「ドーキンス説」のページへのアクセス数が増えたので調べてみたら、下記のサイトからのリンクがあった。南堂の説への批判。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20061005
※ 2008-02-02 になって、ほぼ同趣旨の批判が繰り返された。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080201
これについては、コメント欄に詳しく解説した。
──
上記のサイトを見たが、読んで呆れてしまった。
これと比較すると、前出のコメントの Stromdorf さんの批判がいかにまともであるか、よくわかる。なぜなら、Stromdorf さんの批判は、論拠のある批判であったからだ。つまり、「これこれの理由でその説はおかしい」というふうに、《 論理で 》批判していたからだ。
論理による批判にならば、論理によって答えることができる。それがこれまでの私の返答だ。
ところが、上記のサイトの批判(?)は、論理がない。かわりに、ただの文学的な悪口だけがある。これは、論理による批判がないのだから、返答のしようがない。
上記のサイトには、論理が何一つない。あるのは、次の一言だけだ。
「南堂はドーキンスの説を読んでいない」
しかし、私が何を読んだか読まないかということは、論理の問題ではない。それはその人の勝手な推定だ。その推定が正しくても正しくなくても、そんなことは論理ではなくて、ただの個人的な日記の問題である。そんなことは議論の対象にはならないのだ。
「南堂は(たぶんドーキンスを読んでいないから)ここをこう誤読している」
というのは、いくらか議論の対象になるかもしれない。しかし、それが正しいとしても正しくないとしても、そんなことは、議論に入るか入らないかの問題であるにすぎない。仮にそれが正しいとしたら、
「南堂の説は間違っている」
というふうにはならず、
「南堂の説はドーキンスの説を論じていない」
というふうになるだけだ。
なのに、「誤読しているからトンデモだ、間違いだ」と決めつける。頭の論理回路が狂っているとしか思えない。
比喩的に言おう。私はフランス料理の本を読んでいない。だからフランス料理の仕方を知らない。で、勝手にフランス料理の話をしたら、単に「フランス料理のことを知らないで話しているから、フランス料理については何も語ったことにならない」というふうになるだけだ。ただの門前払いである。
これは、正しいとか間違っているとか以前のことだ。もちろん「トンデモだ」ということにはならない。単なる無知であるだけだ。無知であるなら無知であると評価すればいいだけのことであって、いちいち「トンデモだ」などと批判する必要はないのだ。
もし議論をするならば、「南堂はここではガーリックを使えと述べているが、ガーリックではなくてガーリック・オイルが正しい」というふうに、具体的に論理的に述べるべきだ。それならば、議論になる。一方、
「彼は本を読んでいないから無知だ、ゆえに彼はただのトンデモである」
というのは、議論ではなくて、ただの悪口であるにすぎない。多大な分量の文章を費やして、ただ「馬鹿、間抜け」と悪口を書いているだけだ。無内容。
彼のために指摘しておこう。まず、次の言葉を引用しよう。
> 要するに南堂氏は陥りやすい誤りに陥った上で、ドーキンス説を批判しているだけ。
こういう勘違いをしないでほしいものだ。すでに前述のコメントで、何度も指摘したことだが。
とにかく、「ドーキンス説は駄目だ」「ドーキンス説を批判する」という言葉を、字面どおりに読まないでほしい。子供じゃないんだから、字面を読んで理解したつもりにならないでほしい。
正確には、私が言っているのは、「ドーキンス説を批判している」のではなくて、「ドーキンス説を拡張するべし」ということだ。
( → http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_82.htm#chu )
核心的に言うなら、「個体は遺伝子の乗り物だ」という発想を否定している。ここでは、「遺伝子淘汰」という概念を否定している。その意味は、こうだ。
以上のこと。ただそれだけである。
遺伝子の増減を考えるときに、「単独の遺伝子」の増減を考えるのでなく、複数の遺伝子からなる「遺伝子セット」の増減を考えるべきだ、ということ。つまり、遺伝子の相互影響を考慮するべきだ、ということ。
ここでは、ドーキンス説の《 一部だけ 》を否定しているにすぎない。一部の否定をもって、「ドーキンス説(の全体)を批判している」というふうに解釈するのは、間違いだ。
上記のサイトは、あまりにも馬鹿げている批判だから、次のように言い換えて説明しておこう。
