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金子みすゞの世界〜東京大空襲
写真集
東京大空襲とは〜読売、毎日、東京新聞、東京MXニュースより

 米国のケネディ、ジョンソン両政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラ(04年1月現在87歳)は、読売新聞に対して東京大空襲関する以下のコメントをしている(04年1月31日付『読売新聞』)
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 「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ
「1945年3月の空爆の日、私はグアムにいた。私はこの作戦の一員で、いかに効果的かつ低コストで空爆が実行できるかを調べる米軍の分析官だった。空爆の主役は、1943年末に導入されたB−29爆撃機。ルーズベルト大統領は、新型兵器(B−29)を最初インドと中国に配備した。これは遠すぎて失敗だった。結局、グアム、サイパンなど太平洋の島々が出撃拠点となった。我々は東京や名古屋、富山といった日本の主要都市に67回の空爆を加えた。日本はこの時点でほとんど壊滅状態となった」
なお、マクナマラは、ハーバード大準教授から太平洋戦線に駆り出され、第2次大戦後、フォード社に入り、シートベルト普及の立役者等として活躍、社長に就任、61年のケネディ政権発足とともに国防長官となり、次のジョンソン政権まで7年間在職、キューバ危機、ベトナム戦争に深くかかわり、68年から13年間、世界銀行総裁も務めた95年に出版した回顧録では、「ベスト&ブライテスト」と言われたエリート集団がなぜベトナム戦争を間違った方向に導いたかを当事者として暴露し、大きな話題を呼んだマクナマラを主役にしたドキュメンタリー映画「The Fog Of War」(仮訳・戦争の霧)が、第76回アカデミー賞のドキュメンタリー賞部門でノミネートされた(04年1月31日付『読売新聞』)。
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 「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ
齠結梠蜍襲60年 亡き家族への思い
 東京大空襲から今年で60年。空襲で生き残った家族が60年間抱え続ける思いを取材しました。
 葛飾区に住む船渡和代さん72歳。12歳のときに城東区大島町で空襲を体験しました。当時は国民学校の6年生で集団疎開から昭和20年3月3日に戻ってきたばかりでした。自分の帰りにあわせて、6歳の妹裕子さんも疎開先から戻り、家族全員が揃いました。
 空襲の日。船渡さん爆撃のすごい音で目は覚めていましたが、怖くて妹と二人で布団の中で固まってたところを叩き起こされたそうです。そして家族で寄り添って逃げましたが、新開橋で家族とバラバラになってしまいました。今思えばそんなに大きな橋でもなかったという新開橋。この新開橋で、両親と3人の兄、そして弟が、次々に叫んだり背中が燃えたりしながら、火の勢いに足をとられ飛ばされていく姿を目にします。
 船渡さんは恐怖の中、大やけどを負った妹の裕子さんと、橋近くの防空壕に伏せたまま、爆撃や火風が通り過ぎるのを待ち、助かりました。一緒に手をつないで逃げた6歳の妹裕子さん。船渡さんは防空壕の中で、大やけどしていた裕子さんを少しでも暑さからやわらげたいと思い、一生懸命土を掘って手をうめさせたり、焼け残った交番の水道で泥だらけの手で裕子さんに水を飲ませたりしました。しかし、やけどの傷口から体に土や泥の破傷風菌が入ってしまい、裕子さんは空襲から10日後の3月19日に亡くなりました。もうたまらない気持ちで、全部私の責任だって思い込んでしまったと、船渡さんは話しました。
 あの空襲で船渡さんの家族は5人亡くなりました。「10人の家族がバラバラになってしまった新開橋に来るのは本当につらいです。(裕子さんの)あついあついって声が耳に残ったり、小さな手の感触っていうのは60年たっても消えないですね」と船渡さんは話しました。(2005年2月15日 東京MXニュースより)
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 「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ
「Oh, Atsuko, Ryoko And Kiichi !(敦子よ,涼子よ,輝一よ)」
   火の手に追われ、飛び込んだ東京・本所区東駒形(現・墨田区)の横川国民学校のプールで、背中におぶった8カ月の双子の姉妹は、次第に重くなって息絶えた。4歳の長男も「赤ちゃんは大丈夫?」と妹たちを心配しながら、森川さんの腕の中で力を失っていく。
