[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

アバウトな個人的漫画的あゆみ

個人的に自分の漫画道をふりかえりつつ、これからを考えてみようという試み?
それにしても発表作少ないです・・・なさけなや 。もっと出たい。
今後はもっと作れてもっと載せてもらえますようにと願いも込めて。

ときどき更新されるのかも。
04/2/13
幼 稚園時代 白いノートにテレビのアニメ、特撮のキャラをパクって1ページ読み切り の漫画を描いていた。
たまにオリジナルも混ぜながら連載チックにし、ノート一冊を使って雑誌風にまとめていた。
小 学校低学年
幼稚園からの延長でノートまんが。1ページ以上のものも描くようにな る。家の人がどこかからもらった白い紙が沢山あったので、それを小さく切って豆本なども作った。大きいまま閉じてでっかい本も。
1〜2年の時はノート漫画を友達だけでなく担任の先生に見せ、感想を書いてもらっていた。
一番幸せな時代。
小学校中学年
従兄弟と一緒に藁半紙横サイズを閉じた鉛筆書きの「マンガブック」を制 作、かなり長いシリーズに。
従兄弟が飽きたので一人でするが、つまらなくなってやめる。
登場人物は自分や従兄弟を中心にした「いいチーム」が、「悪いチーム」と対抗するようなギャグ物がメイン。合間に短いものも。もう全部ゴミでしょう。
オリジナルノートマンガも描く。大学ノートサイズのものをぼちぼち使い出す。
確か4年生の時夏休みの宿題にマンガを出そうと思い、親も巻き込んで漫画原稿を制作、提出してみる。
これが事実上初めて描いた漫画原稿。もうないでしょう。
他にもマンガを出した子がいて驚く。自分のは肉筆だったが、その子のは青焼きした物をホチキスで閉じて本にしていた。なんと印刷物である。ちょっと羨まし かった。
まんが友達にも恵まれ、読み放題描き放題で結構楽しい時代。
小学校高学年
長編オリジナルノートマンガを一冊、続く場合は2冊、と描いていくが、 短気なので絵を描くのがめんどくさくて台詞だけになったりストーリーは考えているものの全部描かずに尻切れトンボになったり。
原稿などもぼちぼち描くように。画用紙に書いていた。こそこそやっていたのと飽きっぽいので時間かかりまくり。
開明墨汁とかぶらペン。
この頃買ったペン軸を、現在枠線引きに使っている。
中一〜三
マンガ好きの友達とノートマンガや肉筆回覧志など作る。
マンガの持ち込 みなどしている先生が新卒で入ってきて、スクリーントーンの切れ端をもらって大喜び。
高校時代〜20前後 引き続き漫画原稿を描き続け、高二で初持ち込み。
持ち込みしていることは周りにはナイショにしていた。
同人活動をしている人もいたが、こちとらプロ指向なんで関係ないと思っていた。けど仲間がいるのはイイナ・・・とちょっと羨ましくもあった。今あの頃に戻 るならみんなで楽しく描きたいと思う。・・・でも思うだけかも。
担当に「よそに行かないように」と言われ本気にし、以後同じ編集部に持ち込みを続けるが掲載は一度きり(高校卒業後)、絵がヘタヘタ言われ続け以後トラウ マに。 やがて雑誌はつぶれ、新雑誌ではアシとしてあちこち飛ばされるが、それもつぶれる。
第一期暗黒時代。
この持ち込みの失敗で素直だった性格もねじ曲がり(笑)、未だに漫画人生の影となっている。描きかけていたSFチックなマンガの原稿を、そんなものは描か なくて良いと編集者に言われ、そのショックで原稿を庭先で燃やしたこと(4Pほどですが)や、ストレスで右手の握力がなくなったようになり、何か描こうと してもエンピツが持てなくなったこと等。ここまできて初めて「ヤバイ」と思えた。無理をしすぎていたのを、自らの右手が「もー描けないミギ〜。」とばかり に警告したのであった。
家庭の事情も重なり、なにをやっても駄目だと思ったし実際駄目だったしそれも自分が悪いからだと思ってました。
その後何かあってもこのときほどひどくはないと思って開き直るのに利用しています。
この頃良く聞いていた「横道坊主」に心を励まされていました。
その頃の漫画
数々の没原稿
80 年代後半