南堂は、ドーキンス説を否定していない。ドーキンス説を基本的には肯定している。ただし、ごく一部を、拡張している。──これが南堂の説の正確な認識だ。
ゆえに、「ドーキンスの説を基本的には肯定している」という南堂を、「トンデモだ」と批判するのであれば、その人自身は、「ドーキンスの説をほぼ肯定する」ということを、否定していることになる。
ドーキンス説をほぼ肯定する南堂をトンデモ扱いするなら、その人自身が、ドーキンス説を批判するトンデモであるわけだ。自己矛盾。
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【 注記 】
「その言い分は、ドーキンス説をトンデモ呼ばわりした前述の話と違うじゃないか。話が違うぞ」
という文句も来そうだ。そこで、説明しておこう。
実は、先の話も今回の話も、どちらも正しい。要するに、ドーキンス説は、真っ白ではなくて、灰色なのである。白い部分も、黒い部分もある。
今は多くの人が「白だ」(真実だ)と思い込んでいる。だから前回は、「そうじゃないぞ」というふうに強調して、「白じゃなくて、黒っぽいぞ」と主張したわけだ。
すると、「ドーキンス説は黒扱いするのか? しかし、黒じゃないぞ」と上記のサイトの人が批判している。だから今度は、「そうじゃないぞ」というふうに強調して、「黒じゃなくて、白っぽいぞ」と主張しているわけだ。
本当は、ドーキンス説は、白でもなくて黒でもなく、灰色である。つまり、ドーキンス説は、だいたいは正しいが、一部分を修正する必要がある。つまり、中間的な灰色だ。それが科学的な認識だ。
なのに、「『黒だ』と叫んだから南堂は嘘つきだ」と批判しているのが、上記のサイトだ。実際には「黒だ」とは叫んでいないのに、勝手にそう思い込んで、批判しているわけ。「南堂はドーキンス説を批判しているからトンデモだ」と。何を勘違いしていることやら。
これはただの悪口の羅列であって、科学的でもないし、議論の対象にもならない。一種の文学趣味。(言葉の引用があるだけで、論拠はなし。文学ですね。文芸評論として、テキスト批評でもやっているつもりなんでしょう。)
その点、Stromdorf さんの批判は、論拠がありました。これなら、議論になります。
──
おまけで一言。
どうも、上記サイトの人は、「南堂はドーキンスの批判をすることを目的としている」「南堂はどうしてもドーキンスを批判したがっている」と思い込んでいるらしい。
しかし、自分が他人の悪口を言うのに熱中しているからと言って、南堂もまたドーキンスの悪口をいることに熱中しているのだろうと思い込まないでほしいものだ。
私にとって大切なのは、真実の探求だけであって、他人の批判ではない。「南堂はドーキンス批判をしたがっている」と思い込んでいる時点で、とんでもない勘違いをしていることになる。
私は別に、ドーキンスの悪口を言っているのではない。ドーキンスの説を拡張しようとしているだけだ。「遺伝子単位で考えず、遺伝子セットで考えよ」というふうに。つまり、「遺伝子間に相互的な影響がある」ということにもとづいて、「遺伝子のかわりに遺伝子セットで増減を考える」という発想を取るべきだ、と言っているのだ。
そして、ここでは、「相互的な影響がありますね」というふうな、単なる感想を述べるだけでは済まないのだ。感想ではなく、メカニズム的な究明が必要となる。そのためには、まさしく、根源的な認識態度を、全面変更する必要がある。
(感想を述べればそれでOK、と考えているのが、上記サイトの人。)
なお、私は、ドーキンス個人を否定しているのではない。ドーキンスの説は、その時点では、非常に画期的な業績となっている。歴史的には、大いに意義のある成果だ。称賛するに値する。
ただし、その説は、完璧ではない。完璧ではないものを完璧だと信じている人がいるなら、そういう人々は批判されねばならない。私が批判しているのは、ドーキンス説を盲目的に信じる人々なのだ。ドーキンス個人ではない。
ドーキンス説は、完璧ではないがゆえに、拡張される必要がある。どんな学説であれ、完璧ではないのだから、完璧でない部分を修正される必要がある。──そういうことがわからない人が、「ドーキンス説は完璧だから、それを批判する異端の説はトンデモだ」と主張して、科学の進歩を阻止しようとするのだ。
完璧なる自己肯定。あらゆる批判の拒否。他人から受ける批判を徹底的に曲解する。「だいたいは正しいですけど、この箇所だけは、部分的に変ですよ」と批判されると、自分を全否定されたと感じて、「おれを全否定するのか。おまえはトンデモだ」といきりたつ。聞く耳持たず。
はっきり言って、こういう人とは、話をしたくありません。
p.s.