 <「…輝一、かあちゃんおいて行かないで」私は輝一の意識を呼び戻そうと声を限りに呼びつづける。この子を死なしてどうしよう。輝一だけは助けよう。私の姿はさながら狂女のようであったろう>(05年3月9日付『東京新聞』)。
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 「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ
 1945(昭和20)年3月10日未明の東京の下町に対するアメリカ軍の無差別・大量空爆をいい、それは、いわゆる「15年戦争」で唯一日本における地上戦となった沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶジェノサイド(大量虐殺・集団殺害・集団殺戮)を意味した。
 それはまた、「重慶の遺産」であり、日本の国民は、中国・重慶の市民が日本軍により味わった悪夢を追体験(他人が体験した事柄を、解釈作業などを通して自分の体験として再現すること)するところとなる。
   ところで、米軍機の日本空襲は1941年12月8日のパールハーバー奇襲によって開始された開戦翌年の1942(昭和17)年4月のドゥリットル中佐指揮のB‐25中型爆撃機16機による奇襲が最初だった。米軍の太平洋上の航空母艦から発進し、東京・名古屋・神戸を攻撃して中国浙江(せっこう)省の基地に着陸したこの奇襲は、空爆による被害より、日本の軍部中枢部や日本国民に与えた衝撃のほうがはるかに大きかった。それまで日本国民は大本営発表の連戦連勝を信じて疑わなかったからである。
米軍による日本本土に対する本格的空爆は、1944(昭和19)年夏のアメリカ軍の日本占領地のマリアナ諸島を奪還した時から始まった。それは、日本本土空爆のために開発された「超空飛ぶ要塞」といわれた新鋭長距離超重爆撃機B―29(ボーイング29スーパーフォートレス=ボーイング社製)の爆撃圏に入ったことによる。
  日本国民の戦意を打ち砕くため、アメリカ軍は民間に対する夜間の無差別攻撃を計画した。それが東京・大阪・名古屋の大都市に対するB‐29よる焼夷弾(しょういだん)爆撃である。落ちると火を吹く火災発生を目的とした爆弾(焼夷とは、焼払うこと)である焼夷弾こそ、日本の木造住宅(ペーパーハウス)を焼き尽くすために開発された武器であった。
またそれは、「戦争を早く終結させるために一般市民の士気をくじく」という、いわゆる「ドゥーエ理論」に基づいた恐怖爆撃の手法であったが、日本軍の重慶無差別空爆に際して、日本軍の重慶空爆を国際法違反とし激しく攻撃し、さらにドイツがポーランドに侵攻した1941年6月22日にも、人道的見地から市民を襲う都市空爆をしないよう呼びかけた米大統領ルーズベルト(1945年4月12日急死)による敢行でもあった。
  米軍の空爆に対する日本側の防空体制は、「お粗末」の一言で表現される弱体そのものであったが、B‐29による東京に対する空爆は、1944年11月24日から敢行された。そして同月29日には最初の夜間焼夷弾攻撃が行われ、以後、翌年にかけて8月の敗戦まで連日・連夜のように約9か月続き、回数は30回に及び、飛来したB‐29はのべ4,900機、投下された焼夷弾は、実に38万9,000余発、通常爆弾も1万1,000発を超えた。
 東京大空襲は、43年7〜8月のハンブルク爆撃で功名をなしたC・ルメイ米空軍少将の指揮によって準備された。墨田区や江東区の下町が狙われたのは、日本の軍事工業を支える家内工業の集積地であったためである。
1945(昭和20)年3月10日午前0時8分(米軍記録7分)東京の下町深川(ふかがわ) に進入したマリアナ諸島を発進したB−29は、ルメイの指令により、それまでの高度1万メートルを越える「昼間高高度精密爆撃」から、高度1,800メートル以下の「夜間超低高度無差別爆撃」に作戦を変更、焼夷弾による「じゅうたん爆撃」を敢行した。
約2,000トンの日本の家屋用に開発したM69焼夷弾を装備した約300機のB‐29の攻撃による空爆による出火は強風にあおられ、猛烈な勢いで40平方キロを焼き尽く(焼失家屋は約27万戸)、罹災(りさい)者数は100万余人に達した。
約2時間30分の爆撃によって東京・下町一帯は灰燼(かいじん)に帰し(すっかり燃えて跡形もなく灰になってしまうさま)、「東京空襲を記録する会」の調査では死者数は10万人(警視庁調査では死者8万3,793人、負傷者4万0,918人)に達したのである。
その犠牲は、1945年2月13・14日の欧州最大規模の英米によるドイツ・ドレスデン爆撃のそれを(公式数字)はるかに上回るものであった。
