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2007年12月17日
勤勉という悪徳
整形外科の手術リストに、「野球肘」のお子さんが載っている。まだ中学生。 少年野球の元エース。
中学校に進級してすぐに肘を壊して、30度以上延びない。手術はできるけれど、 整形外科的には、もう野球は勧められないらしい。
たぶん子供なりに好きを貫いて、恐らくは賞賛の声を惜しまないコーチに恵まれて、 一生懸命頑張ったんだろう。残念ながら、そのコーチは勤勉ではあっても能力がなくて、 子供の肘は壊れてしまった。
善なる無能は邪悪に通じる
「好きを貫く」ことは難しい。好きであること、賞賛という強化因子があるだけでは まだ片手落ちで、「好き」に応した十分な才能に恵まれて、 さらにもう一つ、「能力」のある導き手につかないと、惨めなことになる。
無能で勤勉な人というのは、しばしば災厄をもたらす。
「厳しいだけの無能なコーチ」なら、たぶん子供の肘は壊れない。 子供は野球嫌いになったかもしれないけれど、少なくともその子の肘には、 回復不能なダメージが残ったりはしなかった。
小学生の子供をして、外から見ても関節の変形が明らかになるまで、 肘が全く伸びなくなるまで自分の体を痛めるのは難しい。裏返せばそれは、 そのコーチにはよっぽど人望があって、その子はコーチに嫌われたくなかったんだろう。
コーチは恐らくは、人間として「善」であって、しかも極めて勤勉ではあったけれど、 コーチとしての能力が欠落していたから、その存在は邪悪になった。
能力を伴わない勤勉さを賞賛してはいけない。
能力ある怠け者は将軍になれるし、能力のない怠け者だって兵士になれる。 ところが無能で勤勉な人というのは、戦争になると、まず真っ先に味方を殺してしまう。
能力は勤勉さで計測できない
勤勉さというパラメーターを用いて能力を測ろうとする態度は、 どこか致命的に間違っている。
勤勉さは分かりやすくて、恐らく定量的な評価すら可能だけれど、 「勤勉であること」それ自体は、能力があることを全く担保しない。
失敗プロジェクトを救済した立役者なんて取り上げられる人というのは、 メディアが華々しく取り上げる一方で、同僚の陰口レベルでは、 必ずしも評価が高くないことがある。そんな乖離の原因となっているのが、 たぶん「能力を勤勉さで測ろうとする態度」なのだと思う。
「プロジェクトX 」みたいな成功物語でも、もしかしたら本当に状況を救済したのは 「能力の高い怠け者」であって、その人の本当のすごさというのは、 外から見た「勤勉さ」パラメーターで測定できない。
状況打開の立役者だなんて、勤勉さを売りにして取り上げられた人の中には、 案外ただ単に「足を引っ張らなかった」という以上の貢献が無い人だっているのかもしれない。
勤勉さを目指した先には、必ずしも能力は発生しない。
学校に入った子供達に最初に教えるべきことは、 「世の中には能力に欠けた人が、能力が必要な場所にいることがあって、 その人の勤勉さと、状況ごとに必要な能力を持っていることは、 必ずしもイコールでないんだよ」ということなんだと思う。
背が高い男は有罪か ?
裁判官が、「男の背が高い」というだけで、ある事件を有罪にすることは正当だろうか ?