なお、このあとどうしても議論したい人がいたら、注文があります。
「南堂のドーキンス説批判は間違いだ」
というような馬鹿げたことを言わないでほしい、ということです。なぜなら、私はドーキンス説批判をしていないからです。批判をしているのではなくて、拡張をしているのです。
ゆえに、このあと議論したいのであれば、
「南堂の拡張の仕方はおかしい・間違っている」
というふうに、「拡張」そのものについて議論してください。
さもなくば、議論にはならず、ただの口喧嘩になるだけです。そんなのはお断り。時間の無駄。
[ 注記 ]
本項を一言で言えば? こうだ。
「南堂は、ドーキンス説を批判したがっているのではない。そんなことはどうでもいい。そんなことは論点にならない。論点とするべきことは、別にある。その論点について語らずに、ドーキンス説への批判として十分な批判となっているか否かなんということは、論点の対象外である。議論にならない。議論にならないことを議論したくない」
要するに、「おまえはおれの悪口を言ったな」と喧嘩をふっかけてくる人に対して、「あんたの悪口を言うことなんか、私の関心ではありません」と述べているのだ。
勝手に被害妄想に陥らないでほしいですね。
( ※ とはいえ、悪口を言うのが目的ではないにせよ、悪口を言ってしまったことは確かだ。村上ファンドの村上じゃないが、「たしかに言っちゃったんだから仕方ない」という感じ。ま、口が悪いのは、申し訳ありませんでした。ドーキンスさんには謝っておきましょう。)
[ 余談 ]
南堂は何で、こういう無駄な文章を書くのか? 暇な奴だな、と思う人もいるでしょう。はい。たまたま、これを書いているときに、暇な時間ができてしまったのです。(頭が仕事モードにならないので。)
で、暇つぶしふうに、これを書いたわけ。ま、ゲームやテレビで時間をつぶすよりは、マシでしょう。
読む方は、こんな駄文を読まされて困る? その通り。だから、本項の最初に、その旨を書いたでしょ。
それは「クラス交差」という概念の説明です。この概念では、
「増えるものは増える、減るものは減る」
ということは成立せず、かわりに、
「増えるものが減る、減るものが増える」
というふうになります。つまり、
「優者である遺伝子が減り、劣者である遺伝子が増える」
というふうになります。
換言すれば、
「優者が劣者になり、劣者が優者になる」
というふうになります。
では、なぜ、そういうことが起こるか? それはゲーム理論を見ればわかるとおりです。つまり、組み合わせしだいでは、「− と − の組み合わせが + になる」というふうになる場合があるからです。
こうして、「自然淘汰の逆転」とも言うべきことが起こる場合があります。遺伝子の相互影響に着目すると、こういうことが判明します。
しかしながら、
「増えるものが増える、減るものが減る」
というふうにだけ考えていると、上記のことがわかりません。それは思考停止です。
この思考停止を脱するべし、というのが、クラス進化論の論旨です。
別に、何か or 誰かを否定するのが、クラス進化論の論旨であるわけではありません。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_82.htm#51
「二つの説の違いの核心」というセクションです。
最後の結論は、次の通り:
> クラス進化論へ批判者の多くが、この点を勘違いしている。
> クラス進化論がドーキンス説のどこを否定しているか、まったく
> 理解していないのだ。そのせいで、「クラス進化論はドーキンス説を
> 否定している」というふうに勘違いの主張をする。
という新項目を描きました。
次のページの紹介。
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/biology/class_83.htm