 アメリカ軍はこの2日後の45年3月12日には名古屋、14日大阪、17日神戸、19、20日再び名古屋、29日北九州、翌4月13日には、東京・山手(やまのて)、15日は東京・横浜・川崎と、大都市への夜間空襲を継続、5月末にも東京空襲があり、こうした空襲で東京の市街地の50.8%が焼失、国民の恐怖は極限に達した。
 東京大空襲の1カ月前、45年2月13、14の両日、戦火を逃れた避難民で人口が倍にふくれあがっていたドイツの古都ドレスデンは英米の猛烈な爆撃を受けた。街は4日間燃え続け、死者は13万人を超えた。
東京大空襲作戦を指令したカーチス・E・ルメイ(LeMay,Curtis Emerson;1906年11月15日 〜1990年10月3日。1957年アメリカ空軍副参謀総長。キューバのソ連ミサイル基地建設に対し、アメリカが海上封鎖を断行、核戦争まで懸念された1962年のキューバ危機勃発時、キューバ空爆をケネディ大統領に提案するが却下される)司令官はその後、名古屋、大阪などの空襲や広島、長崎の原爆投下にも関与し、日本人から「鬼畜(きちく=鬼や畜生のように、人間らしい心をもっていない者)ルメイ」といわれた。
ルメイは戦後、「もし国際戦犯裁判がアメリカに対して行われたら、私は拘引され、人道に反する罪で戦犯にされたであろう。ただ幸いにして戦争に勝ったからそうならずにすんだ」と語っている。
日本政府はルメイに、「我が国防衛力の拡充強化に関して、米軍の対日協力、援助に寄与した」として、1964(昭和39)年12月7日(当時アメリカ空軍参謀総長)勲一等旭日大綬章(12月4日付)を授与したが、その直後の1965年2月、ベトナム戦争でルメイは北爆(アメリカがトンキン湾事件を口実に、以降北ベトナムに対して行なった連続的な爆撃で、ベトナム戦争に対するアメリカの本格的介入の第一歩となった)を開始する。
そのときルメイは、「この空襲(北爆)によって、北ベトナムを石器時代に戻してやるんだ」と語っている。
社会党はこの叙勲に反対、1964(昭和39)年12月5日に院内で中央執行委員会を開き、「第2次大戦中に広島、長崎の原爆投下を指揮したといわれる同大将に勲章を贈ることには反対である」として、橋本登美三郎官房長官にその旨申し入れ、同月7日の衆院予算委員会では辻原弘市(つじはらこういち=和歌山県2区)をたて、政府の態度を追及した。また、広島県労も、5日佐藤栄作首相(同年11月9日成立)あてに、「今回の叙勲は正当を欠くものである。とくに原爆をうけた広島市民として認めることはできない」との抗議電報を打った。
   広島、長崎の原爆被害にも匹敵するこの無差別殺戮はしかし、戦後60年間ずっと社会問題化されずにきた。これに関して早乙女勝元氏は、岩波ブックレット『東京大空襲60年 母の記録 敦子よ涼子よ輝一よ』(森川寿美子著)のあとがきで以下の5つの理由を挙げる
 「1.一家全滅の家族が多く、語り部が不在だった 2.遺族や罹災(りさい)者が地方へ離散した 3.その日暮らしの人が多く戦後は生きるだけで精いっぱいだった 4.占領軍(GHQ)のプレスコードで無差別爆撃の実態解明が規制された 5.公的な調査や救いの手がなかった」。とりわけ(5)の要素が重い意味を持つとみる。
空襲に対して、軍人軍属への国家補償はなされたが、民間の空襲被害者や障害者への補償はいっさいなかった。上の書の筆者で、東京大空襲3人の子と、5月25日の空襲で渋谷・穏田に住んでいた両親を失い、戦後2女誕生、玩具工場主の夫と下町生活を送る森川さんが手にしたのは、わずかに乾パン1袋だけだった。いま介護や年金問題でしわ寄せを受けているのが、高齢のこれら戦争体験者たちである。弱者を切り捨ててきたいびつな戦後政治の罪でもある
(05年3月10日付『東京新聞』−「筆洗」)
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   「負けたら我々は戦争犯罪人だ」。当時のルメイ米空軍少将の部下であったマクナマラ氏はそう語った。これに対してルメイは、「君は10万人を問題にするが、敵を殺さねばこちらに何万も犠牲が出る」と語った(映画「フォッグ・オブ・ウォー」)。その後ルメイは、空軍参謀総長に昇進、むろん戦争犯罪人になることはむろんなかった。それどころか戦後日本政府は、航空自衛隊創設に貢献したとして彼に勲1等旭日大綬章を与えた。負ければ戦争犯罪人でも、勝てば勲章が授けられる。それが人の世といえばそれまでだ(05年3月10日付『毎日新聞』−「余禄」)
 東京大空襲で母と妹を亡くした高木敏子さんが、戦争体験を伝えようと1979年に書いた「ガラスのうさぎ」(新版)は、若い世代に向けて、05年6月、女優の竹下景子さんが母親の声を演じるアニメになった。森川寿美子さんの手記は英訳されて、米国の大学生の心を揺さぶった。次世代へつなぎ、世界へ広げれば、事実は風化しない
(05年3月10日付『日本経済新聞』−「春秋」)ということである。
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