90年代初め頃
就職もせずに漫画活動。前の雑誌がつぶれる寸前に思い切ってよそ(少年 キャプテン)へ持ち 込み。最初の物は没だったがその後賞をもらい全然ウソみたいに載せてもらえるように。アシスタントにも出るが前の編集部の紹介先より扱いがマシなところば か りで助かる。このときの編集さんにはお世話になりました。
しかし穴埋めの代原に使われることが多く、連載の野望を夢見たり。
トラブルに見舞われプチ暗黒。
92〜3年頃
アシ先で知り合った漫画家さんの紹介でコミックジャスティスに描かせて もらう。4コマで初連載も持つがすぐ雑誌つぶれる。しかし運良くジャスティス経由で官能誌エロトラブに載せてもらうことに。漫画プラザ増刊でもお世話にな る。(こちらでは午後誌ではじまるまでお 世話になっていた)
アシにも出つつモーニングに持ち込み、ある作品が午後誌の四季賞にまわされ賞をもらうが、その後間が空く。
その頃の漫画 「今 日の剣呑」「みっどないとラリホー」「オニ子さんの思い出」その他。
〜95年ごろ
四コマ描いたりアシを続けたりしつつ、持ち込みを続け、改めて午後誌に 持ち込み。四季賞をもらう。
「反町くん」が3回分のネームを描いただけで連載開始。賞をもらってその続きが連載というパターンは当時の午後誌ではよくあった形式。一回30ページと担 当者が設定。
初連載であり、応募作は仕上げるのに3ヶ月かかっていたのでだいぶ不安感があった。
この作品で描き手としての認知度がある程度上がる。
その頃の漫画 「鉄筋マッシュルーム」「反町くんには彼女がいない」
98年頃
「反町くん」がいきなり後3回と言われて終わる。作品的にはそれなりに まとめているが打ち切りに近かった。いろいろとつらかったので、いつやめさせてもらおうかしょっちゅう考えてました。まあそれを耐えるのが連載というもの か。
その頃の漫画 「まぶだちくん」「GRAVE」(※同人誌「四人一首」に収録。「GRAVE」は原題の「blond」に。)
99〜00年
へろへろ状態で半年ぐらい休むがその間ずっともやもやしていたものを、 描いてしまおうと思った。
結果、「彼女とデート」というカタチのものをコミックビームで載せてもらえる。完全燃焼とは言い難かった部分もあるが載せてもらえて良かったです。
しかしその後さらにひどくへろへろに。その後に準備中の読み切りを申し訳なくも中断(出来次第ということだったので〆切もなく掲載予定日も決まってはいな かった)。
第二期暗黒時代に突入。
その頃の漫画 「星になっちゃった」「彼女とデート」
〜01年頃
新たに仕事を得ようと持ち込みや投稿などしてみたがうまくいかず。そん な 折りたまたまナガノ先生の御本に寄せていただいたりパチスロ漫画のお仕事が入ってものすごく助かる。ほんとうに感謝してます。
その頃の漫画 「永遠のなかまはずれの国(ゲスト参加)」 「パラダイ−スロッター」
〜02年頃
うだうだしつつもぼちぼち。投稿するも没。いろいろとピ ンチ。
その頃の漫画 「パラダイ−スロッター」「イケイケ▽いやし系」 劇団ナインゲージのイラス ト、デ ザイン会社のお仕事
〜03年頃
暮らしもヤバイしスロ漫画の仕事も思うようにはいただけず、うだうだし てもいられないので改めて持ち込みに。運良くチャンピオンREDで拾ってもらえる。大ラッキー。感謝感激です。
しかし暮らしぶりもまだまだアレなのでどうしようと思っていたら久々のスロ漫画のお仕事が入りこれまた超ラッキー。神様ですか。しかしその後の予定がはっ きりしない11月現在。
その頃の漫画 「N.S.Q」「好き×2カエル姫」 槙健一さんのイラスト
〜04年頃
03年末からスロットの仕事がぼちぼち入り、ぶんか社さんのは有り難い ことに連載に。我が家の経済の主力をになう。アップルパイという編プロさんのお仕事もしました。
そんなおり、仕事とは別に同人誌でもしたらどうだろうとページ上でうだうだ書いていたところ、
雨宮智子 さんのお声がけで実際に同人誌を出すことに。自分は他の方と全く面識がなかったのですが不思議な御縁にて「四人一首」いう本を作り、11/20コミティア70に初参加。初・・・ということで売り上げはまあもじゃも じゃ。
個人的にはストロウイカを立ち上げ る。今後は同人誌もがんばろうと思ったりする。
その頃の漫画 「viva!SPAガール!」「イガテン」「スロット忍者参上!」
同人誌:C.A.S&Y「四人一首」、ストロ ウイカ「まんがブックvol.1」
〜05年
2月。スロ漫画を描きつつ同人活動を充実させようともくろむ今日この 頃。
取りあえずコミティアのストロウイカ単独参加(委託)が目標。


戻る