よく見たら、次のページで本サイトへの批判が書いてある。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080201
この人の誤読ないし誤解には、本当にほとほと困ってしまう。見当違いの批判ばかりを書いてくるからだ。
彼のいいたいことは、「南堂の説は間違っている」ということではなくて、「南堂はドーキンス説を正しく引用していない」ということだ。要するに、私の考える利己的遺伝子説と、彼の考える利己的遺伝子説とが、違っている。ま、そんなことは、学問の世界では、よくあることだ。××派の考える概念と、○○派の考える概念とは、同じ用語であっても、違う概念になる。そういうことは、よくある。「利己的遺伝子説」という概念もまた同様。
で、彼の言いたいことは、ドーキンスの原著に書いてあるものだけが利己的遺伝子説であって、それ以外のすべては利己的遺伝子説ではない、ということだ。だから、私の想定する「利己的遺伝子説」というものが、ドーキンスの原著の通りではないからという理由で、「南堂はドーキンスを読んでいない」と結論する。
これを比喩的に言うと、われわれが微積分学を微積分の教科書で勉強したときに、この人物はこう批判する。
「あんたはニュートンもライプニッツも読んでいないじゃないか。だからあんたは微積分学を学んだことにはならない。微積分学のことを論じるのであれば、ニュートンをライプニッツを読んで、原著の該当するページを示せ」
要するに、こういう人には、「学問は歴史的にどんどん発展する」ということが理解できないのである。そして、古典文学の研究者のごとく、一番最初の原典を重視する。これはつまりは「原典主義」である。ただひたすら原典との異同だけを論じる。(テキスト校正学?)
──
私が念頭に置いている「利己的遺伝子説」は、ドーキンスそのものの説ではない。ドーキンスのがあとで広がったものだ、と見なしてほしい。だから、それがドーキンスの原著にないとしても、ごく当たり前のことだ。
で、そのようにして「利己的遺伝子説」と呼ぶのが気に食わないのであれば、「ここで言う利己的遺伝子説とは、ドーキンスの説そのものではなくて、そのエッセンスを取って発展させたものだ」と定義し直せばいい。その上で、「現代の利己的遺伝子説の論者は、(サイエンスライターの)××氏などである。利己的遺伝子説の創始者の座は、彼らのものである」とでも呼べばいいだろう。そういう馬鹿げたことをしたければ。
で、その場合には、「ドーキンスは、今日の利己的遺伝子説には、何ら貢献していない。彼は利他的行動も何にも貢献していない」という、馬鹿げた結論になる。
──
いずれにせよ、こういう論議は、あくまで言葉の用語の問題であって、本質とは何の関係もない。「原典にあるかないか」なんてことを論じたければ、文学部に入ればいいのだ。
どうせなら、生物学に論じてほしいですね。たとえば、「血縁淘汰説や利己的遺伝子説では、血縁者(妹)を通じて、たくさんの遺伝子が残せる」と言われるが、それは正しくない、と私は論じた。つまり、ハミルトンやドーキンスの主張は根源的に狂っている、と論じた。
→ http://openblog.meblog.biz/article/281506.html
こういうふうに学術的な事実関係のレベルで論じるのが、学問というものである。「原文に書いてあったかどうか」なんていうことを論じたければ、文学部にでも行って文学研究でもしていればいいのだ。
繰り返す。
何かを論じたければ、学問のレベルで論じるがいい。字面で論じるべからず。用語が気に食わないのであれば、「用語を書き直すべし」とだけ注文するべし。ただし、用語をどう使うかは、人それぞれであるのが普通だ。
最後に一言。