医療過誤裁判なんかでは、医者の世界と法律の世界、 そもそも「能力」という言葉に投影されるイメージが、 全く異なっている気がする。
同業者から見て、能力の足りない医師が事故を起こしても、そもそも裁判どころか トラブルにすらならないのに、能力的には十分な、少なくともその人よりも優秀でない人なんて いくらでもいる人が、しばしば裁判にかけられている。
裁判所で評価対象になるのは、「過失の有無」とか、「努力したのか」とか、 要するにそれは、外部から計測可能な、「勤勉さ」の延長線上にある何か。勤勉さの有無と、 能力の有無とは、やっぱり関係ないはずなのだけれど、裁判で争われるのは勤勉さ。 それは勤勉さでしかないはずなのに、いつのまにかそれが「能力」として争われる。
本来査定すべきは、主治医であったその医師に、その状況を任せられるだけの 能力が備わっていたかどうかなのだけれど、それは実際難しいから、 「勤勉さ」パラメーターで近似をかけているのだとは思う。
その近似はあまりにもいい加減で、勤勉さは、能力を査定するものさし としては役立たずで、極論すればそれは、「その男は背が高い。だから有罪」と、 何ら違いは見えない。
能力は関係の中においてのみ観測される
状態変化の特異点におかれた人は、誰かからその能力を要請された人というのは、 要するに触媒なんだと思う。
反応させる物質であったり、反応温度みたいな環境を抜きにした、 「触媒それ自体」の優劣を論じることに意味がないように、人の能力それ自体を、 その能力を要請した状況から切り離して論じることは、本来できない。
特定の反応物質に対する触媒の能力は、 一定時間に生成した反応物の量として観測するしかない。 「能力」という考えかたは、だからその人に与えられた仕事が終わって、 その成果を測ることでしか評価できない。
たとえば「教員の能力」なんてものを測ろうとしたら、それはやっぱり、 その子がいい大学に入ったかどうかになるんだと思う。結果がすべて。
999人の子供を東大に叩きこんだ教員は、999人目までは「有能」と判断されるかもしれないけれど、 1000人目の子供が試験前日に入院したら、その子にとっては、 やはりその教員を「無能」と判断するしかない。
あるいはまた、東大にいった999人は、まるで人形みたいな性格に書きかえられていて、 「暖かい子供に育ってほしい」なんて思いで「有能な教師」を要請した親御さんは、 やっぱりその教員に無能判定を下すかもしれない。
能力というパラメーターは、それを評価するコミュニティとの相互作用を通じてでしか決定できないし、 観測者もまた、能力を持った人を取り巻く系から自由ではいられない。
状況定義と能力と
その人に何をしてほしいのか。
能力を要請された人は、自分にできること、自分がやるべきと信じたことを行うことしかできないし、 最終的に「出来上がり具合」を判断される何かと、その人が産出した何かとは、 状況定義が甘い場合、一致することが少ない。
何かの仕事を任された個人の能力は、状況定義を行う人の優秀さと切り離して考えられない。
たとえば洗濯をする機械がほしい なんて状況定義。
こんな状況定義を行った人は、どんな技術者に頼んでも、もしかしたら満足する洗濯機 には出会えない。自らの頭に「洗濯」のイメージが作れない人は、 何を持って成功といえるのか、それを判断するすべを持たないから。
「洗濯をする機械」という状況定義を、たとえば「水を均一に攪拌する機械がほしい」と 記述する優秀さを持った人なら、かなり高い確率で優秀な機械に出会えるし、 恐らくは「洗濯する機械がほしい」なんて状況定義を行った人よりも、より低いコストで 「洗濯機」を手にすることができるはず。
状況定義を行う人の優秀さこそが、触媒の優秀さを引き出すのだと思う。
医療保険のこと
医療保険制度は、なんだか大声コンテストの様相。
保険制度は本来、「勤勉さ」みたいに測定可能なパラメーターである「重症度」に応じて、 患者さんの負担金額を補助したり、医療サービスを分配したりする制度。定量的な システムだから、うまく廻れば、トラブルは発生しないはずだった。
人類平等だとか、勤勉さ最強だとか、おかしな価値観が一人歩きしたおかげで、 今の保険制度は、なんだか「無能がお得」な制度として動いてる。
「優秀な」人、医療の現状に理解があって、病気の重症度に理解がある人は割りを食う。 そんな思考を放棄した、「全部やってくださいあと知りません訴えます」なんて捨て台詞残して、 あとは病院お任せで見舞いにも来ない人たちなんかが得してばっかり。
「能力」を査定することは困難だとしても、せめて状況定義が上手な人が、 それだけ得するルールにはなってほしいなと思う。
状況定義に優れた人が、優秀な「触媒」みつけていい結果を招き寄せたり、あるいは状況定義力に 欠けた人なら、株式投資の分散戦略よろしく、「触媒」を複数用意することでリスク回避を図ったり。
リスクテイクは本来、状況を定義する人達の仕事だし、保険制度というものは、 やはりそうした人達の「優秀さ」を哄笑するようなシステムになってはいけない。
医師が結果責任問われちゃうのは、ある意味しかたがない部分があるけれど、 せめて状況定義した人の責任、「触媒」の優秀さを引き出す状況定義を行い得なかった 責任というものだって、叩かれたっていいはずなんだけれど。
投稿者 medtoolz : 2007年12月17日 17:54
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コメント
子供じゃないんだからそんなつまらん自明なことを論わなくてもいいんじゃない?
