは風呂場です。風呂場場で自殺するとしたら首吊りでしょう。だったら、司法解剖するまでもなく、自殺とわかります。
津川さんも、それ以上の詳しいことはわかっておらず、互いに「葬式はどうするんだろう」なとど会話を交わしました。
電話を切った直後に、今度はチャイムが鳴りました。まんだらけです。
「場所がわからなかったので、電話したんですけどね」
てっきり私は、携帯に出ないため、津川さんが固定電話にかけていたのかと思っていたのですが、こちらの電話だったのか。3時に来ることになっていたのですが、まだ12時台です。
準備してあった箱を運び出している間も、私は「鴨沢さんが死んだのか」とずっと考えてました。
そのこともあって、漫画を売ることの感慨に浸っている暇もなく、16箱の荷物は瞬く間に積み込まれ、書類に振込先を書き、サインをして作業は完了です。思い出を売るのは簡単なものです。
このところ、本を売る作業に忙殺されていたため、仕事が溜まってまして、中でも切羽詰まっている仕事があったため、そこからはずっとパソコンに向かいました。
時折、鴨沢さんのことを考えてはボーッとしてしまいます。かといって、悲しみが溢れるわけではない。一時は毎日のように電話で話していて、9日前にも電話で話していたにもかかわらずです。いつかこういうことがあるかもしれないと、どこかで予想できていたにせよ、その死をいたって冷静に受け止めているのが不思議でもありました。
その死に方も、自分の受け取り方も、ずいぶんあっさりしたものです。漫画を売る時と一緒。ああも時間をかけて集めてきたものが、売る時は一瞬。感慨に浸る暇もない。
夜、切羽詰まっていた仕事を終えてから、鴨沢さんのことを考える時間が長くなります。その気になれば、いくらでも鴨沢さんの思い出に浸ることができます。それだけの会話を交わしてきましたから。
鴨沢さんと知り合ったのは「ガロ」のパーティでした。鴨沢さんの方から近寄ってきて、話しかけてきました。
その時も鴨沢さんは酔っぱらってましたが、すぐに写真で見たことのある鴨沢さんだとわかりました。私は鴨沢さんの作品を読んでましたし、単行本も買ってました。鴨沢さんも、「ガロ」の連載だけじゃなく、他の雑誌の連載まで読んでくれていました。
「前から会いたいと思っていたんですよ」
鴨沢さんは酔った口調ながら、そんなことを言いました。この日、鴨沢さんは終始上機嫌でした(続く)。
< <<<<<<<<<マッツ・ザ・ワールド 第1822号 mat@pot.co.jp>>>>>>>>>>
コメント (0)
この記事にはまだコメントがついていません。
現在コメントフォームは利用できません。