日弁連はなぜ負けたのか?(4)
平成12年5月から8月にかけて、当時の日弁連執行部(久保井一匡会長)と元日弁連会長の中坊公平委員は、司法制度改革審議会において、合格者3000人の受け入れに動いた。当時日弁連の公式見解は1000人堅持であったにもかかわらず、なぜこのような動きになったのか。これは高山俊吉候補の言うとおり、弁護士への裏切り、権力へのすり寄りなのか。
私は、この日弁連執行部の一連の行動は、当時の情勢からはやむを得ない選択であったと考える。その根拠は、次のとおりだ。
第1に、司法制度改革審議会の構成である。前述したとおり、前13人の委員のうち、弁護士は3名、うち日弁連の事実上の代表者はたった1名である。いかに中坊公平委員の声が大きくても、12対1となっては多勢に無勢、勝負にならない。もうひとつ見落とせないのは、委員の任命権が内閣にあり(司法制度改革審議会設置法4条1項)、これに基づいて任命された3名の弁護士委員がいずれも「元裁判官」「元検察官」「元日弁連会長」であって、現役でない点だ。これは非常に重要である。司法制度改革を標榜する委員会であるのに、裁判所・検察庁・日弁連の現役の代表者ではなく、「出身者」しか委員にならせてもらっていない、しかも法曹三者合わせても13分の3でしかない、という点は、法曹三者から見れば、屈辱的な扱いである。つまり、司法制度改革審議会は、当初から、「今後の司法制度の在り方について、国は法曹界の意見を聴きませんよ」というメッセージのもとに設置されていると言って過言でない。
第2に、法科大学院(ロースクール)構想との関係である。先に指摘したとおり、13名の司法制度改革審議会の委員のうち、最大である5名を学者が占め、会長は佐藤幸治京都大学名誉教授である。また、政府が司法制度改革審議会設置法案を決定したと報じられたのが平成11年2月5日であり、その翌月11日には、文科省に「法学教育の在り方に関する調査研究協力者会議」第1回会議が招集され、ロースクール構想についての検討に入っている。この会議はその後「法科大学院(仮称)構想に関する検討会議」となり、平成12年5月30日に第1回会合を開催し、7月26日の日経では、「ロースクール構想の衝撃 法科大学院構想がにわかに現実味を帯びてきた」と報道された。そして、この検討会議は、司法制度改革審議会集中審議第1日目(つまり、3000人構想が初めて議事録に掲載された日)に、法曹教育として法科大学院制度を導入する場合の基本事項を発表している。その翌日には、3000人構想が「おおむね一致」と発表されているのだ。つまり、司法制度改革審議会は、その設置当初から、法科大学院構想と一体のものだったのである。大学側としても、法科大学院を設立する以上は、ある程度以上の人数を受け入れないと経営が成り立たないし、一定以上の合格率が保証されていないといけない。この点、自民党の「法曹養成に関する小委員会」の太田誠一委員長は、法曹人口をフランス並みにすること、ロースクールの開校を広く容認すること、を表明している(平成12年5月16日日経新聞)。このように法科大学院開校を目論む大学側としては、合格者数3000人は、大学経営上最低ラインの数字だったと思われる。
第3に、司法制度改革審議会外部の動きである。平成12年4月21日は、経済人らで構成された「司法改革フォーラム」(会長・鈴木良男朝日リサーチセンター社長)は、2011年までに法曹人口を9万人に増やす提言を発表した。同年5月18日には、自由民主党司法制度調査会が、「21世紀の司法の確かな一歩」と題する意見書を発表し、フランス並みの法曹人口を求めている。さらに、平成12年6月9日に発表された「司法制度改革審議会に対する米国政府の意見表明」は、法曹人口について、「法曹人口を劇的に増加させるためのあらゆる方策を積極的に検討されること、同時に、自由民主党司法制度調査会の意見書『出発点』として勧告されることを強く要望します。」と要請している。平成12年5月13日の日経新聞は、「司法制度改革審議会の議論は、法曹や大学関係者よりで、利用者の方を向いていない。」という森稔森ビル社長の発言を紹介し、同審議会の議論に経済界が苛立っていると報じている。このように、平成12年5月以降、政府、財界及びアメリカは、法曹人口を最低でもフランス並みにせよ、という強いメッセージを司法制度改革審議会に発していたのである。
この情況で、日弁連としてはどのような対応が可能であっただろうか。中坊公平委員が当時の日弁連の公式見解である1000人に固執しても、12対1で、結論として最低「フランス並み、年3000人」になったであろう。中坊委員が席を蹴れば、内閣は「これ幸い」と、日弁連とは無関係の委員にすげ替えた可能性さえある。それどころか、財界やアメリカの要求に応じて、さらなる法曹人口増大(例えば9万人)を決議していた可能性さえあった。つまり、「フランス並みの5万人、合格者3000人」は、日弁連にとって唯一の選択肢だったというほかはない。これは想像だが、おそらく中坊―久保井ラインは、「3000人に最も反対しそうと思われている日弁連委員が、率先して3000人を容認する発言を行うことで、それ以上の増員への流れを封じる」という、かなりアクロバティックな作戦を実行したと考える。
歴史的に見れば、司法制度改革審議会が発足した時点で、日弁連の敗北は決定しており、あとは「どのように敗北するか」という選択肢しか、日弁連に残っていなかったのだ。中坊公平委員は、高山俊吉候補の指弾する戦犯ではなく、敗戦処理投手だったとみるべきだろう。この時点で敗戦は決まっていたからだ。歴史にIFは無いが、もし日弁連が3000人未満の合格者数という「勝利」を得る可能性があったとすれば、それは、司法制度改革審議会発足前であったことになる。(小林)
「日弁連はなぜ負けたのか?(1)~(8)」は小林正啓の個人的見解であり、日弁連会長候補者及びその選挙事務所の意見とは一切関係ありません。
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