投稿者 わて : 2007年12月19日 20:28
>失敗すれば勤勉な無能者
このへんは、「まさにそのとおり」だと思うんですよね。純粋結果責任じゃやってられない
からこそ、要件定義をする側の度量が問われてくると。
無能か有能かを分けるのは、ある意味確率論の問題でしかないからこそ、仕事を回す個人の
能力を問うても意味がないとも言えるわけで。
>「並列」です。。
このあたり、アップロードしてから4回ぐらい行間削ってるので、分けわかんなくなるときがあります。。
投稿者 medtoolz : 2007年12月19日 18:48
>状態変化の特異点におかれた人は、誰かからその能力を要請された人というのは、 要するに触媒なんだと思う。
というのがよくわかりません。
『「状態~人」には』なのか、『「状態~人」=「誰か~人」』ということ(並列させただけ…この場合最初の「は」はいらないと思います)なのか、それとも他の何かか…
投稿者 BTV : 2007年12月18日 23:50
成果を出せば勤勉な働き者。
失敗すれば勤勉な無能者。
この世はかくもいき難い。
投稿者 負ければ賊軍 : 2007年12月18日 17:30
>講義をさぼって試験に落ちるのは、仕方ない。でも講義に出てるのに、全然出来てないのは、許せない
教える側でこれ言える人はすごいですね。。。
>能力の有無って他人にも評価しにくい
評価が実質不可能だからこそ、不確実な情報から未来予測を試みる、金融工学みたいな
考えかたが、「能力ある人」を必要な場所に配置するのに要請されるんじゃないかと
>必ずしも勤勉さが悪であるとは言えない
そのへんはアクセス稼ぎの極論だったり。あるいはもしかしたら、勤勉がいい結果につながるような
ルール設定の問題なのかもしれません。
>勤勉さというのは定量化できる代わりに全量が決まっている
「測定できる」というのは、要するにそういう意味なんでしょうね。。どこに力点を置くべきなのか、
あるいはレバレッジ考えたほうが早いのか。
>無能な勤勉さから派生する歪んだ道徳律
そのへんは既得権的な何かがあるのかもです。。
>ゼークト
もちろん元ネタはゼークトの4分類なのですが、「能力」の定義を考えていったらドツボにはまったのです。
投稿者 medtoolz : 2007年12月18日 12:34
己を知ることの重要性、困難さを思い知りました。
凡庸に権限を支配されない為に民主主義があると信じているのですが。。。
投稿者 フォン・ゼークト : 2007年12月18日 10:26
住みにくい地域に共通した空気。
無能な勤勉さから派生する歪んだ道徳律。
ニートなんかよりはるかに有害で無能だけど、数だけは多いから、勘違いして幅を効かせる主婦律。
「邪悪な無能は最悪に通じる」と申しますか。
投稿者 脱サラ系ガンバリズム : 2007年12月18日 08:59
DPCは能力を評価するといえなくもないけど、病気を治す治さないに関係なく、貧弱な医療でいかに患者さんをごまかすか、という能力の評価ですからねえ。
勤勉さというのは定量化できる代わりに全量が決まっているようにも思います。裁判所向けに勤勉に働けば、患者向けへの勤勉さが減るというような。勤勉の方向を適切に決められるのが能力かなと思ったりも…
投稿者 to : 2007年12月18日 08:14
勤勉さのみを追求することは悪、という考えには共感します。少し極論だとは思いますが。
