日弁連はなぜ負けたのか?(1)
今回の日弁連会長選挙に立候補しているのは大阪弁護士会所属の宮﨑誠弁護士と、東京弁護士会所属の高山俊吉弁護士である。そこで最大の争点となっている司法試験合格者3000人問題だが、実は、私自身、いつどのようにして3000人という数字が決まったのか、よく知らなかった。高山俊吉候補は、「中坊公平が勝手にやった」と主張するが、事実認定を仕事とする弁護士としては、裏付けを取らずに、高山弁護士の言葉を額面どおり受け取ることはできない。そこで、「日経テレコン21」や、「電子政府の総合窓口」などを駆使して、歴史をひもといてみた。
私のおぼろげな記憶では、日弁連は最初800人、その後1000人で頑張っていたはずである。その立場からすれば、3000人は明らかな敗北だ。では、日弁連はいつ敗北したのだろうか。
調査の結果判明したことは、司法試験合格者数3000人という言葉が公式見解として初めて登場するのは、平成12年(2000年)8月7日の司法制度改革審議会集中討議第1日目の席上、「フランス並みの法曹人口(5~6万人)を目指すとすれば、年3000人としても実現は2018年になる。ミニマムの数字として年3000人合格を提言するべきだ。」という発言のときである(議事録上発言者は不明)。同日は結論が出ず、翌日に持ち越しとなる。ところが、翌8月8日、集中討議第2日目終了後の記者会見で、佐藤幸治会長は、「年3000人の合格者でおおむね一致」と公表する。その僅か3週間後の8月29日、当時の久保井一匡日弁連会長が司法制度改革審議会に呼ばれ、「日弁連として年3000人を受け入れることは可能」との見通しを表明し、11月1日、9時間近くに及び紛糾した異例のロングラン臨時総会において、賛成7437票、反対3425票で、3000人を事実上受け入れる決議を採択した。
つまり、3000人が事実上決定したのは平成12年8月8日であり、日弁連会長の受諾は同月29日、日弁連が組織としてこれを受け入れたのが同年11月1日ということになる。このとき、法曹人口問題で日弁連は敗北したのだ。
では、なぜ、日弁連は敗北したのか。また、敗北といっても完敗から惜敗まで程度がある。そこで日弁連はどの程度敗北したのか。そこが次の問題である。(小林)
「日弁連はなぜ負けたのか?(1)~(8)」は小林正啓の個人的見解であり、日弁連会長候補者及びその選挙事務所の意見とは一切関係ありません。
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