2005年03月10日

日本(14)-東京大空襲

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 (旧暦  2月 1日) 金子みすゞ忌  童謡詩人、金子みすゞの昭和5年(1930)の忌日。 西条八十から「若き童謡詩人中の巨星」と称えられましたが、結婚後夫から詩作を禁じられ、また夫から病をうつされた末、自ら命を絶ちました。

 「東部軍管区情報、駿河湾を北上中の敵数梯団は東京に向かう模様、関東地区警戒警報発令」

 「南方海上ヨリ敵ラシキ数目標、本土ニ接近シツツアリ」
 「第一、第二目標ハ、南方海上ニ退去セリ」
 「第三目標ハ房総方面ニ北上中」
 「ナオ新タル数目標ハ、南方海上ニ退却」
 
 昭和20年(1945)3月9日22時30分、東部軍管区は「警戒警報発令」、2機のB29が帝都上空に飛来して房総沖に退避したため、帝都の人々はほっと安心していました。

 翌3月10日未明、米陸軍航空隊第21爆撃団のB29爆撃機325機は低空から帝都上空に侵入し、隅田川を挟んだ下町一帯の本所、深川、浅草方面に対し無差別爆撃を行いました。

 午前0時15分 「空襲警報発令」
 「東部軍管区情報。東部軍管区情報。空襲警報発令。敵B29大型数梯団は、東京上空を旋回中なり」

 この爆撃により、帝都の4分の1が焦土と化し、約18万棟の家屋が灰燼に帰し、約10万人の人々が犠牲になりました。
 これらのB29爆撃機は、3月9日の夕刻、グアム、サイパン、テニアンの3島から離陸し、編隊を組まずに順番に単機で帝都東京まで2250?を飛行し、爆撃を行いました。各々1機につき通常の約3倍に当たる6トンもの爆弾および焼夷弾を搭載していたと云います。

 先導機により房総方面から帝都上空に侵入した各梯団は、高度1500〜2800mの低高度から肉眼照準による無差別爆撃を開始し、10日午前0時8分、深川区(現江東区)木場での最初の着弾火災より約2時間半にわたり、約2000トンの爆弾と焼夷弾を投下しました。

 当時、成人男性の多くが徴兵されていたため、犠牲者の大半が女性や高齢者、子どもでした。
 夜が明けると、路上の至る所に焼死体が折り重なり、本所、深川、城東などの公園、寺院等の48ヶ所に、6万2343人が仮埋葬されたと云われています。

 戦後に発表された経済安定本部の「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」によれば、空襲による23区内の死者・行方不明者は、江東区39,782名、墨田区27,436名、台東区17,664名をはじめとして、我が板橋区の602名を含む101,387名が犠牲となりました。

 今日は、あの3月10日の帝都大空襲からちょうど60年を迎え、村議会では午後1時から犠牲者のご冥福を祈り、1分間の黙祷を行いました。
Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:13│Comments(0)TrackBack(0)歴史/日本

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