利己的遺伝子説というのは、ドーキンスの専有物ではない。万有引力の法則がニュートンの専有物ではないのと同様だ。量子力学がシュレーディンガーの専有物ではないのと同様だ。したがって、そのよう語の意味するものも、時間的に変遷していく。最初の提出者の唱えたものだけが絶対的なものだ、と考えているようでは、その発想自体が根源的に狂っている、としか言いようがない。
なるほど、文学ならば、作品は著者の専有物だ。マクベスはシェークスピアの専有物であり、後世の誰もがそこには貢献していない。その場合には、「後世の出版物の異同」という校正学は成立するし、原典を絶対視する立場も成立する。しかしそれはあくまで、文学である。
科学に文学を持ち込むべからず。科学者は言葉遣いでなく事実関係のみを論じるべし。他人の言葉遣いだけに難癖をつけて、事実を論じない人の行為を「揚げ足取り」と言う。
この人は、学問の方法というものを、根本的に間違えていると思う。
学問というものは、専門論文を読んで、正しく理解して、それを修正・発展することではない。それは二流の人物のやることだ。
たとえば、数学の定理があるとしよう。ここで、どうするか? 定理の証明をしっかりと読んで、その定理を発展させるべきか? ま、そうする人もいる。しかし、真に能力のある人は、そんなことはしない。では、どうするか?
数学の定理を見たら、その定理(つまり結論)だけを見て、証明は見ない。証明はすべて自分で考え出す。自分の頭でゼロから作り出す。……これがまともな数学者のやり方だ。他人の業績をいちいち逐次的に理解することなんかはしない。エッセンスだけを知ったら、自分の頭で独力で構成するものなのだ。そして、そのあとで、自分の証明と、元の証明とを、照合する。(自分の証明が間違っていることもあるので、チェックするわけだ。)
まともな数学者ならば、誰もがそうしている。たとえば、藤原正彦もそうしている(いた)。この人が、元の定理を発展させた別の定理を生み出したとき、「あんたの定理では、証明が最初の人の証明法とは違っているぞ。あんたは最初の人の定理を読んでいない。ゆえにあんたの定理は無意味だ」などと批判するのは、馬鹿げている。
科学の世界で大切なのは、真実か否かだ。誰かの原典に合致しているか否かなどは、どうでもいいことだ。そのことがわからない人が、やたらと字句レベルで揚げ足取りをする。
( ま、そうしたがる気持ちは、わからなくもないが。)
ドーキンスの利己的遺伝子説の核心は、
「個体は遺伝子の乗り物である」
ということだ。これは、
「遺伝子が個体行動に影響する」
とも言えるが、比喩的には、
「遺伝子が個体を操作する」
と言える。ただしこれを直接そのまま理解すると不都合なので、
「遺伝子が個体を《 直接的に 》操作するのではない」
という意味のことをドーキンスは注釈した。
ところがここを誤読して、
「遺伝子が個体を操作することはない(まったく操作しない)」
と思い込んでしまった人がいた。この人は、
「遺伝子が個体を《 間接的に 》操作する」
ということ( ※ )を理解できないわけだ。
※ http://openblog.meblog.biz/article/266957.html
利己的遺伝子説というのは、間違いというよりは、不正確なのだ。「操作する」というのが曖昧だから、「間接的に操作する」というふうに言い換えれば、うまく修正される。私が主張しているのは、そういうことだ。
で、ドーキンスの説は、もちろん、「自分が何に気づいていないか」ということについては書いていない。だから、そんなことは原典のどこにも見出せない。当然、私は、原典に見出せないことを書いている。で、そういうのを見出して、下らない揚げ足取りをする人が現れるわけだ。
まず、よくあるドーキンス批判は、次のものだ。
「ドーキンスは『遺伝子は個体を操作する』と述べているが、それは間違いだ」
これに対しては、
「ドーキンスはそんなことは言っていないぞ。ドーキンスを読んでから批判せよ」