勤勉さを追求しろ、勤勉に作業にとりくめという声がどのようにすれば能力を養えるのか、自分はどの程度能力が足りないのか、足りない分は補えばいいのか、それとも補えないのか、を考える力を、思考力を奪います。
ただ、最後の医療保険での基準で勤勉さが重要視されているのではないか、またそうした原因に裁判で勤勉さのみによって過失の有無が判断されていることにあるのではないかという点には疑問があります。
医療過誤訴訟では、客観的能力自体が足りない場合には能力のなさをもって過失であると考えることもありますし、どんなに拙い処置でも頑張ったから過失はないと考えているわけではないですよね。いわゆる状況定義ができない人は過失があると判断されているのではないでしょうか。ただ、過失の有無の判断自体は難しいですし、医療界全体にどのような影響を及ぼしているかは僕には分かりません。
また、今の医療保険制度では、勤勉さ(と評価されやすい?点数)でしか医師の頑張りに応えることができないだけではないでしょうか。もっと他のよい基準がみつかればそこに移行することも可能で、現行医療制度に問題があると考えているのであれば多くの人がそちらに移行するはずのように思います。そのときに「勤勉さ」以外の要素を考慮しうる制度であればよいと思います。
勤勉のみを尊重することは悪であっても、必ずしも勤勉さが悪であるとは言えないように思いますがどうでしょうか。
投稿者 peaceman_ls : 2007年12月18日 01:53
必ずしも勤勉さ=邪悪とは思えませんので、反対に一票。
ただいま資格取得のための2回目の受験準備中なので「試験に一発で合格した人のブログ」とかを見て自分の能力とか才能とかというカテゴリで色々考えますが、能力の有無って他人にも評価しにくいことでもあるし、自分でも評価できるのだろうか?とは思います。何かができるようになるっていうのは、練習でも勉強でも続けた後に、ある日突然やってきませんか?
努力は質か?量か?というネタもありますけど、量だと思います。なぜなら、質を追及できるっていうポジションはすでに判っている事柄の場合にしか追及できないと思うからです。何も判っていないポジションに立たされたら量をこなすしかない。
まぁ、このネタで言えばコーチや親など周りはなぜ少年の体に関心が無かったのであろうかとは思いますが…
→少年の目指す道(プロ野球選手)であればすでに成り方が判っている元選手がコーチすれば質は追及できるのでは?という疑問を持たれるかもしれませんが、それは非現実的だと思います。出会う機会って無いでしょう。プロ生活なんて知らない人がコーチをやっているっていうのが大方の現実ですから。
まぁ、今のマスコミってこのような条件がそろっていない状況でも現場の奮闘で何とかしている世の中の現実を固い意志をもって無視していると感じることも多いですが。
投稿者 仕事のないシステムエンジニア : 2007年12月17日 23:49
>能力を伴わない勤勉さを賞賛してはいけない
むしろ邪悪であるという考えかた、非常に同感です。
京大の元教授の森毅氏も言ってました。「講義をさぼって
試験に落ちるのは、仕方ない。でも講義に出てるのに、
全然出来てないのは、許せない。ただ時間の無駄。
がんばりも必要だけど、がんばりだけで誤魔化して
しまう社会。もうこれは邪悪でしかない。
全く、今の医療現場。頑張ることで自分たちのクビを
締めてきたのにも気づかないで。。。。
投稿者 ひんべえ : 2007年12月17日 22:28