日弁連はなぜ負けたのか?(5)
平成12年8月、日弁連は合格者3000人を事実上受け入れた。これは、司法制度改革審議会という枠内において、日弁連が取り得た唯一の選択肢であり、要するに敗戦処理であった。なぜ日弁連がこのような苦渋の選択をしなければならなかったかと言えば、それは、司法制度改革審議会が発足した時点において、すでに勝負はついており、後は日弁連にとって「どのように負けるか」「どうやったら損害を最小限度で食い止められるか」という選択肢しか残されていなかったからである。
余談になるが、戦争の指揮官にとって戦場の選定が非常に重要であるように、弁護士にとって、闘いの枠組みをどう決めるかは、具体的な戦い方より重要である。誰を相手に裁判を起こすか、どこの裁判所に訴訟を起こすか、どのような法律構成を取るか、という選択が、具体的な主張より重要である場合は極めて多い。弁護士が紛争解決のプロであるという言い方は、言い換えれば、紛争解決の枠組みを作るプロである、ということだ。
日弁連執行部に就任する弁護士は、言うまでもなくプロ中のプロである。そのプロが、なぜ、司法制度改革審議会という、非常に不利な戦場に追い込まれ、負け戦を余儀なくされた挙げ句,自ら敗北を認めるような体たらくに至ったのか。
今回いろいろ調査してみて、これを歴史的に遡ろうとすると、昭和30年代くらいまで行きそうなことが判明した。しかし、直接関係し出すのは昭和62年ころからのことである(これ以降の経緯は東北大学大学院教育学研究科研究年報「法曹養成をめぐる制度と政策 法曹三者の力学を中心として」石井美和に詳しい)。そこで次に、司法制度改革審議会設置という歴史的ターニングポイントへの歩みを見てみる。(小林)
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