という再批判は成立する。
しかし私の主張は、こうだ。
「ドーキンスは『遺伝子は個体を操作する』と述べているが、それは基本的には正しい(ただし部分的に修正する必要がある)」
ここではドーキンスの説を、「間違い」ではなく「正しい」と述べている。これに対して「それはドーキンスの説じゃない」というふうに難癖をつけるとしたら、いったい私はどうすればいいというのか? 「ドーキンスの説は正しい」と語るかわりに、「竹内さんの唱えた利己的遺伝子説は正しい」と述べて、「ドーキンスは(比喩以外に)何の業績も上げられなかったが、竹内さんは利己的遺伝子説によって社会生物学に多大な業績を上げた」とでも言えばいいのか? 馬鹿げている。
「遺伝子は個体を操作する」という発想は、ドーキンスの偉大な業績なのである。私としてもそれを認めるし、それを批判するつもりはない。ただ、私としては、それを少し修正して、間に「本能」というものを挟むだけだ。
で、そういう方針が気に食わないのであれば(つまり、「ドーキンスはそんなことは言っていない」というのであれば)、すべてを竹内さんか私の業績にしてもらいたいですね。
「遺伝子は個体を操作する」という画期的な発想は、ドーキンスの発想ではなく、竹内さんか南堂の発想である、と、あちこちで書いてもらいたい。私としては、その偉大な業績をちょうだいできるのであれば、まったくありがたく受け取りたいですね。 (泥棒みたいだけど。 (^^); ただし、ドーキンスの業績を盗むのは、私ではなくて、N氏です。)
普通の水掛け論議は、自分にとって「不利」な言明を否定しようとして、「おれはそんなことを言っていないぞ」というふうに弁解する。
本件の水掛け論議は、ドーキンスにとって「有利」な言明を否定しようとして、「ドーキンスはそんなことを言っていないぞ」というふうに主張する。
つまり、「遺伝子は個体を操作する」という(社会生物学上の)偉大な業績について、
・ 本サイト …… それはドーキンスの業績である。
・ NATROM …… それはドーキンスの業績ではない。
というふうに対比される。
NATROM 氏はよほどドーキンスの業績を否定したいらしい。だから私がドーキンスの業績に言及するたびに「ドーキンスはそんなことを言っていないぞ。言っているのなら原文を引用せよ」というふうに述べて、あくまでドーキンスの業績を否定しようとする。(よほどドーキンスを憎んでいるのだろう。彼の業績を何が何でも否定しなくてはいられないようだ。)
なるほど、ドーキンスは私が述べたとおりのことを直接的に言ってはいない。しかし全体としてはそういう趣旨のことを述べているのだ。とすれば、私が簡単にまとめたような業績を上げたのは、まさしくドーキンスである。社会生物学全般を構築するような偉大な業績を上げたのは、まさしくドーキンスであって、日本のどこかのサイエンスライターなんかではないのだ。
NATROM 氏がどうしてもドーキンスの業績を否定したいのであれば、彼自身が「ドーキンスの文章にはその趣旨が全然見られない」というふうに、はっきりと主張すればいい。誰かの業績を否定したいときには、その原典によるべきだ。
つまり、彼の言葉は、まさしく彼自身に向けられるべきものなのだ。彼がドーキンス否定論者なのだから。
一方、私は、ドーキンス擁護論者だ。ドーキンスの主張を、言外の意も汲み取って、多大に評価するとしても、そのことでドーキンスから文句を言われる筋合いはない。むしろドーキンスからは「私は本当はそう言おうと思っていたんですよ。書いていないことを理解してくださって、ありがとう。私の業績を正当に認めてくれて、ありがとう」と感謝されるだろう。
NATROM 氏がどうしてもドーキンスの業績を否定したいのであれば、彼自身が原典にのっとってドーキンスの業績を否定すればいい。私に矛先を向けるのは、とんだお門違いだ。