「アメリカの人種差別問題の昔と今」。第1回ではKKK、第2回では大戦中の日系人強制収容を扱った。最終回は、現在の日常的な事象で締めくくる。
◇ アメリカで人種差別が禁止されたのが、リンカーン大統領による1862年の奴隷解放宣言からだと思っている人もいるかもしれない。しかし、これは誤りだ。人種差別が法律で禁止されたのは、1964年の公民権法の制定からである。 アメリカの人種差別はないものだ、とされているが……(写真はイメージ) 例えば、現在のアメリカで求人に応募する場合に、履歴書に写真を貼ったり、人種や性別を書いたりする必要はない。それらを理由に採否を決めてはいけないからである。さらに、マイノリティー(有色人種など)の候補者の不採用を決定する場合、採用担当者が会社に明確な理由を報告することになっているケースが多い。公平性を高めるという意味と、訴訟への対策という意味があるのだ。 もちろんこの方法も完全ではない。履歴書に記載がなくとも名前から推測ができてしまうこともあるし、最終的に面接に呼ばれれば人種も性別も明らかになってしまうからだ。 また、面白いことに、逆に白人が不利になるような事態も起きる。それは、面接で白人とマイノリティーの候補者の評価が伯仲した場合である。訴訟を恐れる企業が、白人の候補者の採用を見送るという場合も出てくるのだ。 このように、完全な公平性が達成されているかどうかに少々疑わしい点もあるが、人種差別をなくす社会的努力がなされているのも確かである。しかし、その一方で、差別というものが人の心の中で生まれるものである以上、人種差別が完全に消滅していないのもまた確かである。 以下は、私が実際に体験したことだ。 その1:郵便局の窓口 郵便局に切手を買いに行ったときのことだ。窓口には7、8人が列になっていて、私は後ろから2番目だった。私の番がようやく回ってきたところで、突然その窓口に「取り込み中」のサインが出た。 私が驚いているのを見て取ったのか、別の局員が親切に隣の窓口を開けてくれた。その窓口に私が回ると、前の窓口は即座に私の後ろにいた人を受け付けた。私の後ろの男性は白人だった。 その2:アニメ これは少し特殊な例だが、興味深いのでご紹介しようと思う。アメリカ製の某アニメを見ていたときのことだ。 主人公が忍術修行の旅に出ることになった。訪れた先は明らかに日本がモデルになっているアジアの国。そして、そこで出会った忍術の師匠は背が低く、太っていて、しかもとても汚いのである。 日本人の身長がアメリカ人よりも平均的に低いのは確かだし、太っているのは相撲のイメージなのだろう。しかし、不潔なのは理解に苦しんだ。高温多湿で人口密度が高いアジアなので、そのようなイメージがあるということなのか。 その3:ある講演会を聴講して アジア系の友人と4人で小さな講演会を聴講しに行ったときのこと。前の方の席に座った私たちは主催者と隣になった。すると、主催者は私たちの身分や、参加の動機を詮索(せんさく)し始めたのである。 その講演会は無料で誰でも参加できるもので、しかも食事つきだった。おそらく、私たちが食事だけを目当てに来たものと思ったのだろう。アジア人であるがゆえに軽く見られたと感じた。 以上の3つである。大して深刻なものではないので、拍子抜けされたかもしれない。しかし、私が人種差別と感じたのはこれらを含め、数年間でごくわずかなのである。 ちなみに、こちらが話しかけた相手の顔に警戒心が見て取れる、というようなことはしょっちゅうである。結構傷つくのだが、これは人種差別とは関係ない場合が多い。下手な英語を話す人間が単に不気味に見えるだけだったりするからだ。 もちろん、私が体験していないだけで、深刻な人種差別が横行している地域もアメリカにはあるだろう。例えば、人種ごとに住む場所や利用できるスーパーがなんとなく分かれているようなところがあるのも確かだ。 しかし、テレビや映画に出てくるようなドラマチックなケースがそうそうあるわけではないのも、また事実なのである。ひょっとしたら、人種差別の問題は徐々に解消される方向にあるのかもしれないと思うこともある。 ニコラス・ケイジ氏の妻は韓国系アメリカ人。このように、異人種間のカップルは珍しいものではなくなってきた(ロイター) また、異人種間の恋人同士も多く見られるようになってきた。白人とアジア人の夫婦が連れ立って歩く姿などは、もはや珍しいものではない。彼らの子孫はアジア人に対して人種差別の意識などは持たないであろう。 公民権法が制定されたのは1964年。東京でオリンピックが開かれた年だ。わずか40年ちょっと前のことである。人種差別に対して問題意識を持つことは必要だが、少し長い目で事態を見守ることも必要なのかもしれない。 (アメリカ在住)
|